日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|編
発 刊 登 録 番 号
11-B553448-000005-01
日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書 1 口述記録集
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|編
発 刊 登 録 番 号
11-B553448-000005-01
日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書 1 口述記録集
日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書 1 口述記録集
ポンポン船に乗って帰る途中、
海の幽霊になるところだったよ
初版 1刷 印刷
初版 1刷 発行
編 著
翻 訳
発行人
発行処
発刊登録番号
デザイン・編集
2019年 12月 13日
2019年 12月 16日
国務総理室所属・日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会
日本語翻訳協力委員会
金容德
日帝強制動員被害者支援財団
ソウル特別市鐘路区鍾路1ギル42 利馬Bldg. 6F
http://www.ilje.or.kr
11-B553448-000005-01
21世紀教育社(Design21)
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著作権法上での例外を除き、禁じられています。
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
5
発刊の辞(日本語版)
財団法人日帝強制動員被害者支援財団は、
2004年から2015年まで活動した「対日抗争期
強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支
援委員会」(委員会)の事業を承継しました。し
たがって、弊財団は日帝強制動員被害者と遺族
のための追悼及び支援事業、強制動員被害に関
する学術研究・調査及び文化事業、国立日帝強
制動員歴史館の運営などを主管しております。
このうち、「委員会」解散後中断されていた冊子の翻訳・発刊事業につき
まして、今年から日帝強制動員出版事業に拡大・改編し、発刊を迎えるこ
ととなり、心より感謝を申し上げます。
今年、弊財団から日帝強制動員出版事業として発刊される冊子は全5種
あります。まず、「委員会」当時日本の種々の市民団体、関連研究者及び
個人の方々にご助力いただいて翻訳された「委員会」真相調査報告書2種
(日本語版)と口述記録集2種(日本語版)、そして、今年弊財団が関係遺
族から原本記録の寄贈を受け、検討・監修を行って発刊することとなった
強制動員手記集1種(韓国語版)であります。
発刊される「委員会」真相調査報告書2種は、『朝鮮人BC級戦犯に対す
る真相調査)』と『ハワイ捕虜収容所における韓人捕虜に関する調査)』
であり、口述記録集2種は、『ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊にな
るところだったよ)』と『朝鮮という私たちの国があったのだ)』でありま
す。強制動員手記集1種は、日帝によって強制動員され、日本沖縄県の座
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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間味島で米軍の捕虜になった後、帰還された故チャン・ユンマンさんの話
です。弟さんのチャン・ジェダルさんが筆写した原本記録「大東亜戦争実
記集」を遺族のチャン・ヒョンジャさんからお受けし、『太平洋戦争実記
集』という題で発刊するに至りました。
このような意味のある事業を弊財団が再開できるよう、多くのご尽力を
いただきました韓国と日本の発刊委員と監修者の皆様方に深謝申し上げま
す。また、本事業が「委員会」当時発刊された主要書籍の単なる翻訳・発
刊にとどまることなく、日帝強制動員全般に対する出版事業として一層拡
大され、その意義を受け継いでいけるように口火を切ってくださった故チ
ャン・ユンマンさんの遺族、チャン・ヒョンジャさんにも心より感謝申し上
げます。
弊財団は2019年を皮切りに、中断されていた「委員会」発刊冊子の翻訳
事業を再開するとともに、日帝強制動員全般に対する多様な学術資料や
教育資料の発刊などを今後とも続けられるよう努めてまいります。皆様に
おかれましては、一層のご愛顧、ご助力を賜りますようお願い申し上げま
す。この度発刊される冊子が強制動員分野において微力ながら小さな踏み
台となり、国内外の多くの研究者と市民の方々にとって真実と記憶の歴史
としてその役目を果たすことをお祈りいたしまして、発刊のご挨拶とさせ
ていただきます。
2019年12月16日
財団法人 日帝強制動員被害者支援財団
理事長 金 容 德
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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2004年11月に発足し、2006年11月10日に2年を迎える日帝強占下強制
動員被害真相糾明委員会は、強制動員被害の真相を糾明し、歴史的真実
を明らかにしようと様々な活動を行っています。今回、委員会の発足2周年
を迎え、『強制動員口述記録集3 - ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊
になるところだったよ』と『強制動員口述記録集4 - 逃げるって?憲兵が銃
で見張っているのに』を発刊することになりました。
委員会は去年から今年6月まで、2回にわたって22万件に達する被害申
告を受け付け、5件の真相調査を完了し、関連データの収集と資料集の発
行など、具体的な成果をあげています。特に去年末には 『強制動員口述記
録集1 – タンコだって?』を発行し、去る8月15日には 『強制動員口述記録
集2 - 黒い大陸に連れ去られた朝鮮人たち』を 発行しました。この2冊の口
述記録集は、委員会の被害届の調査と真相調査の業務の中で、最も大きな
比重を占めている生存者への調査の成果を編集したものです。
『タンコだって?』は2005年の1年間の労務動員生存者の調査成果をも
とに作成されましたが、政府によるはじめての口述記録集であるというこ
とに大きな意味があります。『黒い大陸に連れ去られた朝鮮人たち』はサ
ハリン強制動員の口述記録をはじめ、強制動員被害当事者の記録である
『山中半月記』、新聞記事のリスト、年表、解題など様々な情報を提供す
る総合的な性格の口述記録集として企画されました。
今回発行する『強制動員口述記録3 –ポンポン船に乗って帰る途中、海
の幽霊になるところだったよ』と『強制動員口述記録4 - 逃げるって?憲兵
が見張っているのに』は、去年と今年の2回にわたって行なった忠清道地
発刊の辞(韓国語版)
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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域の生存者の調査成果を構成して作成した強制動員口述記録集の忠清道
編です。この本では口述内容の修正や編集を最小限にし、より充実した口
述記録集になるようにしました。特に忠清道地域出身の生存者たちの豊か
で多様な口述内容を取りいれるために、九州地域とその他の日本の地域に
分けて2巻で発行することにしました。このように国内地域別の特徴を盛り
込んだ口述記録集は、今後も着実に発行されるでしょう。
この本が出版されるまで多くの人々の努力がありました。二度にわたっ
て忠清道地域を訪問し、お年寄りから貴重なお話を採録し、編集作業を行
った調査1課職員の多くの努力があります。また委員会の調査作業を支援
してくださった地方の実務委員会の担当者と支援部署の職員にも感謝いた
します。しかし何よりも、この本ができるまでの最大の功労者は24人の口
述者のお年寄りです。
口述者が大切な思い出を喜んで口述し、貴重な個人データを提供され
たことから、この本が誕生しました。委員会の調査活動に積極的にご協力
くださり、口述記録集の出版を許諾してくださった口述者のお年寄りたち
に、心から感謝を申しあげます。
最後に、委員会の真相糾明作業への変わらぬご協力とご支援をお願い申
しあげるとともに、これから出版される口述記録集をはじめとする各種発
行資料や調査活動への激励と叱正をお願いします。
2006年10月31日
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会
委員長 全 基 浩
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
1935年に忠清北道・忠州で生まれ、鎮川と曾坪で幼少時代を過ごした
英文学者柳宗鎬(ユ・ジョンホ)は、最近出した回顧録『私の解放前後
1940〜1949』で、「国語常用」と「松の根掘り」「防空訓練」等、戦時体
制が日常の生活を支配していた日帝末期の状況を記録に残した。さほど貧
しくなかった幼年時代を過ごした柳宗鎬の記憶の中でも、日帝末期は理不
尽で不安定な社会として残っている。「幼少期の非虚構的な記憶の再生を
通じて過去の完全な社会史の確立」に寄与できれば、という希望で残した
回顧録を読みながら私たちは、ユ・ジョンホと同じ時期を生きた、多くの
人たちの記憶の再生を期待することになる。
「全ての事を失くす権利は私たちにはない。」
しかし、永らくこの権利を忘れて生きていた人々がいる。それは日帝末
期に強制的に連行されて行った経験を持った人たちだ。彼らはこれまで、
たいしたことではない、または貧しくて体験したことだから、わざわざ話す
だけのことではないと考え、また当時では誰も避けられないことだったと
いう思いを持ち、 あるいは、苦労話を思い出しても良いことなどもなく、
「あえて記憶しておくこともなかった」としてきたのだ。
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会(以下委員会)が実施している口
述資料の収集作業は、このように60年余りの間、私的な記憶として眠ってい
た生存者たちの記憶に、社会的な意味を付与して公的な記憶に作っていく
「歴史作り」の過程だ。 この作業の成果は被害事実を確認し、真相調査が
優先的にすすめられるように記録管理チームへと移管され、研究者が閲覧
解題
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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できるような整理作業を経て、一部は口述記録集として発行されてきた。
今回、委員会・調査1課が発行した『強制動員口述記録集3 ポンポン船
に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ (以下「ポンポン船」と
略記)』は、忠清道地域で労務者として強制動員された人たちの記憶を収
めた最初の本である。以前に発行された二冊の強制動員口述記録集第1集
「タンコだって?」、第2集「黒い大陸に連れ去られた朝鮮人たち」と同じ
ように、被害当事者の声を通じて強制動員の歴史の復元に役立てようとい
う目的で用意された。労務者として動員された忠清道地域出身者の24人の
話は一冊には収まりきれないため、二冊で構成した。
1. 発行背景と過程
委員会・調査1課は、2005年2月1日から2005年11月30日まで実施した
第1次強制動員被害申告期間中に、労務動員生存者として申告した31,289
人の中から、中央委員会に申告した847人を対象に、2005年2月21日から
口述資料収集作業を進めている。2005年には、国内地域を網羅した口述
記録集「タンコだって?」を発行したが、2006年からは主題別・地域別に
編集して発行することになった。これは、収集作業自体が地域別に実施さ
れる点もあるが、学界に国内の地域別特性を把握するための契機を小さい
ながらも提供するためである。この間、日本で発行された各種証言集と手
記集、資料集は日本の各地域別に構成されていて、日本の各地域別の特
性を理解するのに役立っている。こういう点から韓国内の各地域別の編集
が、韓国からの動員の地域別状況を理解するために必要になってくる。
忠清道で労務者として動員された朝鮮人の数字はまだ把握できない状
況である。ただし、2回にわたって委員会に申告した数字だけを調べれば、
忠清道に本籍を持った申告人は、30,684人(忠南、忠北、大田広域市)であ
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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る。この中で、生存者は5,595人(忠南3,683人、忠北1,912人)である1)。
生存者5,595人の中で、委員会・調査1課の口述調査の対象者は、中央委
員会で受付けた167人(忠南136人、忠北31人)である。これを28の市郡別
にみれば、表1の通りである
表1. 委員会受付の内、本籍地が忠清道として受付けられた労務動員生存者
申告件数
忠北地域
生存者(件)
忠南地域
生存者(件)
清州市
3
天安市
3
忠州市
4
公州市
9
堤川市
2
保寧市
11
清原郡
5
牙山市
13
報恩郡
0
瑞山市
48
沃川郡
3
論山市
9
永同郡
1
鶏龍市
0
曾坪郡
0
錦山郡
5
鎮川郡
0
燕岐郡
2
槐山郡
6
扶餘郡
5
陰城郡
6
舒川郡
5
丹陽郡
1
青陽郡
5
洪城郡
7
礼山郡
4
泰安郡
9
唐津郡
4
小計
31
小計
136
*海外受付分を含む
しかし高齢や病気(認知症など)により口述調査が難しい生存者が多数い
た。残念なことに申告書を提出した直後に死亡された方も急速に増えて、
1) 労務動員被害者として申告した生存者の中で、大田が本籍の人は1人もいない。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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調査対象者はより一層減った。
忠清道地域で労務者として動員された生存者に対する口述調査は、2回
にわたって実施された。1次は2005年10月17日から21日まで、忠南の唐
津、瑞山、泰安地域一帯で6人の調査官が3チームに分かれて口述調査を
おこなった。委員会に受け付けられたこの地域の申告件数は、唐津(2)、瑞
山(10)、泰安(23)の総数35件だった。口述調査結果は国外動員が31人、国
内動員2人、サハリン1人、認知症による口述不可1人だった。
2次は2006年6月27日から7月1日まで、忠清道一帯(清州、公州、論山、
保寧、洪城、瑞山、泰安、牙山)で、4人の調査官が2チームに分かれて口述
調査をおこなった。委員会に受け付けられたこの地域の申告件数は20件
で、口述調査結果は国外動員18人、国内動員1人、満州地域1人だった。
表2. 口述者別の市郡分布現況
本籍地市郡別
口述者
忠北 清原
閔丙珠
忠北 沃川
周徳鐘
忠北 槐山
朴来鉉
忠南 公州
金圭衡
忠南 瑞山
金甲得、金東業、金東烈、金伯煥、金鳳来、金青松、金絃九、
朴基成、朴龍源、朴丁出、任元宰、韓淵愚、崔炳淵
忠南 扶餘
宋栄彬
忠南 泰安
金基玉、金祥泰、明由鎮
忠南 舒川
李天求
忠南 唐津
元天常、柳済喆
忠清道に本籍を置いた生存者申告人に対する2次にわたる口述調査結果
55件のうち、国内動員と満州・サハリン動員生存者を除いた調査結果の中
から25件を選定し、口述記録集の発行の準備に入った。しかし口述者1人
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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の家族が口述内容を本として発行することを拒否したため、対象者は24人
に減った。口述者を市郡別に分けると次のようになる。
上の表から、口述者の本籍地・市郡別分布現況が地域別に偏っているこ
とが分かる。忠北地域に比べて忠南地域が高い比率を見せていて、忠南地
域の中でも瑞山(13人)に集中した。この点は、口述調査の対象者が地域別
に分散しているのではなく、委員会に申告した生存者に制限して調査をお
こなったための結果である。
2.「ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるとこ
ろだったよ」の構成および地域概況
「ポンポン船」には24件の口述記録の中で、九州地域に動員された10件
の話を収めた。ほぼ半分に達する数が九州への動員である。これを忠清道
管内市郡別にみれば次のようになる。
表3.「ポンポン船」収録の口述者別の市郡分布現況
本籍地
口述者
忠北 沃川
周徳鐘
忠南 公州
金圭衡
忠南 瑞山
金絃九、任元宰、韓淵愚
忠南 泰安
金基玉、金祥泰
忠南 舒川
李天求、柳済喆
忠南 唐津
元天常
表3の口述者の本籍地分布をみれば、大田広域市を含んだ忠清道管内29
の市郡区の中で6の地域にあたる。彼らの動員地である日本の地域別分布
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
14
を見れば、表4の通りだ。日本の行政区域でみれば、熊本と宮崎を除いた
5県に分布している。日本の強制連行調査者である竹内康人の調査によれ
ば、九州地域(7県)の作業場は500ヶ所余りである。この中で一番多く作業
場があった地域は長崎県と福岡県だ。
表4. 日本の地域別の口述者現況
地域別
口述者
鹿児島県
柳済喆(製錬所)
長崎県
任元宰(造船所)、韓淵愚(炭鉱)
佐賀県
金祥泰(炭鉱)、金絃九(炭鉱)
福岡県
金圭衡(炭鉱)、元天常(鉱山)、李天求(製鉄所)
大分県
金基玉(製錬所)、周徳鐘(製錬所)
口述者10人の作業場現況を見れば、鉱山(炭鉱を含む)が5ヶ所、製錬所
(精錬所を含む)が3ヶ所、造船所1ヶ所、製鉄所1ヶ所となり、鉱山が多数
を占める。ではこれらの作業場分布現況と日本地域別作業場現況の関連性
はどうなるだろう。
表5. 動員地域別の作業場現況
地域別
動員作業場 現況
鉱山
(炭鉱)
飛行場
土木
工事場
軍
工事場
その他
小計
鹿児島県
9
19
0
26
10
64
長崎県
40
6
19
33
29
127
佐賀県
21
1
3
8
10
43
福岡県
88
8
13
33
24
166
大分県
6
7
8
13
9
43
<資料> http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/sensosekinin/flaber0506.html
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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口述者たちの動員地域別に作業場現況を調べた表5と比較してみると、
関連性を探すことはできない。それは口述調査自体が中央委員会に申告し
た生存者で限定されたためである。
したがってこれらの分布現況を通じて、忠清道地域民の動員現況や特性
を把握することはできない。また、彼らが動員された動員地域や作業場で
の生活経験が一般的とすることはできない。しかし口述資料は一般的な通
論を導き出すための資料ではない。口述者個人の経験自体が一つの歴史
だ。そうであるならば、私たちが関心を傾けなければならないのは彼らの
話である。
3.「ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるとこ
ろだったよ」の内容と特徴
柳済喆おじいさん(89歳)は1918年に忠南・唐津郡沔川面で生まれた。
1943年2月に日本の鹿児島県にある製錬所に動員された。動員されないよ
うに逃げていたが、父が代わりに引っ張って行かれ、殴打されたため、結
局は行くしかなかった。製錬所で溶かした鉄は火薬を作るトンネルに持っ
ていくのだが、そこで働くと薬品のために顔がぷっくりと腫れるのが常で
あった。毎日決まって「5時になればコケコッコーのラッパが鳴り」、起き
なければならなかったし、粗末な食事をした後に働いた。毎日続いた爆撃
を避けて壕や山に逃げ、解放となって30里(日本の3里。以下同じ)を歩いて
門司まで行き、連絡船に乗って故郷に戻ることができた。
任元宰おじいさん(85歳)は1922年に忠南・瑞山郡仁旨面で生まれた。
1942年4月頃、日本の長崎県にある三菱造船所に動員された。「区長が、
これくらいの本を持ち歩いていたよ。何日にどこに集まれ」と言われた。そ
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
16
れで徴用されることになった。瑞山に集まって身体検査もされ、ついて来
た両親たちの拍手のなかで、日本に行った。動員地で頻繁な爆撃にあい、
「足を吹き飛ばされて死ぬ人もいて」、ついにおじいさんは目と腰にケガ
をして病院の世話にならなければならなかった。解放になって故郷に帰っ
て来た後にも、腰が痛くて農作業もまともにできなかったし、目ははっきり
見えず、前を正視できない。
韓淵愚おじいさん(88歳)は1919年に忠南瑞山郡地谷面で生まれた。
1937年夏、日本の長崎県にあった不詳の炭鉱に動員された。募集係が「嘘
をついて、ゴム工場だとだまして」動員したが、実際に行ってみると炭鉱
だった。18歳の幼い年齢で炭鉱に動員されたおじいさんは1ヶ月後、落盤
事故で腰をケガして、ずっと病院の世話にならなければならなかった。解
放された年の2月に3年間余りの闘病生活を終えて、故郷に戻ることができ
た。
金祥泰おじいさん(80歳)は1927年に忠南・瑞山郡安眠面で生まれた。
1944年3月、17歳のときに、日本の佐賀県にある明治鉱業株式会社・立山
炭鉱に動員された。里長に選ばれて、5日後に日本に行くことになったが、
日本のどこに行くのか知らないまま、連れて行かれた。おじいさんは働き
に炭鉱の中に歩いて入って行き、落盤で死ぬこともありえたが、「死ぬと
いう運命ではなかったから、生き延びてきたんだよ」と話す。天井からは
水がぽたぽた落ちてきて、監督は働けと雷のように大声を張り上げたとい
う。解放になって対馬を経て、故郷に帰って来た。
金絃九おじいさん(80歳)は1927年に忠南・瑞山郡南面で生まれた。綿入
れのパジ(下衣)・チョゴリ(上衣)を着て、1944年10月に日本佐賀県の明治
鉱業株式会社・立山炭鉱に動員された。18歳の幼い年齢で動員されたおじ
いさんは「コネやお金のある人が免れ、無い人だけを、このように幼い人
を皆、送ったんだろう」と動員状況について説明してくれた。紙でできた
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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安全帽を被ってわらじを履き、石炭を掘り、発破を仕掛ける仕事などをし
た。おじいさんより11〜15年上の人々がひょいひょいと踊って喜ぶのを見
て、解放されたことが分かった。小さな蒸気船に乗って帰国する途中、波
風に遭って腕をケガして、5ヶ月間の治療を受けなければならなかった。
金圭衡おじいさん(83歳)は1924年に忠南・公州郡灘川面で生まれた。
1943年5月に米の配給を取りに行ったところ、面長が「日本に行け。お
前、行け」と言って、日本の福岡県にある上山田炭鉱に動員された。下関
で降りて炭鉱まで汽車に乗って行くのだが、外を見られないように厚い
布地で窓をみな塞いであった。日本人が生活する寮はきれいだったが、
朝鮮人が生活する寮はきれいではなかったと言う。脱出して捕えられれ
ば、ひどい拷問にあったが、炭鉱で打たれて死ぬよりはましだという考え
で脱出して、佐賀県の建設現場で働いた。1945年になり、徴兵対象者に
なって5ヶ月間の訓練を受けていたが、幸い解放を迎えて帰国することが
できた。
元天常おじいさん(88歳)は1919年に忠南・唐津郡順城面で生まれた。
1942年10月頃、生活が苦しくて他人の家に居候をしている時、「ちょっと
尋ねることがあるから行こう」と、ある人が来て連れて行かれた。それで
徴用されることになった。おじいさんが動員されたところは、日本の福岡
県にある嘉穂炭鉱大分坑だった。鉱業所に到着した後1週間の訓練を受
け、それぞれの仕事場に配置された。幾らにもならない月給をもらうと、
寮のご飯が少なくて飢えた腹を満たすため、おやつを買って食べるために
全て使ってしまった。ラジオ放送を聞いて解放されたことが分かり、100人
余りで密航船を買って、それに乗って帰国した。
李天求おじいさん(80歳)は1927年に忠南・舒川郡韓山面で生まれた。
1942年9月頃、17 歳 の時に、横に巡査が付き、面書記に「お前はこれから
徴用に徴発されたから、何日までに面事務所に来なさい」と告げられ、徴
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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用に行くことになった。逃げれば両親たちが痛い目にあうから、どうにもな
らなくて徴用に応じ、日本の福岡県にある日本製鉄株式会社八幡製鉄所に
行くことになった。憲兵が指揮、監督する中でおじいさんはアンモニア肥
料を生産する所で働いた。1943年製鉄所を脱出して若松の今村製作所で
雑役夫として仕事をした。解放になって帰国をするために下関に来たが、
乗船券を得ることはできなかった。下関には多くの人が集まり、一日に何
十人も飢えや病気、伝染病で死亡した。死体を片づける仕事をすれば乗船
券を早く与えるというので、その仕事を10日間して、乗船券をもらって帰
国することができた。
金基玉おじいさん(80 歳)は1927年に忠南・瑞山郡所遠面で生まれた。
1943年3月に、所遠面の募集係のムン・○○により日本の大分県にある
日本鉱業株式会社佐賀関製錬所に動員された。徴用隊と警察が動員をそ
そのかし、運が悪くて捕えられ、「何日に出て来い」と言われ、行かない
わけにはいかなくなった。おじいさんは小学校6年を卒業し、青年訓練
所(農村青年訓練所)に3年まで通ったことがあり、日本に行っても訓練を
受けないで助教の役割ができた。製錬所で苦労したことは到底話せない
が、それでも炭鉱で働いた人よりはマシだった、幸いだったと話した。解
放になって博多にある収容所で待機し、11月になって帰国することがで
きた。
周徳鐘おじいさん(78歳)は、生まれてから一度も顔を見たことがないお
父さんに日本で初めて会ったという人だ。1929年忠北・沃川郡安南面で
生まれ、1942年初春、15 歳の幼い年齢で日本大分県所在の日本鉱業株
式会社・佐賀関製錬所に動員された。生まれて以後、お父さんにただの
一度も会ったことがないという話を製錬所の担当者に言った。その6ヶ月
後に沖縄で軍属として働いているというお父さんに会うことができた。1
週間、お父さんと共に過ごせたが、お父さんは勤務地にまた帰らなけれ
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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ばならなかった。そのようにお父さんに会ったのが一生で初めてであり、
最後にもなった。一緒に働いていた日本人学生たちが朝鮮人を殴打す
る現場に介入し、指をケガした。幼い年齢で故郷への思いも切実だった
が、故郷で一人苦労しているお婆さんに会いたいという思いをこらえに
こらえた。
4. 朝鮮人の「強制動員はなかった」?
「ポンポン船」に乗せられた10人の口述者のうち、大部分が15〜18歳の
幼い年齢で動員された。それは年齢帯でみれば、幼い年齢で動員された
口述者が数多く生存しているからである。しかし一方では、それは10代の
幼い少年たちを動員して行った日本側の非人間性を確認できる証拠でも
ある。日本人の引率者には15 歳の子供たち3人に着せる服も、履かせる靴
も無かった。少年たちがとても小さかったためだ。彼らの小さな手を触っ
て、引率者は躊躇したが、彼らを市場に連れて行き、ゴム靴と服を買って
着せ、船に乗せた。少年たちがどんなに小さくても、割当人員を満たさな
ければならなかったためだ。
最近『ある朝鮮総督府警察官僚の回想』という回顧録を出した坪井幸生
は、2006年に日本の雑誌社が主管した座談会で「朝鮮人の強制動員はな
かった!」と断言した。1913年に大分県で生まれ、京城帝国大学を出て以
降、朝鮮でずっと警察官僚として勤め、日本の敗戦当時には忠清北道の警
察部長をしていた坪井は、回顧録で「朝鮮は日本の一部として(*朝鮮人は)
完全に一体化して世界戦争を戦っていた」と主張する。さらに「今は、当
時朝鮮で日本が行ったことに対して色々な非難があるが、それは当時の事
情を知らずにする話」であり、「私は当時、警察保安課に勤めていた体験
者として」「実地の所見をそのまま明らかにしておこうと思う」と発言して
いる。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
20
10代の幼少年期に、足に合わない大きいなゴム靴を引きずって連絡船に
乗った韓国の体験者は、いまだにその時を思い出して涙声で話すが、同じ
地域で警察部長をしていた日本の体験者は「強制動員? そんなのはなかっ
た」と断言する。それだけではない。表では世界平和を力説して、過去の
戦争責任は風呂敷に包んで片隅に隠し消そうとする。
もちろん口述者の中には、日本に行って初めて米の飯を食べたという人
もいる。日曜日ごとに映画見物に行ったという珍しい事例もある。戦後混
乱期にいろいろな商売をして、結構な量のお金に触れたという口述者もい
る。そんな事例は植民地朝鮮の生活ではめったに見られない経験である。
ある面では、故郷で生活する時より豊かなこともある。しかし彼らの共通
点は、日本の侵略戦争のために自身の意思に反して日本に行くことになっ
たのであり、労働力を提供しなければならなかったという点だ。
「お父さんの身代わりに、自分の足で歩いて徴用に行く」と言ったから、
それが自分の意志に従った決定だと言うのだろうか。「ここ朝鮮では食べ
るのも難しいから、日本に行って来た方が良いといって募集に応じた」と
言ったから、行きたくて行ったと評価することができるのだろうか。
私たちが重要だと考えなければならないことは、「自分の足で行った」
ことではなく、「なぜ自らの足で歩いて行ったのか?」という点だ。自らの
足で歩いて行かなければ、お父さんが行かなければならないから、日本に
行かなければ暮らすことはできないから行ったのだ。必死に働いても暮ら
すことができないのならば、それはどういう理由なのか、誰の責任なのか。
当時朝鮮が植民地であり、植民支配政策の下で統治を受けていた対象で
あったという制度的要因を考慮してみるならば、「自らの足で行った」とい
う現象が、強制動員といかなる関連性を持つかという点に対して、その回
答は難しくないだろう。
強制動員の経験に対して加害者は依然として堂々としている。しかし、
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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彼らは歴史の前でいつまで堂々としていることができるのだろうか。彼ら
が頭を下げて真の自己省察の機会を持つ時、はじめて社会の普遍性が正し
い位置に戻ることができる。歴史という鏡が正常に光を放つようにするた
めに、数百万の強制動員被害者が歴史の前で堂々としていられるようにな
る時まで、強制動員の経験を社会が共有するためのこの作業を、委員会は
止めることはできないのである。
調査1課長 鄭惠瓊、調査官 権美賢
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
22
目次
発刊の辞(日本語版)············································································································3
発刊の辞(韓国語版)············································································································5
解題············································································································································7
鹿児島県|23
ユ・ジェチョル(柳済喆)
私を捕まえてこいと、お父さんを殴ったんだ························································25
長崎県|49
イム・ウォンジェ(任元宰)
やらないと殺すと言うんだ·····························································································51
ハン・ヨンウ(韓淵愚)
石炭事故に遭って3年を病院で過ごしていたら、出て行けと。
仕事もできない者がここにいる必要はないと。···················································77
佐賀県|93
キム・サンテ(金祥泰)
恐ろしくて逃げられなかった·························································································95
キム・ヒョング(金絃九)
帳幕が取れたときに打たれ、そして腕が落ちた··················································111
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
23
福岡県|141
キム・ギュヒョン(金奎衡)
一カ月の飯代が30円だよ································································································143
ウォン・チョンサン(元天常)
ちょっと聞きたいことがあるから行こうと言われたんじゃ·····························173
イ・チョング(李天求)
行くってどこへ行く?夜も昼も日本憲兵が銃を持って監視するのに········193
大分県|221
キム・ギオク(金基玉)
わしらはそれでも炭鉱よりましだったよ··································································223
チュ・トクジョン(周德鍾)
徴用に行って生まれて初めて父に会いました······················································245
翻訳·•·最終監修者···············································································································269
面談後記
2005年10月17日、忠南・唐津郡沔川面の口述者の自宅で実施した口
述面談である。口述者は農作業をしている最中で、調査者たちが自
宅を訪問すると、急いで部屋に案内してくれた。そのために口述聴
取の準備に多少時間が掛かり、また周囲が騒々しかった。面の職員
たちに口述聴取の方法を見学したいと同行を求められ同席したの
で、多くの人々がおじいさんを囲んで座り、周囲に多少緊張した雰
囲気があった。おじいさんは難聴で面談相手の質問が聞き取れなか
ったので、意思伝達がかなり難しく、おじいさんの発音も聞き取り
が大変だった。
鹿児島県
27
ユ・ジェチョル(柳済喆) 男、89歳
1918.8.4
忠南・唐津郡沔川面栗寺里生まれ
1943.2. 日本鹿児島県所在の製錬所2)に動員され
る(20歳頃)
1945.
解放後、故郷に戻る
私を捕まえてこいと、
お父さんを殴ったんだ
私は小さい声は聞けません。もっと大きな声で話してくれなくちゃ。2)
今の声は聞こえますか?
聞こえる。それなら聞こえる。さ、尋ねなさい。私が答えて差しあげるから。行
って、働いて、どこに行ってきたか、それ以外、分からないよ。記憶はね、全部
2) 日本の強制動員研究者である竹内康人が作成した強制動員地(鹿児島県)のリストには鉱
山が9ヶ所出ているが製錬所は出ていない。しかし当時鉱山には大抵、製錬所が一緒にあ
ったので、この中の1ヶ所と推定される。鉱山現況は次の通り。大口鉱山、薩摩山ヶ根鉱
山、日鉱荒川鉱山、日鉱王ノ山鉱山、日鉱春日鉱山、布計鉱山、菱刈鉱山、日窒阿久根鉱
山、三井串木野鉱山。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
28
記憶はしているよ。でも、度々忘れることもありますね。でも、もう思い出せま
す。ア! あの米軍が来て奴らは(日本は)もう、その時、追い出されてきたよ。
私たちも。韓国人も皆、追われて出ただろ?
最初はどのようにして行くことになりましたか?
はい、 その時はもう強制で行った。あの九州カオシマ(鹿児島)3)
行く時のお住まいはどこですか?
雲山面4)ミョンヒョン里5)という所がある、ミョンヒョン里。ここが元故郷でミョ
ンチョン里6)。
そこにはどんなことで行きましたか?
あ! そこにはしばらくの間、引っ越していて、そこで強制的に捕えられていった。
それでは海美に住んでいた時は、結婚してから行ったのですか?
いや、ここに帰ってきて、解放になって帰ってきてから。あの時、戦争が起きた
じゃないか? 米国と戦った時、その時、強制的に捕らえられて動員された、労
働させようと。その時はそこらじゅう、追いかけ回ったよ。そう逃亡もして。逃
亡も、その時は山に行って。うん! 追いかけられ、捕らえられて連れて行かれる
から、どうする? 強制的に。あの時は米国が日帝と戦う時だったよ。その時、戦
っている時、労働しろと捕まえて、動員する人だ、金〇〇。(私に)手伝いをして
こいと、それでアイゴ! 、それでも行かないと言ったよ。一度、日本に行ってき
3) 鹿児島、日本南方の県の一つ
4) 瑞山郡雲山面
5) 雲山面龍賢里と推定
6) 瑞山市聖淵面鳴川里と推定される。
鹿児島県
29
たが、また捕まえられて行ったよ、あの何だ、対馬島7)。そのように追いかけら
れたが、それでも行かないと言って行かなかった。そしていくらかした後で、
ようやく解放になるでしょう。それからはもう平穏な暮らしになって生きてい
る。その時は混乱していたんです。捕えられて連れて行かれてしまうからね。
捕まえて日本に連れて行った人は誰でしたか?
あの、捕まえて日本に行かせようとした時に? それは、雲山面にいるが、その人
の名前が何か分からない。面長です、その人は。
面長が出て来ましたか?
いや、いや。その人がもうまた、私が行かないと逃げているので、お父さんを
代わりに連れて行って。それでお父さんを殴打して、泣いて。私はまた、他の
所に逃げていたところ、また殴打したよ。それでその年、捕えられて行ったよ。
およそ3年いたよ、日本に行って。
まずお父さんを連行しようとしているところを、おじいさん の方は逃げた
ということですか?
違う。私を捕まえてこいと、私を探してこいという話です。私が行かないと言っ
て逃亡したから、お父さんを殴打したんだよ。その、なんだ、息子を連れてこい
と。それでその時そうやられて、二日後にお父さんは亡くなりました。それから
私をその人が、面長が、その名前が何だったか、その人の名前ももう忘れてしま
ったよ、李何某だったか。その人がお父さんを殴打したんだ、私を捕まえてこい
と、どこに私がいるか探してこいと。そうしてアイゴ! それで強制的に行かされ
たんだ、その時。講堂に出かけていって、雲山面にあるでしょう。そこにいるか
ら、どこへ行ったのか探してこいということだね。そうしておいて「李何某」とい
7) 対馬。日本九州の北方、玄海灘にある鹿児島県に属する島。韓半島と近い。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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う面長がいたが、その人がお父さんを酷く殴打するんだ。どこへ行ったのか、捕
まえてこいと言うんだ。それで強制的に行くことになったんだ。
最初どこに集まりましたか?
ウン? 集まったのかと。募集に行った時、瑞山から100人が行った。雲山面、瑞
山面、全部で100人が行ったと言っていた。
捕まえられてきた所はどこですか?
捕まえられてきたとこ? その時は雲山面ミョンヒョン里。
捕まえられて瑞山に行ったのですか?
瑞山郡に、いや瑞山の人々がみな集まったよ。およそ100人だったよ、捕まえら
れてきたのが。
おじいさんは雲山面から瑞山に連行されていったんですね? 雲山面からの
他の人はいなかったですか?
雲山面ですか? ああ! 雲山面も多かったよ。それでもこれに加えてあの瑞山では
100人でした。その時、一つの村内でも5人くらいになりました。けれども逃げ
てしまった人もいたり、帰ってこれず、そこで死んだ人たちもいて。すでに何
年か、もう50年も過ぎたじゃないのか。
名前を思い出せますか?
誰ですか? 分からない、思い出せないです。ひとつの村で3人が行った。私と、
もう1人と、また1人と、3人が行った。ものすごく時間が経ったから、人の名
前も忘れてしまうよ。そして瑞山面から100人行った、募集で。それが製錬所。
鹿児島県
31
日本新潟県の佐渡鉱山で働いている労働者ら
瑞山に集まった100人は皆どこへ行きましたか?
皆あそこに、何と言ったか、鹿児島。製錬所に皆行って。製錬所、製錬、その、なん
だ、手で仕事をする、その工場に行って働いた。他の所にはあまり行かなくて。
日本に行こうとすると船に乗らなければならないでしょ?
連絡船に乗って行かなくちゃ。
どこで船に乗りましたか?
あの、それが、忘れてしまった。あの、そこがどこだろう? 日本、あの。もう50
年が経ったためか、記憶が。そこで捕まえられて釜山に行って、連絡船に乗っ
て(*下関)そこで降りたよ。降りてからは、そこでまた、小さな船に乗ってそこ
(門司)へ渡ろうとするなら、また連絡船に乗らなければならない。そこで渡って
門司8)に。それで門司へ。そこに行こうとするなら、連絡船に乗って約1時間ま
8) 門司。現在の門司区。福岡県北九州を構成する7区の一つ。1963年5市合併で昔の門司地
域が現在の門司区になった。日本九州最北端.
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
32
た渡って行って。渡ってそこから、あそこ、どこだろう?その仕事場。
門司で、また連絡船に乗って渡って行ったのですか?
そうだ。そこで降りて行って、あの下関9)に渡って行かなければならなくて。渡
って行って、鹿児島、そこ行かなければね。
下関から鹿児島には、どうやって行かれましたか?
そこに行く時にはすごく苦労したよ。ところでよりによってまた、その日は雨が降
ったよ。2月の最初の日に。陰暦で2月1日に、雨が降った。しかし行かなければ
ならないのに、バスが通っているというのに、バスが来ないんだよ。雨が降り続
いて来られないというんだよ。それで30里、30里あるのに、夜にそこを歩いて
行かなければならなくなった。鹿児島の製錬所、製錬所に行くには夜に、また30
里を歩いて行かなければならない。それが2月1日だよ。その日、行く日が2月1日
だよ。ところで雨がまた降ったよ。雨が降ってどうする? バスはない。それで歩
いて行かなければならないと。それでおよそ100人がずらっと歩いて行くんだ。
歩いて行ったら、あそこは食堂が遠いから。腹が減っていて、腹が減って我慢で
きないくらいだ。何か野菜を少し買って、あの室長という奴が買って、そいつを
水っぽくスープに煮て、味噌をちょっと入れて味噌汁を作って、夜明けの5時に
なるとコケコッコーとラッパを吹く。腹が減った人が寝られますか? 寝られない
でしょう。だからコケコッコーとラッパを吹くんだと。そうしたら飛び起きて出て
行かなければならない。汁に野菜を少しでも多くもらえるだろうと思って出て行
く。行くと名札があった。ずらっと挿してあったよ。
自分の名前が書いてある物ですか?
そうだ。そこに裏返して挿してあった。そして人が行くと、その牌をひっくり返
9) 下関。山口県の港町。関釜連絡船が出発、到着する港。
鹿児島県
33
しておかなければなりません。
おじいさんの名前はどのように記されていましたか?
日本で? ヨネギ10)と。ヨネギ。
その名前が書いてあったのですね?
そうです。柳済喆だと書いたが、そこでは日本の奴らはヨネギだと、そう言う
んだ。私を。
その名前をどのようにしましたか?
私の名前? ア! 私の名前は三文字だ。 それを一度にペンで書いてそこに裏返し
てあって、本人ならばひっくり返して置かなければなりません。ひっくり返して
置けばご飯をくれるんだ。
それで食事をすることになるんですか?
そうだ。標札をひっくり返して置かなければ(*人が)いないと思って。 逃亡した
人はそのまま裏返しのままで。それがひっくり返された人は昼ご飯を食べにき
たといってその人にはご飯をあげる。並んで、列でずらっと、きちんと並んで。
あの何だろう? 名前、姓名を書いた物、それをひっくり返すと「誰それ」といっ
て、そこでアルミ食器にご飯をぱっと盛られて、野菜と汁を煮ておいた物とそ
の二種類。タックァン(たくあん)を三つ。そして、お粥をもらうとそれを食べて
仕事に行くんだ、仕事。
仕事をする所は食堂と近かったですか?
え。そうだよ。少し降りて行けば。
10) 柳の日本語式発音である「ヤナギ」と考えられる。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
34
そこでどんな仕事をされましたか?
私? それがあの何だ、製錬所なんだけと、金、銀、鉄、そんなのをみな溶かし
て、釜というところがあって、その作業場というと、今この部屋でいうと釜一つ
が三間にはなるくらい、 広くて。
この部屋、三間程度になりますか?
あの、その中が黒くなっていて、その上を電車が通っていて、てっぺんに。
その上に電車が通るのですか?
あの、電車に鉱石を載せて行って、そこにぶちまける、その広い釜に。ぶちま
ければ、それがどのようになるかと言うと、鉱石が七種類だ。だからそれを運
んでそこにぶちまければどうなるかと言うと、電車がそのトンネルを、くるくる
とこのように回る。回るとそこに電車が行く。行くとスイッチを消して、手動で
行う人はそのまま手動でやるんだ。取っ手が太いこういう鉄線で。だから間違
って捉えられると、そこにぶちまかれる。
電車の中にある物がざっと流れ込むんですか?
はいはい。電車を。そこで誤って捉えられるとそこにばら撒かれる。それで、ス
イッチを押すと、そいつがくるくると回って行く。その釜に行くと取っ手が。そ
れが間違って捉えられると、その釜にわっとばら撒かれる。みな、入ってしま
う。そうするとその今ぐわっと上げてしまって満たすことができる物だけは回
って行く、くるくると回る。それがもう一日中回って行くものではない。1,2個も
やって、一度このようにたくさん入れるとその何日間休む。休んで清掃してや
って、そうした作業を行って、その夕方に交代する。夜に作業する人は夜に働
いて、 昼間に作業する人は昼間に働いて。そういうふうに交代で。
大きい釜に金属を入れるのですか?
鹿児島県
35
金属ではなくて、鉱石。あの鉱石、あの掘った鉱石。
それでは大きい釜にそれを入れて火を点けるのですか?
燃やす?そう、燃やすとも。その石炭を詰め込んで、機械、風を起こす機械が
あって。ちょうど付けるとそれがどうなるかと言えば、ここオゴン山のてっぺん
があるが、そこがそんなに遠い。その中は人が往来できるほど広い。だからこ
の熱気がそのままちょうどそこに行って、山のてっぺんに上って熱気がズブッ
とポンポン!と 出る。そうするとそこでは「明日雨が降る、降らない」と言う。そ
の熱気が行く所に、雨が降ろうとするならその何、北風が行く、西風が行く、
それで分かると。そのようにして、火を炊くのにそのまま注いで点けて、人が
火をたくのではなく。
機械が火を炊くんですって?
そうだ。そのままぶち込んで、石炭といろいろな物を入れて風車で吹くと、煙
が出て行って、溶けた鉄はその下に出てきて、また出てくるところがあります、
溶けた鉄が。
毎日溶かすのですか?
そうだよ。一日中溶かす。溶かしてざあざあざあ! 流れると非常に大きなひさ
ごがあって。その大きい奴を持ってその下にあてると、それが間違って当てる
と、その溶けた鉄がそこでそのひさごで一つになる。そうするとあの電車が通
っているから、だから焼けてそのまま張るから。あの釜も、そいつをひさご一
つに注いで、注いでそこに行くと、溶けた鉄を注ぐところがまたあって。
その作業場にあの部屋のような四角いところが、真っ直ぐにずらっとこのよう
にあって、それでその上に少しずつ注ぐ、それが一つになる程に注いで。注い
で一つがいっぱいになったら、その次にまた入れてそのようにしておいて、そ
れがどうなるかというと試してみる。その実験は機械があって、このようにざ
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
36
っと差し入れるとそれが熱くなる。その機械で同じようにずらっと一列に並べ
て。熱くて触れないから。
熱くて人は手をつけられないから機械がするのですね?
そうだ。そうして溶けた鉄は半分を四角に真っ直ぐにぴったりと注いで、それ
が冷めると機械でもってさっと差し込むと浮かび上がる。浮かび上がると持っ
て行ってさっと、その次にはずらっと〜あの豆腐のように。ずらっと〜並ぶ。並
べて、みな冷めると電車が来て載せていく。載せてそれを他の所に持っていく
んだよ。他の所での作業はしたことない。何かの釜に鉱石だけ持っていって、
ざっとぶち込んだよ。
おじいさんは釜に鉱石を投入する仕事をしたのですか?
そうだ。それが7種で、鉱石も。一度入れる時に普通何回入れたのか? 5回入れ
たのか、 4回入れたのか? その色々な種類をずらっと〜7種、8種を一度に一つ
の釜に入れる。入れて何時間か燃やし、みな燃えて溶けた鉄になるまで消さな
い。消すのは後の仕事で、全部溶けた鉄になるとそれをみな出して抜いて行っ
て、板に付け、あの急須のような物がつり下がっていて、そいつに一つ受けて
クッと付いて、それがまた回って行くのじゃないか? そうやって一度ずらっと
〜入れると、休み時間がある。
そうやって作った鉄塊は何を作るのに使うのですか?
それで作る物? 日本の奴らが他の工場に持っていったよ、それを。そこで作る
のではなくて。鉄板、鉄だけ溶かしてそれだけ剥がしてやる。そこでそれは作
れない。そこに窪みが一つあってそれを掃除する。しかしそれがきつくてよ。
火薬だよ。そこに入っていくと人は皆腫れてしまう。
火薬がきついですか?
鹿児島県
37
ウン、そうだ、きつい。それがあの何と言うか、火薬を作るのに、ウン、あの何
か鉄粉のような餅粉のように切り刻んでおいた物を受け取って他の所に持って
いく。ウン、そこでするのではなくて。
その製錬所ではそのような材料を作るのですね?
そうだよ。
それを他の所に持っていくのですね?
他の所に持って行く。持って行って、日本の奴らが、私たちが作った物を工場
に持っていって作るんだ。爆弾を作ったんだろう。またそれがきつくてね。き
つくて、そこの穴に行ってそれを作ると人は病気になる。
病気になって死んだ人もいますか?
病気になって死んだのはいなかった。何か顔が腫れた。皆膨れて、腫れて。ぶ
くぶくと脹れて、引いたが、死ななかった。何だ! きつい火薬みたいだった。そ
れを持って、火薬を作るのに使った。
朝、仕事は何時から始めましたか?
朝に行けば、交代で夕方に出てきて、 夕方に入っていくとその夜出てきて。
2交代でしたね?
そうだ、交代で。1週間は朝に入っていくと、1週間は夕方に入っていって、交
代で。
朝何時に入っていくんですか?
だいたい7時になるかな? 夕方にはその5時に入っていって。とにかく12時間は
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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働かなければならない。朝行って夕方まで12時間。夕方に入っていった時12時
間。必ず働かなければならないんだ。
仕事を終えてどこで寝ましたか?
ア! 寝る所はそりゃ何かあるだろう。寝る大きな宿所があった。それでご飯食
べて寝るのに、その人ごとにだいたい何人か、約20人が。とても大きくて広い
よ。その寝る部屋は、みな空いていたよ、そこにあるものは。
一部屋で何人ずつ寝るのですか?
20、寝るのに20人を越えるだろう。それで、10人余りの部屋がこのように作っ
てあった、このようにしてあって。部屋の広さはここより広くて。そしてこれだ
け、ある一辺がこれだけするが、ここから一列が15ぐらいはあった。一度に寝
るのではなくて、たまには4人で寝る。そうやって交代で寝て。
一部屋に15人ぐらいずつ寝るのですか?
うん。一部屋に15人ぐらいで、ここにこちら側に何がある?障子で戸を閉めた
り開けたりして、そのようにしておいて。それで仕事に出ていく時に皆畳んで、
そこ(押し入れ)の戸を開けて放り込んで。放り込んで掃除して、そうして行っ
て、(帰ったら)、そこ開けて、朝にはまた持って置いて、夕方には敷いて寝
て。宿舎は、そこに食堂がある。
宿舎と食堂が一緒にありましたか?
はい。寝る所があって、また何かいろいろあって。食堂があって、風呂場があ
って、浴槽もあった。そして全部各々があって、ああ! 永く経ったから、およそ
50年を越えたから記憶が度々。
宿舎は製錬所と離れていましたか?
鹿児島県
39
日本新潟県佐渡島・佐渡鉱山の製錬所の姿
はい。いや、そこ、そこは少し離れていて。少し離れていたよ、遠くはなかっ
た。
宿舎で監視する人がいましたか?
監視もあることはあるが、そこで監視はしなくて、外で監視した。
外で?
いや。町角、町角に行って監視をしたよ。捕らえられればちょっとひどい目に
あったよ。ひどい目にあって、また逃げるか?
宿舎の名前思い出せますか? 寝る所の名前です。
行ったら既に決まっていたよ、全部。どんな部屋で寝て、また食事して、全部
決まっていたよ、あちこち回るのではなく。
それを誰が決めましたか?
いや夜に、もう決まって。全部その人たちを、その幹部が、ここプヨン洞とい
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
40
う、分からないだろう? その人。そこにシン・○○という人がいて、その人シン
・、何だったっけ。その人が監督だった。
その人が班長をしたのですか?
はい、班長で行った。その食堂で、そこで仕事をしたんだ。その人は事務室に
だけいたよ。そうして解放になって帰ってきた。自分の家に帰ってきたが、日
本の女を一人連れてきた。
班長はどこの人でしたか?
誰が? 班長? そこに行ったその人は元々は、雲山面ミョンヒョン里?
おじいさんと同じ村の人ですね?
うん? 私と? それでももうちょっと離れている、ゴヒョン洞と言う所。ここはネヒ
ョン洞と言う所で、そこに住んでいたが、それが、本当についてないせいか、日
本の女一人連れて帰ってきた。ところでその人は帰れない、若い女を連れて帰
れない。それで男のように男の服を着せて、こうやって連れて帰ってきて住んだ
よ。そうして暮していたが、そのパルゲンイ(共産主義者)たちにやられた。シン・
○○という人は強制徴用に行ってきた人で、女を一人連れてきて住んでいたが、
その人は大変利口だった。○○と言う、シン・○○と言う。利口な人だった。日本
の女一人、その工場に勤める女ではなくて、ちょっとした村、市内に住む女をど
うにかして連れてきて、私たちの村に連れてきて、だいたい3年ちょっとしか暮
せなかったかな? 暮していたが、その時戦争(朝鮮戦争)が勃発して、シン・○○
が家に帰ってくるのを待ち受けて撃ってしまったんだ。それで死んだ。惜しい人
を、パルゲンイが銃で撃って死なせた。大変だったよ。
シン・○○という人が班長をしながら朝鮮人を監督していたのですか?
そう、監督した、その事務室でただ。
鹿児島県
41
事務の仕事だけしたのですね?
ウン。それだけした、そこで、事務室で。そうして帰ってきて、もう二日後家
に帰ってきたら、生きたはずなのに。家に来たのを、あいつらが待ち構えてい
て、猟銃持ってきて撃った。殺した。だから彼は死んでいった。だからその村
は大騒ぎになった。猟銃で音を出して人を殺したからね。
シン・○○という方と仕事を一緒にして、故郷に一緒に帰ってきたのです
か?
一緒ではない。後に帰ってきて、私は先に帰ってきた。
この方が後に帰ってきたのですか?
そう、少し後で、後に帰ってきた。その人は本当に賢くて利口な人だったのに、
どうしようもなく、死んだ。
月給はもらいましたか?
月給? 月給はそうだな、事務室で月給を与える。カン○○とか呼ばれたっけ。
あいつらは悪い奴らだよ。あいつらがお金を取って使う、よこせと言えばやっ
て。そこで事務室に行って「誰それが貯金をいくらした」と言ってお金を記録
すれば、お金をくれる。お金を上手に使ったから多かった。一日にお金、月給
というのは一日に1円20銭の労賃だよ、一日の。
一日の労賃ですね?
ウン。それをもらうけど、それを貯金、貯金しても1ヶ月にそれでもおよそ30円
になったよ。30円も。それでもご飯を食べて、他の事はしなくて、補給所とい
うのがあって、そこに行ってあの7号、何かほしい物があれば、その補給所に行
って、そこに支払の帳簿があって。それをもって何かを買おうとするとくれる。
いくらで物をくれと言うとくれる、補給所。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
42
そこで品物をくれと言えばくれますか?
そう、くれる。だけどお金を持って行かなければならなくて。お金を引き出して
使うんだ。いや引き出して使うところあれば使って、そこで品物が欲しければ
品物もくれて。そこであのなんだ、そいつら、あの慶尚道のやつらがとてもだ
めだった。そいつらがどんなに酷かったかというと、お金を10円引き抜いて、
ここに入れたよ? そこに入れて、そいつらがもうめちゃくちゃで、お金が多いと
持って逃げると言って、お金をくれない。そうお金を抜かれて。そいつらがお
金を奪い取って懐に入れてた。そいつらだいたい傲慢で、本当によくない奴ら
だ。
その慶尚道の人も徴用で来たのですか?
徴用で来たのではない。それがあのなんだ、自分が行きたいと言って、志願し
て送られてきたんだろう。
志願して入って来た人たちなのですか?
うん、そうだろう。でも、それが募集で行ったのではなくて、そいつらは志願で
行った人たち。それが本当にけしからん奴らで、本当に酷かった。それがなん
だったか? ドリシマ(取り締まり、監督)11)?
ドリシマですか?
うん。奴らの名前がドリシマリだと言う、見張る人。逃げる人を逃げないように
見張るのが、ドリシマリ、ドリシマと言う。
それを朝鮮人がしていたのです?
そうだ、そうだよ。皆同じ朝鮮人なのに、酷くする奴がいて。
11) 取締。労務者らを取り締まること。取り締まり者。本来の発音はトリシマリ。
鹿児島県
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製錬所には朝鮮人が多かったですか?それとも日本人が多かったですか?
働くところ? その工場で? 工場には日本人は幾らもいません。韓国人がだいた
い100人が、そこに遠くから動員されたから、多いよ。
瑞山から行った人はみなその工場に入ったのですか?
そうだ。その工場で人が足りないから。日本の奴らは皆、兵隊に行っただろ
う? 兵隊に行って、老人だけいたよ。それで、何だったか、その何というのだ
ったか? あ、その、**をとても大きく造ったよ。長々とぶらさげて。それに胡
馬を連れて、弾倉入れて、その時、戦場で、戦う時に満州に行っただろう? 飛
行機、馬、胡馬と、満州に全部持って行ったじゃないか? 満州で戦う時、皆死
んだだろう。人も死んで、日本の奴らも死んで。日本の奴らは死ぬと、それを
火葬して箱に入れた。
製錬所には日本人があまりいませんでしたね?
うん、工場に? いくらもいなかった。老人、そこには老人だけいて。
製錬所に先に来ていた朝鮮人がいましたか?
いや、先に来ている人もいたが、いくらもいなかった。
おじいさんが行った後に朝鮮の人が更に来ましたか?
いや、次には来る間がなかった。米軍が来て、その時爆撃をして、ばら撒かれ
て、家にいられなくて。ここに爆弾投げると、このようにちょうど突き抜けて、
ここにちょうど突き抜けて、爆弾がさく烈して、それが砕散する。そのてっぺん
を何かが爆撃をするとそれが砕散すると、こうしたところがそのまま下がって
浮かび、それで怖いから穴にみな入って行ったね。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
44
穴に隠れていましたか?
うん、穴に入って。穴に入っても無駄で。それも少しすると、それもみな崩れ
て。仕事をちょっとして夕方に、夕方に入って来てみるとその奴ら、日本の奴
らが、電車を押して捨てたと、爆弾を落とすから。それを何とかして電車を押
して捨てたと。皆恐ろしくて、だから仕方なく、そうなると市内からあの山のて
っぺんに逃げる。高い所に逃げていきながら見下ろしているんだ。ところで人
が多い所はだめ。人が多いとそれを目がけて米軍が爆撃する、その米軍が。
おじいさんが行った時、朝鮮人が一番多く引っ張られて行きましたね?
次はあまりいなかった。先に来た人が幾らかいたよ。働き手は日本人で、その
年老いた日本人たちと一緒に働いた。あの工場で仕事だけしたよ。そうしてそ
んな爆撃があると、あの山のてっぺんのどこかに逃げて、隠れていなければ。
人が集まっていればその上に爆弾が落とされて。米軍が爆撃する。でも韓国人
が集まっている所には、その人が、韓国人がいると分かればそこには落とさな
い、そこは。
爆撃が来ると山に皆避難したのですね? その間に逃げてしまう人はいない
ですか?
家に? 他の所に? 他の所に逃げない。逃亡すると言うと、鉄道にしても旅
券12)12)も無くて、切符を買わなければならないだろ? 連絡船に乗って渡るし
かなくて、そうやって帰って来ることが出来るか? 帰るべきなのに。それで連絡
船に乗って渡って来た。その時は若かったから行った。いや海が何だ! 海は真
っ青な水だけで。戦場の中で爆撃される一方で、これでいつ降服するのか。も
う、そうしているところを米軍が解放させた。その爆弾でどうにかなって、あの
日本が降伏しただろう? そうしなければどうなったか分からなかった。たくさ
12) ここでは証明書を意味する。
鹿児島県
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んの韓国人が動員されて。満州人のようになるかも知れなかったよ。
戦争が終る時まで工場にいらっしゃいましたか?
戦争? その時そうやって帰って来たよ、韓国に。戦争が起きて、そして終って帰
って来たよ。その時は全部、韓国人は解放された。募集して、またあの日本の奴
らが満州のどこかにいた人々を、天安駅前に皆、全部集めたよ。だからどこか
に行くことはできなかった。そして韓国人も逃げないで。その連絡船に乗るよう
に、それだけを待っていたんだ。そうやって、工場、それも動かない、仕事もしな
い。そして韓国人は全部、下関に連れていって集めておいて。日本の奴らは全部
満州のどこかにいたやつらを連れて、天安の駅前に待機させておいて。
解放されてどのようにして帰って来られたのですか?
そう、行けと言うまで待ったよ。「皆、連絡船に乗って、韓国に行け」というふ
うに。それで人がいっぱいだから、並大抵ではなかったから、一度には帰って
こられないんだ。何回か交代で何回も送り出して、日本の奴らも天安のどこか
の人を全部連れていって、また交代で船で送ったりしていた。一度にどうやっ
てできるのか。私はあの何と言ったか門司という所、門司のそこで別に長くは
待たなくて。その工場の人が門司に来て「お前らが先に連絡船に乗れ」と言っ
て、それで帰ってきた。でも、もう散々苦労したのは言うまでもない。
門司に人がどれくらい集まりましたか?
どう見てもおよそ何百人にはなるだろう。それで交代で皆、そのようにして帰
ってこなければ。連絡船、日本の奴らも交代で、また逃げて全部あそこに連れ
て行って、それも交代で連絡船に乗らなければならず、一度に乗れないから。
交代で乗ったのですか?
いや、もう私たちはそのまま韓国人が先に乗って、日本人が全部そうして、釜
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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山まで連れていって、そこで連絡船に乗せて送って。門司から釜山まで来て、
帰ってくる時も連絡船に乗って。その時は船賃が無かった、帰ってくる時、そ
の解放になったからね、そのままあの連絡船に乗って帰ってきたんだ、釜山
に。でも、その連絡船に乗るのも大変だった。何か服を着たままでは乗れなく
て。枕のようなもの二つを、見るとそれを一つ後に付けて、一つ後に付けて、
紐でギュッと縛って。そうやって、それがなぜそうするかと言えば、爆弾を落
とされて、爆弾が落ちて来て破損すれば皆死ぬということ。だからそれをゴム
風船でこのように前後を枕で覆うと脚が重いから安定できる。それでゴム風
船が浮かび上がるだろう。浮かぶから死なない。それを全部人ごとにみな取っ
て。みなつかんで、前に当てて、そのままでは送らなくて、必ずギュッと縛らな
ければならない。ギュッとね。それを緩く縛ると解けてしまうということだね。
きつくギュッと縛れと。ああ! 本当に徴用生活だ。
帰国する時お金や荷物は少し持って来られましたか?
荷物もちょっとあっても、あってもその持ってあの、荷物を載せる所に持って
行って置いておくと、全部載せた。みな送ってくれたよ。
関釜連絡船のひとつであった昌慶丸
鹿児島県
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船に乗る時、お金を出しましたか?
あの連絡船? 出さないよ。ただで乗った、行く時もそうで。なに! お金を受け取
る気がどこにある。
釜山に到着してから瑞山まではどうやっていらっしゃいましたか?
釜山に来て。ここには何か汽車に乗って来なければならないのではないか? そ
の時はお金をちょっと払わねばね、天安まで払った。いくら払ったか分からな
い。もう時間がずいぶん経ったから分からない、忘れてしまった。私はその時
は、お金は払わなかったよ。無料だよ。無料で帰ってきた。天安、天安から温
陽に、ウォンチョンに来てソンジャン、ソンジャンに、それから村まで歩いてき
たよ。
家に帰られたら家族がとても喜んだでしょう?
でも、当時、日本に行った人は帰ってこられないと言っていた。帰ってこられな
いと言っていたが、米軍に、(日本が)手をあげると、一気に私たちを帰して
くれて、私たち韓国人をみな送り出して。日本人も満州のどこかで全部きれい
に、身体一つで戻ってきたんだ。その人たちも、みな捨てて。何か持って帰っ
てくる暇なんかなかったろう?
おばあさんが喜びましたか?
いやあの、帰ってこられないと思っていたよ。当時日本に行った人は帰ってこ
られないと思っていたと。
ここから一緒に行った三人は一緒に帰ってきましたか?
三人だっけ? いや二人。それも一度には帰ってこられないで、何回かで帰って
きた。 一度に乗れないから。そう何度かわけて乗って来たよ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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おじいさんの家族の中で徴用に行ってこられた他の方たちもいますか?
いや、弟はいなくて、私の従兄弟もどこへも行かなかった。私だけ行ったよ。
年齢がその時が、まだ20代にならなかったよ。20歳、やっと20歳になったばか
りの頃だったと思う。
解放になる何年前なのですか?
解放になる? 随分時間が経ったから思い出すのが難しくて。その日本の奴らが
皆来て、どれくらい大変だったか? 韓国人はここで生きるのも苦しくて、苦しく
て萩の茎から殻をはがすこともして、綿花を作ってそれを全部供出して、日本
の奴らが供出に全部取った。
日本で働いた期間がどれくらいになりますか?
およそ3年。ウン..。 ああ! 余りにも時間が経ってしまって、記憶も定かでない
が、2月の最初の日に行った。
鹿児島に行ってこられた事はどうして憶えていますか?
ウン。鹿児島、鹿児島。それはそこで暮して帰ってきたから思い出すよ。いや
そこにいる人たちがみな鹿児島だと知っていたから。
朝鮮人ですか?
そうだ、朝鮮人が。日本の奴らもあそこで「鹿児島だ」と言っていたし。
製錬所の名前は何と言いますか?
製錬所? 工場の名前は製錬所だ。その工場の名前は、それが詳しく記憶が、思
い出せません。鹿児島の何、製錬ということだけ分かる、詳しくは思い出せな
い。そこで生活して帰って来たというのに…。
鹿児島県
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解放されて門司で船に乗りましたが、鹿児島から門司まではどうやって行
かれましたか?
行く時に? あ、それはあの、そこから30里を夜に歩いていった。連絡船から降
りてその工場から30里、30里だ。さっきその話をしたね。2月の最初の日に行
ったが、その日雨が降って。どんなにしても夜でも行かなければならないとい
う。そこで寝ることはできないから。日本人だけいて、言葉も分からないだろ
う。どこで寝る?
その時、日本語は上手に話されましたか?
日本の奴らが話すこと? 聞き取れなかったよ、ウン。なぜなら日本語と韓国語
が同じじゃないから、分からないだろう。
班長は日本語上手でしたか?
班長か? その人は上手だったよ。シン・○○といえば、何でも上手にこなした。
その人は学校通って学んだから、その人は上手にこなしたよ。
解放になって帰ってこられたら何月でしたか?
家に来て? 家に帰ってきたのは7月、陰暦で7月に解放になっただろ? 7月の解
放された時だ。
面談・校閲 許光茂調査3チーム長、
1次聞取文作成 韓ヒョンサン、
編集 推敲 注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、權美賢調査官
長崎県
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長崎県
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イム・ウォンジェ(任元宰) 男、85歳
1922.6.20 忠南・瑞山郡仁旨面花樹里生まれ
1942.4 日本長崎県所在の三菱造船所に動員13)
(23歳)
1945.9 帰国
やらないと殺すと言うんだ
おじいさん、生年月日はどうなっていますか?
9月9日。師走の水曜日だよ、私の誕生日、酉年、辛酉生。85歳です、私は。時
が経つのが早い。あまり経っていないように思えたのに、こんなに早い。どう
考えても早い。
13) 長崎県長崎市所在。1857年に徳川幕府の長崎鎔鉄所という名で設立され、さまざまな
名を経て、1934年に三菱重工業株式会社長崎造船所になった。1942年に戦艦武蔵(6万9
千トン)等を造るなど軍需工場として、戦争に積極的に参加、日本人をはじめ多くの朝鮮
人を動員した。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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何歳の時に徴用に行きましたか?
私? 結婚してから行った。23歳、若くて行った、とても若いとき。私が生きてい
るからこういう話をするんだ、死んではできないだろ。
だから、おじいさんの話を聞いてみようと来ました
ありがたいね。
結婚は何歳の時にしましたか?
結婚は22歳。徴用は結婚して、もう一年たってから行った。仕事をしに行けと
言われて行った。
その時、息子や娘はなかったですか?
時が経つのが早い。生まれていなかった。帰ってきて3年後、解放になってから。
解放になって帰ってこられたのですか?
そうだ。それで連絡船に乗って行ったが、連絡船、その当時に闇船(密航船)
に乗ってきた。皆死んだ、徴用に行った人たち。
徴用はどのようにして行くことになったのですか?
その時? 行けと言われて行ったんだ、村の里長に。その当時は区長14)と言った
よ。行けと通知したんだよ、村に。
14) 日帝時代、各村を一つの区域にしてその区の長を区長と呼んだ。今の統長、里長がこれ
に該当する。日帝時代に区長は最末端行政員で、朝鮮総督府→道庁→郡庁→邑面事務所
→区長として業務がすすめられた。区長は村の事情を一番よく知っているから、警察や
会社職員らと同行して、直接村人らの動員を助けた。また、強制動員対象者は区長の個
人的な判断で決定される場合があったので、村人から怨まれたこともあった。
長崎県
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徴用状が届いたのですか?
そうだ。いつまで行けと言われて、行ったんだよ。
どこに集まりましたか?
そこに、上があるんじゃないのか?今でもあるんじゃないの? 洞は詳しくは分
からないよ。
この仁旨面ですか?
ウン。上、瑞山。
そこに何人くらい集まりましたか?
多かったけど分からない。全部皆トラックに乗せられて。
トラックに乗せられて行ったのですか?
そうだよ。洪城まで、ものすごかったよ。私たちの面でも全部日本人だったよ。
日本人だったな。朝鮮人いたと思う?日本人がやってきて全部そうしたのさ。
それで(徴用から)帰ってきて皆あの人たち(日本人)を追い出そうとした。その時
は、韓国人はいなかった。昔はもう全く皆日本人ばかりだったね 。
その当時、ご両親は健在でしたか?
ああ、当然生きていたよ。兄弟は5兄弟。4兄弟だが、軍人に行って死んだ。両
親が生きていた時に。
おじいさんは何番目ですか?
一番上、そう私が。二番目の弟は兵隊に行って死んだよ。私が初めて行ったん
だよ。お母さんお父さんが…、私が農作業して、子どもたちが(弟たち)が大きく
なって農作業をしたんだ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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瑞山に集まってトラックで洪城まで乗せられていきましたか?
そうだ。たくさん行ったよ。一人、二人が行ったんじゃなく、その時たくさん行
ったよ、何人だと正確には言えないが。
村から一緒に行かれた方はいますか?
ああ、村から皆一緒に行ったが、皆死んだよ。
誰か思い出せる人がいますか?
思い出せる人? みな忘れてしまったよ。ドン○、崔ドン○、崔ジャン○、皆、
死んだよ。私と同年輩は皆、死んだ。李スン○、李グン○、行って皆、死んだ。
仁川に行って死んだよ、ここで暮していて。ある人も一緒に行こうとしたら、そ
の人の妻が、列の後ろに押し入れたよ、私をまず先に並ばせようとして。支署
で区長に話をするんだ。「おい! お前が行くのは間違いだ。私は行けない」、
こう言って避ける人が多かった。それで両親たちが騒ぐ。妻たちも騒いで。だ
から、行けと言われた人が「もう私は行けない」と、こんなふうに逃れる。日本
の奴ら15)。
洪城からまたどこへ行きましたか?
どこへ行く? 連絡船に乗って行ったよ。日本へ行くんだよ。
連絡船に乗る前に洪城からどこへ行かれましたか?
洪城から?釜山に行ったよ、そのまま釜山に行ったよ。だから釜山で船に乗っ
て日本へ渡って行ったんだよ、長崎へ。
15) 動員過程で動員対象者選定などが無原則に実施されたことを表す口述内容として評価
することができる。
長崎県
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長崎までどうやって行かれましたか?
船で行ったよ。その時は船で長崎に行って、そこの人がミスボシ(三菱)に、その
工場に。それで、そこで飛行機の爆撃で、爆弾が落ちて皆、死んだ。だからこ
のように腰も痛くて、目も暗くて。
釜山から船に乗って長崎に行く時、船に何日乗りましたか?
何日ではない。夜遅く到着したよ。だから、どこに降りたか分かるか?
誰が連れて行きましたか?
ここから行く人がいるか? そこの人が連れていくんだよ、日本人が。
釜山から日本までは日本人が連れていきましたか?
そうだ。ここから行く人がいるか? 日本人が連れていったよ。行くのは。
日本まで何人が一緒に行きましたか?
多かったね。 後から行った人もいて、先に行った人もいて、私たちと一緒に行
った人もいて。全部一度に行けたと思う? 何回かにわたって行ったよ。ここの
面や支署に日本人がいたよ。
おじいさん、学校は通われましたか?
学校には通っていないよ。お母さんお父さんが学校に送らないで、漢文の勉強
をさせた、漢文。漢文の書堂(寺小屋。訳注)に通ったよ、若いとき学校に通わ
なかった。
日本語は話せましたか?
分からなかったよ、日本語。韓国語だけ話した。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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日本名がありますか?
日本の名前? トロカワ16)といったか。ああ、トロカワ。使わないから全部忘れてしま
った。韓国語も使わなければみな忘れてしまう。日本語を誰が使うのか、それ。
瑞山に集まった時、身体検査のようなものをしなかったのですか?
したよ。あらかじめしたよ。
どこでしましたか?
そこに行ってしたよ、そこで、した。そこがどこだったか、一度したと思うが。
身体検査はどのようにしましたか?
腰を測って、身長も測って。
身体検査もして、元気で行ってこいと拍手されて行ったのですか?
そうだ。両親もついて来て。ああ、皆ついて行ったよ。両親たちがじっとしていら
れるか。私も自分の子供のことだったらじっとしていられなかったはずだ。
釜山までは汽車で行きましたか?
そうだよ、そうだ。そして、船に乗って日本に到着したよ。
長崎に到着されてからどこへ行かれましたか?
三菱合同工場に行ったよ。
その工場は何をする所なのですか?
16) 前の字は分からないが後の字はカワという発音でみると川や河と推測される
長崎県
59
船を造る手伝いをしたよ。
船を造る工場ですか?
そうだ、言ってみれば日本人がやってる所だよ。朝鮮人を連れて。そこで人が
飛ばされる、 風が吹いて。そこで風に耐えるには、腰がどれだけ痛かったか、
痛くて死にそうだったよ、私は。
そこでどんなことしましたか?
そこで手伝いをしたよ。部品を持ってきてくれと言われると、持って行ってあ
げた。
雑用係ですか?
そうだ。使い走りをしたよ。その当時には、韓国語で話す人がいるから。その
人たちの話を聞いて手伝いをして、そんな仕事をした。韓国人が、日本語が上
手な韓国人が、そこにいて手伝いをする。その人の話を聞いて手伝いすること
1929年の三菱造船所第3ドックの姿
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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だね、そう、韓国人で日本語が上手な人が。
日本語の上手な人が通訳をしたのですか?
彼らが聞き取って、このようにやれ、あのようにやれと言って、韓国人がそれ
を聞いて韓国語で何々を持ってこいと言うと持っていってやる。そうやって仕
事したよ。働かなければ殺すと言うから、死にたくないからやった。
村から一緒に行かれた方々は皆、その工場で一緒に仕事をしましたか?
私たちの工場で皆、一緒にいたが 、皆、亡くなった。一緒に働いた人もいて、
それぞれ別れてどこで働いているか、分からない。そしてそうなった。若くし
て行ったが、皆、死んで。
その工場に行って何か教育のようなものを受けられなかったですか?
教育? 教育って何を。言われた通りにやれば、よくやったと褒めてくれる。奴ら
が「おい!お前よくやった」と、これも訓練だと言うんだよ、彼らが。それでも
それを知りながらも、やらなければ殺すと言うんだから。
誰が殺すと言うのですか?
奴らが言うのさ。言い換えれば、日本の奴らが。
殴ったりもしましたか?
殴る人もいたよ、ないわけないよ。でも、殴られて出てくるとそいつも殴られ
て、私も殴られるけれど、ケンカはしない。互いに「おい! やめよう。お前も
俺も同じじゃないか。お前も人で俺も人だ。なぜこのように暴力を振るおうと
する。 おい! これくらいにしよう」、こう言う人もいて。また、言葉でけなす奴
もいて、そのうえ、頬を殴って、足で蹴って、こうやる奴もいたよ。そうなると
「この野郎、お前はちょうどよくかかった」、痛い目に遭わせてやると言って、
長崎県
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直ちにまた蹴る、倒れる始末だ。それで、喧嘩ができるか? できないだろう。
三菱の工場に日本人が大勢いましたか?
大勢いたよ。ほとんどが日本の奴らだったよ。
おじいさんはその工場でどこに所属していましたか?
部署か? 何の部だったか? 作る時の手伝い。何を持ってこいと言われればそれ
を持っていって。鉄片をちょっと持ってこいと言われれば、持っていってあげ
る。そんなことしてたね。
仕事を指図する人はみな日本人でしたか?
そうだ。皆、日本人だよ。それで韓国人で通訳する人がいたよ。話が聞き取れ
ないから。韓国人が「オイこのようにしろ。何々持って行け」。「分かった」。
「何々持って行け」。そうやっていた。
何人で一緒に働いたのですか?
何人? およそ50人で一緒に働いたよ。多かったよ、出たり入ったりして。そし
海のほうから見た長崎港にある三菱造船所の全景
(調査1課李秉熙調査官撮影)
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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て交代で働く人がいた、交代で。一日中働くのではなくて、交代で働いたよ。
どの位で交代しましたか?
一日二日働いて交代して。夜、働いて、夜。
夜の仕事ですか?
そうだ。夜の仕事の交代する人もいて、四六時中働くんだだ。一日中すること
だよ、終日。二日三日働いて交代すること。二日三日ずつ、このように交代す
る。
何時から何時まで仕事をするのですか?
その当時は時計を持っていなかった。時計があるはずないだろう?「今何時?」
「九時だ」、そうした会話で知った。当時そこで誰かが時計を売ると言って、そ
れじゃその時計をお金もらって売れと。ただでくれる人もいて。くれない人も
いたりして、その当時。
何時から働いたのですか?
ああ、朝何時から働いたかと言うと、7時から始めたよ。日が沈めば終わった。
夜に働く人もいて、夜間、昼夜2交代。
食事はどのようにされましたか?
ご飯は食堂で。食事の仕度をする所があったよ。
工場の中ですか?
そうだ。働きに行って食べ、食べてから入浴して、宿舎に戻って寝る。でも、ご
飯食べてから入浴したら食べたカイがない。入浴してから食べないと。(すでに
長崎県
63
消化されて)いつ食べたっけとなるさ。だから入浴してから食事したんだ。ご飯
も腹いっぱい食べたわけじゃない。与えられただけ、食べたよ。匙三つ分くれ
たら、その匙三つ分を食べた。もっとくれと言ったってくれるはずないだろう?
ご飯のおかわりをくれなかった?
そうだ。もっとくれと言ったってね。くれないです。そりゃ、日本の奴らは酷か
ったよ。
ご飯はどのように出てきましたか?
米の飯はさておき、麦。麦の粉を練ったものが出てくる時もあって。白い塊で
出てくる時もあった。おかずは簡単で、二種類ずつくれた。病院で出るおかず
のようだった。おかずをそのように与えるということだよ。
おかずは何が出てきましたか?
その人(飯場の人のことか?―訳注)が唐辛子ならば唐辛子。山に行って開墾を
しておいて、唐辛子を与え、味噌も与えて。唐辛子が辛いけれども日本の奴ら
はよく食べたよ、唐辛子。その山に登れば全部、柿の木。今登れば甘柿、柿の
木があって。柿の木がおよそ20本なっていたが、全部甘柿、甘柿だったよ。登
って行ってその甘柿を取って食べたよ。それが全部、甘柿だった。それでその
時は、自分たちが農作業をすれば、韓国人数十人を動員して、(柿の)腹をこの
ように一回ずつ縛っておいて、分けてそれを干して、皆リヤカーを引っ張って
いくんだ、家ごとに。そこでは日本の奴らがとにかく独裁者だよ。話を聞き分
けなきゃならない、日本の奴らの言葉を。私たちは韓国語を話すから、奴らの
言う事を理解して韓国語でちゃんと理解しなきゃならない。韓国人はその時、
話を理解しなければならなかった。分かるのか? 聞き取れなくて。日本は水田
も小さくて、あまりなくて。山に水田があったよ。韓国のように大きな水田では
なく、小さいのがちょっとずつあった。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
64
工場の周辺に山がありましたか?
工場のそばではなく、山に一回ずつ、遊びにいったら、そこでしたということだ
ね。してみたということだよ。
遊びにいった時、見たという話ですか?
そうだ。その近くにあるのでなくて。
どこまで遊びに出掛けましたか?
見物はもう山、山のようなんだが、主に山に行った。柿も取って食べた、甘柿。
自分の宿舎の近くが山で、周囲が全部、甘柿の木で。
休日がたくさんありましたか?
たくさんあったのではなく、たくさん遊んだのではなく、本当に息が詰まると、
一度遊ばしてくれと、そのように話をしたよ。そうしたらその時、一回そうして
やると、日本の奴らが話したんだ。それで私たちを、働かせたんだ、農業をや
ってたから。そうしてくれるのかと思った。同じ人なんだから、これは助け合わ
なければならない、働く人たちを。だから一度見物してこいと、そのようにして
行ったんだ。そこで、山の見物をすると言って、山に行ってみると、そこに甘柿
があった、全部。
日曜日ごとに、全部休むのではありませんね?
休まないよ。日曜日だからって休むと思う? 働かせる時が多かったよ。休む日も
あったが働く日が多かった、韓国人は。
どこでおやすみになりましたか?
寝るのは、人が寝る所で、寝たよ。
長崎県
65
どのようにできていましたか?
宿所というのがあって、そこでも軍隊というのがあるが、私は軍隊にも行かな
かった。軍隊に行かなくても話を聞いてみると、兵隊の寝る所のようだった。
横に一つずつ毛布のようなものをくれて、それでそれを敷いて寝たよ。
何人が一緒に寝るんですか?
寝るのは皆、一緒に寝たよ。およそ十、九人がこのように寝るのさ。大きい部
屋ならばこのように板の間のようなところがある。それでそのまま入ってきて
寝た。昼間に働いて寝つけば、殴り殺されても起きるか? 人が揺さぶって起こ
したり、小便でもなければ、目覚めるか? 目覚めるはずがないよ。
畳部屋17)のような所で寝ましたか?
そうだ。そうでなければ板の間のようなと
ころで寝て。
部屋はどの位です?
部屋は大きい。そこに板の間がある。それ
でその板の間で寝て、 部屋で寝て。冬に
部屋が冷たいと、板の間で寝る人もいて、
毛布があった。韓国のようにふとんではな
くて、毛布だよ。毛布で覆った。それを敷
いたり覆って寝て、そうやっていた。布団
をくれると思う?全部毛布だ。みな毛布を
敷いたり覆って寝たんだ。
17) 畳。板の間に敷く日本式ゴザ。中に藁を5cmほどの厚さに入れて上にゴザをかぶせて縫
ったもので、普通幅3尺に長さ6尺程度の長方形の形で作る。
畳が敷かれた部屋の姿
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
66
工場の中に宿舎がありましたか?
離れていたよ。
工場のそとに宿舎がありましたか?
そう、それはそとにあった。人々が寝る所は離れていて、離れているところは
下の家のように近くて。
そこでお休みになって工場に出勤したのですね。 出勤するのに時間はどれ
位かかりましたか?
時間はそれほどかからなかったよ。歩いていったよ、近いから。近かったよ。
それでは朝7時頃に朝飯を食べて?
そうだ。すぐ、働きに行って、日が沈むと帰ってきて、ご飯食べたね。
月給はもらいましたか?
金銭をくれたといっても。労賃? 労賃。お金を何銭かくれったって。タバコを買
ったら何も残らないよ。タバコを止めて、酒も止めなければならないのに。酒
は止められれるが、タバコは止められないから、タバコは吸った。
日当はいくらもらいましたか?
日当を貰うのではなくて、何銭か貰ったら、それでタバコ買って、吸った。
その金を一回に幾らずつもらいましたか?
月に一度ずつ。幾らずつだって? 当時1銭ずつ貰うときだった、今の1銭はお金
でもないよ。今の1万ウォンが1千ウォンに当たるよ。今は。当時1万ウォンは見
たこともない、日本では。
長崎県
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もらったお金はどこに使われましたか?
金を受け取ると出せと、出せと。出したら何がある。そう、タバコ買って吸っ
て。当時はまだ若かったから、タバコを吸った。タバコが止められず、分けて
吸ったよ。「オイ、これ吸え」「ありがとう」と言って吸ったんだよ。
おじいさんが働いたお金は貯蓄すると言ってそうしましたか?
あの人たちが貯蓄してくれると思うか?私たちが貯蓄したんだよ。あの人たち
が貯蓄しろと言ってくれるか? 私たちがそうしたいからやっただけで。しない
人は家に送った。
おじいさんは家に送ってあげましたか?
送ってやったよ、タバコを止めてから。手紙が来た。手紙もやり取りしていたよ。
おばあさんにさぞ会いたかっただろうと思いますが。おばあさんは何歳の
時に嫁に来られましたか?
17歳になった時。
おばあさんに会いたい時、どうなされましたか?
どうって、働く以外、何もすることはないよ。酒も焼酎か、タバコを吸ったよ。
さっき話しただろう。そこで酒飲んで、タバコ吸えば大騒ぎになるじゃない
か。
工場に爆撃もありましたか?
ああ! 爆撃。飛行機がスレスレだったよ。爆撃があったかと?あるとも。時々あ
ったよ。米軍が行き来した。スレスレに爆撃したよ。防空壕に入ればあまり死
なない。そうやって爆撃に遭って死ぬから。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
68
どこに隠れましたか?
防空壕に。そうだ、入りかけて死ぬ人もいるがね?爆撃されて。
入りかけて死ぬ人もいますか?
そう、爆撃に遭って。足が吹っ飛んでいって死ぬ人もいて。
死ぬ人々は朝鮮人ですか? 日本人ですか?
日本人もいて、朝鮮人も大勢死んだよ。
死んだ人はどのようにしますか?
その人たちは全部火葬して灰にして送ったよ、 ばら撒いたりして。
朝鮮人は?
朝鮮人は分からない。朝鮮人も送る人もいて、灰をそこにばら撒く人は、その
ままばら撒いたりして。死ねば海にばら撒いたりして。
朝鮮に送らないで?
送る人もいたよ。送る人もいて、送らないでそのままばら撒いてしまう人もい
て。
そこで脱出した人もいましたか?
逃亡はできなかったよ。捕まれば皆死ぬんだ。怖くて逃亡もできなくて。そう、
捕まれば皆、死ぬ。
三菱の工場は海辺にあるのですか?
そうだよ、そう。
長崎県
69
長崎市内に出かけてみられましたか?
出かけなかったよ。その近くの山に行ったと、さっき話しただろう。市内に出か
けていくことができるか。
工場に入る時、出退勤カードを押したりしましたか?
カードあったか? ないよ。
それではおじいさんが工場に来たのか来なかったのかどのように分かりま
すか?
そこにいる人に出ていくなら、出ていくと話して出ていった。仕事をすれば、そ
こ入ってこなかったのか、入ってきたのかを記載する人もいた。
書き留めることがあったようですが?
そうだ。出てこなかったか、出てきたかを記載するんだ、その人たちが。あまり
にも時間が経って、記憶は定かではないよ、今は。私は85歳なので、今話すの
にもうろうしてるんだよ。あまりにも昔のことで、その時23歳ならば今いくつに
なる? 今。
工場で手帳なようなものもらいましたか?
手帳があっても、それがあるか? 今。当時ポケットに入れて行ったが、なくして
しまったよ。もらうにはもらったよ。
その工場に何年おられましたか?
何年? およそ3年いて帰って来たよ、解放になって帰ってきたよ。私がここにな
ぜ来たのか、仕方がないから、あいつらが送るから私が来たわけ。どうしてこ
こまで来たかと考えたりもしたよ。腰は痛いし。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
70
解放をどのようにして知りましたか?
解放されたということは、工場で知ったよ。日本の天皇が手をあげたというこ
とを、放送にまで出てきて。
放送に出たのですか?
そうだよ。放送まで聞かしてくれて分かったよ。
解放になってからは仕事をしなかったですか?
しなかったよ。そのまま解放されて帰ってきたから。
誰が送ってくれましたか?
行きたければ行くのさ。自分の権限で。そう、そうだよ、行くんだよ。
解放になってご飯はもらえましたか?
ご飯は食べたよ。私たちも人間だから自分たちはご飯食べて、私たちにはご飯
をくれないのか? いくら悪い奴らでも、一回ずつそこで争うのが、それだ。飢え
させるのかと、その奴らが。
解放になって朝鮮にどのように帰ってこられましたか?
解放になってそのまま出て行ったよ。船に乗って帰ってきたよ、あの連絡船
で。密航船に乗ったよ、密航船。その当時のお金で200ウォンよ。200ウォン払
って。200ウォンは大金だったよ。100ウォンも見たことないもの、私は。
おじいさんは、お金が少しありましたね?
あったよ。
長崎県
71
工場で出て行けとお金を与えられましたか?
出て行けと言って、お金をやるか?
それでは、集めておいたお金でしたか?
そうだ。私たちが寄せ集めてポケットに入れて密航船に乗って。
家に帰ってこられる時、お金を少し持ってきましたか?
お金って何のお金か? 体一つで生きて帰ってきたよ。そこからお金をちょっと
送ってやって、何か服を入れたりして着ろとか、何とかを書き付けて、私が小
包で送ってやったりもして、そうやって送ったり、送り返したりしたよ。
工場で作業服をくれましたか?
服はくれたよ。破れたりして、服がないと
言えばくれた。破れたら誰が縫ってくれ
る? だから与えてくれたよ。作業服を着て
通ったよ。服を買う金があるか、何銭にも
なるよ、それが。履物はそのジッカダ18)を
くれたよ、その時。帽子もこのような帽子
をかぶって。破れたりしたら、自分で買っ
て履いたよ。工場でもらって履いたりし
た。そうしていたよ、履物も。
朝鮮に帰ってくる時、その作業服を着
て来られましたか?
作業服を着て帰ってきたよ。どこに金が
18) 地下足袋を意味。労働者用の履物。
石炭博物館に保管中のジカタビ。第
二次大戦以後のものと推定される。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
72
あるか? 背広買って着るか?
帰国する時はどこに来られましたか?
釜山に来たよ。ものすごく人が多かった。
一緒に行った村の方々も一緒に帰ってこられましたか?
一緒に帰ってきた人もいて、後から帰ってきた人もいて、私たちが先に帰って
きた。
分けてきたのですね?
そうだ。一度に全部、送れるか? 一度に皆、送らなかった。「お前たち行け。日
本から出て行け」と言われて、追われたんだよ。
釜山から故郷までどうやっていらっしゃいましたか?
釜山から車に乗って、洪城まできたが、バスに乗ってきたよ。釜山まできて、
洪城までは皆、こなくて。出迎えに来た人々は、「私は息子に会いたくて出て
きた」「有難いことよ。さあ行きましょう。行こう」「明日か、明後日に行きま
す」「そうか、そうしようか」と19)。
釜山から洪城まで来られたのですか?
そうだ。洪城からバスに乗って、瑞山まで来たんだよ。
洪城までは?
洪城まで? 洪城までは列車に乗ってきたよ。
19) 釜山駅で別れた状況を表現した口述内容。
長崎県
73
家族が出迎えに来ましたか?
瑞山に出迎えにくると言っていたんだが。村の人たちが「兄さんは死んだ」と
言って、その人が。だが皆、死んだ。私と一緒に行った人も死んで。私の兄弟
も五兄弟皆、死んだ。その人は、瑞山に、お母さんお父さん皆、住んでいて、
私に会った。「おい! 誰かくる。うちの弟は来ないのに、駄目だ」。私と一緒に
行ったから、それではそうだね(死んだね)20)。
おじいさんがおられた工場に大きな船もありましたか?
船を造るところだけ見た。海に浮かぶのは見なかったよ。
工場で造るところだけ見たのですね?
そうだ。行って見た人もいるが。 夜に行ったから見ることもできなかったよ。
日本でケガをされたところはないですか?
目がよく見えない。開けたり、閉じたり、右側。
どのようにケガされたのですか??
その時、爆撃があって。腰もそうだし。見えないんだ。まっ暗だ。
視力検査をしてみられましたか?
してみてもしょうがない。見えなくて。
腰が痛いのに農作業はなされましたか?
その時はお父さんがやったよ。
20) 洪城で村の人々に会って安否を尋ねる場面を表現した口述内容。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
74
目と腰は治療を受けられましたか?
受けるには受けたよ。病院でも受けて。
その工場でも受けられましたか?
工場で受けたよ、受けた。病院に通いながら。目も受けた、受けたよ。日本で
薬をくれて薬を飲んで。治そうとしたが治せなかった、その時。
病院はどこにありましたか?
病院は長崎にあったよ。病院は一人で行ったよ。教えてくれたので一人で行っ
たよ。
治療費は誰が払いましたか?
お金を誰がくれる? 工場で誰がくれる、くれない。後で少しくれたよ。
それではおじいさんのお金で病院に通われたのですね?
そうだよ。初めだけ少しくれたよ。
目の治療をする時、障害診断のようなものを受けられたことはないです
か?
ない。工場からもそのまま家に行けと。
工場で手伝いをする人が50人はいたのではないですか?
そう、50人ずつ組んで働いた。
50人の中で朝鮮人は何人でしたか?
50人ならば半々だろう。通訳する人が、朝鮮人がいたよ。
長崎県
75
通訳していた朝鮮人の名前を思い出しますか?
よく分からない。書いてあれば分かるが、毎日思い出すか? 書いていないの
に、その人の名前をどうやって思い出す? みな忘れたよ。
工場で働いていてケガをした人もいましたか?
たまにいたよ。脚をケガして、肩もケガして、腕をケガした人もいて。さまざま
だよ。
ケガした人は病院に行くんですか?
病院に行く人もいて、自分で治す人もいて。お金は出してくれるというけれど
誰がくれる?
会社で病院に送りませんでしたか?
行けと言うには言ったよ。
おじいさんが目をケガして病院に通った時、何日程度通われましたか?
1ヶ月ほど通って止めたよ。1ヶ月程度。
腰は?
腰もやったよ。2ヶ所行ってみたよ。1ヶ所だけ行くのでなくて。お金をよこせ
と言うので、あった金は皆、なくなった。そこに行って。
仕事をしながら病院には昼間に行くんですか?
夕方に行ったよ。夕方、早く行かなければならなかったよ。遅く行けば、門を
閉めてしまう。会社に話をして、私が。それで少し早めに送ってくれた。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
76
病院に行く時は、何か許可証をもらって出ていくんですか?
話だけすれば、行けたよ。
最初、区長が徴用に行かなければならないと言った時、徴用状をもらいま
したか?
話だけして、その区長が。区長がこれくらいの冊子を持って回っていた。何日
にどこに集まれと、そこに書いていた。
区長の名前は何といいますか?
死んだ、その人も、金○○。生きていたけど亡くなった、その方も。
区長はおじいさんより年齢がどの位上だったですか?
上だったよ、私よりも。私よりも四、五歳さらに上だったよ。昔亡くなった。あ
まりにも、怨声が高くて、怨声が大きいから。
面談・校閲 高鳳勲調査官
1次聞取文作成 チョ・ミンジョン
編集 推敲 注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、權美賢調査官
面談後記
2005年10月17日、忠南・瑞山市東門洞、住公アパートの老人会館で
実施した口述面談である。老人会館で口述面談をしたので、遊びに
来た他の老人たちが口述面談に割り込んできて雰囲気が散漫になっ
た。特に申告した人(息子)と隣の人が途中割り込んで、面談が不明
瞭になったりもしたが、同時に面談者がよく理解できない言葉を言
い換えてくれたりしてくれて役に立ったこともある。口述者は当時、
地谷面の担当者李○○がゴム工場に行くと騙して日本の炭鉱に送っ
たという。しかし、動員された直後に事故に遭い、病院で治療を受
けて帰国をしたので、作業内容に対する経験の多くは記憶していな
かった。動員時期と帰国時期に関する記憶が混在していたが、動員
過程に関しては正確に記憶していた。
長崎県
79
ハン・ヨンウ(韓淵愚) 男、88歳
1919.2.26
忠南・瑞山郡地谷面花川里生まれ
1943.2. 日本長崎県の名称不詳の炭鉱に動員さ
れ、1ヶ月後、落盤事故で病院に入院した
(18歳) 21)
1940.
3年間の病院生活をして帰国する。
石炭事故に遭って3年を病院で過ごし
ていたら、出て行けと。仕事もできな
い者がここにいる必要はないと。
おじいさんは何年ですか?
午年。
21)
日本に行く時、家族はどうなっていましたか?
21) 強制動員関連研究者竹内康人が整理した強制動員地・長崎県の項目には37ヶ所の炭鉱
名が登載されている。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
80
おじいさん、おばあさん。お父さん、お母さん。皆一緒にいました。
上にお兄さんがおられましたか?
はい、大きいお兄さん。下もいた、妹。
日本に行く時、何歳でしたか?
18歳。
何年度なのか思い出せますか?
何年? それが、もう長い時間が経ったから。
その時、結婚していましたか?
結婚していなかった、その時。
その時、家でどんなことをしていましたか?
働いていたよ。農業をやっていたよ。
家に土地がありましたか?
土地は少しあったよ。
学校は通われましたか?
学校に通った、国民学校(小学校)。4年を卒業したよ。
日本語は上手だったでしょうね?
そうだよ。だから日本に行ったんだ。
長崎県
81
日本名は何でしたか?
はい? そのとき、分からないね。名前、今は時間が長く経って忘れてしまった
よ。西原、日本の名前、西原、分からないよ、昔のことで。
日本に行く時、誰が連れて行きましたか?
李○○という面係(面担当者)22)。
おじいさんより年齢がどのくらい上ですか?
若い人です、その時は。若いよ、およそ6,7歳下だったようだ23)。
面でどんな仕事をしていた人でしたか?
それは、あの、募集係だった。
一人で来て連れて行きましたか?
一人で来た。その人が釜山まで連れていった。
釜山まで連れて行きましたか?
そう、募集係が、嘘ついて、ゴム工場だと騙して、そこが炭鉱なのに。行ったら日
本人が、そこはゴム工場ではなく炭鉱と言うんだよ。たくさんの人が騙されて来た
と。そうなんだよ、その李○○が騙したんだ、炭鉱だったら行かなかったのに。
村から5人が行ったんですって?
そうです。名前は分からないよ。一人、一人は分かるよ。崔、崔ジャン○という人。
22) ここでは労務業務担当者を示す。
23)
口述者が面担当者より年齢が若いという話だと考えられる。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
82
おじいさんと年齢が同じですか?
私よりもさらに年上だ。そして死んだ。彼が炭鉱で班長をやった。
面係が日本のどこに行くと話しましたか?
日本、あのゴム工場だと、ゴム工場へ行こうと。一つの面に5人がこのように配
置されたから行こうと、そう言いました。5人が一つの面に配置されたからと言
って、行こうと。
地谷面に5人が配置されたから行こうと、そう言ったのですか?
そうだ、それで行ったんだ。
何と言って行こうと言いましたか?
行く人は、その、ここに申し込みをしろと、私たちに言った。
期限のようなものがありましたか?
3年ぶりに帰って来た。私は解放になった年に帰ってきた24)。
最初に何年間、行って来ると話しませんでしたか?
しなかった。騙されたんだ。あの、何年なのか、騙されて、ゴム工場だと騙さ
れて、ゴム靴を作るところだと言って。
月給はいくらもらえるという話をしましたか?
いや、ない。
24) 実際には1940年に帰国したが、口述者は帰還年度を1945年と勘違いしている。
長崎県
83
初めはどこかに集まりましたか?
面(事務所)に集まったよ。
面係が来て申し込み、申請しろと言ってから、何日後に面事務所に行きま
したか?
何日後なのかは分からない。
それで面係と全部で6人が日本に行きましたか?
そうだよ。日本に行ったのでなく、釜山まで行ったよ。
瑞山郡からどのようにして釜山まで行きましたか?
汽車に乗った。洪城から。
釜山まではどれくらいかかって行きましたか?
一日で行った。
釜山では一晩寝ましたか?
そこで連絡船に乗って行くと言ってさっと行ったよ。
連絡船に乗って日本のどこへ行きましたか?
釜山、ハーグァン25)。日本のハーグァン、そこから誰か、連れに来ていたよ。
日本の炭鉱から連れに来ていましたか?
そう。炭鉱から日本人たちが連れに来ていたよ。
25) 下関、山口県の港町。関釜連絡船が出発、到着する日本の港。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
84
船に乗って行く時ご飯をくれましたか?
はい。ベント(弁当)。
下関で降りてから炭鉱までは汽車に乗りましたか?
汽車に乗って。そこにも汽車があって。
日本に行く時、服を取りまとめて持って行きましたか?
そこに? そこ? 家からそのまま服を着て行ったよ。お金もなくて。
汽車に乗って炭鉱まではどれ位かかりましたか?
それが分かるか? それ。どれくらいになるのか。
何と言う炭鉱でしたか?
クジュ、クジュ(九州)炭鉱。
長崎県西海市・崎戸歴史民俗資料館炭鉱記念公園の前にある実際
の炭鉱坑口。現在は使われていない(調査1課 李秉熙調査官撮影)
長崎県
85
九州はとても大きいですが、炭鉱の名前が別になかったですか?
九州、九州炭鉱。その人が番号をしていた。その番号を呼んでいた、その日本
人が、その日本人の隊長という人が。
炭鉱に行ったら、先に来ている朝鮮人がいたのですか?
そこには朝鮮人がたくさんいたよ。
炭鉱に行く間、海を通りましたか?
いいや。汽車に乗って、普通、野山があったよ。
到着してみると炭鉱から来た人が下関で待っていて、炭鉱に連れていった
のですね?
そうだよ。ああ、だから連れにきていて、そこ、日本のその炭鉱。
炭鉱で一番初めにどんな仕事をしましたか?
そこで、炭鉱で降りてからは、皆、整列させておいて、隊長が話をしたよ。
他の人も多かったですか?
そうだよ。一つの面から5人行ったから、他の面からもたくさん来ただろ? 他の
面も合わせれば数十万人になる。
何百人かになったでしょうね?
そうだ。日本人が話したよ、「逃げたら死ぬと」。
おじいさんは日本語が分かりましたか?
朝鮮人がいて、通訳していた。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
86
忠清南道の人たちが多かったようですか?
そうだよ。逃げたら殺すと言っていた。
食事はどこでしましたか?
それは食堂。
ご飯はどのように出て来ましたか?
食べるだけくれる。
どこで寝ましたか?
家が、あの何と言うかタタミ(畳)26)部屋。あ、1階。
家が長くできていて中間に廊下があって部屋がずっとありますか?
そうだよ。そのように、そのくらいに、このように。
部屋一つに何人で寝ますか?
だいたい10人ずつ。
おじいさんが行った時は季節がいつでしたか?
夏だよ。寒くなくて。
炭鉱で訓練のようなものはなかったですか?
訓練はしなかったよ。
26) 板の間に敷く日本式ゴザ。中に藁を5cmほどの厚さに入れて上にゴザをかぶせて縫った
もので、普通幅3尺に長さ6尺程度の長方形の形で作る。
長崎県
87
最初にどんな仕事をしましたか?
石炭を掘ること。額にあの灯りを付けて入るんだ。あの、クルマ27)。そこに行っ
て石炭を掘って載せたら、それで、あのワイヤ(wire)を出してスイッチを押せ
ば、近付いてくるんだよ。あそこ、その穴から、降りるもの。そのクルマが来る
と、石炭をツルハシで掘ってザルにこのように入れて。それで何だ! 鉄クルマに
載せたよ。長く繋がったクルマが通っていたよ。
車がいくつか繋がっていて、そこから下ろして一ヶ所に集めますか?
そのまま石炭だよ。とてもつるつるとしていたよ、それ。その真っ黒なのが、そ
れ自体がそのように長く、長く続く。そこで掘って、掘れないと、何、何と言っ
たか、その崩れること、何すること。それ何だ?
発破させることですか?
27) 車。ここでは炭車をいう。
当時、労働者の宿舎を再現しておいた建物。よく炭住(炭鉱住宅の
略語)と言う。(調査1課李秉熙調査官撮影)
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
88
ウン、それ、それまでやればバラバラと! 降り落ちてくる。ツルハシで掘って集
めて、それでもってずっと鉄クルマに載せるんだよ。鉄クルマは押しはしなか
った。ただスイッチだけ押せば、もう信号を送れば、走って上るから。
働いていてケガをしたりしませんでしたか?
ケガした。腰をケガした。石炭に当たって。
石炭が上から落ちてきましたか?
そうだ、天井から。
何日間、病院にいらっしゃいましたか?
何日? 数ヶ月いた。 数ヶ月そこにいた、ケガして。病院に行った時のことを思
い出すか? 死んだと思ったよ。
病院は炭鉱の中にありましたか?
炭鉱の外に。病院に毎日通ったよ、働くこともできなくて。そうやって3年経っ
たが、出て行けと。働けない者はここには必要ないと。
いつケガされましたか?
ひと月? ひと月経たないで。
最初の1ヶ月は月給をくれましたか?
お金くれたよ。日当でくれたよ。1円だったか、2円だったか、そのようにくれたよ。
通帳のような物を見せてくれましたか?
そうだよ。
長崎県
89
もらったお金はどのようにされましたか?
家に送ったよ。
後に家に帰ってきて、お母さんがそのお金を受け取ったと言ってました
か?
受け取ったと言っていたよ。
行ってから1ヶ月で腰をケガされましたが、家に帰れと言われましたか?
そう、それでそこから送られてここに帰ってきたよ。3年も病院にいたよ。そし
て私を呼び出して、家に行けと。家に行って治療しろと。ここではもうこれ以
上治すこともできないから、家に行って治療しろと。
ひょっとして働く途中ケガをして死ぬ人もいましたか?
死んだ人は多いよ。崩れて、さく裂して死んだりもして。
死んだ人はどのようにするんですか?
それは分からない。火葬するのかは分からないから。死んだという話しだけ聞
いて。
逃げる人もいましたか?
いた、いた。だから引っ張られてきて殴られていた。こいつは逃げて捕まった
人だと、それを見たよ。だからこうやって捕まる人がいるから、誰でも逃げれ
ば、ムチで打たれると。死ぬから逃げるなと、そう言っていた。
棒きれのような物で殴りますか?
そうです。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
90
病院で治療していて家に帰ってこられたわけですが、それは解放される前
でしたか?
解放になる前、2年。その時、春だったかな。
行って、何歳の時に帰ってこられましたか?
何歳の時? 21歳か22歳の時だったと思うよ。病院に3年いたし。
帰ってくる時、一人で来られましたか?
日本人が下関まで連れていってくれた。三日かかったよ。
日本から韓国に来る時、船賃は誰が出しましたか?
そこでくれた、旅費をくれたよ。それで払った。
帰って来る時、そこでもらった作業服は脱いで置いてきましたか?
作業服は持ってきた。
釜山からはどのように家まで来られましたか?
行く時と同じように。
おじいさんが日本に行く前より、家の状態は良くなりましたか?
良くなったよ。私が行って口が一つ減ったから(家族数が減ったから)。
ケガして帰ってきて、仕事ができなかったでしょうね?
仕事はできなかったよ。大変なことはできないよ。今まで苦労しているよ。今
はだから、今でも病院に通うよ。
長崎県
91
1ヶ月間仕事をされていた時、朝何時から仕事をされましたか?
12時間ずつ仕事をしたよ、朝6時。
昼飯はどうしていましたか?
自分が持っていくんだよ。穴(坑内)の中で食べるんだよ。
夕方に出てくれば、洗う所がありましたか?
そう、入浴できたよ。
宿舎は名前がありましたか?
日本語では分からないよ。
宿舎で夕飯を食べますか? 夕飯は腹がひもじくないほどくれますか?
そうだよ。夕飯を食べては静かにそこ座っていて。そして数時間後に寝るよ。
その時には何をしましたか?
ただ座って話をしたよ。
休む日がありましたか?
休日は無い。あ、あった。そうだ! 1週間に一回。
休日は何をされましたか?
その時は他の人たちと酒飲みに行った、外に。
月給でもらったお金を持ってですか?
そうだよ。付き合っていた友人たちと酒飲みに行って、そうやって遊んだ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
92
外に出て行く時は外出証のようなものをもらわなければなりませんか?
何を? 外に? そのまま出て行ったよ。
酒、タバコのような配給はくれましたか?
あまりくれないよ。酒のようなものはくれないよ。酒を飲んでると坑内に入れ
ないようにするんだよ。酒を飲んだら坑内に入れないと、危険だと。
入って行って1ヶ月でケガして、3年間を病床にいらっしゃったでしょう?
その間に病院にいると手紙を書きませんでしたか?
あったよ、病院にいると。ケガして病院にいると話した。
帰ってこられる時、退職金をもらいましたか?
そう、日本からお金を持って帰ってきた。船に乗った。船に乗ってきて、あの汽
車に乗ってきた。お金なしで帰ってこられるか?
炭鉱の名前は思い出せませんか?
九州炭鉱だよ。
その炭鉱にはどの地域の人が多かったですか?
忠清道の人が多かったよ。
一つの班に何人がいましたか?
およそ20人にいた。
班長は日本語が上手だったでしょうね?
そうだよ。だから班長させたんだよ。
長崎県
93
班長はどんな仕事をしますか?
班長は何、ちょっと仕事を命じて、班長が特にする事は無いよ。ただ、どこど
こをきれいにしろと言ったりして。
故郷に帰ってこられたら、面係はその時まで係をしていましたか?
どこかに避けていたよ。私を騙したと、殺すと言ったから逃げて行ったよ。私
にゴム工場だと騙して。その人を捕まえようとしたが、逃げた。私に殴られて
死ぬかと思って。
月給をもらって家に送ったことないですか?
あまり送らなかった。まったく送らなかったわけではない。一ヶ月でケガしたか
ら家には一回しか送れなかったよ。
病院に入院している時は月給をもらわなかったですか?
そうだ、入院しただろう。仕事しないのに月給があるというのか?
炭鉱の坑がいくつありましたか?
坑は限りなくあったよ。一ヶ月で出てきたから分からなかったよ、坑、穴。大き
な山だから。このように穴が一つだよ。炭鉱でかなり入って行くとあったよ。
山があるとどのあたりに坑がありましたか?
下に。そこは山あいの町で、何もない。
そこから村まではどれくらいかかりますか?
しばらくかかるよ。歩いていくよ。バスには乗らなくてしばらく歩くんだ。およ
そ1時間歩いたよ、その程度かかって。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
94
炭鉱があった所が何県なのか思い出せますか?
チャンギヒョン(長崎県)だっけ。
面談・校閲 李秉熙調査官、
1次聞取文作成 韓ヒョンサン、
編集 推敲 注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、権美賢調査官
佐賀県
95
佐賀県
97
キム・サンテ(金祥泰) 男、80歳
1927.12.20 忠南・瑞山郡安眠面正堂里生まれ
1944.3 日本佐賀県明治鉱業株式会社・立山炭鉱
に動員28)(17歳、本人は20歳と記憶)
1945.9 帰国
恐ろしくて逃げられなかった
日本に何歳の時、行きましたか?
韓国の年齢で20歳です。当時、実際の歳よりもっと上になったからな? だから
その歳だったと思う。
何年度なのかは思い出せますか?
その時が、8.15解放前に行ったよ。だから、解放は21歳になって、解放になっ
28) 1943年に多久炭鉱(1936年開坑)の2坑と3坑を立山鉱業所として再開、1963年に廃鉱し
た。多久炭鉱では、鉱長を部隊長、採炭係長を中隊長、選炭夫を分隊長などとする軍隊
式組織を作っていた。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
98
たよ。1年ちょっとで帰ってきたよ。
どの季節に行きましたか?
春に行ったよ、3月に。私は家で農業をして暮らしている人間だ。農作業して家
で仕事をする人間だ。陰暦で、その時、陰暦でそうだったよ。
その時、ご両親は皆健在でおられましたか?
いたよ。兄弟はいなくて。私一人だ。
その時どんな仕事をしていて徴用に行ったのですか?
その時、だから家で、農業をして暮らしていたから、家で仕事をしていたよ。
家であれこれと働いていた。
日本に行けと、誰が徴用状を持ってきましたか?
村の里長が徴用状も持たずに来て、選んで送ったよ。里長が選んで、そうやっ
て送ったよ。
里長が日本に行けと、あらかじめ話をしましたか?
それが多分、何日か前に話したかな? およそ5日前なのか。5日前にもならない
か。
日本に行く準備をあらかじめしたでしょうね?
準備もしなかったよ。行くなら行くということで、準備することがあるのか?
一緒に行った人がいましたか?
一緒に行った人もいるが今は死んだ。正堂里から朴・ジョン○というのがい
佐賀県
99
て、カ・ドン○もいて、もう一人、李・チャン○がいて、この4人が行って皆、死
んでいなくなった。二人は同じ村の人で、もう二人はほかの村の人だった。
朴・ジョン○さんは正堂里に住みましたか?
はい、正堂里に住んだよ。
カ・ドン○さんと李・チャン○さんはどの村ですか?
その人たちも正堂里だよ。正堂里2洞。
面から一緒に行った他の人も記憶していますか?
面から? その人たちも3,4人いるけれど。何人かがいたが、名前は分からない
よ。黄島里まで行かなくて、ヨン・○、チャン・○、この人たち皆死んだ。チャ
ン・○と言ったか? 年齢は私よりはるかに上だ。3人だったが、名前が思い出せ
ないね。
おじいさんは何年度生まれですか? 生年月日は?
(戸籍に)私は27年になっている。その時が27年生まれだよ。
44年度に行ったのなら20歳になっていなかったわけですね? いや、20歳にな
らない? それじゃ20歳にならないとすると何歳かな? 19歳なのか?
44年度ならば17歳ですが?
いや、そうじゃないよ。20歳かそれくらいだよ。幼いよ、それは。とても幼い
よ。17歳ならばとても幼くて。
日本に行って1年ぶりに解放になって帰ってきたのでしょう?
1年ちょっとだよ。解放になって、解放になってから帰ってきたから。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
100
日本に行く時、初めにどこで集まりましたか?
瑞山に行って瑞山で身体検査を受けてから行ったよ。その時、郡庁に集まった
のか、学校に集まったのか、確かな記憶はないよ。そうやって身体検査を受け
てどこかへ行った。釜山に行って連絡船に乗って行ったよ。
釜山にはどこで汽車に乗って行かれましたか?
洪城に行って。
瑞山郡庁には何人ぐらい集まっていましたか?
瑞山で? それでも人がいなくて、私たちの面の人だけが多くいたよ。私たちの
面が10人ぐらいあったよ。正堂里の人と、 あちらの・・。
身体検査を受ける時、100人程度になりましたか?
100人にはならない。10人ぐらいしかならなかった、その時は。その時は何人
にもならなかった。洪城に行ってからも何人になったのか。互いに話をしない
から、分からない。何人が来たのか。
洪城から汽車に乗って釜山に行く時、引率者がいましたか
いた。だが韓国の人なのか、日本人なのかも分からないよ。日本人ではなく
て、韓国人だ。
日本のどこへ行くと話してくれましたか?
日本に、そのまま行ったよ、行く所へ。
どんな仕事をするのか教えてくれましたか?
教えない。ひたすら行ったよ。ただただ引っ張られて行ったんだよ。
佐賀県
101
行かないと言ってはいけませんか?
行かないと言えば、それで済むか?
逃げてしまえばどうでしたか?
逃げる隙があったか? 逃げられないように見張っているのに。
誰が見張りますか?
その時連れて行った人、何人にもならなくて。逃亡もできなくて。
全然身動きができませんか?
うん。恐ろしくて。逃げられないよ。
釜山で一晩寝られましたか?
そこで一晩寝たっけ、寝たよ、多分。寝てその翌日、連絡船に乗って行った。
連絡船は大きいですか?
大きいよ。荷物を8,000個積んで。人を8,000人載せて、大きくて大きくて。
船に他の所から徴用されてきた人たちがたくさん乗りましたか?
うん。一緒の船に乗ったよ。
引率者は何人ぐらい引率をしましたか?
およそ50人かな。それも記憶が定かでないが。それもはっきり思い出せない。
私が日本に行ったのは覚えていて、それ以外は分からない。私が日本に行った
のは記憶していて、炭鉱生活したことだけ分かっていて、それしか分からない
から。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
102
連絡船に乗って日本のどこで降りましたか?
日本のクジュ(九州)だった。そこで降り立って、九州の地に行って。私が行った所が
九州サガケン(佐賀県)。そこでまたソソングン・コシロクン29)、イプサン炭鉱、タテ
ヤマタンコ、それしか分からない。タテヤマ、タテヤマタンコ(立山炭鉱)。
船から降りて炭鉱まではどうやって行きましたか?
歩いて行ったよ。そこから車に乗って行ったよ。日本では既に私たちを出迎え
に来ていた。
炭鉱に入って行って訓練を受けましたか?
訓練は無い、働かなくちゃ。
働く方法を教えなければならないじゃないですか?
炭鉱を見れば分かることだね。ハコ(箱、炭車)に載せて、日本の奴らが載せて、
後を追いかけるんだ。クルマを引っ張って、クルマを引っ張れば、石炭を載せ
29) 小城郡の日本語発音。本来の発音はコシログン。
大正時代の立山炭鉱の姿
佐賀県
103
るじゃないか、クルマに。それで、そこに女、日本の女がいて。女が(炭車を)引
っ張るのではなく、機械を司るんだ。
炭鉱はどのくらい深く入りましたか?
炭鉱はこのように落ち込んでいて。だから、機械で掴んで揚げるんだ、機械で。
クルマがおよそ10個、ずっと並んでいる。機械で揚げ降ろして、全部やるよ。
石炭を掘りにどのように入って行きますか?
働きに入る時は歩いて入るよ。入っていく時、死にかけたことがあった。炭鉱が崩
れて、崩れればそのまま死ぬんだよ。死ぬ運命ではなかったから、生き延びてきた
よ。相当、危険な所だよ。入ったら、雨が降るように、天井から水が落ちたよ。
水が落ちますか?
ぽたぽた落ちて、ぽたぽた落ちれば、ジトジトして。日本の奴らはサキヤマ(先山。
先炭夫)をやらない、サキヤマ。日本の監督がサキヤマだ。その人たちが柱を立て
て、そうするうちに一度死ぬところだった。先山都監督30)がいて、都監督。チラホラ
と坑内を視察しに来たよ、私たちが働いているかどうかを見に。それで雷のように
怒鳴る。また他の層があって、下に降りていけと。降りていくと、降りていくやいな
や、私たちを殴る。それでその時、死ぬところだったが、生きてきた。
早く降りて行かなかったら死んだでしょうね?
そうだ。 その時死ぬところだった。アイゴ! 危いから。アイゴ、本当に危いから、
危険で。坑内で何度か死ぬところだった。私も、坑内で死ぬところだった。来る
途中でも死ぬ目に遭って。連絡船に乗って来て、帰って来る時、密航船に乗って
きて、死ぬ目に遭って、何度か死ぬところだったが、死ぬ運命ではなくて、生きて
30) 大きい監督、代表監督という意味と考えられる。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
104
来た。生きるにはお金が必要なのに。苦労だけしてきてお金もないよ。
石炭を掘りにどれぐらい歩いていけば切羽に行き着きましたか?
そこにはしばらく行って。しばらく行くんだが、1時間は歩いて行かなければな
らなかった。
クルマに乗っていくんですか?
クルマに乗って? クルマには乗らない。歩いて行く。そのまま歩いて行って、灯りを
付けて入るよ。キャップ(cap。安全帽灯)というのがあった。キャップ、頭にこれ位
かかる、それを被って、それを被って働く。それがなければ仕事ができないんだ。
炭鉱に仕事をしに行こうとするなら朝何時に起きましたか?
今ここでいうと、朝、夜明けに早く起きる。今で言うと、5時になれば起きるん
だよ。そうだったよ。5時になれば、仕事しに出かけなければならない。
食事はどのようにしましたか?
腹が減ったよ。食堂に行って食べる。別れて行った。そうでなければ仕事が終
わり次第、十人ならば十人、二十人ならば二十人、バケス(bucket、バケツ)に分
けてきて食べた。ご飯もいくらも食べられなくて。その時は腹が減って。汁に
麺一塊のような物をほぐして入れて、麺類のような物。ご飯は米の飯だ。米の
飯なのに、ご飯を匙で2回すくえばもう無い、少ないよ。それを食べて、すぐ腹
が減るんだ。仕事はつらくて死にそうなのに、腹がいっぱいならば仕事しない
と、だからそのように与えたんだよ。腹が減ったから仕事はどれくらいするの
か分からない。そうやって生きたんだ。
お昼はどのように召し上がりましたか?
お昼も、ベント(べんとう、弁当)といって木の弁当があるだろう。それをこのよ
佐賀県
105
うに包んでくれる。それを持って行って仕事をしながら食べる、お昼の時間に
なれば。
夕方は何時に仕事を終えますか?
出てくる時も、たとえば、ここで5時に入れば5時、夕方には5時に出てくる。
夕方にも仕事をしに入っていく人がいますか?
夕方には入らないよ。ご飯食べようと食事の時になれば交代をする。昼間にこ
のように入って行って働いて出てくれば、夜には入らない。夜の班(夜間勤務
班)もするよ。夜に入って行って、夜明けに出てきて。
2交代でしょうか?
ああ、夕方に替えられれば夕方にして、交代でするよ。
寝るのはどこで寝ましたか?
寝るのは宿所があって、一部屋におよそ20〜30人は寝ただろう。部屋は大きい
よ、タタミ(畳)31)部屋。敷布団が一つあって、掛け布団が一つあって。寒くはない
よ。オンドル部屋は暖かいから。暖かい部屋だからそんなに寒くなくて。それほ
ど寒くなかったよ。済州道より暖かいよ。ソル(草履、わらじ)32)を履いて通う。靴
下脱いで。裸足で、ソルを履いて通う。藁をよったソルというのがある。
私たちの草鞋のようなものですか?
草鞋より良くない。あれも藁で作る。
31) 板の間に敷く日本式ゴザ。中に藁を5cmほどの厚さに入れて上にゴザをかぶせて縫った
もので、普通幅3尺に長さ6尺程度の長方形の形で作る。
32) 日本語の発音である「ゾウリ」から出た言葉だと考えられる。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
106
坑内は寒いですか?
寒くもなく、暑くもなく、服を着る
こともなく、裸足で通うよ。そこで
も裸足で通うんだよ。それでも寒
くないよ。
石炭はどのように掘りました
か?
ツルハシで掘ったよ、それで掘っ
たよ、真っ黒な物を。つるつると
した石炭、真っ黒で。日本の奴らの言葉でボダ(ボタ)33)だよ、ボダ。掘り出して
来ると、そこに選ぶ所があった。石炭を選んで、そこの坑内で載せてやればよ
い。クルマ(炭車)に載せればいいんだ。私たちは坑内でハコに載せてやれば終
わりだよ。載せてやれば、そこからみな捉えて揚がるから。
休む日がありましたか?
休むこともなかったよ。日曜日も仕事をした。
仕事をしていて具合が悪ければ休むことができますか?
体の具合が悪くて具合が悪いと話すと、話してひどい目にあう奴もいて。だから
我慢して言うこともできなくて。本当に痛くて我慢できない奴は話しただろう。
監督は韓国人でしたか?
韓国の奴、若い奴も一人いた、監督が。その人とは話もしなかったが。毎日事
務室にいるから話ができるか? それ以外はみな日本人だよ。
33) 石炭以外の不純物
日本のわらじの一つである「ゾウリ」
(草履)、最近の物
佐賀県
107
朝起きろと起こす人は誰ですか?
起こす人がいるか? 朝、私たちが起きて。私
たちがみな自分で起きたんだよ。時間に合
わせて起きるのさ。遅れればひどい目にあ
うんだ。だからその時間になれば起きたよ。
おじいさんより先に来て仕事をしてい
た韓国人がいましたか?
韓国人もいるよ、いたよ。北側の人が多か
ったよ。以北の人が多かったよ。
おじいさんが行った後に来た人もいますか?
来なかった。他の所には行かないから。私が詳しく知っているのはそれしかな
いから。他のことは思い出せなくて。行ってきたところくらい分かる、私が行っ
てきたこと。他のことはよく分からない。
逃亡する人もいましたか?
逃げたら死ぬ、捕まると。
日本語は上手でしたか?
日本語? 皆、日本語を話しても、私たちは日本語が分からなかった。日本語が
話せなかった。
月給はもらいましたか?
お金ももらえなかった。くれなくて。何か家に送ってあげるとかなんとか口では
言ったけれど、一回も送らなかったって。送ってもくれないで、お小遣もない。
ボタが積もって山になった。これ
をボタ山という。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
108
腹が減っても何か買って食べる事もできないでしょうね?
できない、そうやって生きた。
炭鉱の近くに村がありましたか?
ああ、あったよ。炭鉱からは見えなくても出ていくとあったよ、村が。
村に出かけられましたか?
出かけなかったよ。出かけられなかったんだよ。監獄生活だったよ、外出もで
きなくて。
炭鉱に空襲はありましたか?
空襲も一回さっと! 通り過ぎるけれど、通り過ぎても被害はなかった。
おじいさんの日本の名前は何ですか?
日本の名前? 私の名前がサンテ(祥泰)で、カナイショウタイ(金井祥泰)とい
う。カナイショウタイ。その前はキムショウタイといった。日本の奴らが姓まで
変えてショウタイと呼ぶときカナイと呼んだ、カナイ、カナイはクムジョン(金
井)だよ。カナイショウタイ。
月給ももらえなかったのに、食事代はどのように出しましたか?
食事代は、ただで食べたよ。出してもたぶん職員が出しただろう。食事代は出
さなかったよ。
そこにいらっしゃった時、家に手紙を出しましたか?
家に? 家に手紙は出せなかったよ。そこがどこだと思って手紙を送る? 連絡も
佐賀県
109
できなかったよ。ご飯食べようとするとコヒャンイェベ(故郷礼拝)34)をしなけれ
ばならない。ご飯食べようとすると、故郷へお辞儀して、座ってご飯食べて。
期限なしにずっと仕事をしなければなりませんでしたか?
そうだね。働き続けるしかない。仕事しかない。いつまでするのか。解放にな
ったから終わったよ。その時、解放になった後にも、お前たち行きたい人は行
け。行きたくない人はそのままいろ。行きたくない人は働けと。行きたい人は
家に帰って。でもそこにいたって働くか? そこで暮らすといえば支度してくれ
る。そこで暮らす準備をしてくれると言って、そこに住み着かせようとした。
解放になったのはどのように知りましたか?
そいつらがみな話をしてくれたよ。日付も帰りながら分かったよ。みな解放に
なったから家に行くと。
解放になってからは働かなかったのですか?
解放になって働くか? しなかったよ。そのまま家に帰ってきたよ。解放になるや
いなや帰ってきたよ。密航船に乗ってきたよ。
密航船に乗ろうとすればお金が必要だったでしょ?
そうだ。密航船に乗るならお金を渡さなければならないよ。
お金はどこから出ましたか?
帰るとき、持っている人も少しあって。ない人はどうにか工面して乗って。
34)
訓練所などで食事をする前に、故郷にいる両親兄弟に向かって祈祷を捧げること。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
110
船に乗りにどこに来ましたか?
歩いて。それが船に乗る時まで、分からなくて。
誰が密航船を手配しましたか?
日本語が上手な人が、大きな船を捜し歩いたよ。
密航船に乗ろうと何人で組を組みましたか?
そのままみんな乗った。組んだのかどうかも分からずに。そのまま、そのまま
ついてきたよ。位置が分かるか?
密航船の大きさがどれぐらいでしたか?
かなり大きいよ。風に遭って死にそうな目に遭ったりしながら。
密航船に乗ってどこに到着しましたか?
釜山で降りたよ。だからテマド(対馬島・ツシマ)で一晩寝たっけ。来る途中、一
晩寝てそのまま渡ってきたんだよ。
密航船に何人ぐらい乗りましたか?
何人ぐらい乗ったかな、300人ぐらい乗ったね。
解放になって帰ってくる時、炭鉱からお金を一つもくれませんでしたか?
ないよ。お金もなかったよ。
釜山から家にどうやっていらっしゃいましたか?
釜山から? 車に乗ってきたよ、多分。ご飯ももらって食べたよ。食べなくちゃ。腹が
減って、ご飯をちょっとくれと言って、もらって食べたよ。もらって食べてきたよ。
佐賀県
111
汽車に乗って洪城で降りてから家までどうやっていらっしゃいましたか?
歩いてきたよ。当時、車があるわけなかったし、 歩くのが普通だった。そこに
車があると思う?
家に来られて秋夕(チュソク、お盆)を過ごしましたか?
そうだよ。 早く来たよ。帰ってきて田舎(村)で働いた、互いに挨拶して。
村に日本に行った他の人たちが来ていましたか?
他の人を見たら、行ってきて、逃亡してきた人もいたよ、多分。逃亡してきた
人も。私たちは規則通り、逃亡もできなくて、そのまま行ってきた。
おじいさんは炭鉱に1年ほどおられたのですね?
1年ちょっと越えたよ。
日本政府や韓国政府に対して何か言いたいことがありますか?
私たちは言いたいことがあってももうないのと同じさ。自分がもう死にそうな
んだから。私は体が痛くて病院に通って。体が不自由で。私は今79歳で、もう
80歳だよ。長生きしなきゃね。でも体があちこち痛くて。チムジルバン(韓国で
近年、都市部を中心に急増している、50〜90℃程度の低温サウナを主体とし
た健康ランドの一種‐訳注)にもよく行ったりするよ。でも効果がなくて、ここ
が痛かったり、あそこが痛かったりして。
面談・校閲 金瀅烈調査第2チーム長、
1次聞取文作成 チョ・ミンジョン、
編集 推敲 注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、權美賢調査官
面談後記
2005年10月19日、忠南・泰安郡南面事務所で行われた面談で、非
常に詳しい記憶で話をしてくれた。面談対象者が多く来て待ってい
る状況の中で、落ち着いて待っていて面談して下さり、多くの同行
者の名前も明らかにして下さった。おじいさんは日本から提供され
た、いわゆる「名簿」にも登載されていたが、名簿上は動員時期が
1、2ヶ月遅く記載されている。
佐賀県
113
キム・ヒョング(金絃九) 男、80歳
1927.5.28 忠南・瑞山郡南面榛山里生まれ
1944.10. 日本佐賀県明治鉱業株式会社・立山炭鉱
35)に動員(18歳)
1945.8
解放後帰国
帳幕が取れたときに打たれ、
そして腕が落ちた
おじいさんは何年度に生まれましたか?
1927年生まれ。
創氏をどのように読みますか?
その創氏?、クムボンと書いたね。ああ、ボン(本)だよ。カネモト(金本)と読
むよ。
35) 1943年多久炭鉱(1936年開坑)の2坑と3坑を立山鉱業所として再開。1963年廃鉱した。
多久の炭鉱では、鉱長を部隊長、採炭係長を中隊長、選炭夫を分隊長などとし、軍隊式
組織を作った。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
114
ヒョングはどのように読みますか?
ケンキュ(絃九の日本語の発音)、ケンキュと。
当時、住所が瑞山郡南面榛山里512番地ですね?今も昔の住所地で住んで
いらっしゃいますか?
うん。今も泰安郡だよ。泰安郡。泰安郡からあの瑞山が分離されたのが、10年
を越えるよ。泰安郡はあるけれど。
日本に行った時が何年度ですか?
分からないよ、それが。解放になる前の年に行った。
行って何カ月程度おられて帰ってこられましたか?
およそ10ヶ月。冬に行ったと思うが、綿入れのパジ・チョゴリを着て行ったか
ら、多分10月末だろう。
行った時、お歳はいくつでしたか?
18歳だったよ。私より年上で財産がない人だけ連れて行かれたようだ、その
時。財産がある人は除いて、ない人だけ、その若い人をみな送ったんだね。
当時、家族関係がどうなっていましたか?
長男だよ。家族が6人兄弟だったが、皆、いたよ、弟たち。弟1人と、妹が下に3
人で、その後に弟が1人。
兄弟みな幼かったでしょうね?
みな幼かったよ。
佐賀県
115
おじいさんは学校に通われましたか?
学校は通わなかった。兄弟たちも通わなかった。
お父さんは何の仕事をなされていましたか?
農業だよ。何、辛うじて暮らしていたよ、小作だよ。
徴用に行く時、だれが家に尋ねてきましたか?
行く時に? 行く時には徴用だという通知が来て。通知が来て、瑞山に行って身
体検査を受けて、何日に来いと言われて、行って。その時は泰安郡が瑞山郡だ
ったよ。今は泰安郡だよ。
だれが徴用状を持ってきましたか?
面の書記が、面事務所から来て、里長がそれを持ってきてくれた。そのころは
区長36)だった。
区長の名前を思い出せますか?
区長? そいつは文・○○だよ。文・○○
おじいさんより年上でしたか?
上だったよ。すでに死んだよ。私より14歳上だよ。ああ、死んでおよそ7〜8年
しかならないけれど。その時、私たちが行く時には、その人の名字。私たちの
36) 日帝時代、各村を一つの区域にしてその区の長を区長と呼んだ。今の統長、里長がこれ
に該当する。日帝時代に区長は最末端行政員で、朝鮮総督府→道庁→郡庁→邑面事務所
→区長として業務がすすめられた。区長は村の事情を一番よく知っているから、警察や
会社職員らと同行して、直接村人らを動員するのを手伝った。また、強制動員対象者は
区長の個人的な判断で決定される場合があったので、村人から怨まれることもあった。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
116
村内で6人行ったが、榛山。今は分区だが、その時は単区でしたよ。単区から6
人行ったけど、今、生存者は私1人だけだよ。榛山2区だよ、今は。
一緒に行った6人の名前を思い出せますか?
名前は、あの6人が、榛山区から6人で、みな分類されて行って、2人ずつ、1部
隊に2人ずつだけ行くようになったよ。それで、私と一緒に行った人がジョン・
○という私と同い年になる人、金・ジョン○と私が2人で行って。他の人も別の
部隊に行ったよ。名前は皆知っているよ。金・ジョン○、成・ギ○、そして 成・
オク○、金・ヨン○、玄・ジョン○。
この方たちは、おじいさんより年上でしたか?
みな、上だよ。ジョン・○だけが私と同い年だったよ。他の方々は年齢が上だ
よ。今は単区から分区になって1区だが、皆、死んだよ。それで、別の人が6人
いたのに、6人が皆どうなったのか分からない。それは2人が続いて、2人ずつ
移動したから。2人ずつだけ1部隊に送ったんだよ。1人では送らなかったよ。
面事務所に6人いたけど、6人がみな、2人ずつ行ってきたんだよ。3人も来なく
て、残って監禁された。一緒に部屋にいたのは6人だよ。
部屋に一緒にいた人たちは年上ですか?
上だよ。去年まで見かけたが、その人、1人だけ長く生きたよ。今年に入ってか
らは分からないよ。見かけないよ。その人は達山里の人だったが、もう何人残
っていたか。6人が一つの部屋で寝たよ。一つの部屋で、およそ10ヶ月の間一
緒にいたから分かるよ。
郡庁に行って身体検査を受けましたか?
身体検査だと言ったよ。何、その身体検査は言葉だけで、身体検査では何も見
ない。ただ「さあ行け、さあ行け」、「合格、合格」と言って送ることだよ。
佐賀県
117
その翌日どこへ行きましたか?
違う。あの、その日に身体検査を受けて帰ってきて、一晩寝てその翌日、また
出てきて、そこから車で洪城に行って降ろしたんだ。
バスに乗っていきましたか?
バスではなくて、トラック。その時は木炭車37)、後ろにタンクを積んで。それで
洪城に行って、洪城で列車に乗って釜山に行ったんだよ。
最初、行く時、期限がありましたか?
期限もないよ、無期限で行ったんだよ。
月給をくれるという話は?
何を? そんな話もなくて。行ってみると炭鉱で。炭鉱に行けば一日の日当が3円
だったっけ? 3円。そう、3円。
日当3円で何が買えましたか?
3円ならば、それは分からないよ。どうなったものか。3円出るが、そこから食事
代を除き、何かあれこれ除かれて、私がもらって使えるのは、いくらになるか
分からないよ。
釜山に行ってから、どうしましたか?
釜山で一晩寝たよ、 それで連絡船に乗って。
6人一緒に連絡船に乗りましたか?
ここの6人が乗ったのは、後ほど部隊に入って一部屋に一緒になって分かった
37) 木炭ガスを燃料にして動かす自動車。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
118
よ。その船に乗ったのか、乗らなかったのかは分からない。みな秘密で行った
から、分からなかった。
郡に集まった人は何人でしたか?
その時は、分からなかったよ、考えてもいなかったから。でも何百人かになっ
ただろう、瑞山郡内で。瑞山郡内ではなくて、洪城で列車に乗ったのは牛江、
唐津の人もいたから、その人数は分からないよ。それが忠清道部隊だろう。そ
ちらの方に行くと、黄海道の甕津部隊、慶尚道は5部隊。また、忠清道部隊の
三つの部隊に分けていたよ。
洪城から釜山に行く時、逃亡した人はいなかったですか?
逃げる? それは何人か集まって逃げたよ、釜山で。洪城から釜山に行くのに4日
寝たんだよ。4晩、寝たよ、列車の中で。ああ、列車でそのように4泊4日間行っ
たんだよ。ご飯も用意してあって、持ってきたおにぎりをくれたよ。ドアを開け
てくれないから降りることもなく、宿泊もそのまま列車で。
お手洗いもそこで皆しましたか?
うん、列車だからね。
門の両側で人が見張っていましたか?
見張っていたが、鍵も閉められていたから、どうなる、閉めてあったから。面か
ら面カカリ(係り・担当者)38)が郡に引き継いで、郡からはその時、郡、その何、
警察署の警務官という人が来て。警武官とノムガガリ39)と、2人が引率したと思
ったよ、警務官がして。
38)
ここでは労務担当者を意味。39)労務係。労務業務担当者。
39) 労務係。労務業務担当者。
佐賀県
119
労務係は朝鮮人ですか?
朝鮮人だよ。あの何、警武官だけが日本人。こうして行って、釜山に行って引
き継いだ。
警務官と労務係の名前を思い出せますか?
思い出せないよ。
引率されて汽車に乗って釜山まで行くのに三日かかったのですね?
はい。三日で行ったんだよ。それほど、長くかかったよ。
釜山に行って一晩おやすみになりましたか?
連絡船に乗って。そう、連絡船で一晩寝たよ。
日本のどこに到着しましたか?
その時、それが分からなくて、どこなのか。
他の人が話していなかったですか?
話していたよ。とにかく、そのような状況で、そこに行って、何が何だか分から
ず、そのまま行き過ぎたよ。降り立って、その日、船から降りてからは列車に載
せられた。列車で一晩寝て、そのまま。
列車で一晩寝ましたか?
うん、まだ出発しない列車で眠らせたよ。そのまま寝てしまって、いつ出発し
たのか分からず、降りろと言われて降りたのが、クジュというところ。九州、九
州炭鉱、ザハヒョン(佐賀県)炭鉱と言っていた。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
120
炭鉱の名前は何ですか?
クジュ? クジュ。その時、ザハヒョン。北、あの村の名前まで言うと、プッタグ
(北多久)町。ソソン(小城)。プッダ(北多)、プッタグジョン(北多久町)、イプサン
炭鉱(タテヤマ炭鉱)と言ってた。そうやってそこから、皆、連絡船から引き継い
て、日本の奴らがまた受け取りに来ていたんだよ。行ってみると、その人たち
の腕章には、ミョンチ(明治)鉱業株式会社と書いてあった。そこは知る人ぞ知
る所だと。そこでは、何か学校で学んだこともあったし。私は明治鉱業株式会
社と言って、良いと、良い所に行くんだと言ったが、行ってみると、その炭鉱は
明治の頃に操業していたが、廃鉱になったのを再修理してまた始めたと言って
いたよ。それで明治鉱業株式会社とも立山炭鉱とも呼ばれた。明治鉱業株式会
社とも呼ばれたので手紙を書く時は、その両方書いても届いたよ。
手紙を書かれましたか?
手紙のやり取りをしたよ。手紙はその時、私が主に書いたんだよ。
明治立山炭鉱の石炭を選別する選炭場
佐賀県
121
学校に通わなくても文字をよくご存じだったんですね?
学校には通わなかったんで、ハングルは今でもよく分からない。漢文は少しだ
け分かる。それで漢字で全部書いて出した。それで、帰ってくる時には、歩い
てきたね。歩いてハーグァン(下関)という所に来たよ。
ひょっとして初めにおりたところも下関ですか?
初めは、下関ではないよ。それが、連絡船が着くものと思って、あの何、小さ
い埠頭を越えてきたよ。それが分からずに、どこに降りたのか私は分からなく
て。どこか分からないよ。
案内をしに来ていた人たちは腕章をしていて、明治鉱業株式会社と書いて
あったのですか?
いや、あの何、連絡船で明治鉱業株式会社という腕章を見たんだよ。行ってそ
の部隊、その炭鉱に行ってみるとその人たちが労務係、それが皆いたんだ。労
務係と引き取りに来たというわけ。労務課長と労務係が。
到着してすぐに仕事を始めましたか?
次の日から働いたよ。
どこで寝ましたか?
寝るのは、そのまま、あの何か木で、このようにベニダ40)でこのようにして、下
段もこのようにあのダデミ(畳)41)を敷いて。また、上段に畳を敷いて、人が一人
立つほどの高さにして。ここを二段にして、そこで寝る。
40) ベニヤ板。ベニヤ(veneer。薄くした板)。≒ベニヤ板
41) 板の間に敷く日本式ゴザ。中に藁を5cmほどの厚さに入れて上にゴザをかぶせて縫った
もので、普通幅3尺に長さ6尺程度の長方形の形で作る。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
122
宿舎はどのようになっていましたか?
長くなっていて、廊下がある。両サイド(side)に部屋が、間なく並んでいて、ず
らっと全部、このように両サイドに。冬の下着を着て、畳を敷いて、そこで寝る
んだよ。間なしで、そのまま寝る。間がないんだよ。
畳がずらっと敷かれていたでしょうね?
うん、畳が両側に。家は一棟で、門は両サイドにあり、出入りすることになってい
て、入って行って、部屋に入って行き、下段に入って、梯子で上段に上って・・。
何人で寝ますか?
およそ十人ぐらいで寝たよ。この上段で寝て、下段で寝て、別の、他の所でも
寝て。前の家から出て行った瞬間、行ってこのようになったから。一緒に行っ
た人はそのゴーナイ(坑内)だから全部みな知り合って、過ごしたよ。南面の人
ならば、南面の人同士互いに知り合って過ごしたから。そして、寝床は一緒で
はなかったよ。
解放になってからはどのようにされましたか?
帰ってくる時には8.15解放、8.15ですよね?日本に行って8.15解放になったとい
って、二日間休みました。二日間仕事しなくて、3日目になった日からは仕事に
出てこいと言われて、また炭鉱で石炭を掘ったよ。ここから出かけた指導者た
ちは仕事もしないで、朝鮮に帰る工夫だけしていたようだ。それで一カ月間、
その日まで仕事をして「お前たち、行くことになった」と、それでその日は仕事
しなかった。昨日まで仕事をして「今日はお前たちの行く日だ、今日行くから全
部荷物取りまとめろ」と。荷物をまとめてからは、夕飯を食べて、歩いて下関
という所まで行ったよ。下関に徹夜で歩いて行き、船に乗ったんだよ。密航船
に乗って、私は負傷してこのようになったんだよ、これが。
佐賀県
123
最初、11月末ぐらいに炭鉱へ行ったから寒かったと思いますが?
部屋に暖炉があったよ。部屋の暖炉。炭鉱だから石炭を盗んで暖かくして、布
団は一人当たり一つずつ、敷布団一つ、掛け布団一つ、そのようにくれた。九
州の土地はそんなに寒くはなかったよ。雪はなかった、暖かくて。寒くなく、寒
くないよ。
炭鉱でどんな仕事をしたのですか?
炭鉱の仕事、その石炭を掘ったよ。初めてしたよ、その仕事。キャップ( cap。キ
ャップ。安全帽灯)というのを被って。キャップをして、ひもでここに*** 挿して灯
せば、そのままここに付くから、そうすれば、みな映って明るくなるんだよ。
作業服を別にくれましたか?
服もくれなかったよ。私が着て行ったものだけ。その帽子だけ、キャップとい
う電灯を付けた帽子だけ与えられて、狭いところをこのようにかがんで42)、こ
のように当てて列で行って、このキャップでこのように挿すとこのようになる、
ガスで付けて。履物もなかったよ。わらじを買って履いていた。ソレだと言っ
たかな? 草履(ぞうり)が、何かわらじだとあの、それを履いては石炭を掘った
から。だから足は裸足ではなかった。素足に草履を履いては石炭を掘ったよ。
行く時にわらじを履いて行ったよ。わらじを履いて木綿、朝鮮綿を入れたのを
くれて、歩いてみな行ったよ。ここから行った、綿入りパジ・チョコリのチョゴ
リをやぶって羽織って働いたよ。
働く時、手袋をくれましたか?
手袋がどこにある、履物もないのに。履物も私がお金で買って、履かなければ
ならない。月給で、それを。
42) 炭鉱の切羽の高さが低かったことを表現。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
124
差し引かれますか?
うん。ただでくれるものではなくて、私がお金を出して買わなくてはならない
んだよ、それは。
坑内まで歩いて入りますか?
歩いて入らなくちゃ。そしてまた時間が合えば、石炭を載せて行く車に乗って
そこに入るんだよ。
朝、何時に起きられましたか?
何時に? 5時に起きたようで、ご飯を6時に食べて7時から仕事に出かけたよう
だよ。その時行ったら、暗い時に仕事へ出かけたから。
ご飯はどこで召し上がりましたか?
食堂に行って、米櫃をもらって配食して食べたよ、私たちが配食した。どんぶ
りは二個ずつ以外にはくれなかった。茶碗一つ、おかずのどんぶり一つ、この
二つしかないよ。
ご飯と汁を持ってくる人が別にいましたか?
うん。それは何人かいたよ。今日この一部屋ででも、今日出て行く人がいて、
出て行かない人もいたからね。行く人だけご飯を何人分か持ってきて、その日
のご飯が出てくるのが、みな規定されていて。その票があって、それを持って
ご飯をもらいに行けば、それを見て、何人だからと言って何人分をくれる。で
も、おかずが二種類もなくて、朝、夕は汁で、味噌、味噌汁だった。
他のおかずは?
ないよ、お昼はタックァン(たくあん)一つ。朝、夕は汁一杯。昼にはタックァン
一杯。
佐賀県
125
お昼はどのようにされましたか?
そりゃ、だからお昼は、行く前に朝飯を食べて、弁当を包んで持って行く、木
でできている、ベント(べんとう・弁当)、それ。その木の箱にまたその上に木
で覆って、家からそれを持って行って、歩いて行き、時間になればご飯を食べ
る。時間になれば私たちが食べる。
誰か時計を持っていなければなりませんね?
時計がどこにあるんだよ? 大体の時間で食べたよ。一度入れば出てこられないからね。
その中で小便もしたでしょうね?
そうだよ。大便をするなら出てこなければならないが、そこから歩いて出てく
ることができるか? 時間だけ合わせれば、車に乗れるが、時間を合わせられな
ければ、車に乗れないよ。小便はそのままその中でしたよ。
石炭を掘る人がいて、積込みをする人がいたと思いますが?
鉄路に置いて引っ張って行って掘って、それに私たちが積み込みをする。押し
てどこかまで出せばこれが、二つの鉄路があるから、空の車が行って、積み込
んで、このように、間隔を見て、このように通しやって行く。それが炭鉱の仕事
だよ。こういうところに入ったんだ。道がこのように開いているから、部隊に入
れば、このキャップを被って、次にここからその土地の大きな山の頂上にワイ
ヤーにマキ(巻き。巻揚機)が置いてあって、ワヤ(ワイヤー。wire)で捉えて行っ
たり来たりする。そして電気ケーブルをこのくらいにしておいて、坑内に入っ
たよ。それで電気で、つるはしで開けた穴を削岩機で連結して、発破をするん
だ。発破したら私たちはシャベルですくって積込みをするんだよ。
発破作業とは、穴をあけておいて火薬を入れることでしょう?
火薬を入れて。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
126
発破作業をしてみられましたか?
そうだよ、あの日本の奴らのサキヤマ(先山)という人、その人たちが全部して、私た
ちは補助の役割だけ。この削岩機はとても重いから、こんなふうに二人で持って穴
を開けて、弾薬(火薬の意。訳注)装置をする、それも誰でも行うのではなくて、それ
をやりにくる人がいる。その人が電線を伸ばして、外に遠く出て電気でやる、それ
を。2回、3回行ってやる時には普通、急いでいる。さらにある人は鼻が詰まって目
も開けられず、避難していて爆発したら、また行ってまた繋いで行う。(トロッコが)
およそ5台や6台が出てきて、また、5台、6台残ってまた行って、それを繋げて爆発
させて、そのようにやっていたよ。炭鉱で働いたが、18歳、19歳になった人が、私に
やってみろと。のこぎりとツルバシ(つるはし。ツルハシ)と、それを寄越して、私が
それで何をやれというのか分からなかったが、それをやるならハシラ(柱)、柱をた
ててこそ、成果が出てくるといっていたよ。ところでそれをやれと言ったが、やらな
かったんだよ。行って6ヶ月の間いたが、私にやれと言った。
初めにはどんなことしましたか?
ずっと掘る仕事をしたよ。みな私たちが積んで、押してここに置いてやる。積
込んで行くんだよ。行ってヒモをかけなくちゃ。行ってこれを一杯にして、そこ
でピン(pin。ピン)を持って行って、このように挿す。全部、みな信号で。
一日に石炭をクルマ(車。炭車)で何台積み込まねばならないとか、そうし
たことはなかったですか?
なぜ、ない? それがあの積み込む人と組んで全部を満たしたといっては、日本
の奴ならこれを一つと認めてやる。日本の奴がやる時には身動きできなくて、
その日本の奴が出てこなくて、韓国人がやるならば、嘘をついて少し易しくや
るんだ。ボダ43)はボダ同士、土ならば土同士、このようにそれぞれ分ける。そう
43) ボタ。石炭でない他の不純物。正確な発音はボタ
。
佐賀県
127
するともうそこで、サオドリ(棹取り。坑車操縦手)がいて。その人たちは技術が
あるから、そこで働いていた。ここでは、テンカンキ(転換機)を回せば良い。
ボタだけ集めておけば山ができるでしょう?
山ができるよ。そうだ、このように大きい谷間、山頂にワイヤーで引っ張って
行って、降ろす。石炭は石炭で、あの土は土でこのように積んでおくんだ。
夕方は何時に退勤をしましたか?
その時は時間を問わず、行こうと言えば行くんだ。時計があるか、何がある。一日に2
交代だから。朝に行った人は昼間に行って寝て、昼間に仕事した人は夜に寝て、続い
て交代で。坑内は仕事を休まないから、ずっと入って行かなければならないから。
坑内で息ができるようにパイプのようなもので空気を入れてくれるのですか?
そうだよ、風で全部それを。その機械を回すことで削岩機とか、そのようなも
のを、このコムプレサ(コンプレッサー。圧縮機。compressor)で、ここに風を、
この風筒に入っていって、その風で全部引き込んだ。
1900年代初めの日本の炭鉱の姿。
石炭を積んだ炭車を馬に曳かせている。
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それを作動する人は技術者ですか?
技術者は全部日本の奴ら、日本の奴らと一緒に仕事をしたよ。日本人の言うが
ままに、仕事をしたよ。
朝鮮人は石炭を掘ったりクルマを押したりする仕事だけしましたか?
違う、その人たちも一緒にやるんだよ。発破作業は技術者その人、日本の奴ら
がする。日本の奴が1人いるが、日本の奴1人で何ができるか? 人を連れて行っ
て、この設置する電線を全部繋がなくちゃ。
仕事が終われば全身が汚れるでしょうに、どこか入浴する所がありましたか?
そう、浴場があったよ。みな、真っ黒に、目、目のほかは真っ黒だよ。それ(キャッ
プ)を返却しなければならない。返却して牌を持ってこなくちゃ。それをなくせば
また、キャップを被れなくて。そこで浴場というのは、くそっ、人が10人くらい入
れるだけのところだ。そこにおよそ40〜50人を入れるんだ、風呂桶のように。
帽子はどのようにできましたか?
何が、帽子? 帽子は紙でできていた。紙だが、雨が降って天井から水が落ちて
くると、完全にその帽子がペチャンコになる。そのペチャンコになった物を乾
かして、また使って、また使って、そうやっていたよ。帽子は一つ、一つだけ支
給を受ける。帽子一つ支給を受ければ、そいつだけ被っていく。 そこにキャッ
プをこのように付けて、これをもってこのように挿せばよい。そして、行く時、
出る時に、行ってここに返却して牌をもらう。
近頃工事現場で使うプラスチックで作ったものではないですか?
それじゃない、紙だよ、ボルガミ44)。色塗りもしてなかったよ。そのまま、どす黒い
44) ボール紙。藁を原料に作った黄色で厚い紙。板紙。
佐賀県
129
ものだよ。でも、それは私たちだけしたのではなく、日本の奴、先山という人もし
た。あの人たちも何かわらじ、ワラジ45)を履いていた。あの人たちも全部してたよ。
宿舎を日本語で何と呼びましたか?
日本語でその何、ハンバ(飯場。労働者現場宿舎)と。ご飯を持って、もう誰でも
行ってご飯を持って、持って配食して分け合って食べるよ。どんぶりを持ってき
て下さいと言うと、くれるよ。食器は二つ、1人当たり二個ずつ持っているんだ。
食べてから食器を洗いに行かなければなりませんね?
洗いに行かなければならない。
私物箱がありましたか?
45) 草鞋。わらじ。藁で編んだ(韓国の)わらじに似た履物。つま先の端の穴に挟んで履く。
福岡県地方の労働者現場宿舎。今は新しい家が建てられている。
(調査1課李秉熙調査官撮影)
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130
私物箱が何、何か置いとく物があるかよ? 荷物があるかよ? ここから持って行った
物を古い風呂敷に包んで持って行った物、風呂敷で包んであれば良いよ。安眠島
の人たちはお金持ちなのか、それでもトランクというものにまとめてきた。これ、そ
の中に入れて持ってきた人たち、お金のある人たち、見てみると教員も、私たち部
隊に唐津の人たち、教員もいたよ。その職員たちがその教員の人に本をちょっと貸
してと。本をちょっと貸してくれと、読んで返すのも見たよ。
教員らに職員が本を借りたんですって?
うん、借りて読んだ、職員たちが、教員の本を。
先生たちがどのようにして徴用に行くことになりました?
それが財産がない人だけ、バック(back。後を見てあげる人)がない人だけ行っ
たから。今でもカ・○○と言って、面の書記1期生だよ。1期生ならば軍隊に行
く人なのに、その人も来ていたよ。地方書記1期生ならば1年だけもっといれ
ば、軍隊に行くんだよ。だから私より歳が3つ上だったよ。それで、行きなさい
というから仕方なく来たんだよ。
仕事が終わると宿舎で何をして時間を過ごすんですか?
やることは寝るだけだよ。寝てこそ明日また出て行くんだ。毎日交代していく
からね。休む日は10日に一度。その日はご飯食べて、休まないと。
外に出て遊んだりしませんでしたか?
外に出かけたい人は、市内にもたまに出かけた。そうでなければ何か買って食
べて、朝鮮人が多かったよ。その炭鉱では全部朝鮮人が仕事をしていたよ。
金を稼ぎにきた朝鮮人でしょうか?
それは慶尚道の人たちだよ。その人たちがヤミ(闇。闇取引)商売をしたが。牛
佐賀県
131
も屠って売ったり、何かこのように酒を作って、売ったりしていた。
その人たちの中で炭鉱に仕事をしに来たりもしましたか?
その人たちは分からない。
おじいさんも市内に出かけられましたか?
市内、市内も歩いて行ったよ、何、車は見ることもできず市内に出て行った。こ
こから着て行ったパジとチョゴリをはがして、そのズボンを履いて市内に出か
けたから。何か買って、食べに。
月給はどのようにくれましたか?
日当でくれたよ。半月毎にくれる。満期は1ヶ月だが、満期になると30円だよ。
半月毎に15円。15円ずつで30円を1ヶ月に受け取る。ところで満期を残して、
悪知恵を働かせたり体調崩したりして行けなくなれば、10円与えたり11円与え
たり、なっている数字のとおり、その成績表のとおりのお金をくれたよ。その金
を持って何をするのかと言えば、ワラジを買って履くんだ。ワラジは現金でし
か買えないんだよ。食事代だけここから差し引いて。食事代がどれくらいか分
からない。食事代を差し引いて出てくる。それが3円。
10日仕事をすれば30円ではないですか?ところで15円しかくれないんです
って?
そうだ、30円受け取るんだよ。ところでこれが半月毎に、満期には半月毎に
15,15円ずつだから、30円。1ヶ月に2度休む、2度。
1ヶ月皆勤をすれば30円を受け取るのに、そこから食事代を差し引いてく
れるということですね?
そこから、その出てきた金額から食事代を除くんだよ。一日に3円出て、そこか
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
132
ら食事代を差し引いたんだろう。
月給でみらったものを持って出かければ、何かちょっと買って食べること
ができましたか?
ぜひやろうとすれば、酒を買って飲む。マッコリを買って飲んで、肉を買って
食べて、ヤミで。
牛肉のような物をちょっと買って食べてみましたか?
そうだよ。10日毎に一回ずつ出かけて、それ買って食べたよ。
タバコの配給はありましたか?
タバコは成人にはあったが、未成年にはなかった。もらえなかったよ。私はタ
バコを吸わなかったよ。酒も配給されるが、未成年にはくれなかったよ。
何人当たり一本ずつ与えましたか?
おお、そんなにはくれなくて、この、その酒が出てくる期間があって、清酒が1
本出てくれば、その1本を1カップずつこのように分けてくれるんだよ。
何人ごとに1本ですか?
いや、何人ではなくて、だから行ってそれを一つもらって飲むんだよ、1本。み
なこのように与えるのではなく、誰々、誰々来いと言って、それで与えるんだ。
成年、成年だけ。未成年はタバコもなくて酒もない。
2交代で仕事をするから疲れて外に出かけることもできなかったですか?
外に出かけることができないんだよ。朝鮮人はそのハンバの家にいながら、買
い食いする商売の家に行ってた。
佐賀県
133
飲食店のような所に朝鮮の女たちがいませんでしたか?
それはそこにはいなかったよ。市内に出て行かなくちゃ。10里になるが道もな
くて、歩いて行くことができるか? 10里を行くなら4キロじゃないか。そこまで
歩いて行けば市内だが、そこに行ってきた朝鮮人もいた。
そこに行けば料理屋もありますね?
あるだろう。行ってみたことないよ。
マッコリを買って飲む所は炭鉱の近所ですね?
うん、すぐだよ。お金は、家から持っていったお金があれば飲める。それが部
隊からそこに通う人が仕事をまともにやって通うか? 家からお金を持ってきて
使う人くらいが行くよ。
受け取ったお金は家にちょっと送られましたか?
それが、私が使うにも足りないのに、家に送ることができるか? 私が使うのに
も足りないのに。お金を稼ぎに行ったか? それが無理に引っ張られて行ったの
に、金を稼ぐ考えよりも体だけ健康ならば、それで良いよ。
ご両親は大いに心配されましたか?
心配は言い表せないほどしたよ。私がケガしてからお父さんがいつも心配したよ。
ケガはいつされましたか?
帰って来る時に。
6ヶ月過ぎた後に会社から他の仕事をしろと言われたんですって?
先山をしろと言われたが、私はしなかったんだよ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
134
危険だからやらなかったのですか?
危険なのではない。技術が、私がそれ、そのハシラ(柱)をたてること、それだけ
はやらなかった。アナグリ(穴掘り)は、穴を開けることは全てしたよ。ハシラを
たてることだけは、次の部隊がしたという話だよ。私たちが掘っておけば、発
破の穴を開けることは私が全部して。
発破の火はライターのようなもので付けるんですか?
違う。その機械で遠く離れて。機械で、電気でやるんだ、それを。その監督が
みな持ち歩く。
先山をやればお金をもっと多くくれましたか?
さらに多くはくれなかったよ。
ハシラはどのようにしますか?
木だよ、鉄筋ではなくて。鉄筋でやると崩れて、このように何か落ちてきて、そ
れは技術者が、日本の奴らが全部やるんだよ。大きいよ。しかし落ちてくるん
だ、バラバラと。私は炭鉱をするが、水滴が落ちるように発火の光が。またや
れば崩れて、崩れればこのような木を持っていって使って。汽車のレールのよ
うな奴を、こういう奴(炭車)を行って来ては積込んで、積込んで。まるで空を掘
っているようだった。
仕事をしていてケガした人がいましたか?
ケガした人はいないよ。落盤事故で死んだ人は見なかったよ。ただ一度火葬場に行
けと言われて行ったが、何のために死んだのかも知らなくて、火葬しに行ったよ。
火葬した人はどのようにしましたか?
どのようにしたのか分からないよ。私たちならば、家に送ると言ってたよ。だか
佐賀県
135
ら忠清道ならば忠清道の人は分かるだろうが、忠清道の人ではないから、どう
なったか分からないよ。その部隊で、したから分からないよ。忠清道の人、慶
尚道、黄海道、だからその部隊だけでどのようにしたか分かるだろう。私たち
までは分からないよ。皆で行くことは行ったけれど。
一緒の部屋に住んだ6人は日本語が上手でしたか?
上手に話す人もいなかった。
班長を別に選んだんですか?
班長? そこにその年齢の人はいなかった。
解放になったことはどのように知りましたか?
解放になったこと、それを私たちが知るのは、それがそこに、住民らがいるで
しょう。そのあの何、 だからどこかに行ってくると、酒に酔って入って来て、何
か騒いで踊っていたよ、何歳か年上の人たち。そりゃ11歳、15歳のようだった
よ。だからその人たちが出てきて、酒を飲んでは騒いで、踊って大騒ぎになっ
たよ。そうやって二日が過ぎ、二日間、仕事に行かなかったが、三日目からは仕
事に行けと言われ、ずっと仕事をしたよ。帰る前日まで仕事をしたよ。
解放になっても仕事をさせましたか?
うん、仕事に出て、ずっと石炭を掘ったよ。
ご飯はどうでしたか?
ご飯は食べたよ、いつもの通りだった。
解放になってどれくらい更に仕事をされたのですか?
1ヶ月未満。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
136
解放になって、さらに1ヶ月仕事をした後に家に行けと言われましたか?
行けと言ったかな? 指導者たちが仕事をしないで、どこか行ったり来たりしな
がら、あの何か言ってたそうだよ。それである日、帰る日まで仕事をしたが、明
日行くと、そう言われたよ。その人たちがみなもらっては行こうと言うんだよ。
お金200円ずつ、韓国に帰るのに200円ずつ出して出てきた。200円ずつ出して
出てきたんだ、そこから。船賃として1人当り200円、ヤメベ(密航船)、ヤメベに
乗ってきた、お金を出して。
炭鉱から全部歩いてきましたか?
歩いて、そのあそこ、下関まで歩いて行かなければならないと。案内してくれ
て、それしかなくて、私たちの指導者が案内して。夜通しで歩いて行って、そ
のどこか万歳する所で、朝日が上ってくる所に行って待っていたら船が来た
よ。みな用意してあったよ。あらかじめみなその人たちが船を手配してあっ
て、船に乗れと。だから夜中の宵の口から歩いていって朝日が昇る時刻に、こ
の船に乗れと、そう言うんだ。
帰ってくる時、会社から旅費を少しもらいましたか?
私たちの労賃を、出て行けと言って与えたね。労賃であって月給ではないの
さ。退職金であれ何であれ、月給をくれなくて、その時。その時200円ずつ出し
て、(船賃で)200円さえあれば行けると200円もらってきたが、どうなったのか
分からない。船賃は200円ずつ与えて、そこでお金をいくら受け取ったのかは
思い出せない。
帰ってくる船には何人乗っていたようですか?
何百人か乗ったよ。対馬にそのまま行って。今こういう船が、この中にみな近
寄ってこのように人いっぱい乗せて、小さい木の船です。そして見ると上は、
上に登って行って見ると、そこで暮らしていたが、引越しする人が引越し荷物
佐賀県
137
をクルマだか何かに全部載せていたよ。全部持って行こうとクルマに生活道具
を全て載せていたよ。リヤカーやその何、牛車のようなもの、そうしたものに。
ケガはどのようにしてされたのですか?
帰って来る途中で、風波に遭って、風、風が吹いて雨が降ってきて、外から中
に皆飛び込んで行った。私は2階に行ったが、そこに何かあったようで、その、
その何だ、帳幕が取れたために、そこにぶつかって頭を打ち付けたけれど、そ
こに何か飛んで来て、腕が落ちて。その時は腕が落ちなかったが、それがこの
ようにして打たれて、気を失って死んだようになったが、ある奴が、人がこの
ように死んでいくのに腕を揺さぶって、そうこうするうちに、これがみな落ち
た。腕だけ落ちた。5ヶ月間、月で5ヶ月の間治療を受けた。これは3ヶ月で治っ
たのに、これはおよそ2ヶ月さらに苦労したよ。腐ってしまって、腕が落ちて。
これが完全に落ちましたか?
いや、初めはこれが落ちていなくて、ここだけ裂けていた。いきなり何かぶつ
かってきて、それを掴んでひいたら肉が落ちていって気を失ってしまった。そ
の時。これを持って離さなければならないが、掴んじゃったら、死んだよ(死ん
だものと思ったよ)。そこではどんな人でも死んだだろう、生き残れるなんて思
わない。そこでは1人は即死で、ある広津の人は腰を折って、私はケガして、2
人負傷して、1人は黄海道の人だったが死んで、甕津の人が死んで。唐津の人1
人は私より6歳さらに年上だが、木が折れてこのように当たって。だから当時の
ことが遠くて、何が何だか分からないよ。気を失ったから生き残ったよ、正気
だったら死んだだろう。直ぐに。対馬に入って、しかし対馬に船を着けることも
できない、風波にからまっていて。対馬に入って、治療したよ。対馬に入って、
タンカ(担架)に乗せられて行って、治療したが、そこでみな縫った。ここも縫っ
て、みな縫って。そこから釜山に来た。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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何日くらいかかりましたか?
何日かかったのか、それは分からないよ。釜山に来たら、何か時間が過ぎたと
いって降りることもできなくて。また釜山から洪城まで何時間かかったのか分
からないが、洪城に行ったら洪城も時間が過ぎてだめだといって、瑞山に先
に来た。ここがどこかと聞いたら瑞山だと言って。瑞山の病院と言いながら、
何が何だか分からないよ、私は。そこで父が来てみると、死人同然のようで、
聞いてみると、「これがみな腐って、使えないな、これをみな切って捨てなさ
い」、そう言ったって。お父さんがよく見てみると、こうしたら、この手の上
が、ここが全部見えたんだって。だからお父さんが私をこのように、このように
掴んで来たよ。
一緒に行かれた金・ジョン○という友人の方は最後まで連れてこられまし
たか?
うん、ジョン○と、カ・ジョン○、カ・ジェ○、その三人が炭鉱から一緒に。
生命の恩人ですね?
はい。だけどその人たちは皆、死んだ。死んで15年は経ちました。
帰ってこられる時、船賃を200円出して、お金は一銭も残りませんでした
か?
残ったのか、残らなかったのか分からないよ。持ってきた物に何がある? 私が
持っていった物は服、それを継接ぎして着て、何か履物(草鞋)を履いて働いて
いたが、それ一つだけ包んで持ってきたよ、それ以外、何も持ってきた物はな
い。どこかで服一つを買ってもらって着たか? 買ってくれたのは破れたデビ(足
袋、本来の発音はタビ)、それ一つくれなかったな。結局何もくれなかった。そ
れ一つ履かないで帰ってきた、履かなかったよ。
佐賀県
139
なぜ履かなかったのですか?もったいないから?
もったいないからではなくて、それが無くなればどこか出入りすることができ
るか? 草鞋を履いて通ったよ。私のお金、その労賃を受け取って買った物。そ
れでお金が出て行く貯めることもできない、そこで200円ずつというのを、指
導者がこのように皆くれたからその金で行動したよ。ところで船賃200円を払
ったが、経費まで払ったのか、それは分からないよ、私は。
炭鉱で一緒に写真を撮ったとかそうしたことはないですか?
ないよ。そこで個人写真を撮ることもなかったよ。その近辺に何か、ある人、
指導者が、市内のような所に行けば、写真師がいたかも。その当時はまったく
なかったよ、田舎だから。
帰ってきて、一緒に行かれた方たち同士、会合を持ったりなされました
か?
集まり、その三人だけが会ったりして、他の人たちとは会っていないよ。他の
人たちのことを考えもしなかったから。そのような事は、これがみなお互い親
睦会を作って、他の人はみな全部知り合っていたね。私は死んだものと思っ
て、集まろうと考えもしなかったね。
おじいさんは年齢が幼くて可愛がられたでしょう?
20歳、19歳で帰ってきたね。それが18歳で行って。ところで父子になる人もた
くさんいたよ。息子、父親になる人、白い奴、頭が白い方もいるよ、遠北面の
人たち。
その方たちもお金も稼げないで苦労だけしましたね?
金を稼ぎに行ったか? 彼らも引っ張られて行ったんだよ。お金が何だ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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ケガして帰ってきて、ご両親が心を痛めたでしょう?
傷心したよ。何、これが貧乏な暮らしだったから。当時車なんか通ったりした
のか? 必ず歩いて通ったよ、瑞山。車というのは、昔はなかったんだよ。あるこ
とにはあったが、車に乗るお金がなくて、歩いて通ったんだよ。ここから泰安
まで行くのに近道で通うことだね。
行ってこられてご両親の生活状態はいかがでしたか?
より一層良くなかったよ。何、もっと悪いのが、家だといっても。みな私が帰っ
てくることだけを待っていて、8月なのか9月か、帰ってきたのに。3ヶ月半ぶり
に家に帰ってきたよ 、3ケ月半までは、まだ治らない状態で。
ずっと瑞山病院にいらっしゃいましたか?
うん。 元旦を過ごすために来て、家でそのまま治療をしようとすると、その鼻
汁のような物が出てきて、ここが治らなくて。そうして、また病院に行って10日
間、治療を受けてきたよ。
負傷したためにまだ不便なことありますか?
不便ではないよ。傷跡だけあるんだよ。傷跡だけ残っているよ。ここに、ここが
このように、このように残った。その時もっと酷かったが、それが今はこのよう
に取りはらったよ。
おじいさんが行ってこられた所が明治鉱業株式会社立山炭鉱でしょう?
うん。立山炭鉱とも、明治鉱業株式会社とも言う。手紙をそのように書いて交
わしたけど。
そこにどの位いましたか?
9ヶ月程度になるだろうね。
佐賀県
141
最後に日本政府や韓国政府に言うことがありますか?
話は以前に聞いた話があった。遺族会に通いながら聞いた話があったよ。政府
が補償か何か(*日本から)受けたものを個人に与えなくて、事業資金として使っ
てる、と。今後の生計補填でもしてくれるといったようなのに、それをまだ先
送りしているのに対して、不満ですよ。
面談・校閲 李秉熙調査官
1次聞取文作成 韓ヒョンサン
編集 推敲 注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、權美賢調査官
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面談後記
2006年6月28日、忠清南道保寧市の住宅密集地にある2階建コンクリ
ートビルの2階に住んでいた。広い居間のソファに口述者が座り、夫
人が左側で口述の様子を始終見守っていた。10年程前に脳卒中にか
かり、左半身が麻痺して体が思うように動かないようで、そのせい
か、発音も聞き取りづらかった。しかし、日本に動員された事実に
対しては非常に多くのことを覚えており、日本語を熟知していたた
めか、現在でも日本語を話すことができた。また、口述中は、最後
まで積極的に口述し続けた。
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キム・ギュヒョン(金奎衡) 男、83歳
1924.12.5 忠清南道公州郡灘川面大鶴里生まれ
1943.5.19
19歳の時に日本の福岡県上山田炭鉱46)に
動員されるが、脱走し、佐賀県の建設現
場で働く。
1945.
徴兵対象者になり5ヵ月間訓練を受けたあ
と、解放を迎える
一カ月の飯代が30円だよ
日本に行く時おいくつでしたか?
19歳。
46) 三菱系列の炭鉱で1898年に炭鉱開発が始まり1970年に廃坑となる。朝鮮人強制連行真
相調査団がまとめた資料によると、上山田炭鉱に動員された朝鮮人の数は2,587名であ
る。しかし、金奎衡氏がそれらのどの名簿にも載っていないことから、実際に動員された
朝鮮人の数はもっと多いものと推測される。
(訳注 朝鮮人強制連行真相調査団の収集資料には、上山田炭鉱2,587人の名簿はない)
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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その時どこに住んでいましたか?
ああ、魯成に。住んでいたのは江景(忠清南道論山郡)だったが、日本に行く時
分は魯成国民学校(忠清南道魯成面)を建てていて、そこで働いている時に…。
家族は何人でしたか?
家族はその時、母親と父親しかいなかった。兄弟は女二人、男二人で。
誰が日本に行こうと言ったのですか?
誰が行こうって?魯成面長だよ。私は魯成国民学校の建設現場にいて…、そ
の時は配給制度だったから。米の配給をもらいに行ったら、面長が「日本に行
け、お前、行ってこい」と。
条件なしでおじいさんに行けと言ったのですか?
うん、条件もなしで。それで、わけもわからずそのまま。
そのまま行ったのですか?
そのまま行った。
荷物をまとめてどこそこに来いとかいう話もなくですか?
うん。何の説明もなく。行ってみたら炭鉱だよ、炭鉱。
魯成小学校で働いていて、どこに行ったのですか?
魯成小学校の建設現場で働いている時に、面長が私を日本に送ったんだよ。そ
こに募集員がいた。よくよく考えると募集員だったんだが、その時はわからな
かった。募集員は日本から来た鼻の大きな人で。私は西洋人かと思ったよ。そ
れが日本人だと言うではないか。それでその時、論山郡。郡がどこかというと
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鷲岩洞47)の 事務所。その時は論山郡だった。郡に来て、人員把握をした。全部
で何人だったかというと、55人。
論山に集まった人がですか?
うん。論山郡に55人。で、55人の中で私が一番年下だった。みんな年が25、6
歳くらいだった。
みんなおじいさんより年上だったんですね?
うん。私が一番幼かった。それで、その日は昼食ももらえなくて、夕方になって
論山駅前に連れて行かれたんだ、鼻の大きなその人に。
論山駅にですか?
ああ。論山駅に。それで論山駅に行って車に乗った。車にガタガタ揺られて行
ったのさ。そして大田に行った。大田に行って、ノリカエ(乗り換え)なしで、そ
のまま釜山で降ろされたんだ。
行く途中で人数は増えませんでしたか?
ああ、人数は増えなかった。55人そのままそっくり釜山に行ったら、釜山の、え
えと、今思えば、その時の旅館だよ、旅館。飯をもらった。
その旅館でですか?
うん。飯を食べて気が付くと、明け方じゃないか。飯を食べてそれから旅館で寝
たんだ。それで夜また夕食をもらって、夜飯を食べて、時々人数を確認した。日
本語でテンコ(点呼)。テンコ。そう、それで一部屋に5人ずつ、ベッドのある部屋
を5人で使った。日本語で何と言ったかというと、「総人員5名。ゴメイ(5名)異
47) 当時の行政区域は鷲岩里。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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常アリマス48)。」そうそう、それだ!そうして「テンコ」「テンコ」といって、急い
で就寝になるんだが、その時軍紀が必要だから。船乗り達は言うことを聞かんと
いかんだろ、そうでなきゃ一日中座って、こっぴどく怒られるんだ。
その時、おじいさんは日本語を話せたんですか?
向こうに行って習ったさ。日本に行って。ここ、韓国ではできんかった。学校を
出てないから。
旅館から次にどこに行ったんですか?
うむ。その時、夜だったんだが、その時、夜に車が…、船が通っていた。連絡
船。日本語で「レンラックソン49)」。フネノレ(船乗れ)。船のことを「フネ」と
いうのさ。私は大きな建物かと思ったよ。入ったら…、入口にいくとものすご
い大きな木があって、ものすごく広かった。しばらくすると「ブオーッ」と音が
した。その大きな船が汽笛をならしたんだ。船が浮いているのもわからなかっ
た。そう、それで船が動き出したようだった。船が少しずつ進んでいるようだ
った。ああ、しばらく時間が経ったら、まだ5月なのに、ものすごく暑くてね。5
月25日くらい。しばらくすると、ああ!気持ち悪くなって吐いてしまったんだ、
腹の中のものがこみあげてきて。スーッと上がって、スーッと下がって。初め
て船に乗ったから。
船に酔ったんですね。
気が付いたら波がすごかった。しばらくしてちょっと風に当たりたくなった。風
に当たろうと外に出たら、吐いてしまって、ここまで濡れてしまったんだ。廊下
が汚れて汚かった。そう、それで外に…、やっとのことで外に出て風に当たっ
48)「あります」の日本語だが、「ないです」という意味だと思われる。
49) 正確な発音は「レンラクセン」
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ていたんだ。波が押し寄せて荒れ狂った、真っ暗な夜だったから。私は海とは
知らなかった。
海を初めて見たんですね。
おお、水が高くて、降りて行くようにすくい出した。夜だから。初めて船に乗っ
て。しばらくするとまた一人と出てきて、何人かで休んでいた。するとある奴
が出てきて「コノヒトハ、ナマイキジャナイカ (この人は生意気じゃないか)」、
そう言って横っ面をばしばし叩きだした。
外に出たと言って?
そう。外に出たと言って。「スパイジャ ナイカ(スパイじゃないか)」、スパイじ
ゃないかと言うんだ。私も殴られるんじゃないかと思ったさ。捕まったら、服は
パンツ一枚だったからパッと脱いだ。日に焼けて黒いから、夜だと黒くてわか
らないんだ。それで殴られ蹴られているそいつの後ろにまわって隠れたんだ。
そう、船の中に警察署があったんだよ。
船の中にですか?
ああ。「ケイサツエ イク(警察へ行く)」。それで殴られた奴が許してくれと言っ
た。でも、連れて行かれた。警察署に連れて行かれたのがわかった。それで私
はそのまま後について寝床についた、寝ようと思って。ああ、それからしばらく
すると、ああ!あいつが…、雷なんてことはない。何かにがつんと押されて恐ろ
しくなったんじゃ。ところで私らは船に3,500人が乗っていた。募集者が全国で
7,000人いたが、3,500人は後ろの船に乗って、私は前の船に乗って。
全国各地から集められた朝鮮人ですか?
うん。全国。韓国三千里の土地あちこちから、距離的に釜山が日本に一番近い
から。当時約1キロがとてつもなく遠いんだよ。なぜかというと潜水艦が潜伏し
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ていたからさ。しばらくすると、クスゲ(空襲)があった。昼夜、私は訓練を受け
ていたから空襲だとわかった。私は知ってたんだ。ああ!空襲が来ると地面に潜
るんだが、そのまま飛び出たんだ。出ると護衣(救命胴衣)、護衣といって海に
落ちても沈まないチョッキがあったんだ。護衣がパアッと海に飛ばされていっ
た。取り損ねてそのまま飛んでいった。がむしゃらに掴み取って、もやしがび
っしり生えたみたいに私らは(甲板に集まった)。そこがとんでもなく広いんだ
よ。(船に) 3,500人がわっと上がってきた。そこは大きくて広いから、それでそ
の上で放送があった。「船がもし沈没したら、そのまま飛び降りて逃げろ、遠く
に」。護衣を着ていたから沈まないで浮いた。大きな連絡船は船が20隻以上ぶ
らさがっているんだ。伝馬船50)が。それで有事の時にはそれに乗って逃げるの
さ。船が沈没すると水が、ザアーッと!入ってきて、海の水が船に入ってくると
ゴボゴボと音がして怖いんだ。本当に恐ろしかった。入ってくるから。そうする
ともう船の中に入れないから護衣を与えながら遠くに逃げろというわけさ。で
も船は相変わらず進んでいる。石炭を燃やして動く船でも速いんだよ。とても
速い。しばらくして黒い何か島のようなものが見えた。見ると霞んでいるが島
じゃないか。それで「着いたぞ、着いた。」そう、ハーグァン(下関)だよ。「下
関に着いた」、日本語でいうと「シモノセキ」。
釜山から下関までどのくらいかかりましたか?
釜山から下関かい?時間的にはきっかり、ちょうど釜山から…。ここが釜山だと
すると、下関が6時間しかかからないんだが。
本来はですか?
うん。本来は。ここに行く途中、潜水艦がきクェライ(機雷)51)をぶら下げて潜
50) 伝馬船. 大きな船と陸地または船と船の間の連絡をする小さな船。救命船。
51) 正確な発音は「キライ」
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伏していると言われた。こうやって、こうやって、こうやって、こうやって8時間
だよ52)。いわば2時間さらにかかったということだ。
下関に到着してから、どこに行ったのですか?
うん、下関に着いて、そこにあれがあった、オンセン。「オンセン」というのは
韓国語でオンチョン(温泉)のことなんだけど、温泉の湯は薬なんだ。ものすごく
熱い、入ると。藥なんだよ。
消毒薬のようなものですか?
うん。消毒薬。そこに入って…、有無を言わずに入る。みんな入れられる。服
は全部、皮の財布と皮のベルトをとって、服を全部脱いで洗場53)に出す。で、
それをチョッキの中に全部入れて。それで入浴して出てまた温泉に入ると、そ
こは熱いお湯、その次は少しぬるめの湯、その次はちょうどいい湯。そうやっ
て体をきれいに洗って、そして出てくると服をくれた。服がちゃんと用意され
ている。その時は服にしらみが酷かったんだ。で、しらみが溶けてなくなって、
すっかりきれいになっているんだ。そこでまた船に乗ったんだが、そうやって
出発した。100人乗りくらいの小さな船。渡し船があってそいつに乗って、その
まま職場の下関に行ったんだよ。下関に行ったら汽車に乗った。しばらくする
と汽車が海の中にさーっと入って行ったんだ。
海底を汽車が行くんですか?
そう。汽車が、しばらく行くとぱっと出た、門司に。ここが下関、ここに行くと
門司。門司といえばそこは九州地方だよ。そうして下関から門司に出たんだ
が、八幡と小倉は見えないようにマド(窓)を全部覆ったんだ、真っ黒な布で。
52) 2時間ずつ、4回数えている様子。
53) 洗場。洗面場。正確な発音は「センバ」
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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外が見えないようにしたんですか?
うん、のぞけないように。そこは工場地帯だから。そこはとんでもなく大きいん
だ。工場の長さが30里。横幅が10里。ここが10里、長さが30里。でかい、もの
すごくでかい工場。一番恐ろしい工場なんじゃないかな?
おじいさんが行った所はどこですか?
私が行ったのは九州のボッカンヒョン(福岡県)だよ。日本語で言うと「フクオカ
ケン」、「カミヤマ」。 カミヤマ、カミヤマ…。シンハリョウ54)。行った所は親
和寮。わしが入って作業したのは親和寮4ガタ(方)。4方は1方と2方があって、
私は1ガタ、イチガタ、石炭を掘るんだよ。
会社の名前が上山田だったんですか?
うん。カミヤマ(ダ)だった。その時そこに日本人で、見ると片腕がない、ええ
と何だ、燒夷弾55)を受けて片腕がない人がいたんだけど、その人の目にわしが
留まったらしい。わしが一番幼くて、動きも早いから。「オイ、コイ、コイ、フ
レルナイケド(おい、来い、来い、触れらないけど)。石炭を掘りだすものがない
だろう。私がギョレン56)をやるから、ギョレンで掘りな」。それで穴をほじって
掘れと。ほじって掘ると穴があく。穴になって貫通するんだ。炭鉱の深さは5
尺は掘れない。4尺、4尺から4尺半まで掘って。そいつでそうやって石炭を掘
るとそこにかすがでてくるんだ。熊手というのはこうなっていて、耳かきのよう
な形をしていて掻き出すんだ。
54) 親和寮と思われる。正確な発音は「しんわりょう」
55) 焼夷剤を使って目標物を焼いて無くすのに使う砲弾や爆弾。
56) 熊手と思われる。穀物をかき集めたり、畑の土を耕したり、かまどの灰をかき集めるの
に使う「丁」字模様の器具。長方形や半月型、またははしご型の板切れに長い柄を差し
込んで作る。
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その作業をしろと言ったのですか?
うん、それをやれと。それでそれをやってから、マイト。マイトというのは、ダ
イナマイト。ダイナマイトをマイトと言った。ダイナマイトをコメル(込める:
埋め込む)しようと。うまいからね。その後、発破作業をしろと言われて…、帽
子をさっと脱いで私のと換えるんだ。それで今度は私がその帽子をかぶって。
発破作業は玉も大きくて。
炭鉱に入る時に被る帽子ですか?
うむ、火薬。火薬の筒もわりと大きいんだ。で、こういう形のものがある。こう
いうふうに。しっかりと挿し込んで。こういうふうに仕掛ける。仕掛けたら私は
安全な場所からドカン!ドカン!と発破させるんだよ。発破すると岩の音がもの
すごくて、天井がガタガタ揺れるんだ、足場も。天井の方に石炭がこのように
ぶっこまれている。それで状況はこんな感じだ。ここに石炭を下ろす、その、
何だ、ホッパー(貯炭機)。ここではホッパーというが、日本語では「ドラウ」
と言った。ドラウの下に長い帯(コンベア)が敷かれている。それを日本語で
上山田炭鉱があった場所
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「ヤギョン」と言った、「ヤギョン」。上下に。上にイタ(板)57)があるんだ。上
に行くとここがヤギョンで、ヤギョンはここのトロッコに、トロッコ。そのトロ
ッコはと言えば、石炭を下すところまで運ぶ。回すと石炭が、ドサドサっとハコ
(箱)58)に入るんだ。
トロッコの上に石炭がこうやって落ちて入っていくんですね?
おお、入って行くんだ。石炭がそのままドサドサッと落ちて行くと…、ああ!そ
れがガンガン!と割れる音が、どれだけやかましいんだか。パンッ!その時に耳
が…、年を取ったらもっと悪くなったよ。
おじいさんと一緒に働いていた、その腕のない人の名前を覚えていますか?
あ、日本人?まだ生きているかな? 死んでしまっただろうよ。100歳を超えてい
るだろうから。私は今84歳だよ。いい人だった。お弁当のことなんだが…、発
破して片づけていると、お弁当をお腹がすいているだろうからと、その人が食
べろと言ってくれたんだ。それから「アノネ、オジサン、アア、ジブンハ ミミガ
ワルイナ(あのね, おじさん. あ, 自分は耳が悪いな。)」と私が言った。すると、ほ
ら綿を詰めろと言って。それで耳に綿を詰めて発破作業をしたんだよ。石炭が
沢山出たかと思えば出ない時は石しか出ない。そうするとそこを無視してよけ
て入っていくんだ。距離で言うと1キロ。4方で1キロぐらい下りて行った。どん
どん穴をあけて入っていくから、山に。ここはフナンシ、ここはサンコ(3坑)親
和寮、清風寮というふうに。
他の寮の名前は?
うん。わしは親和寮だよ。他? こっちがセフリョ59)で、ここは親和寮で。
57) 板。板材。
58) ここでは炭車の意味。
59) 清風寮だと思われる。
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寮はいくつぐらいあったんですか?
清風寮は日本人の部屋で、親和寮は韓国人の部屋だった。で、これを見てみると、
ここは親和寮、下って行くと番号がある。ここが4方、3方、ここにある。ここも同じ
だよ。清風寮もそういうふうになっている。でも、清風寮の方がきれいなんだ。
日本人がいる寮がですか?
おお、日本人がいるところはきれいだった。通うのにもよいし。私ら韓国人が
いる所はひどいもんさ。ガタガタで誤って転んだりしたよ。そう、道も日本人の
いる所は平らでよかった。もし、お金さえ出せば、こうやってワイスといってサ
オドリ(棹取り、炭車操作員)が…。トロッコに乗って遮断したり繋いだりする人
をサオドリと言ったんだ。で、これ(表面)には線がこうなっていて。タキマ、
マキタ*から信号がいくと。
信号を送るとマキアゲ(卷き上げ。引っ張り上げること、またはその機械)
が炭車を引っ張り上げてくれるんですね。
ああ、マキアゲだよ。500馬力の巻き上げがサッと回す。炭車はだいたい50台
にはなったかな? ワイヤーでつないだから。そうすると棹取りが操作台に座
って、二回すると信号が来るんだ。揚げろという信号。そうすると揚がってい
く。ずっと揚がって行くと元線、ここでこういうふうに元線が。来ると信号が送
られるんだ。元線がある所はトンボ60)になることがない。信号がちゃんと出さ
れているから。ここからこうやって元線がある所までつないでくれる…。
元線は平らなので炭車がちゃんと上がって行くけれど、支線の鉄路はどう
でしたか?
ああ、でこぼこしていた。
60) トンボ。トロッコが線路から離れること。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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そこまで来るのに棹取りがいたんですか?
そこまでは棹取りは必要ないだろ、うん。ここまでは持って行かないといけな
いんだ。ここまで持って行くと棹取りがガチャンとピンを(炭車に)かけるん
だ。ガチャン! と棹取りがピンをかけて、各自が採った石炭を炭車に積んで持
って行き、そこでピンで繋いで通わせるんだ。サっとかけて、そのまま行くん
だよ、そしてまた石炭を掘りに。
トロッコに石炭を積むだけ積んだら、採掘場へ行ってまた作業するんです
か?
トロッコがたぶん20台くらいだった。20人で1台につき1人ずつ。
1台を1人でいっぱいにするんですか?
うむ。力のある者は途中でトンボ(脱線)も多い。途中で誤ってトンボすると、
トロッコがガタッといって落ちる。でも力のある奴は、ああ!そのままこうやっ
てうまくやるんだ、こぼさないで。
力のある人は脱線したのをまた線路に戻すんですね?
ああ。線路の上に。レールというんだ、レール。それで持ち上げてくれる。力の
ある奴は…、トロッコ二つで1トンだよ。一つのトロッコが0.5トン。それを持ち
上げて向きを直す。レールの上に車輪を載せて。
かけておけばどうにかなるんですね。
うむ。で、両方の車輪がはまると、後ろにまわってまた持ち上げる。そうすると
その後ろにもトロッコがあるんだが、脱線されてもしばらくすると元通りに引
っ張っていくんだ。一人でできないでいると、後ろから来た人が一緒に協力し
てやるんだ。一番危ないのがトロッコだよ。トロッコを押す人は日本人もいた
し、私ら韓国人もいた。そうやってどちらも一緒にやった。で、気をしっかり持
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っていないといけないし、ちゃんと見ていないとひっぱっていけないんだ。ず
っと下がって降りていく所がある。ずっと降りて行く所でガツン。誤ってガツ
ン!そのまま頭が割れてしまうんだ。
天井に頭をぶつけたら大変なことになるから、よく見て行かないといけな
いんですね?
おう、こうやって立てて。その、ナブギ※というのは、言うなれば私ら(採掘場
の中に)敷いた坑木のことをナブギと言った。ずらっと敷いてあるんだが、天井
が落ちて崩れるだろ。だからよく見てこうやって行かないといけないんだ。そ
こを避ければもう安全だ、新鮮だよ、全く! ひょいひょい、ひょいひょいと! あ
あ、楽しいな。うん。途中でわりと平らな所があって、良いトロッコは問題なく
進むが、悪いトロッコはだな、ギシギシいって下りやしない。こんなふうに、押
さないと進まないんだ。
そこで働きながら月給はもらいましたか?
うん。1ガタ(方)、1方というのは一つの組を指して1方と言うんだ。1方だ。何
人がそこにいたかというと80人。
日本人30人、私ら韓国人は50人。
そうすると80人だろ? 80人の役割
は発破。発破する人は一番お金も
よかったし、待遇もよかった。
おじいさんも発破したじゃない
ですか。たくさんもらったんで
しょうね。
いや、お金はプロ(%。パーセンテ
ージ)で勘定するんだ、プロで。
長崎平和資料館に展示されている炭鉱
安全帽と手袋、食物(模型)
(調査1課李秉熙調査官撮影)
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80人にいくらかが与えられると、それを分け合うんですか?
分け合うんだよ。石炭を、炭鉱をどうやって掘るかというと、80人で石炭を掘
るんだが、まず80人の中にサキヤマ(先山。先炭夫)がいる。先炭夫が木で支え
る、先山。そいつを先山といった。それと次にクッシン(掘進)する人間がいる。
掘進していて突然崩れたらその中にいる人がみんな死んでしまうこともある。
掘進して石炭を掘ると石も出るし、ボダ61)61)が出る。
ボタがでますね。
うん。石。それを「ボタ」と言った。日本語で。ボタを除いて石炭だけ掻き出
す。で、80人で160。そうすると一人当たり2×8=16だろ? 160、 2×8=16で、
もっと沢山出ればそれも積んでおく。トロッコ2つで1トンなんだが、それも石
炭の量だけで金額を決めるんだ。石は必要ないから。
必要ないんですか?
ああ、取り除く。石炭工場で。石炭工場を、「センタンバン(選炭場)62)」と言
った。選炭場に行くと女たちが働いている。あちこちで向かい合って立って、
石炭が降りてくるとボタをこうやって取り除く。あっちに。そうすると石炭だけ
が残るんだ。石炭、ボタを取り除いて石炭だけ積んでいくんだ。それでそいつ
が200箱になればいいんだ。120から150ぐらいだと稼ぎは少ない。もし、160
になった。160だと1人当たり1トンで。1トンだといくらだ? 1トンだと2円だ、2
円。2円は米で言うと、その時日本では米1かますで…。ここ(韓国)の米の値
段と日本の米の値段は同じだった。ここでも1円。いや、1かますで10円、日本
も10円、1かます。でも1円だとちょうど米2斗の値段だよ。2斗分の値段だ。
で、2斗分だったら2斗分のお金が入っていたんだが、私は発破だからいくらか
61) ボタ。質の悪い石炭。正確な発音はボタ。
62) 石炭とそうでないものを選ぶ所。選炭場。正確な発音はセンタンバ。
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追加でつけてくれた。2円20銭。そうやってつけてくれた。20銭さらに稼いだ
のさ。楽で気分がよかった。それと発破をするようになると、マイトガミ63)が沢
山出るんだ。その、ボーロバック64)が。
ダイナマイトを入れていたボール箱のことですか?
うん。ボール箱。どこで必要かというと、食堂に持っていくと主婦たちが喜ぶ
んだ。で、平べったいおこげをくれた。私はちょっといい思いをしていたよ。
何をもらったんですって?
おこげ。ああ、だから何だ、ダイナマイトを詰めていた紙の箱を持っていくと喜
ばれて。食堂の主婦たちが喜んだことといったら。火をつけるのにちょうどよか
ったんだよ。石炭だから。焚き付けがいいんだ。焚き付けがよいもんだから。そ
れとシマイ(終了)が、私は6時間作業だったんだが3時間早いんだ。3時間早く終
わった、それが特徵だ。それと10日ごとに「オダシ65)」というのがある。オダシ
というのは、言うなれば特別に会食をさせてくれることだよ。それをオダシと言
った。「アマザケ(甘酒)」といってみんなに一本ずつくれるんだが、私には二本
くれた、二本。もう一本飲んだよ。マイトだから、発破だから。そう。甘酒のこと
を「アマザケ」と言うんだ。ビールをその前は5本くれた。私には5本。ビールが
5本だよ。で、日本酒は何本だ?日本酒は私には1本。大きな宴会では1本。それ
をオダシと言ったんだが、他の人たちは2分の1本だよ、半本。そういうところで
も厚遇されて。でも、そうはいってもある時は腹が減って、飯を6合食べていた
んだが、腹が減って間食をしたんだけど、何を食べたかというとクジラの肉。ク
ジラといっても肉じゃなくて、クジラの内臓だよ。内臓を50銭分買うんだ。50銭
分。それでものすごい沢山くれるんだ、50銭分で。それを弁当箱に入れて、ベン
63) ダイナマイトの箱の紙。
64) ボ-ル箱. ボード(board)紙でできた箱。
65) 大出し。特別増産運動の時に行う会食。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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ト(弁当)。木の弁当箱だよ。新聞紙にくじらの内臓を包んでくれるんだ。こうやっ
て。今ならそれをビニール袋に入れてくれるんだね。新聞紙に包んで、そしてそ
れを買って木の弁当箱にさっと入れる、ぐるぐると包んで。それから坑内に戻っ
て、坑内というのは、炭鉱の中を坑内といった。坑内に下りるとそれを置いて。そ
してひたすらあちこちをアナホリ(穴掘り)するんだ。ええとなんだ、その、空気で
打つやつ。それをコンプラ(コンプレッサー)というんだ。ドドドッ、ドドドッ!もの
すごい音がする。ものすごい。そこにアナホリする奴が一人、二人と、二人入る
んだ。良質の石炭はうまいこと掘れるんだ。ダダダダッ!ずんずん入って行く。
かぼちゃの草を刈るように。よく掘れるし。そいつは横からも上からも出てきて。
石、ボタがあると雷が落ちたような音が出て。そうしてその後、私が石炭を掘っ
てオク(奧)に入って行く。オクというのは一番奥。
深い穴の中のことをおっしゃっているんですか?
ああ。入って石炭を探るんだが、空気がよくない。坑内でこのくらいの鉱石を
取り出して見て、私が見てガスが多いと「作業中断」と言うんだ。必ずツルバ
シ(つるはし)を勝手に使わないようにする。ツルバシ、ツルバシと言うんだ。
万一、ガツンと打ち付けて火が出たらドカンと破裂してレールがだな、巻き込
まれる。出る穴も塞がってしまうんだ、そこは。そいつは危険だよ。みんなパニ
ックになる。みんな吹っ飛ばしてしまうんだ。そのままガスが漏れた状態で、5
方は奥へ入って作業をしていたんだが、ガスが漏れている。それでああ!何も
変わりないのに私も知らず知らずのうちに倒れこんだ。目ははっきりしている
が頭はふらふらで。おお「ガスだ!」とにかく「シゴドヤメ(仕事止め)」と言っ
て。仕事のことを「シゴド」と言った。
作業中止と言うんですね。
うむ、「シゴドヤメ」。ヤメと言って、まずはだな、テッカン(鉄管)を通してホ
ースで風を送るんだ。換気するために。その翌日になった。ガスがものすごい
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んだが、私は頭が非常に切れて動きも早かった。ガスが出た時は素早さが必要
で…、とにかくそこに行って2年の歳月が過ぎていた。「大変だ。火を浴びて死
んでしまったら…。これは本当にしゃれにならないぞ。わしも逃げなくては!」
それで逃げ出したのさ。逃げ出すことを「ケツワリ」66)といった。ケツワリ。
それで親和寮と清風寮の総人員が1,000人だよ。人員が1,000人なんだけど、
1,000人の中で一番強い、相撲が一番強い日本人。背も一番高かった。背が六
尺(約182cm)ぐらいあった。それがトロシマ67)だよ。大きなトロシマ。
背が6尺にもなるトリシマでしたか。
うん、トリシマ、トリシマが一番怖かった。
トリシマは朝鮮人ですか。
いや、日本人。で、トリシマは拷問する時はわしら韓国人にさせて、捕まえるの
は日本の奴らだった。逃亡者を捕まえたんだ。自分の力だけ信じてそれまで来
たのに、最後になって踏切で汽車がピタッと止まって降りたところで、(逃亡者
がトリシマを) 押して殺してしまったんだ。私は呆然としたままでいた。あれま
あ!と、じっと見つめていたんだ。ガツンとそのまま押してしまいやがった。あ
あ! 牛みたいにでかい奴(トリシマ)があっけなくひっくりかえってしまった。汽
車がそのまま脚を切り落としてしまったではないか。私はそれを見て逃げ出し
たんだよ、それを見て。心の中で (ここで働いていたら) 死体も見つからず、あ
あ! 声も出せず死んでいくだろう。このままここにいる必要はない。自分の命は
自分で見届けなくては。ああ! ぐずぐずしている暇はない。逃亡者がどんな目に
遭うかなんて。事務所に入ったことはないから。それで今からクジラの肉を買
いに行くと偽ってだな。店の中に入って行ったんだが、トリシマがじっと見て
いたが知らんふりをした。
66)『地の底の笑い話』(上野英信著)には、韓国語から作られた言葉というが、明確ではない。
67) 取締。労務者を取り締まること。取締役。もともとの発音は「トリシマリ」
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
162
おじいさんがよく働いていたからトリシマが信用したんでしょうね。
うむ。信用していた。「おまえとはもうおしまいだ」。私はそのまま無我夢中で
走った。動きが速くて。ああ、がむしゃらに走ったんだ。そこは見物させてくれ
た、言うなればトリシマが見物までさせてくれた所だよ。そこからわしは逃げ
出したんだ。
押されたトリシマは、その炭車に轢かれてどうなりましたか。
ああ、死んでしまったよ。わしはそれをはっきりと見て知っている。ああ、捕ま
ったらだな、拷問を受ける。拷問はどうやるかというと、灰を十能でこうやっ
て置いて、水道を開いておくと水がこんくらい出てくる。そうするとホースを
そこに置いて…。そこに座っている。ぎゅっとすると引っ張られる。そうすると
ばったり倒れて「この野郎、何人連れてったんだ(逃がしたんだ)、こいつめ」韓
国人に拷問をさせるんだ。「この野郎、正直に言え、この野郎」。言うことを聞
かないと、暖炉の火に鉄を2本入れて赤く熱するんだ。さっと取り出してガツ
ンと叩くとジュッ!と音がして、泥水みたいに。灰に水を入れると泥水ができる
だろ?その水が口から入ると鼻の穴から出てきて、鼻の穴から入ると口から出
てきて、そうやって拷問した。私はそれが怖くて。逃げ出さないと思うかい? 炭
坑の中で、坑内で巨大な岩の塊に押しつぶされて死ぬよりはましだろ。そう判
断して逃げ出したんだが、逃げてきたら、500mから1km位離れた所に人が見
えた。ああ!自転車に乗って上ってくる。私はそこで息をひそめた。ここで逃げ
出したら捕まってしまう。山道には信号がいっぱいあった。とっさに信号の陰
に隠れて石をだな、拾って集めた。ここでもし捕まったら…、一番の目的はい
ったい何だ。全てうまくいくことはないだろう。まずは夢中になって逃げるこ
とだ。そう覚悟を決めて石を集めたんだ。私の目の前に来てこうやっているん
だが、私は裸足だったが、肌も真っ暗で土だけがあるように見えた。ここから
外はよく見えても外からは真っ暗だから。よく見えないんだ。行ったり来たり。
「来たな」。しばらくするといなくなった。見当たらない。そしてさーっと降り
福岡県
163
た。「ああ、助かった!」と思いながら、そうっと行ったんだが、なんだって山
にあんなに蛇が多いんだか。蛇がうようよ這っていて足の踏み場がない。ああ
っ!ジカタビ(地下足袋)を履いた足で蹴っ飛ばすんだ。蛇が足に巻きつこうとし
ては落ちて。私の動きがあまりにも速かったから。それで這って進むとそこに
大きな68)崖があった。その上にトラ(虎)、ソットラ(石虎)があった。言うなれば
「ソットラ」それは何かというと、石でトラを作ったやつで、その口の中に入っ
て座り、あちこち見つめていたんだ。電車が行ったり来たり、行ったり来たりし
ていた。あそこに行ってどうやって切符を手に入れようか。切符を買うのが一
番の心配だった。その時持っていたのは36円。36円は大きな金だよ、大金だ。
山を下りて駅前に行ってキップ(切符)69)を買うんだが、そこでしゃべらないとい
かんだろ。そうしたら横にいた人が「クルメ70)、クルメ」と言った。その女(横に
いた人)をじっと見た。久留米だった。それで横にいた人がそれこそ一枚さっと
くれた。私はその時に日本語がよくわからなかったから、その時10円札を出し
た。そのまま9円、9円50銭だったか釣りをくれた。数えることもなかった。そ
れでその切符を買ったその女、その女を見失うまいとその女の隣に行って座っ
たんだ。ああ! 汽車がひたすら当てもなく行く。そう、私は「どこに行ったら韓
国人に会えてうまくいくんだろう!」そのことばかり考えていた。それが悩みだ
った。そうしてそこ(久留米)で降りたんだが。降りた所が久留米だよ、久留米が
九州の首都だよ。九州の、九州地方の中心。
久留米に降りてからどうしたのですか?
おお、降りて。そこで降りたんだが、ふう、市内はとても大きくて。ずいぶんと
歩いて汽車に乗る前に市場に寄った。市場に行ってタックァン(たくあん)とネ
ギを買ってかごに入れて。これからは日本人のようにふるまおうとして。そし
68)「天涯」と発音しようとしたようだ。
69) 切符 汽車の乗車券
70) 久留米。日本の南部、福岡県第3の都市。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
164
て風呂敷をさっと広げて。炭坑で着ていた服は全部捨てて。家から持ってきた
学生服。学生服を着て駅前に行って看板の鏡を見たら…、ああ! まるでチョッ
パリ(日本人)みたいだった。見た感じは問題なかった。うまいことチョッパリに
なりすましたんだ。そうしていざ駅前に行った。もう一度行って切符を買おう
とした。「どこに行こうか、どこに行こうか」、それが決まらないとどうしよう
もない。他の人が「ハカダ!71)」と言った。私も「ハカダです」と言うと博多行
の切符をくれた。その電車が何時かというと4時半発だった、午後4時半。つま
り16時半だろ。私はふうっとホームに座って…、汽車に乗ってからが、本当に
心配だった。「どこに行って降りようか。誰に会うべきか。それとも炭鉱に戻
ろうか」、自ら戻れば待遇よく迎え入れてもらえるだろうに。「だがもし捕まっ
て連れ戻されたらどうなる」そう考えていると、誰かが私の上を行ったり来た
りしてふざけているんだ。「キモチヨイ(気持ちよい)」そうやってふざけている
ので、私は聞いてみた。「アノネ」「ハイ」「コノ キシャハ ドコマデ ノボリマ
スカ(この汽車はどこまで上りますか。)」「トスマデ(鳥栖まで)」そして、さりげ
なく「わたしはヨプチョンだ」と言った。私は耳がよかったから聞き逃さなかっ
た。すぐに手を取った。私もヨプチョンです。ヨプチョンというのは朝鮮人を
指してヨプチョンと言うんだ。日本人をチョッパリと言って。その時暗号として
使ったんだ。ああ! 腹の皮がよじれるくらい、大笑いした。笑った。絶対に日本
人だと思っていたよ。服装も学生服だし、手に持っていたカゴにタクワンとネ
ギが入っているのを見て笑った。「トスマデデスッテ?(鳥栖までですって?)」。
一言でトス72)は何かというと、十字架73)がある、ここをずっと行くと。東京、大
阪に行くやつで、こっちは長崎にいくやつで、こっちには博多にいくやつだ。と
ころが、ここにトリシマ(取締)がウヨウヨいるというんだ。ああ!そんなまさか。
恐怖が蘇った。そこがいろいろな電車の乗換え地点だったから。どんな人もそ
71) 博多。福岡県の博多区。以前は博多市地域を指し、博釜連絡船が発着する港だった。
72) 発音から見て佐賀県所在の鳥栖市と思われる。鳥栖市。
73) 交差路の意味
福岡県
165
こでみんな降りなくてはならない。降りるとトリシマが沢山いる。捕まえるのに
格好の場所だったから。トリシマがうようよいるという話は確かだった。そう、
それでその汽車が途中の駅で停車しないので、私らはぱっと飛び降りた。うま
く降りられた。動きがよかったんだ。実にすばしっこかったから。力いっぱい
走れば汽車は止まらない。みんなぴょんと飛び降りた。ぴょんと飛び降りたん
だ。私もぴょんと飛び降りた。そして飛び降りて一緒に宿を探したんだ。言う
なれば初めて韓国人に出会って寝床を探したんだ。私たちが泊まる宿を。そう
しているうちに山の中に入っていった。安全で攻撃も届かないほどの安全な場
所だ。さっと入って行った。私が「オヤジサン、オヤジサン!(親爺さん)」と言
った。オヤジというのは主人のことさ。どこから来たんだと言う。私は炭鉱か
ら来たというとまた送り戻されるかと思って、それは隠して「炭鉱で募集があ
ったんだけど、それに落ちてどこに行けばよいかわからなかったんだが、こう
して何某さんに出会ってここに来ました」と言った。警察は知っているだろう
よ。そこでチェックされた。でも、私が持っているお金のお蔭で。渡す他なか
った。預けなきゃ。それで「わたしはお金を少々持っているんですけど、それ
をオヤジさんに預けます」と言っておやじに預けたんだ。ああ!喜んだよ。当時
その金で米3かます分。今のお金だと数万ウォン分だよ。1か月の食費が30円
だ、1か月の食費が。1か月分をちょっと超えていたから喜んだ。さあ、夕食を
食べようと言った。夕食を食べたんだが、釜の飯だ。思う存分食べられる釜の
飯だよ。おかずはだな、肉をこのくらいの桶に入れて食べたんだが、それを腹
いっぱい食べた。私が食べる様子を見て、みんなは笑って大騒ぎだった。必死
になって食べると。そうやってそこで飯を食って仕事にでかけて働いたんだ。
そこで働き始めたんですか?
ああ。一緒に働いた。その宿の主人の名前はヨサキサブロ(三郞)といった。ヨウ
サキ。朝鮮語ではわからない。そのままそうやって呼んでいたから。ヨウサキ
サブロ。で、元(元締め)のオヤジはワタナベ(渡辺)で。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
166
どんな仕事をしたんですか?
渡辺は企業に土工を提供してたんだよ。ヨサキサブロウが下請をしていたん
だ、言うなれば。働き始めるとそこでも私が一番仕事ができた。
そこでもおじいさんは仕事ができたんですか?
ああ。1トンで2円。そうだった。ああ!炭鉱よりも仕事はよかったよ。炭鉱は入
って危険だから。炭鉱はあれが沢山出て危険だろ。一日に清風寮では3トン、5
トンまで。そこでは5トンだといくらだ? 金が。で、清風寮では石炭は地面に潜
って掘って作業するだろ。ここでは軽々とスコップで掘り上げる作業だったか
ら。
石炭をですか?
いや、土を。どんだけ動作が速かったことか。後になって、ここの筋肉が硬くな
って叩かれても痛くないんだ。あまりにいっぱい掘るから、ちょっとよそ見する
と落ちてしまう。後ろの奴にこづかれて。どれだけ仕事を大変にさせるのか。
ああ、一度なんか死にそうになった、私がだよ。そのまま橋の下に落として死
にそうになったんだが、何とか生きかえった。死ぬ思いは何回かしたよ。一日
にどのくらい働いたかというと14函だ。14函だといくらだ? 7トンだよ。7トンな
ら14万ウォンだよ。ああ、それで働いていたところに令狀74)が届いたんだ。
何の令状が届いたんですか?
軍隊。
そこにおじいさんがいるということがどうやってわかったんですか?
オヤジが。人夫を使うと記録して、私のことを警察署に届けたんだよ。そうす
74) 徴兵令状
福岡県
167
ると警察署でしっかり調べて兵事係に連絡が行くから。「鳥栖国民学校に行っ
て、何月何日に出動せよ」というわけさ。それで私は何月何日にそこに行った
んだ。その時1か月前だったと思うよ。1か月前ということは6月だろ?5月。身
体検査をして。すでに身体検査。
その時おじいさんは何歳でしたか?
20…、ちょうど22歳の時だったかな。うん。22歳の時。
日本で身体検査を受けたんですか?
うむ。身体検査を受けた。身体検査で、日本語で「タイクツシオ カネハラ ケイ
コー (金原奎衡)」いうなれば「乙種合格金圭衝」という意味さ。身体検査を受
けると、私はコドゥバ75)といわれた。コドゥバというのは文字を知らないという
ことだよ。日本語でコドゥバというんだ。文字が読めない。この言葉は日本で
習ったんだ。しばらくすると文明教育という、言うなれば「セネンガッコ(青年
学校)」という、その時国民学校のことを青年学校とも言ったんだ。学校に通う
と文明教育を受ける。文字を習うんだ。文字を習ってから戦えと戦場へ送られ
るんだ。何処が何処なんだか書けないとだめというわけさ。文字を教え、訓練
をさせ…。ああ!木銃。木でできた木銃。これで撃つ。軍人勅諭を覚えなくては
ならなかった。軍人勅諭。それが、実に頭痛の種だった。その時。仕事をする
暇なんてない。もはや昭和の忠臣者になれというのだから。毎晩「軍人勅諭」
といって「グンジンハ チューセツヲ ツクスヲ ホンブントスベシ(軍人は忠節を
盡すを本分とすべし)」。昼夜これを覚えなくてはならなかった。軍人勅諭だ
よ。一度、風呂場に行って風呂に入っていたら貯水池があった。私は泳ぎを何
歳で習ったかというと10歳の時、10歳の時に泳ぎを習ったんだ。それで1kmま
では楽に泳げた。体力はあったから。体力、ものすごかった。それで日本でも
75)「ことば」という意味の日本語と思われる。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
168
韓国で泳ぐようにすいすい泳いだら「オヨギワ ヨイナ(泳ぎはよいな)。」泳ぎ
が上手だというわけだ。「コノマエ カイクン(今後海軍に行け!)」ああ! そんな
こんなで、文明教育を受けたんだ。私は漢字を200字も頭の中に詰め込んだん
だが、使わないから忘れてしまった。もう全部忘れてしまったよ、漢字を。カタ
カナ、ヒラガナ76)それだけは少し。それだってずいぶんと怪しいもんだよ。とこ
ろで、一つ私が体験した話をしてやろう。一度なんか空が見えないほど激しい
空襲を浴びせられた。その日は空襲が激しくてだな、訓練にも行けやしない。
空襲があまりにも激しくて。
おじいさんが訓練を受けた所はどこですか?
おお、鳥栖市。そこ? 佐賀県浅井村、佐賀県。鳥栖は佐賀県だ。記憶が曖昧
で…。
軍事訓練を受けている時に解放になったんですか?
いや、ああ、訓練を受けていた所が、教育を受けていた所が、一度空襲が激し
くて教育場もみんな空になった。きれいさっぱり建物の中にいた人間がみんな
いなくなった。それで今日はちょっくら長崎に遊びにでも行って来ようか。よく
考えると長崎に行くには空襲が激しいから、何だか気が進まない。高い山があ
った。あの山の丘のように高い。登って長崎を探して、あそこに行って遊んで
来るつもりだったのに。ここに登って見下ろしているなんて。そんなふうに思
いながら栗を採って食べたりしていたんだ。そしたら、ああ、B29がだな、すっ
と来て何かを落とした。その時落下傘が落ちるのを初めて見たよ。落下傘も白
い落下傘。パッと広がるとドラムカン(ドラム缶) みたいなもの、真っ黒なド
ラム缶みたいなものがすっと落ちて行ってそのまま地面に落ちたんだ。天気は
76) 日本語を表記するための文字。擬声語、擬態語、外来語等に多く使われるカタカナと一
般的な文章に多く使われるひらがながある。
福岡県
169
今日みたいな天気だった。長崎は韓国人が船の工場(造船所)に行って6万人が
いたらしい、6万人が。「長崎に爆撃しようとしているんだな」。そう考えてい
たら、ブーン!と音がして飛行機が逃げ去って行った。それでしばらくしたら、
ドンッ! 空も地上も火だらけ、炎で。私は「夢か!」そう思ったんだ。だが、夢か
現実か、間違いなく現実だった。ああ、あの炎の中で長崎にいる人達はみんな
残らず死んでしまっただろうな。そして下りてくると、ラジオでサイレン音が
して昭和天皇がすすり泣きしながら、護国したと勝利したと放送で流れてい
た。そしたらある奴がカチャカチャカチャと、弁当箱。弁当箱をぶら下げて、カ
タカタいわせていた。私に聞いてきた。「オイ、コラ(おい, こら)」「ナンテ(何
て)?」。目の前に来て、「コラ、カナシイトキニ。ナマイキジャナイカ。キサマ
ダッテ(こら、悲しい時に。生意気じゃないか。貴様だって)」「ナンテ?(何て?)」
と。もともとは普通の奴だったんだがいかれてしまった。後で知ったんだが、
原子爆弾が落ちた近くでそれを見つめていたようなんだ。そいつは頭がおかし
くなってしまったんだ。原子爆弾、原子爆弾が、私が見ていた目の前を落ちて
行ったんだ。ここ500km 77)、ここが500km、ここが2kmだよ。ここから四方に
500kmだから、ぞっとするだろ。そこにある物体はガラスでも何でも一瞬にし
て溶けてしまう。ドロドロと流れるんだ。ああっ! そうやって解放になった。
解放後すぐに故郷に帰ったんですか?
そんなこんなでようやく解放になって、私は郊外に通って商売をした。当時、
考えてみたが金を稼ぐ方法がない。いくら考えても。商売が一番良いんだ。何
の商売かというと、米。田舎に行って米を買って、どこで売るかというと波止
場に行って韓国に行こうとしている人たちに。「サンバシ(棧橋)78))」。波止場に
サンバシというのがある。波止場で人が沢山集まっている所をサンバシと言う
77) 実際の直線距離は100kmを少し超えているが口述者はさらに距離があると記憶している。
78) 桟橋。船を接岸係留するための設備。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
170
んだ。人でごったがえしていた。そこで米を売るんだ。
その港の名前は何ですか?
港?港は帰る時。私はハガダ79)から船に乗って帰ってきたんじゃよ。
そこで米を売っていたんですか?
いや、ちがう。私が米を売っていたんじゃなくて、私が使いをしていた所で米
を売っていたんだ。
日本でですか?
うん、日本で。日本の村に行って5円渡して米を5斗手に入れる。背負うのは5
斗ずつじゃないと。1かますは大変だから。解放後に。
米を売っていた人はおじいさんじゃなくて他の人だったんですか?
うん、他の人が。私は使いをしていたんだよ。
おじいさんは解放後どこにいたんですか?
そのままそこにいたさ。イワイデ(岩井手)。佐賀県浅井村のイワイデ。そこ
に宿舎があったから、そこにいたんだ。そこで足止めをくらっていたのさ。だ
からあちらこちらの海辺を行ったり来たりして過ごすしかないだろ。それとそ
の時私は汽車の切符を売る商売もしていた。そこの宿に寝泊りしながら。汽車
の切符をどうやって手に入れるかというと、3階建ての久留米デパート、そこ
に行って切符を買うんだ。駅前はだな、燃えてなくなってしまったから、デパ
ートで切符を売っていた。東京でも大阪でも(一人)1枚、1枚、そうやって売
っていた。大阪も1枚。東京も1枚。24時間ごとに1枚ずつ。
79) 博多。福岡県博多区。以前の博多市地域を指し、博釜連絡船の発着港であった。
福岡県
171
1人につき、そのようにしか売らないのですか。
当時移動する人が多かったから、そうやって分配したんだ。私は朝早く夜が明
ける前に出かけて、そこでじっと待ってマド(窓)がパッと開くと行って切符を買
うんだ。それで大阪行の切符を買って、他の人に売るといくら残ったかという
と、10円が残った(利益が出た)、10円。大阪行の切符は、実際は1円にもならな
い。だが、それを買って10円で売りさばく楽しみで売るのさ。じゃあ、なんで
私から大阪行の切符を買うのか。この田舎で米を買って博多や大分80)に行って
売ると、米1斗で大金だよ。米1斗が3倍以上にもなるんだ。
そのお金でどこに行ったんですか?
おお、解放後に?1か月後だったかな、解放になって1か月後に私は帰国したん
だ。1か月経って帰国しようと思っていたんだが、海賊が沢山いた。何を言っ
ているのかとそばでじっと見ていると、「ああ、同胞たちよ。36年間もの間、
我々がどれだけ苦痛を味わってきたことか」、ああ!脅かすんだ。私らは釜山
や統営や馬山に行かなくてはならないんだが、近づいてきて「えー、この船は
釜山に行きます。馬山に行きます。本当だよ」、それで船に乗る。席をできる
だけ多くさばこうとして。客が多ければその分収入も多いだろ。そうすると船
の切符を買った人は荷物を持って船に乗る。その時は服の値段が高くて、人の
量よりも着物の荷物の量の方が多いんだ。それで時間になるのを見てしゃべ
り出すんだ。「浮きます」と。そして船がポンポンポン!といって。暗いから、
乗っている人達はよくわからない。そうすると船の主人が「この船は今、点検
をしているので、降りてください」というんだ。そう言われて降りない人はい
るかい?みんな降りるだろ。船に荷物だけがどっさりあって。すると足場をさ
っと外して走って逃げるんだ。そうして一時間くらい経つと海辺に潮が満ちて
来て、波でみんな溺れて死んでしまうのさ、船から降りた人たちが。そうやっ
80) 大分。ここでは大分市。日本南部、九州地方東部の大分県の県庁所在地。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
172
て海賊行為をした。私はそれが一番危険で怖いから、安全に帰国しなくては
ならないと考えてそこに長く留まっていたんだ。そうでなけりゃすぐにでも帰
ったさ。解放して2か月もしなかった。1か月もかからなかっただろうよ。戻る
時、私の宿の主人がその船を350円で買ったんだ。言うなれば賃貸をしたんだ
よ。日本語では「カシキリ(貸し切り)」と言った。私らが戻る時10人くらいにな
った、10人くらいに。私は「なんだってそんなに早く行くんだ?私は行かない
ぞ。もはや軍人もいないというのに、もし運悪く海賊に出会って死んだら何に
もならないじゃないか」。そう言って私は行かないと言ったんだが、主人が350
円で船を買ったんだ。それで戻った。その船の名前は「マルマル」だよ。その
船主も一緒に来た。私だけ一人巨済島で一晩泊まって行ったんだが、その船長
が突然降りると言った。統営である爺さんが突然現れて、船長を変わるといっ
た。後で知ったんだが、その爺さんが船長の親父だったんだ。統営を過ぎると
支署から船に乗って来たんだ。支署長が近づいてきて船に乗り、船長室に行っ
て「ニホンジンカ、センジンカ(日本人か、鮮人か)」「ニホンジンデス(日本人で
す)」。支署長がそういうと船の船長の親父が次の日、麗水に連れて行ってくれ
た。
そうやって故郷に戻ってきたんですね。
うむ。そうやって戻って何日もしないうちに、光州19連隊、軍隊にひっかかっ
た。光州 19連隊81)。
佐賀県(鳥栖市)で何のために土を掘ったんですか?
何だって?そこは宅地工場。工場を建てるために。宅地、宅地造成。言うなれ
ば敷地をならす工事さ。
81) 韓国戦争(朝鮮戦争)当時の経験を話している。
福岡県
173
会社の名前を覚えていますか?
会社で働いていた人? 会社の名前? 会社の名前は、それはええと、福岡県だ
よ。福岡県。いや、佐賀県だ。久留米。浅井村岩井手に宿があって、仕事は、
岩井手から浅井村に行って車に乗り「1久留米」、そこで降りて。日本タイヤ コ
ウサクタイ カブシキガイシャ(日本タイヤ工作隊株式会社、訳注・日本タイヤ
株式会社)。その宅地工場造成の作業をする所なんだが、そこに入って。
「ニホンタイヤ」がどういう意味ですか?
ニホンタイヤ。タイヤ、飛行機のタイヤ。こういう形のものがあるだろ、こうい
うふうにできたもの。 作ることだよ。飛行機のタイヤを作っている所。飛行機
のタイヤも作っていたんだ、そこでは。軍服も作っていたし、ジカタビ(地下足
袋)もそこで作っていたし。そういう工場だった。
そこでおじいさんは地ならしをしていたんですか?
地をならすんだよ、地面、地面を。
一緒に働いていて事故で亡くなった人はいますか?
私らの現場で働いていて死んだ奴のことか?江原道の人間なんじゃが、カネミ
ツ(金光)、韓国名はわからん。全羅道順天出身じゃ。カネミツ、カネシル(金
城)。死んだよ。
面談 許光茂調査チーム長、金ギョンミ調査官
1次聞取文作成 韓ギルサン
校閲 李秉熙、金ギョンミ調査官
編集・推敲・注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、権美賢調査官
福岡県
175
ウォン・チョンサン(元天常) 男、88歳
1919.8.20 忠清南道唐津郡順城面城北里生まれ。
1942.10 頃
日本福岡県嘉穂炭鉱大分鉱業所82)に炭鉱
労働者として動員される。(23歳)
1945.10 頃 解放後に帰国。
ちょっと聞きたいことがあるから行こ
うと言われたんじゃ
動員当時に住んでいた所はどこか覚えていますか?
村、この村じゃよ、この村に住んでいたんじゃが、あそこじゃ、アンゴル、アン
ゴルという所に住んでいた。ここを越えた所に。82)
その時は誰と一緒に住んでいたんですか?
その時は早くに父親を亡くして、母親と兄と兄嫁と4人で住んでいたんだ。
82) 福岡県嘉穗郡大分村に日本製鉄嘉穗炭鉱があり、嘉穗炭鉱の下に上穗波鉱業所と大分
鉱業所があったが、1970年に廃坑となった。嘉穂郡は現在、飯塚市に統合されている。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
176
4人で住んでいたんですか?それで一緒に住んでいて誰かから「徴用に行
け」というふうに話がでたようですね。
「行け」と言われたんじゃなくて、暮らしが…。生活が苦しくて人に雇われて
働いていたんじゃ。雇われで働いていて、昼間畑でその時何かを植えていたん
じゃよ。ある人が来て村のことだの何だの言って、「ちょっと聞きたいことがあ
るから行こう」と言われたんじゃよ。
おじいさんにですか?
うむ。それで行ったさ。行ったら何も聞かれずにそのまま放っておかれて。そ
れで夕方になって、どこからかまた何人かが連れてこられて、行こうと言われ
て行ったら、そのまま唐津郡だったんじゃよ。
唐津郡に行ったんですか?
うむ。郡に行って、郡に行ったらある旅館に連れて行かれた。その時あちこち
から人が集められて、たくさんの人がいた。
沢山の人がすでに旅館にいたんですか?
うむ。それで一晩寝て、朝ご飯を食べてお昼頃になったら、出てこいと言われ
て。トラックに乗せられて。そのままどこかに連れて行かれたんじゃ。
旅館では自由に出入りすることはできなかったんですか?
できなかった。門番がいて、そこを出ると逃げると、許可をもらって出たんじ
ゃ。
門番は日本人でしたか?
韓国人だよ、みんな。じゃが、連れに来た人は日本人じゃった。
福岡県
177
連れに来た人、引率者は日本人だったんですね?
二日目の昼に二人の日本人がわしらを連れて釜山に…。釜山じゃなくて禮山に
行って新禮院に行き、そこからまた汽車に乗って釜山に着いて、寝て起きたら
そこで…。
釜山には汽車に乗って行ったんですか?
うむ。釜山で降りてある旅館に入ったんじゃ。ああ、その日本の奴は実に韓国
語が上手じゃった。二列にずらっと並ばせて「お前の名字は何だ、名前は何
だ?お前の父親の名前は何だ」と。そりゃもう流暢な韓国語で。もしつかえた
り失敗しようものなら「こいつは何番目のようだな」、そういうふうに言いなが
ら調査をしていた。
ああ、その日本人がですか?韓国語が上手なんですか?
とても上手じゃったよ。それで一晩寝て、そしてまた出ろと言われて出たら、
その、船が。大きな船じゃよ、今でいうアパートみたいに、家みたいに高いの
がそびえ立っていて…、それにみんな乗って行くんだと言われた。そこに詰め
込まれて。それも昼じゃなくて夜じゃよ。夜ぶち込まれて、そのままみんなず
らっと立って押し込まれたんじゃよ。
唐津から来た人だけ乗せられたんですか?
いいや、数百名じゃよ。3階建ての船じゃった。一番下の舟倉にぶち込まれた。
みんな乗せ終わると、札を作った。各自の部屋があるんじゃが、部屋ごとに、
一部屋なら一部屋に。それと乗り終えると、麦をこのくらい二つずつしっかり
と締めてあるんじゃが、それは何かというと、もし船に何かあった時に、それが
わしらの命を助けてくれるということじゃった。それでそいつを、手をこうやっ
て前に充てて結ぶやり方を練習させられた。救命帯じゃよ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
178
救命チョッキのことですね?
幅がこのくらいで、まくらのようなこのくらいのものを前にこうやって。それだ
けちゃんと浮かせて締めれば死なないと。浮くから。そうやって夜通し船が進
んでいった。
唐津から何人の人がそこに乗ったのですか?
わからんよ。そんなのわかるかい?
釜山まで行くのにたくさんいたじゃないですか?
たくさんいたよ。たくさんいたが、唐津だけじゃなくあちこちから来て行ったか
ら、どこの人なんだかわからんよ。じゃが、順城面からはその時11名が行った
んじゃよ。
順城面から?
十、十人だったかな。順城面の人が、ええと阿贊里から4、5人ぐらい。
名前は覚えていますか?
その人は死んだらしい。ハン・テ○という人と、金ス○という人と…。金ス○と
ユ・ジェ○という人と…、後の人は名前もわからんよ。それで一緒に日本に行
って、1週間訓練をさせられたんじゃ、わしらは。
どこに到着したんですか?
ええと、下関。下関に着いたら降ろされて、門司83)という所がある、門司。
83) 門司区。福岡県北九州を構成する7区の一つ。1963年に5市統合により以前の門司市地
域が現在の門司区となっている。日本九州の最北端。
福岡県
179
ええ、門司がありますね。
下関という所から門司に行ったんじゃが、その門司を渡る川があるんじゃが、
川にトンネルが掘ってあった。
トンネルが掘ってあったんですか?
うむ。そこを汽車が通るんじゃ。汽車に乗って門司で降りて。そしてトラックに
乗って行ったんじゃ。
下関で降りて門司に行った人は何人でしたか?
その時は唐津郡の人間ばかり行ったんじゃが、60人くらいになっただろうよ。
はっきりとはわからんよ。そこで1週間訓練を受けた。集まると並ばされて。
着いたのはどこですか?
炭鉱じゃよ。
炭鉱に到着したら一列にずらっと並べと、そういう感じだったんですか?
それで部屋にぞろぞろと入って、部屋に入ると、1部屋に14人ずつ入れられ
た。14人ずつ入れられたんじゃが、そこで食事もしたし、寝もしたんじゃ。二
日目からは訓練を1週間受けた。今で言う号令じゃよ。「キオツケ(気をつけ)」
「ナラベ(並べ)」、こんなふうに。
「並べ!」こういうふうにしたんですね?
そう。ナラベ! 何日間かしたよ。
それはなんの訓練ですか?
やつらは働かせるといっても、ただやみくもに働かせたんじゃない。まず体
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
180
操みたいなものをして。「キオツケ!ナラ
ベ!」、一通りやって、しばらく運動してか
ら働かせたんじゃ。そうさせるためにやっ
たんじゃ。それをやってから各自仕事に
ついて…、何日間か訓練した後に各所に
配置されたんじゃよ。
配置されたんですか?
各坑に。炭鉱じゃよ。穴に。穴の中。その
炭鉱は日本福岡県嘉穗郡大分村、大分鉱
業所。 分けるの「分」という字。大分鉱
業所じゃよ。
住所まではっきり覚えているんですね?
そりゃ覚えているよ。
手紙を家に送ったりしましたか?
手紙も書いたよ。その時、飯場の主人は、下の名前はわからないが、名字は井
上という人じゃった。井戸の井に上下の上。日本語で井上といった。その人が
飯場の主人じゃった。
飯場の主人だったんですか?
うむ。じゃが、おじさんと言った。オジサンと呼んでいたんじゃ、オジサンと。
その人は朝鮮人ですか?日本人ですか?
日本人じゃよ。それでそのうち解放になって。解放になったことだって「解放
だぞ」と知らせてもくれないから、わしらが自分達でラジオを聞いて、ええと、
現在もバス停留場の名前が残る大
分坑 (調査1課 李秉熙調査官撮影)
福岡県
181
どこかで聞いてわかったよ。解放は、日本人が降伏したのは8月14日じゃった
よ。8月14日9時。
その話はもう少し後でして頂いてですね、その炭鉱で働いていた時のお話
を聞きたいんですが。坑道に配置されたじゃないですか。朝何時に坑道に
入るんですか?
その炭鉱は。他の所は3交代する所もあるんじゃが、わしらは2交代じゃった。
朝と夕方に。2交代じゃったが、他の所は3交代の所もあった。朝7時、今で言
う7時に行って働いて。
夕方は?
夕方は…、昼間勤務の人は4時か5時になると出てくるんじゃ。そこに行くと採
炭といって炭を掘る人は、行くと配置されてノルマを決められる。お前、今日
はこのくらい掘れと言って。クルマ(トロッコ)が1台1トンなんじゃが、例えば「5
箱掘れ」と言われたら 5箱分掘らなくてはならないんじゃ。そうなったらそこで
一所懸命掘らなくちゃならん。それだけ掘らないと出られない、掘れないで出
てくると、その日の日当ががくっと減ってしまうんじゃ。
石炭を掘りに入るんですか?
そうじゃよ。石炭を掘るんじゃよ。石炭を採るんじゃ、掘って。
一日のノルマをこなすと何か徴表のようなものがもらえるんですか?それ
とも帳簿のようなものに書かれるんですか?
帳簿に書くんじゃなくて、やれと言われた通りにしたら、ミクミ(見込み)とい
う、わかりやすく言うと賞金をくれるんじゃ。一日に掘れと言われた量を掘っ
たら、何十円何十銭と書いてある錢票を切ってくれるんじゃ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
182
ああ、伝票を切ってくれるんですね?
それで、それを持って出てきて…。それをもらうのを楽しみにして、がむしゃら
にやるんじゃ、それをもらおうと。それができなきゃ労賃だってがくっと下がる
んじゃ。
給料をもらったらそれを家に送ったんですか?
送ったさ。送る人もいたし、預金する人はそこで預けて…。預けた人もいた。
じゃが最初のうちは給料をもらえるといってもいくらにもならなかった。飯が
ちょっとしかもらえなかったから間食代で全部消えてしまったんじゃよ、間食
代で。間食代に使って。仕事しても力が入らないんじゃ。そう!例えば、これく
らいのご飯を食べていた人がほんの僅かのご飯しか食べられないから物を持
って立ち上がることすらできないんじゃよ、力がなくて。だから仕方なく間食
するようになるんじゃが、それ(給料)が間食に消えてしまうんじゃ。残りはいく
らも残らんのじゃよ。
間食は誰から買って食べたんですか?
そこに行くと商売している人達がいっぱいいるんじゃよ。日本人もいたし、韓
国人も飯屋をやっている人がいて、いろいろと売る人がいた。
では間食をするために外に出るのは可能だったんですね?
遠くには行けなかったが、営內84)ではできた。
食事がとても足りなかったとおっしゃいましたが。
足りんかったよ。
84) ここでは炭鉱区域内を指す。
福岡県
183
どんなご飯を食べましたか?
飯だなんて…、あれはお世辞にも人間の食べるものだなんて言えんよ。一体
どこからあんなに沢山の豆粕を持ってきたんだか…。豆粕のことを韓国人たち
は、初めて食べるこの食べ物を「大豆粕」と呼んだ、大豆米と。大豆米と名前
をつけて。それに平麦飯とちょっとの米を混ぜてそのまま食べたんじゃよ、な
んとも滑稽じゃろ。
犬の餌みたいですね。
犬の餌はやわらかくしてくれるじゃろ。あれは柔らかくもなかった。犬の餌はわし
が今やわらかくしてやっておる。それとタックァン(たくわん)やキムチ3切れを皿
にのせて茶碗によそって。汁だって、塩汁で栄養なんてこれっぽっちもないもん
をもらって。それと、かぼちゃを薄く切ったもの。白菜の葉っぱを薄く切って入れ
て作ったものをくれた。お粥じゃよ。お腹がすいているから、死ぬまいとして食
べるんじゃよ、そういったものを食べて仕事をしていたんじゃ。外に出て買い食
いした時はあまりにも美味しくて、一体どのくらい食べたら入らなくなるだろうか
と食べ続けてみたら10皿も食べてしまったんじゃよ、10皿も。一皿60銭するんじ
ゃが、10皿も食べたよ。その時はお腹いっぱいになった。一日の給料が1円50銭
じゃよ、1円50銭。じゃが、その食堂の飯は80銭じゃった。
食堂でお金を払わなくてはならなかったんですか?
だから、やつらが勝手にピンハネして、それを除いた残りを給料としてもらっ
ていたんじゃよ。
1円50銭から80銭を抜いたということですか?
そうじゃとも。それでそいつのせいで、送ると言ったって…。10銭なんていくら
になるっていうんじゃ。間食するしかないじゃろ。残りなんてあるかい? だから
何かする、送ると言ったっていくらにもならんよ。行って苦労しただけじゃよ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
184
みなさんの話を聞くと豆粕も少ししかもらえなくてお腹がすいていたとお
っしゃっていましたが…。
全くじゃよ。どんぶりというのは底がせまくてこうやったものだよ。そこに目盛
りまであって。それで皿をこうやって出すと、たくあんがさっと出てきて、それ
を箸でぎゅっと押して、よそって食べるといくらにもならん。そんなものを食
べて生きてきたんじゃよ、わしらは。
昼間働きに行く時、貨車に石炭をいっぱいに載せるまで出られなかったじ
ゃないですか。炭鉱の中で昼食はどうしたんですか?
弁当を持って行ったんじゃよ。その飯は…、木で編んでこうやって作ってベン
ト(弁当) それとキムチ。弁当と水筒を一つ持って、そうやって食べて働いて出
てきて…。出てくる時見ると、みんな疲労困憊してその姿と言ったら…。炭で
真っ黒になって眼だけ真っ白にぎらぎら光って、見れたもんじゃない。人とは
言えんよ、それは。
当時炭鉱にいて後で塵肺症のような呼吸障碍を患って、それでたくさん亡
石炭から使えないものを選別している選炭場の様子
福岡県
185
くなったと聞きましたが。
いろんな人がいるさ。パーキー病*という病気になった人も、いろんな人がい
た。それと天井が崩れてケガをした人もいたし。
大きな事故があったんですか?
事故が…。松嶽面から来た人3人が死んだよ、松獄面の人が。
名前は覚えていますか?
わからんよ。その人たちは夜間働いていてわしらは昼間働いていたから。い
や、わしらが夜で、その人たちが昼、そうやって1週間ずつ交代していたんじゃ
よ。入ったら事故が起きたと言われて。一度に4人が死んだらしい、その入口
で。じゃが、その最中にシナムの人、松獄面デギョの人が一人死んで、ウバン
の人も死んで。そうなったんだ。
60人全員が大分鉱業所で採掘する仕事だけをしたんですね。着いた時他
の朝鮮人もいましたか?
あ!慶尚道栄州の人たちが来て2年経っていたが、3年経つ人もいたのう。慶尚
北道栄州の人たち。それとわしらがいて。義城からも連れて来られていた。そ
の後、忠州、それとどこから連れてきたんじゃったか…、とにかくいろんな所か
ら連れてきた。
新しく入ってきた人もいましたか?
うむ、他にもいた。唐津郡からもわしらが来てから、1か月後にもう一回来て。
小遣いを少し貰うと、空腹で何か買って食べたとおっしゃいましたが、平
日は外に出られなかったのではないですか?
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
186
そうじゃよ。3か月は営内を歩けない。3か月経ってやっと営内を歩き回れるよ
うになるんじゃ。言うなれば、軍紀のような決まりが作られていたんじゃ。
昼間仕事が終わると小遣いを持って営内に出て、飯場のような所で買い食
いして戻ってきたということですか?
日本人の店にも韓国人の店にも行って食べたが、日本人の店が多かった。
日本人の店が近所に多かったんですか?
みんな日本人たちだからね。日本人の店に行くと、その、うどん屋。うどん屋に
行ってうどんを食べて。
炭鉱や村に日本人の男の人は多かったですか?
多かった。うむ。一緒に働いたから。
日本人の男たちの年齢はどのくらいでしたか?
わしらよりも年上もいたし年下もいた。いろんな人がいた。それにここの韓国
人みたいにお金を稼ぎに来ていた人もいたし。だいたいがお金を稼ぎにきた人
達じゃよ。それと軍隊に行く年齢の人は軍隊に行って。それ以上の歳の人と幼
い人は報国隊として来て働いていた。たしか19か20歳くらいじゃったか。
おじいさんが行った時の年齢はどのくらいだったんですか?
あの時、24歳で行った。
その時何年度だったか覚えていますか?
あれは何年じゃったか…。たしか昭和17年(1942年)だったはずじゃよ。17年に
なって少し経ってからじゃった。秋の収穫がほとんど終わりかけた頃じゃ。
福岡県
187
だいたい10月の終わりですね?
そうじゃのう。日本に行く時、稲を刈り取り始めていたね。
当時日本に行ったら寒くはなかったですか?
ところが九州は寒くないんじゃ。そこの人たちは冬でも白菜を畑で作って食べ
ているんじゃよ。
では、暖かかったのがせめてもの救いでしたね。
うむ。その点はよかった。
北海道のような所では寒くて夜も眠れなかったということですよ。
相当寒かったらしい。阿吾地85)のような所は雪が何十メートルも降るらしい
が、わしらはその、炭鉱には電気があったから温かかった。炭鉱に入ると温か
いんじゃが、夏は寒いんじゃ。それで夏は長袖を着ないといけなかった。
そういう服は会社がくれるんですか?
うむ。くれたよ。服に名札をつけて。
大分鉱業所とおっしゃいましたが日本語でなんというんですか?
炭鉱の名前?カスグン(本来の発音はカホグン)タイブン。タイブンムラ。タイ
ブンタンコ(大分炭鉱)。
福岡県には炭鉱がとても多くて、名前もいろいろですね。
多いよ。福岡県、そこの炭鉱は福岡県じゃよ、フクオカ。石炭じゃよ。炭鉱と言
85) 阿吾地炭田. 咸鏡北道恩徳郡北側の忠徳山のふもとにある炭田。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
188
えば、ある炭鉱は石から石炭だけ取って後は捨ててしまうんじゃ。取り除かれ
たものを積んでおく所が峨眉山86)よりも高い所もあったんじゃ。
それを何と言いましたか?
ボタブラ(ボタ山)。ボタ、ボタブラと言った。リヤカーにこうやって積んで上がっ
て、捨てて降りてきた。山の上にまた山を作ったんじゃ。石だけ。使えない石を。
使えない石で山を作ったんですね。
うむ。石炭に使うものは持って行って。
地下坑道にはどのくらい入ったんですか?
どのくらいかって?数キロ入って行くんじゃよ。長崎県のような所では海の中
で働いていると上で船の通る音が聞こえたらしい。雨が降るとポタポタ垂れて
きて。
そこで何年間働いたんですか?
2年間じゃったか。解放になって戻ってきたから。その時炭鉱で、みんなラジオで
聞いたんじゃ。体を洗って出て来たら、ラジオで (放送が)流れてきたんじゃよ。
ラジオで解放になったことを聞いた時、日本語はできたんですか?
うむ。だいたいは。
日本にいる時、家族と連絡はとっていましたか?
いいや、手紙を送った、手紙を。
86) 峨眉山は中国の四川省にある山(3099m)と忠清南道扶余郡外山面にある山(575m)だ
が、口述者の言う峨眉山は扶余郡にある山と考えられる。
福岡県
189
最初、道で連れてこられたじゃないですか?その時家族は知っていたんで
すか?
知らんじゃろ。じゃが、村の人たちは知っていたじゃろうよ。「あの人が連れて
行かれた」と。
大分炭鉱で日本語が少しわかるようになって、初めて手紙を書いたんですか?
行くと日本語にしてくれる(訳してくれる)。最初は聞いて(手紙を送った)。
そこにいた人が教えてくれるんじゃよ。
ラジオを聞いて解放を知ったんですね。
14日の9時に、服を着替えてラジオの前に膝をついて座れと言われて、話を聞
いた。韓国も、朝鮮も独立させて、ソ連の樺太87)というそこも明け渡して満州
もそうだと言ったようじゃった。解放になったと。じゃが、解放とは言わないで
我々が勝利したと言ったんじゃ。20年後に再び活動するんだと。「20年間準備
して20年後にまた戦争をする」こう言った。
解放後にどんな仕事をしましたか?
それからは何もしなかったよ。日本人も休んで。
食事はどうしていましたか?
それでも食事はくれていた。
どのくらいそうやっていたんですか?
陽暦の8月になって、陰暦だと9月に帰ってきたんじゃよ。後から帰った人はわ
87) 現在のサハリン。日本語で樺太と呼んだ。1905年日露戦争に勝利した日本が緯度50度
以南を日本の領土とした。第2次世界大戦後ソ連領、ロシア領となった。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
190
からんが、わしらはうんざりで。わしらはここから出ようと考えて、あちこちさ
まよったら、博多という所に、パクダ(博多)市88)じゃよ。そこに行ったら朝鮮
に行く船があるという。それでその時350円を払って。それに乗って蔚山で降
りて家に戻ったんじゃよ。
350円は大金ですね。
大金じゃよ、その当時は。
ヤミベ(闇船)に乗ったんですか?
密航船じゃよ。じゃが、船も小さくて150円の席を買った。5人が風呂敷に荷物
を持っていた。だいたい75人ぐらいじゃったか…、100人ぐらいが乗ったようじ
ゃった。
漁船だったんですか?
いいや、機械の船じゃよ、機関船。それで蔚山に着いて。船で万歳を叫んで、
88) 博多。福岡県博多区。以前の博多市地域を指し、博釜連絡船が往来する港だった。
大正時代の博多市の様子。
福岡県
191
韓国人が出てきて万歳を叫んだ。そこに日本の部隊の本部があったんじゃ。一
晩寝て起きたって車なんてあるかい?あるわけないじゃろ。それで部隊に行っ
て送ってくれと。行ったら奴らが「なんだってお前らは騒ぎ立てるんだ」と言
って怒りまくってるんじゃよ。「お前らが騒ぎ立てた」と言うから、「ああ、そ
れはみんなが興奮しているからでしょうがないじゃないか。我々は苦労してこ
こまで来たんだから、わしらをどうか送ってください」と。そうして車、トラッ
クを出してくれて釜山まで来たんじゃ。釜山に来て…その話はまだ話してない
じゃろ? 釜山では日本人が朝鮮から日本に戻ると言って集まっていた。釜山の
人間も一か所にいて、糞をするところもない状態じゃった。初めトイレに行っ
て糞をしてもトイレを掃除する人がいないから、糞があふれて。それと寝ると
ころがないから、そこらじゅうに紙やかますを敷いてそのまま寝た。(苦労は)
言い尽くせんよ。そうして一晩寝て汽車に乗って来たんじゃ。汽車に乗って天
安に来たら、天安もそう、同じようにめちゃくちゃじゃった。
釜山から天安に行く時、汽車代は払いましたか?
汽車代は払わなかった。出さんかった。
釜山で1泊した時、食事はどうしたんですか?
それが、どうやったのか、米を持って来た人がいて米があった。その人から分
けてもらって、一緒に食べたんじゃよ。
炭鉱で一緒にいた人もみんな博多から一緒に帰国したんですね?
そうじゃよ、一緒に。天安に来て、そこでも一緒に泊まって家に戻ったんじゃ
よ。そう、それで天安に来たら、韓国人が笠をかぶって駅務をしていた。笠を
かぶって駅前で交通整理をしていたんじゃ。それで汽車に乗って戻ってきた。
新礼院に来るときじゃったか、そこで新礼院を回って行くと遠回りになるか
ら、川を渡って行けばいいと言われて船着き場に行って、そこで家まで歩いて
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
192
いったんじゃよ、夜通し。
今の蘇来大橋がある所まで来たら川があると?
その時入ったら、水の深さが膝くらいまでじゃった。膝まで届いた。
潮がひいてからじゃないといけなかったでしょうね?
岩だらけで。石をポンポン跳んで渡ってきた。時々広い所に落ちて、膝がずぼ
っとはまって…。
お兄さんは徴用に行かなかったんですか?
行って来たさ。兄さんも解放になってわしより早く帰ってきたんじゃが、兄さ
んも福岡に行っていたんじゃよ。福岡県、福岡県嘉穗郡。
徴用に連れて行かれる時、紙切れみたいなものを見せられませんでした
か?
くれんかったよ。面事務所に行って聞きたいことがあるから行こうと言われて
行ったんじゃよ。
聞きたいことがあると言った人は朝鮮人だったんですよね。
そうじゃよ。
道で声をかけてきた人は誰ですか?区長89)ですか?
いいや、面書記じゃよ。
89) 日帝時代に各村を一つの区域にし、その区の長を区長と呼んだ。現在の統長、里長がこ
れに該当する。日帝時代に区長は最末端の行政院として朝鮮総督府-道庁-郡庁-邑面事務
所-区長の順で業務が遂行された。区長は村の事情を最もよく知っていたため、警察や会
社員と同行し、直接村人を動員するのに一役買った。また、強制動員対象者は区長の個
人的な判断で決められたこともあったため、村人の反感を買ったりした。
福岡県
193
その面書記の名前は覚えていますか?
その人のことはよくわからんよ。その人はその時面で小使90)をしていて、イ何
某といったんじゃが…。江景里の人間なんじゃが…。その時松山面の募集係は
イム・○○と言ったんじゃが、亡くなったよ。イム・○○。
面書記は李何某という人ですか?
うむ、わからんよ。李なのか金なのかわからんよ。唐津郡龍淵里の人間じゃっ
たが。面で小間使いをしていたと。
おじいさんの日本名はどのように発音しますか?
わしの名前?わしの名前は元村じゃよ。家が(創氏改名で)元村と名乗ったか
ら。名前が天常じゃから、モトムラ テンジョー、元村天常。
90) 官庁や会社、学校、店などで雑用をさせるために雇った人。「サドン(小間使い)」「サ
ファン(使い走り)」と呼ばれた。
面談 • 校閲 許光茂 調査3課長、
1次聞取文作成 沈スンア、
編集・推敲・注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、権美賢調査官
面談後記
2005年10月14日、李天求おじいさんが、直接、委員会を訪問して口
述に応じて下さった。口述は委員会会議室ですすめられた。口述面
談には口述者と面談相手だけが参加したので、比較的静かで冷静な
雰囲気の中で口述ができた。口述者は強制動員の経験を、自信のあ
る語調できちんと伝えてくれた。健康状態も良く見えた。
福岡県
195
イ・チョング(李天求) 男、80歳
1927.3.10 忠南・舒川郡韓山面蓮峯里にて出生
1942.9 日本、福岡県、日本製鉄株式会社八幡製
鉄所91)に動員される(17歳)
1943.
製鉄所を脱出して若松の今村製作所92)で
雑夫として仕事をする
1945.9
解放後 帰国
行くってどこへ行く?夜も昼も日本憲
兵が銃を持って監視するのに
山には一人で登りますか?91)92)
登って行くと、女たち、男たち、おばあさん、おじいさんが立ち並んでいた。医
91) ヤハタ製鉄所(八幡製鉄所)。福岡県北九州市戸畑区と八幡東区にある日本最初の近代製
鉄所。1901年に「製鉄所」とだけ呼んでいたものを何度も拡張し、他の色々な製鉄所を
合併し、日本製鉄株式会社八幡製鉄所になった。1941年からは航空機用鋼材を増産する
など軍需物資の生産に拍車をかけた。1950年、さまざまな製鉄所に分離し、1970年、再
び富士製鉄(株)と合併して新日本製鉄(株)になった。
92) 今村製作所若松工場。1923年に作られた福岡市若松区にあった軍需工場。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
196
師が歩くことが良いと言うので、その、山へ、山へとこのように。 朝3〜4時に
出かけて登ったよ。
そうなさって、更に体が傷つくのではないですか?
だから、自分の体力に合うように入口に行ってくる人、中間まで行ってくる人もい
て、また、頂上まで行ってくる人もいる、自分の体力通りに按配して適当にすべ
きだよ、無理しないということだよ、倒れたりすると大変なことになるから。
おじいさんが日本に行ってこられたことに対して、気になることがありま
すが。
そうでしょう、確認をしなければならないよね。その当時に行ってきた人の話
を聞いてみればすぐ分かるから。負担に思わないで尋ねて下さい。皆知ってい
る通り、体験した通り、全部話すから。
動員される時、どこに住んでおられましたか?
その当時は故郷に住んでいましたよ。忠清南道舒川郡韓山面蓮峯里285番地。
旧除籍謄本を提出して下さって、私どもがとても役に立ちました。
それを出さなければならないと言われ、それで。面事務所に行ったところ全
部抹消させられてしまってたよ。全部消されてしまったって。面事務所も行
って、郡庁にも行ってみたがそうだった。そこに兄弟も住んでいて、故郷だか
ら。多分、数十代々で私が韓山李氏で、先祖の故郷だから、1年に1,2回ほど行
きます。
おじいさん、お誕生日が1929年3月10日になっていますね?
はい、本来戸籍上ではそうなっていて、それに合うように謄本にも載っている
が…。実際の年齢は27年生まれです。ところでここに咸鏡北道と書いてあるで
福岡県
197
しょ? ここに。咸鏡北道茂山。出生はここで、お父さんお母さんがここで私を
生んで、約1〜2年住んで、本来の故郷に来たんだよ。忠清南道に来て、もうそ
の当時にはそう言っていたよ。出生申告に対して神経を使わなかった。7兄弟、
8兄弟つくれば半分くらい生きのこれば幸いで、二、三人は死ぬから。予防接
種もなくて、伝染病もなくて、それで。申告は1929年生まれなのに年齢は27年
生まれだよ。それで78歳になっていても、戸籍年齢は77歳で。その当時、私の
年は17歳で。17歳なのに、もうその当時には面事務所で戸籍係と巡査だよ。今
で言えば警察。戸籍係職員と巡査と一緒に出て来たんだ。出てきてその村、今
は里長と言うがその当時は区長93)と言っていました。区長を探して、この人に
家を教えてやってくれと言って家に連れて来たよ。そうしてそこで話をするん
だよ、日本語で。巡査は横にいて面書記が「君はもう徴用に徴発されたから。
何日までに面事務所に来なさい。」と言うんだよ。逃亡すると両親が苦痛にあ
うし、農業をしなければならないから、そうしろと言われれば言われる通りに
して、死ねと言えば死ぬということだよ、仕方ないから、その当時は。
おじいさんに徴用命令が出たのですか?
そう。それで村内で二人選ばれたんだ。それで徴兵に行った人もいて、徴用に
行った人もいて、労務者に行った人もいて。 また、今になってみると挺身隊だ
よ、通りすがりの娘がいれば連れて行くんだ。連れて行ってそれがもう挺身隊
という、テシンタイ、日本語でテシンタイと言うんだが、テパン(大阪、オオサ
カ)の工場に就職させてあげると言ったと。大阪といえば日本でその当時、工場
地帯なんだよ。今でもそうなのかわからないが、大阪の紡織工場に就職させて
93) 日帝時代、各村を一つの区域にしてその区の長を区長と呼んだ。今の統長、里長がこれ
に該当する。日帝時代に区長は最末端行政員として朝鮮総督府→道庁→郡庁→邑面事務
所→区長の順に業務が進められた。区長は村の事情を一番よく知っているので警察や会
社職員らと同行して、直接村人を動員するのに一役買った。また、強制動員対象者は区
長の個人的な判断で決められる場合もあったため、村人から怨まれたりした。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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あげるから何時まで面事務所に来いと。何でもいいから来いと。行けば、行け
ば分かると、行かなければ分からないと、それがもう日本の奴らの船に乗れば
中国にも行って、北海道にも行って、南洋群島というだろう? 今はもう南洋群
島94)がどこにあるのかも分からないが、今考えるとインドネシア、マレーシア、
ニューギニア、ニュージーランド、そこらが南洋群島だ。その当時、破竹の勢
いで日本が進撃して旗を立てれば日本の土地であるから。その当時、ヤンサル
(安南米.訳注:南京米)も送って、軍隊では豆かす、このように中国の人はダイ
ズ油をよく食べるだろ? だから油をぎゅっと絞って、残ったもの。列車に積ん
で来ると、するとそれを持って行ってヤンサルと交換するんだよ。私たちが生
産した米は日本に持って行ってみな食べて、ヤンサルと豆かすを混ぜておいて
徴用や徴兵、工場の人たちにご飯として全部食べさせていたんだよ。そうして
おいて・・、もっと語り続けましょうか?尋ねられたことだけ答えるのか、私が
すべてやるのか。ちょっと私の話を聞いてみて下さい。それで2日だったか3日
あとで、面事務所に行ったよ。面事務所に行ったら、だいたい10人くらいにな
ったよ。
村内で一緒に行った人は誰ですか?
村内の友人の李ファン○だが、その人は死んだだろう。あの人と一緒に、あの
94) 現在の太平洋(ミクロネシア)地域を示す。日帝時代には‘内南洋’または‘南洋群島’と呼ん
だ。第1次世界大戦が勃発した後、1914年10月に日本海軍が上陸して1919年に国際連盟
によって日本の委任統治領になった。以後、1944年連合軍が上陸するまで日本の支配を
受けた。朝鮮人が1910年代から南洋群島に労働者として仕事をし始めたが、その数は数
百人に過ぎなかった。中日戦争勃発以後、日本は臨戦体制を強化しながら、この地域に
も港湾と飛行場建設などのための労働力、サトウキビ、タピオカなどを栽培するための
朝鮮人労働力、燐鉱の採掘作業のための朝鮮人労働力が必要になった。その結果、1939
年から朝鮮人が動員され、その後戦争が本格化した1940年代からは農業労働力と軍人・
軍属・慰安婦などの用途で朝鮮人が動員された。この地域は戦争の砲火が激しかったた
め、朝鮮人の被害が大きい地域でもある。
福岡県
199
人も同じ宗氏だが遠い親戚で、同じ村内で暮らしたよ。 私たちの村内はおよそ
80その程度で。
令状のようなものを持って来ましたか?
違うよ。ただ来いと言って、名前を書けと、名前。その時私の名字が牧山であ
るから。私の牧は牧隠(李穡)おじいさんの子孫であるから、牧字、牧山字。マキ
ヤマ(牧山)。私たち韓山李氏はマキヤマ、牧山。「マキヤマ、オマエ、オマエノ
ナマエヲカケ(牧山、お前! お前の名前を書け)」。これが何かというと、「君、君
の名前をここに書け、用紙に。」それが何か徴兵通知書、徴兵でなくチョヨ(徴
用)95)通知書。徴用通知書が何かというと、何という字だったか、初等学校も通
わなかったから、昔は普通学校ですよね。普通学校、普通学校も通えず、簡易
学校というのがあって、昔の簡易学校に約1年も通えず、でも自分の名前は書
けたよ。それで自分の名前を書いたら、「オマエハ、アシタ(お前は明日、君は
明日)、明日何時までに、面事務所に来い」と、はい分かりましたと。それで私
たちの村内から二人、面でみなが集まったら15人になったよ。私たちの韓山面
内に約18個の村があったから。それでその人たちが引率して郡へ行くんだよ。
郡になると人が相当多いだろう。各面から一箇所に集結したから。郡から汽車
に乗って大田へ行くんだよ。忠清南道の道庁が大田にあったから。大田に集結
して釜山に行くんだよ。
大田に集結した時、何人くらい集まりましたか?
何百人かなったよ。数百人くらいになったよ。
その時引率した人は誰ですか?
日本軍人たちだよ。現役軍人たち。軍服を着て肩章を付け、拳銃を付け、長い
95)
徴用の日本語発音。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
200
刀を身に付けて。何か引率者は、ミナライシカン(見習士官)96)だったよ。下士
官、下士官が総隊長で。下士官だよ、それが。
ミナライシカンが下士官でしたか?
はい、そうだよ、日本語で。金ひも一つに星一つ。四個まであるが、星一つ。
金ひもはどのようにできましたか?
金ひも? 肩章がこうなって。このようになってここに星一つならば、ヘイチョ(兵
長)97)、これはゴチョ(伍長)98)、その次に星二つ、星三つ、星四つ、我が国でいう
と特務上士だよ。金ひもの中に星四個までが特務上士。
星一つが何ですか?
ゴチョ、ゴチョ(伍長)。
伍長が星一つですか?
はい、星一つ、このひもの上に。日本の軍隊階級がそうだよ。
星二つは何ですか?
星二つは何か分からないが、とにかく星二つ、星三つ、星四つまであって。星
四個で、我が国でいうと特務上士。ここから一つ上がれば少尉、少尉になる
よ。ショイ(少尉)99)、チュイ(中尉)100)、タイイ(大尉)101)、少佐、中佐、大佐. その
96) 見習士官の日本語発音。
97) 兵長の日本語発音。
98) 伍長の日本語発音。
99) 少尉の日本語発音。
100) 中尉の日本語発音。
101) 大尉の日本語発音。
福岡県
201
次にワンスター(One Star、少将)、ツースター(Two Star、中将)、このように上が
るんだ。
その下の兵士はどのようになっていますか?
兵士はそのまま、土台に何もなくて、土台に。その次に星一つが二等兵、一等
兵、上等兵、これがジョトヘイ(上等兵)102)だよ。ここが。ニトヘイ(二等兵)103)、
ジョトヘイ(上等兵)その次にここ、ヘイチョ(兵長)。金ひも一つがヘイチョ、ヘ
イチョの次がゴチョ。ここから下士官だよ。私たちの国で言えば兵長で、全部
兵長の下で、ヘイチョ、金ひも一つから、星四個まで。
星四個までをミナライシカンと呼びますか?
そう、ミナライシカン。そうすると自分の職級にしたがって長い刀を身に付け
て、拳銃を持って、引率するのはミナライシカンで、ミナライシカンの下に普
通の一般兵士たちがいるんだ。日本軍人が制服を着て人々を引率するんだよ。
下手すると横っ面を引っ叩かれる。その時から固まってしまい、そのまま全然
身動きができないから。理由がどこにある? 話もまともに、日本語は少し分かる
が、良くは理解できなかったから。
会社からは引率者が来ませんでしたか?
会社からはない。会社が何か、どういう会社か、尋ねることもできなくて、考え
ることもできなくて。無条件だよ。「コッチコイ(こっち、来い)」と言われれば
来て、「オマエ カエレ(お前、帰れ)」と言われれば行って、「シゴト コッチデ
ヤレ(仕事こっちでやれ)」、そう言われれば無条件で、ここで仕事をしなければ
ならないってことだよ。今のように会社、引率? そんな大層なものじゃないよ。
102) 上等兵の日本語発音。
103) 二等兵の日本語発音。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
202
初めて行った時がいつ頃でしたか?
解放になる前、解放される1年前、ちょうど1年で帰りました。44年9月頃です、9
月頃。22日なのか15日なのか、だいたいその位。そうして釜山に行って、一晩寝
た。ここから朝早く入って行ったから、面も郡も引率して行くから。その時見た
ら、咸鏡道、平安道からも全部みな徴発されてきたよ。その時の人員がどれ程に
なるのか、はっきりは分からないよ。3千人を越えたかな、3千人。ところで釜山
に到着したら、日本の奴らがどれくらい用意周到なのか、その当時はホテルとい
うものがないから旅館、旅館の部屋一間に七人をさっと密着させておいた。そう
しておいて、ご飯はニギリメシ(握り飯)に、そのまま置けば傷むから、ウメボシ(梅
干し)というもの、ウメボシ一つを入れて、一つずつ投げてくれるんだ。それを頭
がおかしくなるように食べるんだ。そのヤンサルと豆かすを混ぜたもの、少し細
いもの。一日、夕方8時にその港に、釜山の何処というのは分からないよ。釜山と
いうことだけは分かるよ。港からすぐだったよ、旅館が。そのまま1小隊、2小隊、
3小隊と整列させられて、人数点呼をしてから、橋に行き、連絡船。その時階段
があるじゃないか。両側に憲兵が、日本軍人がずらっと立っていて、私たちはそ
こに上って乗るんだよ。
初め行った時、服装はどのようにして
行かれましたか?
服装はそのまま。この写真はその時に撮
ったものだよ、その時。
こんなに幼い時、行きましたか?
そうだよ。髪を刈っているからそうだよ。
服は家で作って着たんだよ、木綿の服を
染めておいて。ひょっとしたら見せて上げ
ようと写真を持ってきたんだよ。私は手
当時撮った写真。
非常にあどけない姿だ。
福岡県
203
紙があったが、みな破ってなくしてしまったんだ。また、引っ越しをしたりして
なくしてしまったから。手紙もそうだし、何か徴用の証明になるような物をみ
ななくして、やっと写真、これ一つだけあったよ。参考になるだろうと、見せて
上げようと持って来たんだ。それで、港のそばに旅館を定めたんだ。それから
引率されて連絡船に乗ったよ。その時は関釜連絡船104)だよ、関釜。釜山とシモ
ノセキ(下関)、関釜連絡船に乗ってからは、分からないよ、私たちは地下105)に
いるから。船がこのようにあって、船の下は地下室と同じだよ。それがおよそ5
〜6階になるから、分からないよ。後になってみると分かったが、甲板に出てく
ると両側に戦艦、戦艦というよね、 戦艦が何かも分からないが、砲があちこち
にあって、機関銃を付けたものも両側、後ろにあって、四方を取り囲んで、戦
闘機、ジェット機が上に3機が包囲しているんだ。それでここから8時、朝8時に
発ったが、その時が夕方およそ7〜8時。満12時間かかったようだった。そこで
降りたら、そこにすでに列車が待機していたよ。
列車が待機していましたか?
ハイ、その時はどこへ行くのか、何をしに行くのか分からないよ。やれと言われ
ればやって、こっちに行けと言えば、こっちに行って。それで私は汽車に乗った
よ。任せたんだ、死ねば死ぬし、生きれば生きて。何を言っても通じないし、理
由がなくて。いくらも行かないうちに降りたよ。列車が途中でパッと止まって。
夜中でしたか?
そうだ。そこから発ったのが8〜9時だからシモノセキにモジ(門司)106)というと
ころがあって、モジ、モジ港なんだよ。モジで降りて、そこにワカマツ(若松)ヤ
104) 下関と釜山を行き来する航路。
105) 船艙(船の内、甲板の下にある貨物室)を意味する。
106) 門司区。福岡県北九州を構成する7区の一つ。1963年5市合併で昔の門司市地域が現
在の門司区になった。日本、九州最北端。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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ハダ(八幡)というところがあって。ヤハダセイデツショ(八幡製鉄所)。ミツビシ
(三菱)内にヤハダセイデツショ、八幡製鉄所。それがどれくらい大きいのか、
飛行場の中で軍需品も作って、肥料も作って、爆弾弾丸も作って、みな作るん
だ。その工場の中に船が入ってきて、飛行機が飛んだりした。
行った所がヤハタというのはどうやって知りましたか?
その名前は日本語でヤハダだから、ヤハダセイデツショだから。その時は、そ
んなことも知らなかったよ。話をしてみたら「ア、ココハドコデスカ(あ、ここは
どこですか?)」、ここはどこか(といったら)、「オマエ、ソレモワカラナイノカ?
ココガ ヤハダセイデツショダヨ(お前、それも分らないのか? ここが八幡製鉄所
だよ)」、「お前それも分からない? ここが八幡製鉄所だよ」。そう言ってたん
だよ。三菱、星のようなものが三個あって。「ヤハダセイデツショ、ア、ソデス
カ、ワカリマシダ(八幡製鉄所。あ、そうですか、わかりました)」。それでその
工場の中ではなくて、工場の外で、寮、宿舎だね。
そこに到着したのですか?
はい。そこで寮を定めてくれたんだ。寮がこのようにあると、2階建ての家だが、塀
の外に鉄網がぐるっと囲んでいて、日本の奴らの哨所があちこちにあった。
八幡製鉄所の全景。
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会社の寮ですね?
ウン。そうしてそこで人数を確認して部屋を定めてくれたんだ。1号室は誰々、
2号室は誰々。ここ号数に名前が全部書いて貼ってあって、番号付けて。そこ
で一部屋に七人ずつ入ったよ。
一部屋に七人ですか?
はい。部屋に入ったら部屋もこのように中二階式で、下で二人寝て上で二人寝
て。 部屋は狭いのに人は多いから。中間にこのように欄干があって、下で二人
寝て上で二人寝て。ベッド式でこのようにして、ここで寝て。朝になるとそこ
で食べて、昼は工場に行って食べるんだ。工場に行って食べるが、その時のご
飯が何かといえば、さっき話した豆かすとヤンサルとをスチーム(蒸気)で蒸し
て。上皿秤よ、その時初めて見たが、100グラム、1キロと出てくる秤あるじゃ
ないか。皿を持っていって置いて、飯釜の大きなもののスチームで蒸すんだ。
しゃもじでよそって皿に盛れば300グラムだ。それをぎゅっと押さえればこの
程度しかならない。それとミソシル(味噌汁)107)、味噌汁、茶碗にミソシル半分
貰って、タクァン(たくあん)二切れ、煮豆二つ貰って、それで全部だ。それを
みな食べて、食事が終われば、皆集まれと言うんだよ。集まると人数を確認し
て、工場が近いから。
弁当を持たないで行くのですか?
持たないで行く。そこに行くと引率、皆を引率して作業配置するんだ。私はどん
な配置をされたかと言うと、何をするところか分からない。後になって見ると、ア
ンモニア肥料を生産するところだと言うが、大きいドラム缶のようなもの、長か
ったよ、長いものにこのような穴が数十個ぱんぱんと開けられてあった。それで
後ほど何か工場が稼動して門をさっと開く。開くとそこにカスが残って、棒のよ
107) 味噌汁の日本語発音。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
206
うな長いもの、松明棒のような長いもの、全部つついて出すんだ。私が穴に詰ま
ったものをつついて出すと、機械がまともに稼動するようになるようだったよ。そ
れで何の機械かと言ったら、肥料を作るんだと。アンモニアがどうして、どうな
るかと。ところでこちら側はパート(part)が違って、みな違って、部分ごとに。そし
てその時、米軍捕虜が何百人なのかも分からないが、何百人かの米軍捕虜がい
て。米軍捕虜がいたが、列車が工場の中に入って来るから。何の仕事をさせるの
かと言えば、その一番辛い白灰40キロ、セメント40キロ、石炭、そんなことだけ
させるんだ。それも日本憲兵が指揮監督するんだ。
工場でおじいさんがした事は何ですか?
肥料生産すること、肥料。肥料なのか火薬なのか。火薬でなければ肥料だろ
う。そこで爆弾も出てきたり銃弾も出てきたりしていたから。火薬に近かった。
私たちは雑夫だから。そんな仕事だから。溶接とかそういうものは技術を要す
ることだが、私たちはただの雑夫だから。清掃もして、やれと言うなら言われ
た通りに、穴の掃除をやるんだよ。水を持って行って。
点呼をした時、番号のようなものがありましたか?
私たちはただの一介の小隊だから、マキムラ、担当者が「マキムラ!」と、呼んで。
でなければ「オマエコッチコイ。」(お前、こっち来い)と、このように呼んだよ。
リョチョ(寮長)やショタイチョ(小隊長)は思い出せますか?
どんな名前なのかも分からない。みな日本語を使っていたので、日本語が分か
らないから。ただ聞くことは聞くが。
荷役作業をしましたか?
荷役作業して、荷物を乗せたり。こっちに移動して、あっちに移動して。奴ら
はご飯をどのように与えるのかと言えば、ドラム缶のようなものを半分切った
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207
ものがあるじゃないか。それに残ったもの、だから食べ残したもの。ヤンサル、
豆かす、カボチャ、こうしたものをいくつも混ぜてどろどろとお粥を炊いて、大
きなしゃもじのようなもので。下には火を燃やしてお粥を炊けば、一列にぱっ
と並ぶ。日本の奴らが米軍の非常野外弁当のようなもの、ステン(ステンレスス
チール)で作ったもの、飯茶碗もそうで、汁茶碗もそうで。それらを持ってずら
っと並び立つ。杓子のようなものでよそって、地面に座って食べるんだよ。だ
から、あれやこれやと色々なものは与えなくて、一度食べて終わりだよ。湯気
のゆらゆら立ち上がるのを杓子ですくって、「オマエ カエレ、カエレ(お前. 帰
れ、帰れ)」「お前行け」と言われれば、習慣になって、何かもっと下さいと要
求することもなく、無条件に杓子で一杯貰えば、行って食べて。私たちはその
時タバコを一日に六本ずつ配給で貰ったよ。
六本ずつタバコの配給がありましたか?
ああ、六本、1人当り。私は別にタバコが好きだから、(いや)好まないから。タバ
コをどうにかして米軍にあげるんだよ。それは米軍と一緒になり、一緒に休息
をするから。
米軍と向かい合うことができたんですね?
向かい合うこともできたよ。そしてその当時、どのように意志疎通をしたのか
と言えば、このように見て、軍人がいるか、いないか、監督官がいるか、いない
か、さっと見て、十字架、ハートを描く。すると彼らはもうわかっていたのよ。
私が徴用で捕まってきたのを知ったよ、憲兵の監視下で行ったり来たりと。自
分もそうで、私たちもそうだから、クリスチャンということ。 日本帝国主義に
はクリスチャンがいないでしょう。それで十字を大きく描くと、そうするうち
に、タバコを与えて。こうやって一度タバコ与えると日本の奴らに引っ掛かっ
て、「アゴシメ(あご、閉め)!」と言って、口をぎゅっと閉じろと。ぎゅっと閉じれ
ば、「オマエ スパイカ(お前、スパイか?)!」、お前、この野郎、間諜だと言うん
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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だ。今は米国の「米」は「美」という字を使うが、その当時には「米」という字
を使っていたよ。米のように食べて殺すと言って、「米」の字を使ったよ。「オ
マエ ドンナ ハナシ シタカ(お前、どんな話したか)?」米国の奴らと何の話を
するのか。「ナンデモアリマセン(何でもありません)」、何も言わなかったと。
「カエレ(帰れ)。」「ココニイタラ シゴトヤレ(ここにいたら仕事やれ!)」、はや
く仕事をしろと。謝った。その次は、タバコ与えて引っかかった経験があるか
ら、表面では火を付けて吸って、そいつに行って、さっと落として行くんだよ。
そうするうちに、ある日、工場で仕事をするのだが、そこから私が脱出をした。
どのようにして逃亡することになりましたか?
逃亡しました。お腹がどんなに空いていたか。私は2階で寝ますが、窓をこのよ
うに開けるとすぐに金網、2階の塀がこのようにあると、これくらい金網になっ
ていて、こう見ればすぐに道だと、そこが。でも歩哨がそこに一人いるんだよ。
日本憲兵が24時間歩哨に立つんだ。その中に食堂があって、何百人なのかどの
くらいの人員なのかは分からないよ。あまりにもお腹が空いて、起きて裸足で
そっと食堂の中に行ったところ、籠にご飯があったよ、ご飯が。配食して残っ
たものが籠に置いてあったんだ。それで食べたんだよ。ただ食べて、水を飲ん
で。その当時に帽子があるじゃないか。帽子にご飯をぎゅうぎゅうに詰めて、
一緒に寝る友人たちに与えようと持って来たよ。「おい! 起きろ、起きろ」。ご
飯持って来たから食べろと。そいつらはそこで食べて。そのような生活をして
いたところ、チョセンジン108)、そいつらが言う言葉がチョセンジンだよ、チョセ
ンジンの中で、その人は、何か特殊技術者らしくて、イマムラ、イマムラセイ
サク、今村製作所、そこもやはり鉄物工場だよ。その人と私とどうかして接す
ることになったかと、製作所・・。
108) 朝鮮人の日本語発音で軽べつする意味で使われた。
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209
製作所から来た人ですか?
はい、その人が特殊な技術か何か
分からないが、その人と毎日何度
も会ったが、その人のいる工場が、
若松という所が、ヤハダから幾らも
離れていないから。小さいな電鉄
が通っているから、門司から下関
まで。それで「ア、ソウデスカ」。
あ、そうなのかと。その人は咸鏡道
から来たというんだ。あ、私は忠清南道から来たと、徴用で来たと言って。そし
てその人をどうやって思い出すのか。腹が空いて大変で、そんな時に、終戦が近
づいて来ているから、「カワサキ、ナガサキ、ケイカイケイホ、警戒警報(川崎、
長崎. 警戒警報)。」とラジオから流れ、寝る時には中は赤くて表面は黒いカーテ
ンになったものを、このようにぱっと張って。夜に明かりをつけても外からは見え
ないんだ。それで夜の8〜9時、そうでなければある時は明け方になると、「ナガ
サキ ゲ…。カワサキ ゲ。ケイカイケイホ(警戒警報)ハツレ(発令)」すると、防空
壕に入って。病人は死ねばそれまでで、空襲が来ようが来まいが、そのまま寝る
人もいたりして。警戒警報が出ておよそ5〜10分経つと、「クシュ ゲイホ(空襲警
報)」、空襲警報が出てきたよ。するとあちこちでドンドンドシンと、爆発がさく烈
するんだよ。その時は恐ろしいから、防空壕があるから、防空壕に皆入って。私
は防空壕に入ってもこのように見たよ。すると飛行機が編隊だよ。B29が今もそ
うだが、このように通り過ぎると、空気のようなもの、その煙が糸を引いて残るじ
ゃないか。それが何、他の人たちは何千機だと言うが何千機にはならなくて。と
にかく空が見えなくなる程じゅうたん爆撃することに違いないよ。
昼間にそのように来たのですか?
いや夜に。昼間には偵察機だけ来て。目にはよく見えない。どうにかして見る
B29
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
210
と、あれが偵察機だと言っていたよ。両側にはしごをさげた車。ここから砲を
撃てば飛行機はここなのに、日本の砲はここまでしか飛ばない。この砲も山の
あちこち高い地帯があるから全部、そして高い工場の屋上のような砲陣地を
全部作っておいたよ。それで偵察機が来たり空襲が来ると砲をパンパン撃つ
と、飛行機には及ばずこの辺で砲がバンとさく烈するんだよ、そこまで行くこ
ともできなくてね。すると爆弾がボンボンボン! さく烈するんだ。それでイマム
ラ セイサク、その友人に「ああ、これはいつ死ぬかも分からなくて、お金を稼
ぐのも毎日失敗し、生きて出て行けば幸いな。」、そう言ったら、 (今村製作所
の人が)工場に来いと言うんだ。自分が何とか隠してやるから、工場で仕事をす
れば良いと。それがどれだけ嬉しかったか。時間の約束をした。明け方にそっ
と見るんだよ、歩哨に立つ奴らが全部寝ているか(いるかどうか)。するといなく
て。それで鉄條網を静かに越えたよ。鉄条網を越えて逃亡して、そのイマムラ
セイサクに、何とか訪ねて行った。そこに行って、工場の中でだけで仕事をす
るんだよ。それが何の工場かと言うと、製作所、鉄板をこちらに運んだり、あ
ちらに運んだり、切断したり、技術者たちが指示する通りに雑夫として仕事を
するんだよ、ご飯だけ食べて。
今村がここ若松にあるのですか?
そうとも、ワカマツに。
そこまで一人で行きましたか?
一人で行ったよ。「電車に乗って。電車に乗って行けば、ワカマツ セイサク109)
という看板がある。そちに来なさい。来て自分の名前を尋ねろと」。そう言った
んだ、その時カネヤマ(金山)が。
109) 正確な名称は今村製作所。
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カネヤマでしたか?
ウン。その人が何か責任者だったようで。だから外には一切出て行かないよう
にして、工場の中でだけ食べて、そこで寝て、仕事だけするんだ、仕事だけし
て…。
そこではどんな仕事をされましたか?
そこでも雑夫だったよ、技術がないから。この物をこちらに持ってこいと言え
ば、このように持ってきて、あそこに持って行けと言えば、あそこに持って行っ
て、掃けと言えば掃いて。その雑夫をして静かに年月が経つが、当時空襲は毎
日来たよ、6〜7月になったら。
解放はどのようにして知りましたか?
その時、私が少しずつ外出をしたよ。夜にも外出して、昼間にも時間があれば
外出をして。町内で、若松で。そうするうちにある日、工場で仕事をしていたら
重大発表があると言って、それで仕事をしていた人々が全員聞くことになって
いると。ところで天皇が降服すると言うんだよ。その時はトジョ ヒデキ110)が、
参謀総長か総司令官にもなっていたようで、東条英機が、首相なのか。それ
でその時、天皇が昭和天皇であったし。私が昭和3年生まれであるから。東条
英機が降伏文書、降伏するということを朗読、その当時、今考えるとその当時
に、何か船の上でマッカーサーと東条英機が船まで行ってサインして降伏文書
を交わしたようだったよ111)。今考えると。言葉だけ聞いたよ。それで日本の奴
らは涙を流して、土地を叩いて「ドンナ イキマスカ(どのように生きて行きます
110) 東條英機。1884年7月30日出生、1948年死亡。日本陸軍軍人、政治家、第40代総理大
臣。日本の侵略戦争当時、内閣の首班だった。日本の敗戦以後、戦犯裁判を通じてA級戦
犯として、判決を言い渡され死刑に処された。
111) 降伏文書は日本が敗戦直後に調印したのではないが、口述者は日本敗戦直後として理
解している。降伏詔書の発表も東条英機がしたのではなく、昭和天皇が直接した。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
212
か?)」。どうやって生きて行くのか、どのようにすれば良いのかといって…。そ
う言いながら、それ以前からそうだったよ、それ以前から日本の人々は竹槍を
削るんだよ、2mになるもの。竹槍、竹を持って、端を尖るように削って。削っ
て端が尖っているから折れないようにロウソクの灯で焼いて。ロウソクの灯で
焼くと、このように刺しても折れなかったから。そしてこちらの端に、取っ手の
あるところには穴を開けて、紐でこのように手を入れれば握れるように。うっ
かり手放したら、敵のほうが奪い取ってぶん殴るから。手を入れて握れるよう
に2メートルになる物を、大人の数ほど、家族が四人なら四個、あちこち四個、
五人なら五個、二人なら二つ、ぴったり用意しておいて。有事の際に米軍が上
陸して来たら1対1で刺殺して、自分も死ぬんだ、そういうことだよ。そんな考
えを持っていたよ。そうする前に、降伏する前に、おかしなことが何かと言え
ば、工場の中にある重要資料があるだろう。銀のようなもの、銅版のようなも
の、銅のようなもの、原資材。これが厚くて重いじゃないか。それを車に載せ
て行って、海に行くと、海に行って全部海の浅いところに全部入れたよ。隠す
んだよ。窟にも入れて海の中にも、隠蔽するんだよ。後で隠したのを見て分か
ったのよ。だから日本人たちは皆泣いて。私たちはかえって米軍の敵軍より日
本の奴らがもっと恐ろしかったよ。お前らのせいで、チョセンジンのせいで、
私たちが(日本が)「センソデ マケタ(戦争に負けた)」と言うんだ、「チョセンジ
ンハ ショガナイナ(朝鮮人はしようがないな)」。朝鮮の人はしょうがないと言
うんだよ。門を開けば、「エイッ、チョセンジン! コッチコイ。オマエ ナンデ オ
マエ チョセンジンガ ソンナノ ヤルカイ(オイ、朝鮮人、こっち来い。お前 な
んで お前 朝鮮人が そんな事するのか)」。日本の奴らは私が何もしてなくてや
られているのに、かえって私を殴って私をののしったよ。それがもう弱小国だ
からね。国が無い悲しさだね。悲しかったよ。そうしたことだけ考えても、無
念で悔しくて。それで降伏文書を交わして、そこで日本の奴らは敗れ、韓国、
朝鮮の人たちは解放になったんだよ、解放されたんだよ。解放が何か分からな
かったよ、私たちは。その時が8.15、8月14日だったか、15日だったか、解放に
福岡県
213
なったと。寺に、私は寺に時々行って拝んだりしていたが、そこに娘が一人い
たよ。「牧山、お前解放になっても朝鮮に行かないで我が家、山寺に一緒にい
よう」。そうやって言うんだよ。「今後10年以内に朝鮮と連絡、飛行機が行き
来することができるといって、その時にお金は稼げられなくても生き伸びたの
が幸いだった」。私は、「ココクニ カエリマス」(故国に帰ります) 。そう言って
来た。そこで一銭も(稼げず)服は身に付けたものだけだったよ。寒くないか
ら、9月だった。その時は9月20日だったか、その時、私は連絡(船)に乗りまし
た、下関まで来て。
解放になった年の9月20日に下関に来られましたか?
はい、連絡(連絡船)に乗りました。解放は8月15日だったが、9月20日頃に下関
に来て、お金がある人々は、あの北海道、ここが九州だが大阪、東京、名古屋
そういう所から汽車でたくさん来るんだよ、下関に。下関に。他のところから
は行く船がないから。下関に皆集結するんだよ。その時の話では70万人だと言
っていたよ。しかし一日に何十人ずつも死んでいくんだ。飢えて死ぬだろう、
病気にかかって死ぬだろう、伝染病で死ぬだろう。そんな状況だからこの仕事
をすれば、はやく乗船券を与えると言うんだよ、乗船券。「ドンナ シゴトデス
カ?(どんな仕事ですか?)」「コッチコイ(こっちに来い)」帽子、手袋一つと、白
い手袋一つとマスクをくれたよ。そうしたところ、大きな竹の長竿とかますを
一つ取り出して来ると、これで担架を作れと言うんだ。そうして「あちこちに
死んだ人が多いから、マスクを掛け、手袋をはめて、この死体を運んで捨てれ
ば、乗船券をはやく与える」と言うから、私がやると言ったんだよ。そうして二
人でコンビを作って、死体がここにあれば、私が頭、手を持って、相手は足を
掴んでこのようにして担架にのせるんだ。のせてそこから150メートル200メー
トル行くと海辺だから。下関に船があって、海辺でざぶんざぶんと波打ってい
たよ。そうしてイチ(一)、ニ(二)、サン(三)こちらが手を握って、こうやって放る
んだよ。 すると死体が海に落ちて行って担架が空くんだろ。すべてやったら、
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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またやって、またやって。10日くらいやったところ、乗船券をくれたよ。私に朝
鮮に行けと、もういいと。その人が班長らしくて。乗船券に印鑑をギュッと押
して、私の名前を書いて送ってくれたよ。そうやって関釜連絡船に乗ったよ。
乗ったが食べる物がなくちゃ、お腹は空くだろ、食べ物も、爆撃に遭って、水
道水を貰おうとあちこち筒を持って。今になって言ってみれば、ラオスやカン
ボジアやそうしたところのように、何十人ずつ、何百人ずつ、ずらっと並んで
立っていたんだよ。水道のパイプが漏れて水がほとばしるから。それを、水を
貰おうと。そうやって水を貰って飲んで、食べる物がないから。下関のそばに
倉庫がぎっしりとあって。倉庫が何十個かあったが爆撃に遭って燃えて一ヶ月
になるのに、その時までも煙が出ているんだ。火花は上がらないで煙が出るん
だ。それで行ってみると豆、豆が熟して豆に火がついて、煙が出て燃えている
んだよ。その豆を枡に入れて持って行って火で炒めたよ。炒めて乾パンを入れ
る袋のようなところに入れて、わき腹に持って乗船した。連絡船に乗って、や
っと釜山に来たんだ。下関で一部金のある人たちは何人かずつ共同で船を買っ
て、そこで、釜山までいくらだ、それでは船を買って、お金がある人たち同士
で、団体で、そのようにして直接釜山に行き、お金のない人、独身者は全部、
このように連絡船で来て。その時も多分8〜9時間かかったようだ。 釜山に着い
たらすごかったよ。9月22〜23日、そのころ行ったようだ。こういう大きい旗に
咸鏡北道、平安北道、忠清南道、全羅北道と書いて、頭巾をかぶって道民たち
が太鼓を叩いて歓迎してくれたよ、ここでもやはり握り飯をくれたんだよ。釜
山の港から、駅から、握り飯を二個も三個もくれと言うと、言う通りにくれるん
だよ。それから汽車は無料だよ。大邱も無料、大田も無料、平安道も無料、咸
鏡道新義州も無料、無料汽車に乗せてきてくれるんだ。そうやって解放になっ
たよ。その時、私の家では生活が苦しく、家の庶子だったんだ、私が。おばあ
さんがいて、私が庶子出身だから、ここに(書類に)あるだろ、チャンギュ、ヨン
グという人が庶兄だよ。長い「永」に、求める「求」。私がどれくらい食べるこ
とに対して苦痛を受け、辛かったか分からないだろう。庶子に生まれたのがと
福岡県
215
てもこりゃ、不倶戴天の恨になって、怨恨に刻み込まれたか。田んぼの一反も
なくて、毎日田舎で働くだけで…。
学校は通われなかったですか?
学校、何の学校に行く? 学校はそこからおよそ4km行けば学校があるのに、学
校にも通わせてくれなかったよ。通わせてくれないのに何の学校に行く? 仕事
だけしたんだよ、ただ仕事、働くだけだったよ。背負子を背負って働くだけさ。
薪拾いするのに30里を行くんだ。弁当を包んで30里外に行って、薪を拾って帰
って来るんだよ。その時もうそうしているから不倶戴天の恨になったんじゃない
か? お金もなくて庶子になっているのが。私がどこに行ってもこうした話はあま
りしないが。私が日本に行って、お金もなしに解放になって、私が… 〔ここで口
述者は悲しみがこみあげて涙声で話した。〕田舎に行って(お金を)稼げるのか、
ソウルに行ったら稼げる(という考えで)、大田から降って瑞川、長項に行かなけ
ればならないが、群山を通って行かなければならないが、そのまままっすぐソウ
ルに来てしまったよ。ソウルに来て南大門、ソウルに来て露宿者の生活をした
よ。今で言えば路上生活者だよ。南大門で路上生活をして、ご飯を少しずつ貰
って食べて、徳寿宮。その時すでに米軍がみな進駐して来たよ、ソウルに。さ
っき抜けてしまったことがあるけれど。日本から解放になってから、大きな輸送
機が落下傘を二つ三つ落したんだよ。その落下傘の下にこれぐらいのボックス
(box)がぶらさがっていたんだ。すると、この捕虜たちが何千人、何万人か分から
ないが、その奴らがすでに階級のとおり部隊を編成したよ。
すでに?
ウン。すでにそいつらが中隊長ならずらっと、階級のとおり飛行機から落下傘
にボックスで、運動場や工場に落とすから。遠くから見ると、こちらのボックス
は手榴弾、こちらのボックスは銃、靴、靴下、下着、鉄兜まで全部。それで皆、
武装するから、全部軍人だよ。そいつらが道に出て行って武装解除させるんだ
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
216
よ。日本軍人たち、個人が持っているニッポント112)、日本刀、拳銃、38式、99式、
その撃発機で一発撃ってからこのようにして。今は自動でパンパンと飛んで行
くが、当時は弾倉に五個ずつしか入らなかったから。一発撃って、撃発機をやっ
て、また撃って、一発ずつするものだったんだよ。その銃を押収したものが、十
字路ごとに山積みになっていたよ。奪って行くんだよ。尋ねることもしなくて。
日本人たちが持って来れば、パッと放り投げて置いて、このように積んでおいた
よ、十字路に。もう米軍が武装解除して、米軍が完全再武装して。ところで(日本
の人たちが)竹槍を使うことは、どこで竹槍を使う? ただの夢だったよ。そうやっ
て路上生活をして大漢門に来た。今の徳寿宮の入口あたりに。そこに来たら龍山
の三角地部隊があったじゃないかよ、その時。右側から三角地に行ってみると、
左側に707補給部隊があり、右側にまた、米軍部隊があって、三角地から梨泰院
に行くと日本軍隊22連隊があり、漢南洞に13騎兵隊があったよ、その当時は。米
軍が人夫を連れに来て、トラック五、六台で先に乗って行ったよ。乗って行って
部隊整理するんだよ。こちらを整理して掃除して、何、言われる通りにして、そう
して一日が全部終わるんだ、それが。一日仕事をすればシレーション(C-ration。
戦闘食糧)も与えてくれて、その時はお金も幾らか貰えたけど。そして明日も貰っ
て食べて、明日また、仕事しに行こうと徳寿宮の前でまた待つんだよ。そんな生
活をしていて、どうにかして、今はノガダ(肉体労働。土方)113)だが、その当時に新
堂洞に行って河川、その河川仕事をすること。河川が、雨が降れば河川に砂が、
粘土が積もるじゃないか。このように服をたくし上げて入って行って、砂のよう
な物を機械ですくって上げるんだよ。そうやってそこでお金を少し稼いで、およ
そ1年やって家に行ったかな? お金を少し稼いで、家に行ったのに、両親が。あ
あ、1年にならないんだな。およそ四ケ月、五ケ月ぶりに行ったようだよ、ソウル
から。ここから行く時、江景までは何とか汽車で行ったが、江景から錦江を渡ら
なければならないから。錦江を渡ればそこがもうこちら扶余郡だと、扶余郡良化
112) 日本刀の日本語発音。
113) 正確な発音はドカタ。
福岡県
217
面。そこからもう怖いから、時局がどうなったのか分からないから、その当時は、
昼間には主に行かなくて夜にだけ行ったんだ。完全に解放になったのかどうかも
分からなくて。そうするうちにどうやら家に行ったが、引っ越ししたのかどうか、
分からないじゃないか? 家をじっと見ると、昔の暮らしそのままだったよ。1年を
ただそのまま倹しく生きて来たんだな、そう思って入って行き、「オモニ! オモニ!
私、天求が来ました」と言うと、寝るところに小さな窓があって、小さい窓がある
んじゃないか?「誰? 天求か?」、そう言って、這って出てきて泣き喚いて、そうし
て8.15解放後に、家族に会いました。そしてまた家にいて、また悲しさに包まれ
て、その後また、第一国民会に行ったり、群山に行ったり警備隊に入ったりした
よ。私が、頭をよく働かせたためか、傷跡は一つもなかったが、日本の工場で、
焼夷弾114)というだろう、焼夷弾。焼夷弾がこのように六角になっていて、ズドン!
とさく烈して、その殻、その殻がかすめていった。その当時これくらい裂けまし
た。それでここを六針縫ったんだよ。傷跡といえばこれしかなくて、うつ伏せに
なってさく烈しながら。
おじいさんの家族で徴用に行った方はいないですか?
徴用に行った人もいて、徴兵に行った人もいて、何人かが行ったよ。村内の青
年たちは、ほとんど皆、行った。兄弟はその時、長兄ユング兄さんは何か病気
にかかっていて横たわっていて、次兄は鉄道庁に通ったよ、大田鉄道庁に。
何、汽車で案内と整理する旅客主任か何かで、そこに通って、行方不明になっ
て。私が三番目だから。
八幡製鉄所からは月給を貰わなかったですか?
お金は見物もできなかった。お小遣、何がお小遣だ。ご飯だけ食べて生きて行
けたことだけで幸運だと考えた。お金がなんだ、お金が。
114) 焼夷剤を使って目標物を燃やしてなくすための砲弾や爆弾。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
218
外出はしましたか?
外出もできなくて。無条件で、夜であれ、昼であれ仕事をするだけ。夜も日本
の憲兵が銃を持って監視をするのに、どこに、外出するんだ。
一日に仕事はどの程度しましたか?
普通、朝7〜8時に行くと、夕方5〜6時まで働くんだ。時計なんか持ってないから。
日曜日も仕事をしましたか?
無条件で、継続するんだ。日曜日だということは、私たちにはその概念もなく
て、知らなかった。その遊ぶことは水を飲みに行くと仮病を使って、お手洗い
に行くと便所に行って10〜20分間、座って出てくる、それしかなかった。
そこに日本人もいましたか?
日本人もいて、日本人は技術者、でなければ幹部級だったよ。みなチョヨ(徴用)
だったよ。徴用たちは技能工ではないから、雑夫として使ったんだ。ところで
私たちは幸運だよ。当時南洋群島に行った人たちはほとんどすべて、およそ百
人なら70〜80パーセントが死んだではないか。そして北海道に行った人たち
も、その人たち、炭鉱に行った人たちも死んだ人が多くて、私たちは安全地帯
だったよ。
爆撃が多く、お腹も空いて逃亡されましたね? 今村に行って、そこの日本
人たちはどうでしたか?
そこは個人の家だから。周囲はみな日本人の家庭だったよ。
今村製作所の内では?
製作所内では全部朝鮮人だよ。およそ30〜40人になるが、全部朝鮮人で。
福岡県
219
その朝鮮人たちも徴用で来たのですか?
違うよ。その人たちは本来2世、1世代たち、2世代たちだよ115)。
すでに日本に来て暮らしていた人たちですね?
そうだ。 戦争が起きる前から日本に暮らしていた人たちだよ。
今村に逃げたのはいつですか?
だからその翌年、およそ6月、5月頃だったかな? 5、6月、およそ7〜8ヶ月、そ
こにいたから、冬を過ごして。私は腹が減って、工場で働いていたから「爆撃
がはやく来るのではないか」と自分なりに考えたよ。工場の中に飛行機が入っ
て来たり、船が入って来たりしていたんだよ、大きい軍艦が。工場が40里とい
った、40里。誇張された話かも知れないが、工場の直径だけで40里だといって
いたよ。工場の中から何でも出てくるといっていたよ。
おじいさんが八幡にいたという名簿があります。
出てきましたか? どこに。
八幡の名簿です。
八幡の名簿に?
日本人がおじいさんを呼ぶ時、マキヤマと言いますか? マキムラと言いま
すか?
マキヤマ、牧山。マキムラなのかヤマなのか分からないよ、とにかく。
115) 1920〜30年代に渡日した、一般の渡日朝鮮人及び子ども世代を意味する。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
220
おじいさんがおられた所を図で描くことができますか?
今でも描くことができる、今でも描くことができるよ。これがヤハダセイテツシ
ョならば、ヤハダというなら、もう、もうこれは海、これが海だよ、これが。日
本海116)なんだ。当時は日本海だと言っていたよ。これがもう何、海じゃなくて
これが何、海から離れていたよ。わかりやすく言えば、支流の川に似ていた。
ここに軍艦のような船が行き来して、この製鉄所に入って来たよ。そしてこ
ちら門司側がこちらで、若松がこちら側にあって。またここに電車が通ってい
て。ここに電車がこのようにさっと通って、ここからもっと行けば下関。およそ
30〜40分、地下鉄で。若松という工場で、これがヤハダセイデツショで。これ
以外は知らないよ。
寮はどこにありましたか?
製鉄所に寮はなくて、全部工場地帯だから。寮は、ここから500m程行くと宿
舎。出退勤する時はここを歩いて行くんだ。歩いて行って、ここ工場の中には
船も入って来て、軽飛行機も入って来て、列車も入って来て、皆入って来た。
それで、私はもう中間にもなるか、この近辺で仕事をしていて、ここで米軍捕
116)
東海のことを日本ではこう言う。
李天求おじいさんが描いた当時の周囲の略図
福岡県
221
虜たちも一緒にチャンポンされて(混ぜられて)。そいつらは主に列車で上下車
すること(荷を下ろすこと)の仕事をし、私たちは工場で手伝いをする仕事、雑
役夫。手伝いをする時にはいつでも、とにかく一人でも、二人でも、工場に出
勤する時、退勤する時、人員把握はいつもして。いつも前、横、後から付いて
回ったから、日本憲兵が。
寮に名前がありましたか?
そうだよ。あったよ、あるけれど。
ここが門司になるんでしょう?
うん、ここが海、船が入って来るから。船が入って来て、大きい軍艦が、工場
の中に。これが40里だって、長さが。
むごいことをされましたね?
時局がそうなっていたからな。
名簿には名前だけ、ぽつんとありますので。
ところでこれはどこから出てきたんだね、これ? (日本政府が)送って来たのか。
他の人は。私の名前はどこにありますか?
ところで漢字が、天の字が違います。
そうだ。「求」の字は合っている。「求」の字は我家の名前に使われる文字だ
よ。韓山李氏の共通の文字だよ。全州李氏や他の李氏も、李氏が数百種類ある
だろう。韓山李氏は求の字が共通の文字だよ。求の字の下に貴の字、求の字の
下に福の字、求の字の下に点の字、これが共通の文字だったよ、間違いない、
これ。何が正確かと言うと、私の名前の求の字。李天求。空の天の字を使う事
もでき、千の字も使う事ができるし。自分が直接名簿に書けばいいけど。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
222
当時は創氏名を使いますね。
創氏名を書くのに私の名前だけそうなったのか? これはヤハダから来たものな
のか?
この名簿は八幡で労務を管理していた日本人が朝鮮人名簿として作成し
たものです。
李の名字だけ改名したものだ。
名簿よりも、おじいさんの話がもっと明快です。
私は少しも加えたり、抜いたりしなかったよ、だから。
面談 • 校閲 許光茂調査3チーム長
1次聞取文作成 チョ・ミンジョン
編集・推敲・注釈 鄭惠瓊、李秉熙、権美賢調査官
大分県
223
面談後記
2005年10月18日、忠清南道端山市礼川洞の口述者の自宅で行われた
口述面談である。口述者の自宅に行くのに多少苦労したが、約束の
時間を守ることはできた。口述者は現在でも畑仕事をする程、かく
しゃくとしており、訪問当時も畑仕事をしているところであった。口
述者は当時の状況を細かく覚えていた。しかし、いくつか敏感な問
題に対しては、慎重な姿勢を見せた。口述者は製錬所に動員された
ため、炭鉱に動員された人達より楽に過ごして帰ってきたことを幸
いと思っていた。
大分県
225
キム・ギオク(金基玉) 男、80歳
1927.3.18 忠清南道瑞山郡所遠面令田里生まれ。
1943.3
泰安郡所遠面の募集係ムン・○○によっ
て日本大分県佐賀関製錬所117)に動員され
る。(17歳)
1945.11
解放の1週間後に製錬所を出たが、博多で船
便を待っていたため11月に釜山に到着する。
わしらはそれでも炭鉱よりましだったよ
故郷はどちらですか?
故郷は…本籍は…、本籍は泰安郡所遠面、そこからここに来た。生まれた所、
そこがまさに故郷じゃよ。そこからわしが日本に行ったのは17歳の時。
117) 佐賀関製錬所、日本大分県所在。銅生産の拠点として世界最高水準の技術力と生産能
力を誇る。貴金属と希少金属等の各種金属及び副産物を生産。親会社であった日本鉱業
㈱は、1905年に建てられた久原鉱業所が鉱山、製錬所経営を中心に発展した。久原鉱業
所は1912年に久原鉱業株式会社に社名を変更。1928年に日本産業㈱、1929年に日本鉱
業㈱となった。現在は日鉱金属株式会社。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
226
何年度か覚えていらっしゃいますか?
1943年度。
何月何日か覚えていらっしゃいますか?
そんなの、日にちまで覚えていられるかい。もう50年以上も経っているのに。
春だったことは確かだけれど、3月だったか2月だったか…。そこ(申告書)に
書いてあるじゃろ。解放後45年も経ったから…、(帰国時期を) 10月にしたんだ
が、11月だったはずじゃ、11月。
日本にはどのようにして行くことになったんですか?
どのようにって、捕まって連れて行かれたんじゃよ。
誰にですか?
誰にって、 面書記だよ。
面書記がですか?
そうじゃ。その時は徵用隊といった。今は平時じゃろ。徴用隊というのがあっ
た。それが村を回った。それが全くだめなら(動員ができなければ) 警察と回っ
たんじゃ。逃げて捕まらなかったら (徴用に)行かないし、運が悪ければ、捕ま
って「何日に来い」と。そうなったら行くしかない、そういうふうに。わしはあ
れをやったんじゃ。わしは、今で言えば小学校じゃ、小学校6年を卒業して青
年訓練所(農村青年訓練所)というのがある。青年訓練所、そこで3年まで通
ったんじゃ、3年。通ってる最中に捕まったんじゃ、そこで。だから訓練には慣
れていた。で、普通は日本に行っても1か月間訓練をするんじゃよ。だけど訓練
は受けなかった。ここで言えば今は何というかの…、助教のようなことをして
いたんじゃ。
大分県
227
では、1943年3月頃に面書記が徴用状を持って来たのですね?
そんなものは持ってこなかった。理不尽にも捕まって…。その時は本人の話を聞
くんじゃ。そして「徴用に行け!」 、そうやって令状が届いた。それだけじゃよ。
面書記に日本に行けと言われてから、どのくらい経ってから行ったのです
か?
それは何か月も経ってない、一か月も経ってない。
所遠面からは何人行きましたか?
その時、何人行ったかって?わしら二人、里から二人。
では、面からは何人行ったのですか?
たくさん。数えとらんよ、そんなの。だいたい分かるだけで10人以上はいたかな。
出発する日はどこに集まったんですか?
それは面事務所(村役場)に集まって行ったんじゃ。ここ瑞山にあるじゃない
か。ミョンウォル旅館というのが。そこでわしは一晩か二晩泊まったんじゃよ。
ミョンウォル旅館は、今はどこにあるんですか?
今はない。その当時はどこにあったかというと、今の畜協(畜産協同組合)。畜協
の裏側にあった。ミョンウォル旅館というのが。二晩だったか…、何泊かした
はずじゃ。確かそこで南洋群島118)に連れて行こうと、あの手この手を使ってや
っていた、その時強制的に。その時、南洋群島に送る人間も捕まえていたんじ
ゃ。そこで身体検査にわしは落ちて…、身体検査。それで南洋群島は、わしと
118) 南太平洋に散らばる島群。マリアナ、マーシャル、キャロラインなどの様々な群島に分
かれる
。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
228
同じ村に住んでいた奴一人だけ。一人だけが行ったんじゃ119)。
南洋群島に行った方の名前を憶えていらっしゃいますか?
死んだよ、朝鮮戦争の時に死んだよ。ヒなんとかといった、チョ・ヒ○。
ミョンウォル旅館に泊まった後、どこに行きましたか?
どこにって、その時乗って…、その時釜山に行って連絡船に乗ったんじゃよ。
一番後ろの貨物に。その時どんどん集まってきたから。木炭トラック、トラック
じゃ。天安まで、洪城まで行った。洪城から列車に乗って行ったんじゃ。
釜山に行って体を消毒したりそういうのはなかったですか?
そんなの全部覚えてられるかい?そりゃ消毒もしただろうし、身体検査も全部し
たさ。そうこうして遂に日本の下関に降ろされて。そしてわしは博多に行って、大
分県の佐賀関に行って、そこで配置されたんじゃ。大分県、佐賀関製錬所に。
119) 南洋群島行の軍属選抜過程に対する説明をしているものと思われる。
現在の佐賀関製錬所。左側に煙突が見える。
大分県
229
行ってすぐに仕事をしたんですか?
仕事はしないで、そのまま1か月。1か月訓練受けると言ったろ、軍事訓練。い
ろんな戦闘訓練をしたさ。
その時おじいさんが助教をしたということですよね?
ええと3年、訓練所、青年訓練所、ここと一緒じゃ。日本の政治(支配)を受け
ていたから、当時は。助教と言ったって何のことはない、訓練させるだけじゃ。
「こうヤレ、こうヤレ!」って。同じじゃ、講師と同じじゃよ、違うかい。
訓練を受けた人は全部で何人くらいでしたか?
それは一つの分隊に9人ずつだったから、1個中隊なら何人じゃ? 軍隊と同じじ
ゃよ。日本軍隊というのはね、数えてみると…。軍隊生活したならわかるだろ?
わからなかったらそいつは男じゃないよ。1個分隊が9名じゃから1個中隊は…。
1個中隊が200名かそのくらいになるはずじゃ、100名だったか?わからん。あ
まりにも昔のことで。軍隊を除隊してどのくらいになるかというと50年は経っ
ているじゃろう。
1か月助教をしてその後はどんな仕事をしましたか?
だからその、配置されたんじゃ、製錬所に。製錬所というのをみんな知らない
のかい? 鉄を溶かしたりする所、それじゃよ。
おじいさんがした仕事は何ですか?
わしはアルミニウムといって、鉛を溶かしたものじゃ。それを溶かす仕事をし
たんじゃ、溶鉱炉。その時はそれこそそういう所に行っても、そういう者は「特
価」。できる奴を「特価」とでも言うかな。工程の中でも少しましなところに送
られる、そういう者は。で、できない奴は「でくのぼう」じゃ。漢文や国文(ハン
グル)も分からない奴は、厳しい所(作業がつらい作業場)に送られたんじゃ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
230
助教までされたということは、日本語がお上手だったんでしょうね?
まあ、普通の言葉はわかったけど、はっきりわからないものもあった。タメ口は
わからなかったよ。
日本名は何ですか?
かなしろ。そこに書いてある、金城。金属の金に、成し遂げるの成。基玉だよ、
金基玉。土偏に120)。
引率した人も面書記だったんですか?
みんな死んだよ、今じゃ100歳くらいになっている人のことをどうやって知るん
じゃ?ムン・○○という名前だということは知っているけど。ムン・○○、その
時労務を担当していたムン・○○。
引率して行った人は日本人ですか?
日本人の顔も覚えていろと?(誰だか知らないよ)
朝は何時から働いたんですか?
朝方8時から、夕方は8時間半だったか、ある程度終って、そこでもっとしたけ
れば…。最近も夜間作業したい者はもっとするし、同じことじゃ。
手当はもらいましたか?
手当、そんなのいくらになるっていうんじゃ、そんなの。誰が手当をもらうため
に、そこに働きに来るんじゃ?
120) 口述者が城という字を説明しているものと思われる。
大分県
231
月給はいくらもらいましたか?
それも同じことじゃ。多い少ないはない、労働者は。その時は1円ぐらいだった
かな?イチ121)、1円、一日に。1円はいくらじゃ?30ウォン?30ウォンか。そう、
それだってくれたか?言葉だけじゃよ。
では、それも言葉だけでくれなかったんですか?
ふうーっ、服もなくて、わしは…、あれだ、カッパ122)みたいなの。それを拾って
縫って着てやってたのに。
服もくれない?
くれるもんか。
給料も一銭もくれなかったんですか?
くれなかった。言うだけ、1円だと。
貯金みたいなものはしていたんですか?
何が貯金じゃ。だから強制労働と言うんじゃろ。今でも補償を受け取ろうとが
んばっているんじゃないか。給料をもらっているくらいなら、なんで補償を受
けようとするんじゃい?
小遣いもくれなかったんですか?
どこに小遣いが?小遣いがどこにあるってんだ。小遣いじゃなくて、一か月た
ってやっと数円くれるかどうかだったさ。
121) 漢字「一」の日本語の発音
122) 合羽。①雨具 ②荷物に被せる桐油紙
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
232
お休みの日はありましたか?
うん?休みの日? 1週間に1回休んで…、2週に1回休んで…、そうやってまちま
ちだった。休日というのはなかった、交代。交代でするから。溶鉱炉は火を消
したら電気の消耗が激しいから、火を消さないんじゃ、昼夜と。交代で、3交代
か2交代だった。わしは生まれてこの方、夜の仕事はしたことがなかった、あま
り。そりゃちょっとはしたさ、時々はしたさ。だが、少ししかしなかった。
お休みの日は主に何をしていましたか?
そりゃ遊びに行ったりしたよ。 波止場に行ったり山にも行ったりしたよ。
近くに海があったんですか?
全部海だよ。日本は島だからな。
買い食いみたいなことはしなかったんですか?
買い食い? そんな、お金もないのに。
食事はどうしましたか?
飯はハンバがあった、飯場(労務者宿舎)というのが。飯場では韓国人を一部屋
に10人かそのくらい入れて食事させたんじゃ。飯はそりゃひどかったよ。朝よ
そってくれるのは、玄米をパンにしたものがあるじゃろ、粉を煉ったやつ。そ
れとじゃがいもとサツマイモを混ぜたもの、サツマイモを薄く切って干したも
のがあるじゃろ。それをまぜると、苦くて食べられたもんじゃない。腐ってい
て、サツマイモが。で、昼はベント(弁当)というもの、それをもらって、夜はサ
ツマイモ粥。それに粥のようで…、パンでもなく粥でもないもの。そんなもの
をくれた。
大分県
233
まともなご飯はくれなかったですか?
たまに。米は麦とトウモロコシを混ぜて、朝と昼にくれた。
さぞかしお腹がすいたでしょうね。
みんなそうだった。たまにそこの幹部の奴らが別に飯を作って食べるんじゃ。
そうするとその食堂に行って盗み食いをする。おこげのようなものも盗み食い
したさ。じゃがそんなわしらも、その食堂で厨房に知っている女が…、誰か知
っている人がいないと。顔見知りの女と付き合いがあると、こっそりとおこげ
みたいなものをくれたりしたんじゃよ。周りを気にしながら、お互い手を回し
たりして。おこげのようなものをもらって…、お互い争って食べたり、そんなん
じゃった。言い尽くせないほど苦労したよ…。わしらはそれでも炭鉱よりもま
しさ。炭鉱で石炭を掘る人よりはましだよ。製錬所産業だから。空気もそうだ
し。(炭鉱は)穴の中だから。わしら炭鉱に行かなかったからよかったよ、穴の中
に入らないから。
ご飯を一緒に食べた10人が一つの部屋で寝ましたか?
そう、一つの部屋で寝たんじゃ。宿泊が、宿舎がそうだということじゃ、10名
から11名。
1, 2階になっていますか? 平屋ですか?
日本は地震が多い。2階建てはない。
製錬所なら山で金鉱石を掘って来ないといけないですよね?
それは溶かせば出てくるんじゃよ。そうしたらこのぐらいの器がある、そこに注
ぐ。注いで冷めてみんな落ちたら、第3製錬所に送る。それを溶かして飛行機
だの何だの作ったりするんじゃ。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
234
その製錬所の名前は何ですか?
そのまま佐賀関製錬所とみんな言っていた。日本の九州大分県佐賀関製錬所と。
ご飯はろくに与えられなかったと?
全然くれなかったわけではないさ。十分ではなかった。飯、そう、あんなの飯
か?トウモロコシだってのに。
他の物で配給を受けたことはありますか?
タバコは未成年者にはくれない。わしが17歳で行ったから、成年は20歳、21歳
じゃろ。満 20歳になったら? ここと同じじゃ。日本は満20歳になったら軍隊に
行くんじゃ。ここも 20歳になったら軍隊に行くじゃろう。行けばタバコをくれ
る。そうでなかったらお菓子やら何やらくれる、一生懸命働いたら。それとす
こし上の人たち、39歳の人じゃ、上級者達も一緒に行った人が多かった。そう
するとその人たちが「おい、退屈だからタバコでも吸ってみろ」というと、未
成年者も仕方なく大人と一緒にタバコを吸うのさ。ここ所遠面に住む奴で、わ
日本の東北地方、栃木県にあった足尾銅鉱山の製錬所の様子
(大正時代)
大分県
235
しが知っている者がおる。あそこからも来たし、組合から一人、セモクから一
人、5名、6名。わしと一緒に 7名が行ったんじゃ、一緒に。
名前は覚えていますか?
逃げた、逃げた奴3人。みんな死んじまったよ。マゴクの一人は塩田に行った
奴。パク・ジョン○といった。故人になって…。みんな亡くなった。みんな故人に
なった。ええと、なんだったかな。ユメギ、ユドギ。いや、チ・ユン○だったかな?
ユン○イ。ムン・パル○だったか? それとスン・○イ。 みんな故郷の者じゃ。
おじいさんが覚えている人が7名だったということですね?
うむ、そうじゃ。 みんな、もうみんな、一人も会えなかったから、亡くなったん
だろうよ。あいつら3人で、わしを見て、日本語が少しわかるから逃げようと言
ったんじゃ。「逃げて捕まったら、監房で監獄暮らしするか。そこで労働したら
出てこれるだろうよ」と。いつ戦争が終わろうと終わるまいと、日本が勝とうと
滅びようと、日本が勝ったら、わしらはとっくに満州の地に送られている。満州
に移動、移住させられるんじゃ。ここ(韓半島)は、朝鮮人は一人も生きられなか
ったじゃろう。韓国では生きられない。みんなシベリアに送られたじゃろう。今
も日本が負けたから、わしらがここに住んでいるんじゃ。その時は、そう、韓国
語やハングルといったものは使えないようにしたんじゃ。「おい、おまえどこ行
くんだ」と、毎日そうやって、もし見つかったりしたら、一日中罰で立たされ、
殴られたりした。ハングルを全く使えないようにしたんじゃ。
最初に行く時、例えば 2年の期限だとかそういう言葉は聞かなかったですか?
そういう言葉はなかった。うん。
故郷にはご両親がいて、兄弟は?
兄弟は3兄弟、わしが長男じゃ。長男、わしが長男。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
236
手紙は書きましたか?
手紙はそりゃ書いたさ。でも奴らがみんなチェックして中身を調べた。上に
封ができないんじゃ、そのまま入れておくだけさ。そうすると奴らが勝手に見
て、封して送るんだ。
チェックして送ったんですね?
封して送ったんじゃ。
返事も受け取りましたか?
返事は来たさ。自分はここで元気でいると、そして健康で、と書いてあるんじ
ゃ。「俺は死にそうだ」、そうすると「死ぬな、生きろ」と。
結婚して子どもや妻を連れて来て近くの村に住んでいる人もいましたか?
結婚して奥さんを連れて来て住んでる人がいたかって? わしらと一緒に行った
者にはいなかったが、5、6年前に行った人は、旅券のようなものを作って一緒
に来て、そこで子どもを産んでいた人はいたよ。そういう人達は、その時ここ
の飯場(労務者宿舎)には住まないで、他の所で生活していた。
そういう村が周りにあったんですか?
うむ、同じじゃよ。ここでも移民に行くじゃないか。韓国にきて住んでいる人と
同じじゃ。
その人たちは製錬所に働きに来たのですか?
それも幹部たちじゃよ。
解放になったのをどうやって知りましたか?
8月15日じゃった。陰暦で7月の七夕の日じゃ。どうやって知ったかって?朝10
大分県
237
時頃だったかのう、その時、昭和で、天皇が昭和、放送で知ったんじゃ。それ
で日本人はみんな降服したと言って泣く奴もいたし、驚いている奴もいた。仕
事しないでそんなんじゃった。
解放後は、仕事はしなかったんですか?
しなかった。
では、なぜすぐ帰れなかったんですか?
そんなすぐ帰れるもんか、連絡できないと。連絡船に乗る準備の手続きを踏ま
ないと。旅券持って来たぞという奴を見たかい? 手続きをしなくちゃいかんじ
ゃろ。製錬所を1週間ぐらいしてから、出たことは出たよ、うん。そしてハカダ
(博多)123)という所がある。ハカダ。ハカダという所が、その横に…、收容され
たんじゃ。
朝鮮に帰る人たちの収容所がありましたか?
そう。3,4か月そこで待機して、待機順に上京(帰国)するんじゃ。
博多で待機しながら他に何か仕事はしませんでしたか?
しなかった。どこに行くかもわからないのに。飯を食べて、それからそのまま
連絡船を。連絡船の便だけを待てということじゃろ。そしてどこどこに集まっ
て、集まったら、数百人ほど集まって来たら、来た人は行くんじゃ、そこで号数
ごとに送ったんじゃ。
帰る時も釜山に来ましたか?
そう、釜山に。
123) 博多、福岡の博多区。以前の博多市地域を指し、博釜連絡船が往来する港だった。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
238
解放後、製錬所から出るとき、その間受け取らなかった給料のようなもの
はまとめてくれなかったんですか?
何もくれなかった。
製錬所で大きな溶鉱炉に何かを入れて熱し続けたとおっしゃいましたよ
ね?
そう、鉄じゃよ、鉄。
鉄を熱したんですか?
そうとも。ここの、ええと、韓宝鉄鋼、そういう鉄鋼と同じじゃよ、やり方は。
わしはけがをしなかったが、けがをした人もいた。エミンドルの人。じゃが、エ
ミンドルのソンウン里だったかどこの里だったかはわからん。どこの里かはわ
からないけど、ミン・ヤン○という人が脚を火傷したんだ、火で。
製錬所で具体的にどんな仕事をなさいましたか?
わしは溶鉱炉で生産する仕事はせず、それが出てきたらそれを分離してだな、
それをハンマー124)、オーハンマー(大ハンマ-)、それで割るんじゃ。そうした
ら、そこでテーシンタイ125)といって女たち。「女だからといって働かないわけ
にはいかない」、そういって捕まって徴用されて来たんじゃ。そこに立って、行
ったり来たりしながら監視して…、そこでそうやって過ごした。行ったり来たり
して。その時はみんな高校生じゃった。18歳、19歳、みんなそのくらいの女子
達じゃった。それで、割ったら分析をした、選んで(選別して)分けて。男たちは
割って。
124) hammerの意味
125) 挺身隊。女子勤労挺身隊
大分県
239
おじいさんは中間の監督ぐらいだったと思いますが、上にいた監督者は日
本人ですか?
そうじゃ。日本人がいて、もう一人は韓国人じゃった。(渡日してから)7、8年く
らいになる人だったが、そいつはマツモラ126)という日本名じゃった。忠淸北道
沃川出身で。でももう亡くなっているじゃろうよ。その時わしらよりも4,5歳年
上だったから。今だと85歳くらい。
製錬所に日本人の管理者は多かったですか?
そんなに多いわけじゃなかった。10人くらいかのう? みんな結婚して子どもが
いる人たちじゃった。それと日本と朝鮮、日本の労働者じゃ。労働者もまあ、そ
んなに多くなくて30人くらい?それと韓国。韓国人はそこでは10人くらいじゃ
ったか?10人くらいはいたじゃろう。
一緒に行った中隊が 200名ほどだったじゃないですか?
行ったのはな。行ったのは200人くらい行ったよ。製錬所も部署が多いから
126) 松村と思われる。
八幡製鉄所の溶鉱炉全景
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
240
な。ヨーコーロ127)や、何といったかな、クルバリという所もあって、鉄を置いて
おく所があったり、運んだりする仕事があったり、いろいろあったさ。
そこで働く朝鮮人は全部で何名くらいでしたか?
飯場に住んでいるのが200人以上はいたはずじゃ、飯場が一棟。宿舎を建てて
からは、宿舎は10棟以上あったから、およそ200人ぐらいになるじゃろ。10人
ずつと考えても 200名になるじゃろ。
飯場はどんな感じでしたか?
あちこちこういう倉庫式で、家はみんな2階、3階建てじゃった。昔の国民学
校、ええと、初等学校の平屋を建てたようなもの。タダミ128)の部屋じゃ。廊下
は一つで、真ん中じゃなくて片側に。
飯場一つに何人ずつ寝たんですか?
10人ずつ。一部屋に10人くらいはいたかな?
一つの建物に10名ぐらいですか?
一部屋に。建物が何個なんて誰が行っていちいち数えるかい? だから、20棟
にはなったじゃろ。
部屋ごとに番号がありましたか?
それは宿舎の部屋ごとにあった。でも、もう号数まで覚えてないよ、そんな
の。
127) 溶鉱炉の日本語の発音
128) 畳。板の間に敷く日本式のござ。
大分県
241
出退勤の時に確認する標みたいなものはありましたか?
そうじゃなくて、食事札があるじゃろ、食事札。食事する時にそいつをひっくり
返して置くんじゃ。それ(食事)をしない人間はそのままで、そうやって。
宿舎は他の名前がありましたか?
そういったものはなかった。飯場は山の上にあった。それで各寮のクルマ(車。
トロッコ) の後ろにかけて、犂(すき)でロープを。ロープを、ワイヤーで巻い
て。そこでクルマに乗って上がってくるんじゃ。クルマに乗れなかったら、そい
つはくねくねと下からそのまま上がってくるんじゃ。
ケーブルカーのようなものに乗ってですか?
そうそう。ケーブルカーみたいなもの。
働いたら体が汚れると思いますが、お風呂には入れましたか?
風呂は工場にあった。シャワーするところがあった。
逃亡して捕まったらどうなりますか?
そんなのわからないさ。わしらはただそこに(いて)…。逃げて捕まったらどこに
連れて行かれるかなんて、誰もわからないさ。どこに行くなんてどうやってわ
かる。彼らを今送ったら、運が悪けりゃ、どこに行ったかわかるもんか。
捕まったらどうなるかと脅されませんでしたか?
脅しなんてたいしたことない。留置場に行くんだと言われたさ。でもそいつら
は後で無事に帰って来た。
解放後、逃亡した3人と一緒に帰国しましたか?
いや。わしは行かなかった。その話(逃げようという話)は聞いたさ。逃げようと
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
242
言われたけど、わしが嫌だと言ったんじゃ。
一緒に逃亡しようと言ったのに、おじいさんは行かなかったんですね?
行かなかった。
熱い所で働くのに作業服は別途もらいましたか?
ただ自分のものを着ていただけじゃ。冬の間、ずっとそこの工場では服もくれ
なかった。服も靴も何もくれなかった。自分でただカッパみたいなもの、今で
言うとなんじゃ、フージャン*か、そういうのがあったら、それを自分たちで裁
断して縫って着たんじゃ。
冬は寒くなかったですか?
冬は、あちらの九州はいつも1年を通してほとんど温度が変わらんよ。
毎日同じ服を着ていたら、蚤とか湧かなかったですか?
ああ、そういったものはなかった。みんな消毒するから。
休みの日に外に出るとき外出証はなかったですか?
外出証。出かける時はあったよ、外出証。外出証があれば、もし憲兵に捕まっ
てもその証明があるから何も言われない。外出許可をもらって出てきたんだか
ら。
電車のようなものは見ましたか?
電車…、そういうのは見なかった。市內に…、市街に行くにはそこからはちょっ
と遠かったし。
大分県
243
動員された当時は年齢がとても若かったですよね?もっと年上の人もいま
したか?
わしより年上の人間もいたさ。
その時幼かったですが、どうやって行くことになりましたか?
17歳以上になったら行く者は多いじゃろ。
おじいさんよりももっと幼い人もいましたか?
それははっきりとはわからんが、わしらよりは多かったじゃろ、18、17、19歳、
そのぐらいの人たち。
解放後に帰国する時、博多の収容所にいたということですが、他から来た
人も多かったですか?
博多。他からも来た人も多かったよ。各地から来た人たち。そこではいろんな
人があちこちから来て、そうやって集まってきたんじゃ。日にちを受け取って
何人か乗るじゃろ。連絡船一つに何千人も乗るんじゃ。そうしたらそこで船を
出して。連絡船に乗せて送るんじゃ。釜山に帰って来た時、「ヤンノム(ヤン
キー:西洋人)」たちが「アンニョンハセヨ(こんにちは)」と言って迎えてくれ
て。どこに住んでいるのかさえ分かれば、そのままただで乗る。乗せて送って
くれて、そんなじゃった。
連絡船は鉄でできた船でしたか?
その連絡船が連絡船だったのかどうかもわからん。誰が船に上って…、カンパ
ン(甲板)129)に上るとウキ(浮き輪. 船舶用の救命用具)、それをつけて、それ(ウ
キ)をくれたなあ…。それで甲板に上ってどこがどうなっていて、どこが鉄でど
129) 甲板の日本語の発音
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
244
こが木なんてそんなのまじまじと見る奴がいるかい? ああ、連絡船なら鉄でで
きているだろうさ。
おじいさんがいた所で空襲はなかったですか?
飛行機の攻撃? 飛んできたさ、その時だけでも。人を見つければ爆擊してき
た。その時は機関銃じゃよ。サイレン、毎日サイレンじゃよ。夜は火も、(目標
が)ないからできない。
溶鉱炉から煙が出て夜もわかるんじゃないですか?飛行機が。
それが奴ら(米軍)も大きな工場のような所は、爆撃をしようとはしなかった。大
きな工場のような所、爆撃といったら、ここに爆撃したらもう終わりさ。
日本語がお上手で班長みたいなことをしたんですね?
班長というより、ただ楽だっただけじゃ。だからといって特別待遇がいいとい
うわけでもなく、同じ待遇さ。
どこか具合の悪いところはありませんか?
今かい?ずいぶん年を取ったからのう。あちこち悪い所だらけじゃよ。(生まれ
た年が) 27年。27年だから、満70、そう、78歳になったよ。
面談 • 校閲 權美賢調査官、
1次聞取文作成 沈スンア、
編集・推敲・注釈 鄭惠瓊課長、李秉熙、權美賢調査官
面談後記
2005年8月24日午前11時50分頃から12時30分頃にわたり、静かな委
員室にて面談を行った。口述者は入歯をしていたが、発音もはっ
きりしていて、耳もかなり良いほうであった。幼い頃に動員され、
1950年朝鮮戦争の時には志願して軍隊に行ったという参戦勇士証を
持っていて、戦闘で負傷した傷痍軍人である。父親との対面を生ま
れて初めて日本で果たすという驚くべき経験を持つ個人史の主人公
でもある。いろいろと手を尽くして探した末にようやく出会えた父
親は、沖縄で軍属として勤務していたが、1週間ほど共に過ごした後
別れる。その後一度だけ手紙が来たものの、それ以来消息がつかめ
ていないという。口述者は戦争の惨禍の中で父親が亡くなったと考
えている。口述者は強制動員真相糾明のための特別法の制定当時に
多くの活動をされた方であり、依然として真相糾明に対する熱意を
強く持っていた。
大分県
247
チュ・トクジョン(周德鍾) 男、78歳
1929.5.16 忠清北道沃川郡安南面蓮舟里生まれ。
1942.初春 日本大分県所在の日本鉱業株式会社佐賀
関製錬所130)に動員される。(戸籍年齢12
歳、実年齢15歳)
1946.
帰国
徴用に行って生まれて初めて父に会い
ました
生年月日は1929年5月16日ですよね?ここには陰暦の1月10日になっていま
すが。130)
それは…、どうやら私の戸籍がなかったようなんです。でも、後に私が軍隊に
130) 佐賀関製錬所、日本大分県所在。銅生産の拠点として世界最高水準の技術力と生産能
力を誇る。貴金属と稀貴金属等の各種金属と副産物を生産。親会社であった日本鉱業㈱
は、1905年に建てられた久原鉱業所が鉱山、製錬所経営を中心に発展した。久原鉱業所
は1912年に久原鉱業株式会社に変更。1928年に日本産業㈱、1929年に日本鉱業㈱にな
った。現在は日鉱金属株式会社。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
248
行って、何かと面倒になりそうだったからそうやって作っておいたんです。で
も、私はそうなっていることも知りませんでした。てっきり戸籍があるとばかり
思っていたから、まさかないとは思いもしませんでした。それで、50何年度…
54年度に戸籍を作ったんです。
住民登録上ではどうなっていますか?
住民登録証は1月10日になっています。でも、その前のは戸籍があったんです
けど…。それは破って捨ててしまったようなんです。廃棄してからまた作った
んです。そう、ちょっと騒ごうとしたけれど(抗議しようとしたけれど)…。私は
知らなかったので、それを開いて見ようともしなかったけれど…。50年度の何
月にしたのか出ていますよ。戸籍にいた奴ら(戸籍業務担当者)に殴りかかろう
としたんだけれど…、彼らは身内ですね。ここでは32年生まれになっていま
す。実際の年は77歳で。でもその前に作った戸籍だけど、それが。親がいない
から。伯父さんが出生届を遅れて出したようんなんです。出し遅れたんだけれ
ども、朝鮮戦争があったせいで何かとう騒がしくなったから、その頃戸籍を廃
棄してしまったようなんです。戸籍を廃棄したが、それから私が軍隊で負傷し
て、7軍人学校に入院したりして慌ただしかったから。下手したら困ったことに
なりそうだから、誰かがこれを作ったようです。
日本に行く時、家族は何人でしたか?
家族は父、母、姉が一人いて、祖母も健在でした。だけど父が日本に行ってし
まって…。
お父さんはなぜ日本に行ったんですか?
私が生まれて間もなく、その時たぶん徴用か何かで連れて行かれたんだと思
います。いずれにせよ…。たぶんすぐに…。私が生まれて何年かして行きまし
た。正直言って父親の顔も私は知りませんでした。日本に行ってやっと居所を
大分県
249
日本人が探してくれて、父親が訪ねて来てくれてようやく会えたんです。その
時数日会って、その後は会っていません。何日か…、1週間くらいいてから行っ
てしまいました。で、その時の父親の話が自分はオキナワ131)にいる。沖縄で軍
属としている。それだけ聞いたんです。そうして行ってしまって…。
日本に連れて行かれて、そこでお父さんに会ったということですね?
そうです。そこで会ったんです。
それからは一度も会わなかったということですか?
そうです。わたしがお願いしたんです、日本人に。私はこれでもその工場で真
面目に働いていたから。たくさんの学生を私が引き連れて働かせていました。
そうしてある時、監督に訴えたのです。「私は親の顔も知らない。今日本にい
るというが、どこにいるかもわからず、我が家は完全にばらばらになってしま
った。家にはお婆さんが一人きりでいる」。そういうと、その日本人は「それは
気の毒な話だ。一度私が当たってみよう」、そうして名前を聞いてきました。
私はその時教育を受けていなかったから、日本語で何というのかもわからず、
家族が呼んでいた父親の名前「チュ・ジェフ」というのだけ知っていて…、そ
れと写真が一枚ありました。その写真を見せてあげながら「若い時の写真な
んだが、これがそうだ」と言ったら、その写真を持ってきましたね。5、6か月
くらいでしょうか、そのくらい経ちました。それも日本に来て2年以上も経って
いた頃です。5,6か月くらい経って、事務所から電話が来ました。「何です
か」と聞いたら寄宿舎にある事務所に上がって来いと。それで監督に話をする
と、「ああ、行ってこい」と言われて。それで行きました。山の上にバラックの
ように建てた収容所がありました。それで、そこに行ったら…、事務所に行っ
131) 沖縄。沖縄県。日本最南端の県。県庁所在地は那覇市。琉球王国であったが日本の侵略に
より1872年に琉球藩、1879年には鹿児島県の一部に編成される。第2次世界大戦時には人
口の1/3近くの人が亡くなるという被害をうけ、1972年までアメリカの占領地であった。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
250
たら、「おお!よく来た」というんです。そこにいる人に挨拶しろと。ただそれ
だけ。その人に挨拶しろと。誰なのかわからなかったですよ、私は。頬髯が薄
黒くて、背は私と同じくらいの人が座っていました。ところが近づいて顔をよ
く見ると私のおじいさんに似ていたんです。それで、ああ、お父さんだと思っ
て挨拶したら、日本語で。「オマエガナカシマトクショウカ ?(お前が中島德鍾
か)」 と言ってきた。それでそうだと言ったら、韓国語で、朝鮮語で「わしがお
前の父親だ」と言ったんです。とにかく何も言えずにぼうっと見つめていまし
た。あまりにも胸がいっぱいになって。言葉も出ずただ見つめていたんです。
父親も人の子だから目から涙がこぼれていました。それで、手を、私の手をと
って。部屋に入ってから1時間くらいずっと泣いて…。「家には今お婆さんが一
人でいます。お父さんひどいじゃないですか。私はもう大きくなったから大丈
夫。日本に来て働いているし。でも、お婆さんは…、60歳にもなる老人が…。
60になったんではなく、60過ぎた老人が…。私を育てようとどれだけ苦労した
かわかりますか?今も一人でいて、私がここで給料をいくらかもらったら、そ
れを全部送ってそれで生活しているんです」と言ったら「すべてが狂ってしま
った。わしが軍属になったから、思うままにできず、そのせいで…。今回憲兵
隊にどうにか連絡がつき、こうして…、お前が探していると聞いてわしも探し
て、居所がわかってここまで来ることになって…、お前がいると知ってここに来
た」と言いました。それで1週間ほどいました。その時、所長がお金を20円くら
いだったかいくらかくれて、「会社から特別にやる金だ。この金で街に出てお
父さんと一緒に何日か過ごしなさい」と言ったんです。あの人たちも人の子で
すよ。私の生い立ちを聞いて、顔も知らない父親に初めて会ってようやくお父
さんと呼ぶことができたんですから。それで市内に出て一緒に過ごして、およ
そ 1週間経ってから帰っていきました。父はもうじぶんは軍属だから、「軍人
だからどこに行くこともできず、ここいらで戻らなくてはならない」と言って。
それで私は「そうですか。ではお気をつけて。時々連絡をください。」と言っ
て、そうして帰って行ったんです。その当時戦争が一番激しい時だったから、
そこにもよく飛行機が飛んできて爆弾を落としたりしているところだったの
大分県
251
で、「危険だけれど、とにかくお戻りになるしかない」「ちょくちょく連絡をく
ださいね」と言って別れました。別れてからはまた元通り工場で働きました。
製鉄所で鉱石を挽くのをやっていたんですが、それをクラッシャー(粉砕機)と
言って。石を入れて挽いてきれいな粉にして、餅を作る粉みたいにきれいに挽
いて、それを、金属を溶かす所に送るんです。送ったらそれを熱して、熱した
ら、それが金属になるんです。熱して注ぐと、かすは抜け落ちて金属になるん
です。でき上がったら、それでみんな鉄を作るんだと聞きました。そうやって
過ごして1年経った時、一度だけ手紙が来て、それからは来ませんでした。沖
縄という所がものすごい爆撃を受けて酷かったそうだから、死んだと思いまし
た。全くわからないですよ。
その後の消息は全くわからないですか?
全く。どこの部隊か私は知らなかったから。ただ軍属だということだけ知って
いて、どこの部隊かもわからずで。記憶もないし。
最初に日本に行く時には、お父さんはすでにいなかったということですか?
そうです。小さい時から父親がいないで育ったから。母親も再婚してしまっ
て。姉さんと住んでいたけれど、姉さんも嫁に行き…、それも若い時に嫁にい
ったんです、姉さんは。姉さんが嫁に行って祖母と二人きりで暮らしていると
ころに日本人が突然…。その当時、国民学校2年生で、3年生にはなっていなか
ったと思いますよ、私たちの年では、当時。戸籍上では12歳だから。で、ある日
面書記が来て、紙切れを持ってきて「ここで苦労していないで、日本に行って
工場で働いて楽して来い」と言ったんです。その時たぶん国民学校2年生だっ
たと思います。
何歳の時でしたか?
12歳の時だったから…、戸籍上では12歳で、本当の年は15歳でした。それで、村
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
252
の金チャン○という人がいて。軍隊に行って亡くなったんですけど、私がお兄さ
んと呼んで親しんでいた。その金チャン○という、彼と私の二人が行くことにな
ったんです。彼も生活が苦しくて、面倒を見てくれる人もいなかったから。
令状が二人だけに送られてきましか?
そうです。その紙を受け取って面事務所に行ったら、日本人が座っていて手を
見せてと言うんです。手を触ったりしましたね。まだ幼いけれども苦労して生
きてきたから仕事はいっぱいしましたよ。人の家の草を刈ったり、薪をくべた
りしていましたから。
日本に行く前は、家の中の事は全部していましたね?
やるしかなかったよ。する人がいないんだから。年老いたお婆さんにしろとも
言えないし。
学校は通いましたか?
国民学校に入って、2年生の時にたぶん辞めただろうと思います、国民学校
を。安南国民学校。
それは何年度でしたか?
その、軍に行く…、だから日本に連れて行かれる時だったから42年だったっけ。
それで面事務所に行きましたか?
その人が私の手を触って見た。手はぼろぼろだった。たくさん働いたから。
安南面から二人だけ徴用に行ったんですか?
いえ、蓮舟里から6人行きました。それとスンガ里という所からも。私たちの村
からも3人、それともうちょっと。それで私たちの村から5人、スドンという所の
大分県
253
朴何とかという人か、その人は私たちと同じくらいの年でした。その人も12歳
か13歳くらいだった。その人と幼いのは3人だけで。面でその時30人くらい行
ったと思います。
面から30名ほどが行ったでしょうか?
そう。面を合わせてだいたい30人くらいになって郡庁に行きましたから。沃川
の郡庁に。行ったら他の所からも来ていて、それで100人くらいになりました、
その時。
郡庁に集まった人たちの年はどうでしたか?
他の人たちはそれでも年が20歳を過ぎた人たちで、子どもは私たち3人だけで
した。
蓮舟里から行った人は3人ですか?
私ら2人とスドンという所から高山という人と。それでもってあちこちから集め
られた人で200人近くになったと思います。そして釜山にきましたね。
郡庁に集まった時、100名ぐらいになったと?
いや、他からもさらに来たから200人くらい。釜山に行きました、汽車に乗って。
汽車に初めて乗ったでしょうね。
初めて乗りました。初めて汽車に乗って行きました。それから釜山に行ってバラ
ックみたいな小屋に全員入れられたが、300人くらいになったかな、人数が。あ
ちこちから来た人で。それでそこにいた人が作業服をくれました、作業服を。で
も私のような…、チャン○イや私のような幼い3人はウワギ(上着)がひざ下まで
来て…。靴もすごく大きくて…幼いから。その日本人は気の毒に思ったのか、そ
の人が責任者だったようです。何歳かと聞いてきました。「戸籍の年が何歳で、
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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本当の年は何歳」だと答えました。すると、仕事さえちゃんとできればよいから、
まずは服をなんとかしようと言って、私たち3人を連れて出たんです。釜山市內
に連れて行ってある服屋に行って、「この子たちに合う服をくれ」と言って。同じ
色の同じ服を貰って靴も大きかったので、サイズの合うゴム靴を1足ずつ買って
履かせて貰った。バスケットボールシューズは大きくて、その時はまだ小さいバ
スケットボールシューズはなかったから。運動靴もなくて、その時は。もらったも
のを履いて船に乗ったんです。1日かかったと思いますよ。
釜山で一晩泊まらなかったですか?
いえ、泊まりました。一晩泊まって、そこからまた船に乗って行ったんだけど、
船でもう一晩寝たと思います。寝て二日経って降りたんだけど、二日目の午後
3時くらいに降りたと思います。その、シモノセキ(下関)132)という所に。
船内で食事はもらいましたか?
食べ物はニギリメシ(握り飯)というお握りが一つ。一つずつくれました。
中隊長、小隊長、そういう人たちはいましたか?
そういう人はいたことはいたが。朝鮮人で。行く人の中から選んだ。
日本語が上手な人の中から選んだんですか?
はい。選んだには選びました、責任者を。でも、その人たちの名前もわからな
いから言わなかったです。
一つの小隊が何人ずつになっていたか覚えていますか?
それは覚えていません、今となっては。
132) 下関。山口県の港湾都市。関釜連絡船が往来する港。
大分県
255
下関に到着してからはどうなりましたか?
下関に到着して、握り飯を一つずつもらって、駅前に座らせてくれましたね。
そこでそれを一つずつ食べて、そうして夜汽車に乗りました。
バスですか?
いいえ、汽車に。夜汽車に乗って行ったんだけど、そこが大分県の駅だった。
そこで降りて。その時、大分県からそこに行く汽車がなくて、佐賀関まではト
ラックで行きました、トラックで。佐賀関製錬所です、そこが。汽車に乗れなく
て、そこで大分県、大分駅で降りて、その、トラックか何か…、とにかく何か車
に乗って佐賀関に行きました。着いたら山を上がったんですが、バラックがず
らーっとありました。そこで一部屋に5人ずつ入れられたが、私ら3人、幼い3
人は他に部屋一つをくれて3人一緒にいられるようにしてくれたんです。そう
こうしていたら夕食になって。夜、車に乗ってきて朝着いただけど、そこでもう
夕方になっていました。で、とにかく調査だ何だして、分かれてみんなで宿舎
を決めたりしていたら、カンカン!と鐘が鳴って夜飯を食べに行くんだと、以
前からいた人たちがぞろぞろと歩いて出て行ったんです。ついて行ってご飯を
もらったんだけど、それがもうご飯なんて…、ご飯なんてもんじゃなくて何か
黒くて不気味なんです。見ると豆粕だった。それをこうやってベント(弁当箱)に
少しずつ分けてよそってくれました。よそってくれて、タックァン(たくあん)3
切れ。たくあん3切れに、塩の汁をこういうコップに、たぶん一杯くらいになっ
たかな、それをくれました。それを見てもう呆気にとられて。お腹がすいてい
るのに、どうしたらよいんだと。でも食べるしかない、それで食べました。戦時
だから米がなくて、どうにもこうにもそうするしかないからと、それを食べて我
慢してくれと。時間が経って多少自由にしてもらったら、月給をもらって川べり
や海辺に行って魚などを買って煮て食べて。それと屠殺場がそこにあって。そ
こに行ったら…、そこの奴らは内臓をそのまま捨てるんです。内臓、脚、頭、そ
ういうのをそのまま捨てる。それを私らがもらってきて食べるんです。持って
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
256
きて煮て食べました。それでそいつらは「韓国人は牛の内臓を食べる」と言っ
て馬鹿にした。今では奴らも食べるというのに、当時はそうでした。
製錬所に到着したら、以前から働いていた人もいましたか?
はい、いました。
部屋にタダミ(畳)133)が何枚か敷いてありましたか?
畳が3枚敷いてありました。
釜山から着て行った服をずっと着て働いていいましたか?
その服を着て、そこで仕事をしました。作業服は別にくれました。
133) 居間に敷く日本式のござ。
海側から見た佐賀関製錬所の全景。
大分県
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靴はゴム靴を履いてですか?
そのまま履いていました。そうこうして時間が経って私らも成長したので、運
動靴を履くようになりました。
ご飯にお米は入っていましたか?
米はなかったです。ぜんぶ豆粕だけでした。そりゃもうお腹がすいて大変でし
た。だからと言ってどうしようもない。ある人はちょっと外に出るとサツマイモ
の畑があって、人の家に行って盗み食いをしたりしていたが、私らはそんなこ
とはできませんでしたよ。
到着して一晩寝て翌日からすぐ働きましたか?
もちろんです。その次の日から工場に連れて行かれて、おまえはどこどこで働
け、おまえどこどこで仕事しろと配置されました。訓練なんてただの使いっ走
りと同じだから大したことない。それで石を拾って、こうやって載せて、運ん
で、注いで…クルマ(トロッコ)で。
朝は何時から仕事が始まりましたか?
7時になったら出なくちゃならなかった。朝飯は通常6時に食べました。
では、何時に起きましたか?
5時には起きていないと。そうすれば顔も洗えたし、ご飯も食べて行けたんで
す。寝るのはもう…。
製錬所でおじいさんがなさった仕事は何ですか?
だから、クラッシャー(粉砕機)。その機械がある所で最初は鉱石をクルマに積
んで運んだりしていました。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
258
鉱石は黒いですか?
いいえ。赤々としていました。それと捕虜もいました。米軍捕虜。米軍捕虜も
横で働いていたんです。軍人たちが見張っていて。捕虜たちが鉱石を積んで運
んでいました。奴らはたくさん積んである所から持ってきて、私らがいる工場
の横に運んできたんです。それをひたすら炉に入れていました。そうして1年
くらい経って、私はそのクラッシャーの動かし方を習って覚えました。それで
私がクラッシャーも動かすようになると役職をくれたんです、班長に。班長と
いう責任ある役割を任されて、日本の学生を12人と私ら3人。
学生たちは中学生ですか?
中学生も高校生もいたけれど、みんな子どもでした。男の子もいたし女の子も
いた。女の子たちもいたけれど同じように働いていた、男の子たちと。彼らは
夕方家に帰って。彼らはお弁当を持ってきていました。弁当箱に白いご飯と焼
き魚が入っていて、毎日持ってきていました。
昼食は何時に食べましたか?
ちょうど12時に食べました。食堂があるけれど、その食堂がまたなんとも呆れ
る。そこに行ってあの豆粕を…。
朝と食事が同じですか?
同じものを食べたんですよ。
午後1時になるとまた仕事が始まるんですか?
1時前に始まりました。それで5時ちょうどになると仕事が終ります。夜間作業
者が入ってきて、私ら昼間の者は出る。昼夜交代で働きました。
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仕事が終わると何をしましたか?
終わったら、まず風呂に入るところがあって、そこに行ってさっと体を洗いまし
た。毎日しないと。しないと体が真っ黒なんです。それで風呂に入ってから着替
えて、宿舎に上がりました。夕食は宿舎に上がって食べて…、7時くらいにくれる
んです。夕食を食べて、それから部屋で遊びました。行くところもないから。
夕方は外出できなかったでしょうか?
昼間も外出できませんでした。日曜日に休みの日があったけど1か月に数回、
1か月に1、2回くらい。そういう時は何も言わずにそっと抜け出して。そこは
一本道なんです、一本道。両側は全部海で。一本道だから汽車が入ってこれな
いと言ったら、どんなもんかわかるでしょう。バスと自動車だけが通っていまし
た。とにかく軍艦だけが沢山あって、山には軍人たちがうようよしていた。だか
ら私らが外に出てサツマイモを掘ってもめごとが起きたら、軍人たちに怒られ
てけっこう殴られましたよ、あいつらに。
出かける時、門番はいましたか?
門番じゃなくて、降りて行く、外に出る道のすぐ横に事務室があったんです。
でも普通は裏から出ました。そこは山だったからぐるっと回っても山で。こうや
って崖がずっとあったけれど、裏に回ると崖を下りることができるんです。降
りたらそのまま行って…。車で?いいえ、歩いて行きました。出かけようとした
らずいぶん時間がかかったでしょうね?ずいぶんかかりました。で、車がない
し私らは車に乗ることもできなかったから歩いて…。また車に乗ろうとしたら
捕まるし。どこかあっち(他の所)に逃げようとして乗るんじゃないかと思われ
てダメだった。それで歩いて屠殺場に行って内臓を買ってきて…、そうやって
たくさん買ってきました。一回行くとなると、みんなから集めて…、お金を集め
て、2、3人で行くんです。ビニールを持って行き、全部買ってぐるぐる巻いて
包んでそれを背負って帰って来たんです。そうやって1週間くらい食べました。
ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ
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どこかに調理するところはありましたか?
料理する器はもともと用意してあったから。こうやって生きてきて、言葉では
簡単に言えるけど、3年間本当に悲惨でした。
そこに行ったのは何年度ですか?
そこに入ったのは42年の初春だったはずです。初春、初春に入って。
1年ちょっとで班長をされてますね?日本語がお上手だったんでしょうね。
日本語が上手だったのではなく、私が真面目に仕事をしていたから。仕事もで
きて言うこともまっとうだったから。そこの責任者に一目置かれていたような
んです。
責任者が誰だったか覚えていますか?
日本人だったけど覚えてないです。後々その日本人が会社で…、ほら、この指
は私が噛みちぎったんです。学生たちが高山という奴を殴って。朝出勤して道
具部屋から道具を持ってこいと使いをやったのに来ないんです。学生じゃな
く、高山というスドンから来た奴が来ないんです。それでチャン・○イに見てく
るように言ったら、また彼も戻ってこない。それで私が様子を見に行ったら喧
嘩になっていて…。学生たちがその高山という奴を殴っていたんです。チョー
センジン(朝鮮人)といって殴ったと。一人がちょっかいを出したら高山が何か
悪態をついたようなんです。それで悪口を言ったと何人もかかって彼を殴り、
頭が割れたりしていたんです。それを見てかーっとなるじゃないですか。頭が
割れて血が出ているのに殴り続けているもんだから。走り寄って叱りつけると
感情が収まらなくなって…。熊手鍬を掴んで一人の奴を殴ったんですけど、そ
のとがっている部分が背中に刺さったんです。背中にぐさっと刺さった。そう
したら奴らははむかうこともなく皆逃げてしまい、そいつだけが刺さったまま
残されて…。あれがもうちょっと強かったら死んでいたでしょうよ。それでそ
大分県
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れを抜いたら血が赤くどくどくと流れていて、それを見たら怖くなってしまっ
て…。その時日本の奴が一人通りかかって、事務所に行って話をしたらしく駆
けつけて来たんです。そのままいたら私も捕まるかもしれない。それで指を口
に入れて噛み切ってしまいました。で、憲兵たちが駆けつけてきて、労務部か
らも駆けつけて来て「おい、どうしたんだ。」と言いました。「いやあ、この道
具を持ってこさせようとしたら、こいつを殴っていてそれで頭が割れて怪我を
していたので、私が来て止めたら私も噛まれて指がこうなって…。かくかくし
かじか…」と私が説明しました。血が出ていて傷口が広がって、すごかった。
見てくださいよ、これを。今もこうなんです。それで誰が最初にやったんだと
いう話になりました。私も来て止めたら、手もこんなふうにされたと話をする
と、その怪我をした奴と一緒に連れて行かれました。病院に連れていって。
そこで治療だの何だのを受けている間、彼らは何か話し合っていたようで、
しばらくすると、「中島徳鐘は戻って仕事を休め。指がそんなんじゃ仕事がで
きないだろうから休め。高山も連れて行け」と言われました。彼を連れて戻る
と…、夕方聞いたところによるとそいつら5、6人は留置所に入れられていまし
同僚に悪態をついて殴った日本人を叱ってわざと噛み切った指。
60年以上経った今でも指の先がすり減っている。
(調査1課 李秉熙調査官撮影)
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た。留置所もそこにあったんです。入れられているのを横目に私らは仕事をし
ていたんです。
その時うまく対処されたんですね。
しなかったらひどい目にあっていたでしょうよ。後の方になると日本人の大人
は一人もいませんでした。みんな軍隊に引っ張られて行ったから。韓国人と若
い学生達だけだった。女の人たちと…、少し年のいった人は女の人でほとんど
学生でした。
月給はいくらもらいましたか?
その時、10円ぐらいだったかな。いくらかもらってたと思います。
月給は現金でもらいましたか?
通帳でもらいました。私はそれを…。
引き下ろせましたか?
できましたよ。でも、もらうとすぐにお婆さんに送っていたんですが、いくらか
差し引かれていました。ピンハネされたんです。差し引かれると「いくら残っ
た!」とそれをお婆さんにそっくりそのまま送りました。私はそこではお金は必
要なかったから。お腹がすいていてもひたすら我慢して、他の誰かが少し分け
てくれればそれをもらって、そういうふうにやっていた。
おばあさんが苦労しているのを想ったんですね。
そうですとも。それを思うとご飯ものどを通らなかったです。本当にそういう
心情で。お金なんて使えますか?お婆さんに送って、また送って、そうやって
生きていたんです。
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解放までほとんどお金を使わなかったでしょうね。
そうです。お金は使えませんでした。お金というものを見たこともないです。
お金を見たのは、お金を使うことになったのは、工場を出る頃に、その、ハガ
ダ134)に出て。私たちは下関には連れて行かないで博多に連れて行かれたんで
す。ハガダの海上庁に。
博多に行ったのはいつですか?会社にずっといて行ったのですか?
ずっといて。それで解放になってから。うん、解放になって。
解放の時、ラジオ放送のようなものはなかったですか?
それを私らは工場で聞きましたよ。一切何も言われなかった。飯もそのまま出
たし、同じように扱われて、そうして10月をちょっと過ぎたら。
それまで仕事をしたんですか?
しましたよ。そうして10月をちょっと過ぎると、ご飯の内容が少し変わってき
たんです。少しですが、米も混ざり麦も混ざり豆粕も混ざり…。でも豆粕は少
なくなってご飯が増えたんです。そうやって過ごして…、そうしているうちにハ
ガダに出て、米軍に、米軍の憲兵に会って…。
日本人がその時連れて行った人をみんな連れてきたんですか?
そうです。ハガダに連れて行って。
朝鮮に送り返すと?
そうです。お前たちそこに行って船が来るのを待って、船が来て「乗れ」と言
134) 博多。福岡の博多区。以前の博多市地域を指し、博釜連絡船の往来する港だった。
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われたら乗れと。それでハガダに行って帰ってきたんです。
日本人が引率をしましたか?
そうです。そこにいたんですけど、そこにいた韓国人はしっかりした大人が多
かったんです。で、その時どこの人が私のことを目に留めたのか…。その時私
はまだ幼くて年が17、18歳だったから…、子どもでしょう。徴用に来た人の中
でも幼かった。それで私を呼んで「ここで、こうしてくれ、ちょっと使いっ走り
をしてくれ」と言ったんです。それで朝と夜に行って、宿舎も一緒に行って寝
て…。
朝鮮人ですか?
いえ、アメリカ人。アメリカの憲兵たちが。日本人を…日本の奴らを、入ってく
る奴らを全員調査して、所持品を取り上げていました。
武器をみんな取り上げましたか?
はい。そこではそういうことをやっていました。それを取り上げて積んでおい
たけど、しょっちゅう誰かが盗んで持って行くから、それを管理しろと言うんで
す。そうやって過ごしていたら、船もこなくて、そうこうしてまた年が明けたん
です、46年は。
解放後も給料をもらいましたか?
給料なんてくれませんでしたよ。寝食は日本人が準備してくれたからそれをも
らって過ごしていました。それでそこでどんなことがあったかというと…、毛
布があってそれをこっそり持ち出して売ると金になった。それも知りませんで
した。知らなかったけどある人が私に「バカだなあ、毛布をこっそり持って行
くんだよ。持って行って売れば結構な金になる」と言ったので、その人がいう
通りに。タバコも外国産のタバコで、ある時は何箱にもなりましたよ。それを
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持って行って売って、当時のお金で1,000円は大金ですよ。1,500円稼ぎました
よ、そこで。その時1,500円を稼いだんです。稼いで1年が過ぎて…。翌年の7月
までずっといました。7月に船が来て、連絡(博釜連絡船)が来てそれに乗りまし
た。船に乗って釜山に着いて、お金を両替したんですけど、1,500円全部は替え
てくれなかったんです。その時 700円か600円を替えました。それでそこを出
てヤメ (闇)で替えて…。そうして1,000円分も持っていけなかったんです。こう
やって1,500円持ってきて替えてみたら…、日本のお金で1,500円…。そこで汽
車に乗れと言われて、それで汽車に乗って沃川駅まで来て、3人一緒に降りま
した。でも大人はどこに行ってしまったのか…見当たらなかった、そこに着い
た時には。
それでも3人は最後まで一緒にいたようですね。
私ら3人はお互い支えあっていましたから、一緒に来て。日本から戻る時、ある
日本人に出会って、その日本人がミカン(蜜柑)、その時ミカンは韓国になかった
じゃないですか。そのミカンを大きなトランクに詰めてくれて。そのトランクを
3人で分けてこうやって背負ってきました。それと日本に行って来たという人
が、日本で買った服を、それを1,2着を背負って、故郷に帰ってきたんですけ
ど、そこに車なんてなかったから…。その時、夜降りたんですけど、そこから沃
川まで40里を歩かなくてはならなかったんです、夜の山道を。それで歩いて…
歩いて、村の前まで来たら、その時たぶん11時ぐらいだったと思います。村の
人達が私らを見て「誰だ、誰だ」と寄って来て。私の顔を見て私ら二人がわか
ると迎えてくれました、苦労したなと。そしてお婆さんに会ったら、髪の毛が
真っ白で腰が曲がった老人になっていました。それでも「お前がこの家にいた
時よりは随分いい暮らしをしている。お前が送ってくれたお金のおかげで」と
言ってくれて。布団も新しい布団が敷かれていました。それで父親から連絡が
あったかと聞いたら「お前のお父さんが一度お金を送ってくれたけど、それ以
来連絡がない」と。その後死んだのでしょうよ、連絡がないのを見ると。だか
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ら今でもどこに行ってどうやって亡くなったのかもわからずで、遺体も戻って
こないし。
日本にいる時、お婆さんと手紙はやりとりしましたか?
手紙はお婆さんも書いたし、私も書きました、お互い。お金を送る度に送りま
したよ。
製錬所で働いていて逃げ出す人はいませんでしたか?
ああ、もちろん。逃げ出す人も多かったですよ。逃げ出した人は多分2、30名く
らいにはなるでしょうよ、逃げた人は。
解放後、家に早く戻ろうと逃げた人もいましたか?
いや、早く帰ろうと逃げたんではなくて…。最初は捕まって来て組織的に働か
されるから自由がないでしょう。そうするとそこで行動の早い人は逃げ出すで
しょう。逃げて捕まったら半殺しになった。捕まって来た人は死にかけました
よ。半殺しにあったけど、捕まる人は多くはなかったですよ。そこは島だったか
ら道が一本道で、ほんとうに一本道だったんです。その大分県という所まで行
こうと思ったら、80里ぐらいだから。その当時はそこに大きなものはその製錬
所しかなかったんです。
近くには何もありませんでしたか?
海辺だから。海がずーっとあって後ろは山だったから。その山に捕虜収容所を
作って米軍捕虜たちがそこにいました。後々私もそこに行って米軍たちを、働
かせる人間を連れて来たりしていました、実のところ。
帰国する時、船賃は払いましたか?
お金は払いませんでした。戻って来る時まで一切食事代とかも出したことがな
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かった。帰る間、釜山どころか家に戻るまでお金は払いませんでした。
先に帰って来た人たちは、闇船に乗ろうとお金をかなり出したということ
ですが。
個人的に来た人はそうだったでしょうよ。団体で来たから金を出せと言われた
こともないし、お腹はすいていたけれど、お金は払わなかった。
休みの日は外に出て何か買って食べたとおっしゃいましたよね?
魚も買ったし、サツマイモとかも。
休みの日に外に出て見物もしましたか?
広い所じゃなく狭い所だから。一日中回っても数百回、回れますよ、そこを。
狭い場所なんです。それと日本人もその当時はそんなにいなかったし。若い人
も、年寄りも少しだけで。
製錬所には日本人はどのくらいいましたか?
日本人は何人かいました。最後の方は、日本人はいなくて学生だけでしたが。
上で指示する人ですか?
そうです。責任者たちだけで…。それ以外はクラッシャーの機械を動かす人た
ちだけ。数人だけで、あとはみんな軍隊に連れて行かれてしまったから、いな
かったんです。全部韓国人がしていました。
学生たちは働きに来るときバスに乗ってきましたか?
はい、学校のバスが来ていました。乗って来て、降りて仕事して、帰る時もそ
のバスが来て、乗って帰っていきました。
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アメリカの捕虜たちを連れて来る時は名前で呼ぶんですか?
ただ番号だけ、番号を呼んで来ました。
山の上から歩いてくるんですか?
そりゃ歩いて降りて来るでしょう。番号だけ呼んで、これしろあれしろそうやっ
て。
通訳なしで話すんですか?
そう。そのまま言葉と身振り手振りで言うと、それを見て奴らは自分たちで判
断してやってたね。日本の学生が、女子学生がサツマイモをふかして風呂敷に
包んで持ってくるんです。持ってきて分けると、それをわしらだけでは食べな
いで彼らにもあげました。
捕虜にもあげたですか?
はい。あげると、一つあげると一人じゃ食べない。パカっと割ってそこにいる
仲間たちにも分けて食べるんです。私らは腹がへっているから、もらうとなる
と誰か一人で炒めて食べたりするのに、彼らは絶対に一人では食べるというこ
とがなかった。
帰国してからは何をしましたか?
帰ってからは特に何も。お婆さんの面倒を見ていたらそのうち朝鮮戦争が始ま
ったんです。朝鮮戦争が始まったから軍人になって。私はお婆さんが亡くなる
時見とれなかった。軍隊に行っていてお婆さんは一人でいたから。軍隊に行っ
て休暇で帰ってきたら亡くなったと。休暇でなくてその時は病院にいたから。
怪我をして病院にいて、入院中に家に戻ったらお婆さんが亡くなったと。
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今も脚が悪いんですか?
うん。脚、腕。これは破片ですよ。これを取り除いてくれと言っているんですけ
ど…、しびれて。しびれるんです。筋に刺さっているんです、この破片が…。で
もうまく取れなかったら指が不自由になると言って取ってくれない。それにこ
こ、尻にもこのくらいの彈丸が入っているのに取ってくれないんです、破片も
取ってくれないし。もう年寄りだから取ってくれないし、もはや何もできず我
慢するだけです。
解放後出る時、製錬所から退職金をもらいましたか?
何もくれないですよ。わずかですが、ピンハネされていたお金があるんですけ
ど、そんな話も一切ない。
厚生年金のようなものはなかったですか?
それだってあったのかなかったのか、わからんです。でも、そのことを手紙で
私が何回も書いたのに、何も来ない。ただないとだけ。確認ができないと言う
んです。矢野秀喜135)という日本人が私の委任状まで書いて持って行った。それ
を確認してくれると。でもあの会社の社長は、まだ会社があるのに、製錬所、
あの佐賀関製錬所があるのに、社長は会ってくれないんです。一度私が行って
騒いでやると言ったら、止められて行けずにいます。まあ、行っても言葉も通
じないし。そんな所にいったってどうなる?むしろ話せる人が行った方が話も
できるだろうし、でも話せる人もいなくて…。私は聞きとることはできるけど会
話ができないんです。ずいぶん使ってないから。
最後に韓日協定に関して韓国政府に対して言いたいことはありますか。
それが、韓国政府は無視したんですよ、被害者を。この特別法(強制動員被害
135) 戦後補償関係の市民運動家。
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真相糾明法)を作る時に国会に何度も通いました。当時はあいつらにすがって
たんです。法を作る時は全然姿を見せなかった奴らが、今になって騒いでき
て、なんだかんだと。法を通過させたのに、ここまでくる問題ではないですよ。
とっくに国が解決すべきだった。それと(1975年度に) 30万ウォンずつ与えたと
いうのも新聞にだけ出すのではなく、各面事務所を通して本人に知らせるよう
にしなくちゃ。私は聞きもしなかったし、初めて聞いたんですよ。
田舎にいる人はわからないでしょうね。
わからないでしょう、全くわからないでしょう。こんなことがあり得ますか? も
はやこの地域に記録が残っていない人たち、そういう人の方が多いですよ。資
料が見つからない人たちが。日本政府はもはや話にもならない奴らだし、今で
も自分たちのしたことがよかったと言う奴らじゃないですか。殺して殺してな
いと言う奴らに、これ以上話しても無駄でしょう。え?もし私がこの前の日本で
の裁判に行っていたら、私が留置場に入れられるとしてもただではおかない。
何かしらやらかして大騒ぎになっていたでしょうよ。
面談 • 校閲 李秉熙調査官
1次聞取文作成 韓キルサン
編集・推敲・注釈 鄭惠瓊、李秉熙、権美賢調査官
日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会|日帝強制動員被害者支援財団
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翻訳 • 最終監修者
日本語翻訳
日本語翻訳協力委員会
•
李 康 成 : 解題, 鹿児島県 柳済喆, 長崎県 任元宰 韓淵愚,
佐賀県 金祥泰 金絃九, 福岡県 李天求
•
村松純子 : 福岡県 金圭衡 元天常, 大分県 金基玉 周徳鐘
•
竹内康人 : 発刊の辞、地名・人名等校訂
訳注 読みやすくするために、句読点を加え、改行した。意訳した箇所もある。
最終監修
日帝強制動員被害者支援財団
企画広報局 チーム長 徐寅源
職員 李秉熙
写真出処 : 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会.
『ポンポン船に乗って帰る途中、海の幽霊になるところだったよ』(2006), 韓国語版