PDF문서일제강제동원피해자지원재단.2022.(구술기록집)당꼬라고요 タンコウ(炭鉱)だって.pdf

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タンコ(炭鉱)

だって?

発 刊 登 録 番 号
11-B553448-000063-01

日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書 16 口述記録集

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

日帝強制動員被害者支援財団·日本語翻訳協力委員会

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日帝強制動員被害者支援財団 翻訳叢書 16 口述記録集

タンコ(炭鉱) だって?

 

初版 1刷 印刷

初版 1刷 発行

韓国語版編著
韓国語版発行

日本語版発行人
日本語版発行所

翻訳

最終監修

発刊登録番号 

デザイン・編集 

2022年 11月 30日
2022年 11月 30日

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

2005年 12月 30日

沈揆先

日帝強制動員被害者支援財団
ソウル特別市鐘路区鍾路1通42 利馬ビル6F
http://www.fomo.or.kr

日本語翻訳協力委員会

翻訳  木村英人  人名・地名  竹内康人
翻訳にあたり、誤りは訂正し、字句を補った個所がある。訳注は〔      〕で示した。

玄明喆 (韓日関係史学会 元会長)

11-B553448-000063-01

Design21

本書の全部または一部を無断で複写複製(コピー)することは、
著作権法上での例外を除き、禁じられています。

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表題「タンコだって」

タンコは炭鉱の韓国語での発音。調査の中で、お爺さんたちの言葉がよく聞
き取れず、「えっ。タンコだって?」と聞き返すときに出された言葉である。

表紙写真
張悳煥さんが委員会に寄贈した写真。驪州勤労報国隊の山田炭鉱への入所
記念写真(1943年10月9日)

本文写真
林えいだい『清算されない昭和』岩波書店1991年
林えいだい・武富登巳男『異郷の炭鉱』海鳥社2000年
委員会調査官・李秉煕撮影写真

訳注は〔  〕で示した。
訳出にあたって意訳した箇所がある。重複部分で略した箇所がある。
明らかな誤りは訂正した。

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発刊の辞(日本語版)·····································································006
発刊の辞(韓国語版)·····································································008
解題··························································································011
口述者の証言による強制動員地(韓国・日本)····································028

       九州地域 / 031

  1. 朴龍植(パク・ヨンシク) 九州・炭鉱··········································033

爆弾が破裂して死に、地震で石炭に火がついて死に、腸がちぎれて死に

  2. 趙用伕(チョ・ヨンソプ)福岡・三菱方城炭鉱·······························051 

引き裂けた足が 今もずきずき痛む

  3. 金翰中(キム・ハンチュン)福岡・三井染料·································065

以北(朝鮮北部)に行って来たら旧暦の元旦に「今度日本に行け!」

  4. 張悳煥(チャン・ドクファン)福岡・山田炭鉱·······························079

18歳の若さで「報国隊長」の腕章をつけ、故郷を後に

  5. 張舜培(チャン・スンベ)長崎・川南造船所·································099

ピカッと光ったと思うと、フワッと空中に飛ばされた

  6. 金光模(キム・グァンモ)長崎・川南造船所·································121

その日は、空は青々していたが、火事のように、ピカッとしたんだ

        関西地域 / 131

  7. 李秀哲(イ・スチョル)兵庫・川崎造船所·····································133

思想家の家だと兄は殴られて死に、おれは徴用に連れていかれて

  8. 鄭大成(チョン・デソン)大阪・軍需工場·····································151

空襲があるのに、朝鮮人だと防空壕に入れてくれないんだ

02

01

目次

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03

04

05

        関東地域 / 161

  9. 李士炯(イ・サヒョン)東京・三菱製鋼········································163

鍛冶屋の鞭叩きは本当に酷いんだ!

10. 慶箕哲(キョン・ギチョル)東京瓦斯化学工業·····························183

「勤労奉仕」 とごまかす労働力の搾取が徴用、強制労働なんだ

11. 嚴正燮(オム・チョンソプ)東京・石川島造船所···························201

徴用を避けて京城電気に入ったが、逃れられず日本に行った

12. 朴鎮享(パク・ジンヒョン)東京・酒井工作所······························213

逃げたってどうせ爆弾に当たって死ぬんだ

13. 陳顕秀(チン・ヒョンス)東京・日本製靴·····································229

焼夷弾の火の海の中で、裁断の仕事や軍事訓練をしていた

       中部・東北地域 / 241

14. 金得中(キム・ドクチュン)岐阜・三井神岡鉱山···························243 

炭鉱から桟橋へ、また日本の鉱山に、募集で3回も行った

15. 朴泰俊(パク・テジュン)新潟・葡萄鉱山····································265

解放されたことも知らずに、仕事だけしていた

16. 李茂淳(イ・ムスン)岩手・久慈製鉄所·······································277

岩手県に行く前、黄海道で1か月間、制式の軍事訓練を受けた

       日本以外の地域 / 285

17. 鄭相均(チョン・サンギュン)トラック・ナウル・軍工事························287

南洋群島で、井の中の蛙のように5年過ごした

18. 崔且起(チェ・チャギ)千島・捕鯨会社···········································297

千島で捕鯨、サハリン44年ぶりに帰国

19. 高福男(コ・ポンナム)海南島・軍工事··········································· 319

日本の巡査に暴行した罪で刑務所に入れられ、南方派遣報国隊へ

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タンコ(炭鉱) だって?

006 

発刊の辞(日本語版)

財団法人日帝強制動員被害者支援財団は、今

年の2022年も計5冊の強制動員関連の本を翻訳

・発刊します。 この出版事業は2019年からはじ

め、今年で4年めとなります。この事業は日本の

「強制動員真相究明ネットワーク-日本語版翻訳

協力委員会」と韓国の関連分野の研究者の方々
の絶え間ない努力とご支援、ご協力によって生
み出された成果であります。

口述記録集『タンコだって?』は、九州地方への強制動員被害者の6人、

関西地方の2人、関東地方の5人、中部・東北地方の3人、ほかの地域の3
人など、計19人の強制動員被害者の口述を記録したものです。2005年「日
帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」は、要約本(日本語)を出しました
が、今回は全文を発刊します。

『太平丸事件の真相調査』は、強制動員された朝鮮人を数百人乗せて航

海していた太平丸が、1944年7月9日に米軍の魚雷により千島沖で沈没させ

られ、乗船者のほとんどが死亡した事件の報告書です。既存の研究と調査
を踏まえ、韓国人の生存者への聞き取りなどを追加してこの事件の原因と

結果を分析しています。

『北海道東川町 江卸発電所強制動員被害真相調査』は、軍需物資の生

産に必要な電力を得るために江卸発電所を建設し、朝鮮人を動員しました
が、その動員被害の報告書です。労務者たちが数多く動員された炭鉱とは
違う発電工事現場での被害の様相を知ることができます。

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007  

『「朝鮮女子勤労挺身隊」労務動員の調査』は、いわゆる日本軍「慰安

婦」として誤認されてきた「女子勤労挺身隊」の動員被害の実態の報告書
です。委員会への183件の被害申告書と生存者の口述を根拠に動員被害の
全体の姿を示すように努力しました。

『強制動員名簿解題集2』は、委員会に寄贈されたり、独自に収集した資

料の中から、強制動員の被害事実を証明する名簿13種を分析し、解説した

ものです。強制動員期や解放直後の貴重な史料を分析することで、既存の

資料や口述記録を補うことができました。

上記の5冊は強制動員を調査した旧委員会が発行した本であり、2019年

から財団と協力してきた「日本語版翻訳協力委員会」の皆さんのご協力に

より日本語に翻訳され、その後、国内の研究者たちに監修していただきま
した。

旧委員会解体後に中断していた事業を、財団が再開し、強制動員分野で

の国内外の研究にお役に立てられることを嬉しく思っております。日本と韓
国で長いあいだ活躍されている研究者や活動家、翻訳者の皆さんの献身的
なご努力に心より感謝いたします。

財団は、今後も、強制動員分野における様々な研究報告書の作成や学術

資料・教育資料の編纂などに努めます。強制動員に関する研究成果が韓国

と日本を超えて国際的に広がることを望みます。皆さまの絶え間ないご関

心とご支援をお願いします。

ありがとうございました。

2022年11月30日

財団法人 日帝強制動員被害者支援財団

理事長  沈 揆 先

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タンコ(炭鉱) だって?

008 

「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」が発足し、業務を始めて

から、いつの間にか1年が過ぎました。当委員会は日帝強占下の強制動員
被害の真相を究明し、歴史の真実を明らかにする目的で、2004年11月に
発足しました。今回、委員会は発足1年にあたり、強制動員被害生存者の
口述を集めた口述記録集1『タンコ(炭鉱)だって?』を発刊することになり
ました。この間、韓国国内でも強制動員生存者の証言集や手記が発刊さ
れましたが、政府の次元で口述記録集が発刊されるのは、この本が初め
てであると思います。その点から、この本の持っている意味は大変大きい
と思います。

当委員会は「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法」に依

拠し、被害申告、真相調査の遂行、関連記録の収集、資料館の造成、真相
調査報告書の作成業務等を行っています。昨年の2月1日から6月まで、第一
次被害申告期間を通じて20万名を超える人々が申告をされ、真相調査も昨
年12月末現在、30件が行われています。現在90名程の職員が昼夜の別なく
行っている被害申告と真相調査の業務の中で、大きな比重を占めているの
は、まさに生存者の調査です。

当委員会が行っている生存者の調査は歴史的、社会的な意味を持ってい

ます。これらの人々の記憶を収集し、記録として残す作業は、生存者の口

述を通じて新しい歴史を作りだす過程であり、調査結果は委員会の真相糾
明作業に大きく活用されるでしょう。また、生存者調査の結果は研究資料

として学会に提供され、関連の研究を豊かにするのに寄与するでしょう。こ

発刊の辞(韓国語版)

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009  

れらはまた、出版物や映像を通じて市民教育のための資料としても活用さ
れるでしょう。このような総合的な必要性から、本員会の生存者調査は行
われ、この口述記録集はその最初の成果です。

『強制動員口述記録集1 タンコ(炭鉱)だって?』は当委員会の調査1課

が2005年2月から11月まで全国5カ所の地域を巡り、収集した生存してい
る労務被害申告者の生存者調査結果226件の中から19名の口述記録を収
録した本です。いまだ、労務被害申告者の生存者調査は完了していませ
んが、調査結果の一部を整理して、本として編集しました。この本を通じ
て委員会が収集した労務動員被害申告者の口述記録の内容を一般大衆と
分かち合うことで、強制動員の歴史についての理解を深め、併せて戦争
に対する認識も新たにすることができるのではないかと期待し、勇気を出

して編集しました。

口述記録集の発行目的は、生存者達の口述を通して労務動員被害の多

様な歴史の姿を共有しようとするものです。具体的には、この本を通じ
て日本帝国主義末期に一般大衆が日帝により遂行された強制動員の被害
を理解し、歴史の真実に一歩でも近づくことができればと願います。強
制動員被害者の口述を通じて、読者が反戦と平和を守ることがどれほど
大切かを心に刻むことができれば、この本の発行意義が達成されたと考
えます。

口述記録集を発行するにあたり、多くの人の支援がありました。全国各

地を歩き、年老いた被害者達の貴重な証言を採録し、編集する作業をした
調査1課の職員の皆さんや調査作業を積極的に手伝ってくれた地方の実務
委員会担当者の皆様のご苦労に感謝の意を表します。また、生存者調査作
業を行政的に支援して下さった支援部署の職員の皆様にも感謝の意を表し

ます。しかし何よりも、この本が誕生するための最大の功労者は、19名の口

述者の皆様です。口述者の献身的な協力がなかったなら、当委員会が労務

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タンコ(炭鉱) だって?

010 

者として動員された強制動員被害生存者の歴史を位置づける成果を発刊す

ることは難しかったでしょう。委員会の調査活動に積極的に応じ、資料の

公開と口述記録集の発行を快諾して下さった口述者の皆様に心から感謝を

申し上げます。

最後に、当委員会の真相糾明作業にこれまでと変わることない協力と支

援をお願いするとともに、今後発行される口述記録集をはじめ、各種の発
行物や調査活動に対しての激励と叱正を期待しています。

2005年12月30日

日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会

委員長 

全基浩(チョン・キホ)

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011 

解題

「奴隷の歳月」を解き明かす作業 

強制動員被害生存者の調査

少年たちがいた。50名余の集団写真の中には、いまだ母の懐を恋しがる

少年たちが作業服を着て座っている。15~16歳余りに見える。その少年た
ちが今や80歳を越える老人になっている。「故郷が恋しく、母に会いたく
て、戻って来るまで、朝夕泣いていた」 は、少年たちの話であり、小説では
ない。60年の歳月が過ぎたにもかかわらず、目に涙を浮かべて語る痛恨の
記憶だ。

彼らの歴史的な体験は鮮明で具体的だ。しかし残念な事に、日本政府が公

開した名簿では彼らの名前を確認できない場合が多い。たとえ名前が確認さ
れたとしても、彼らの体験の一部だけが文献に記録されているだけである。公
開された朝鮮人労務者関連の名簿がまだ10万名にもなっていない点を考えれ
ば、彼らの名前を名簿から捜すのが難しいのは、当然だ。現在までの研究結果
から考えると、労務者として国内外に動員された朝鮮人の数はのべ500~600
万名に達する。この数字から考えると、公開された名簿は全体の比率からみれ
ば、10%にもならない。名簿から彼らの痕跡を捜すことができなければ、少年た
ちの歴史的な体験は消え去ってしまうのだろうか。ただ彼らの記憶にだけ残さ
れているのだろうか。

一般的に被害の歴史では、体験者の話は文献資料よりも根拠のある価値

を持つ。人類に対する犯罪として、極端な事例を代表するユダヤ人への集
団虐殺は文献資料により明らかになったものではない。自分達の犯した戦

争犯罪を証明する公文書を大事に保管する加害者がどれだけいるだろう

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タンコ(炭鉱) だって?

012 

か。それゆえ、「南京虐殺が実際にあったのか? あったとすれば、資料を
提示せよ」 という加害者側の今になっての主張はとても空虚に聞こえる。
加害者は加害の痕跡をできる限り隠したがる。しかし、歴史は鏡のような
ものである。鏡はあるがままの姿を映す。強制動員の生存者達はまさに、
歴史を証明する代表的な存在である。

1.生存者調査の背景及び進行過程

「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」 (以下委員会)は強制動員の

被害について真実を究明するための業務を行っている。国権のなかった時
期、韓国政府が植民地下の人間として味わった戦争被害の内容を明らかに

しようとするものである。強制動員生存者の調査は、委員会が真相を究明

する過程で大変重要な意味を持っている。

第1次の被害申告期間(2005.2.1~6.30)を通じて、委員会に申告した労務者

の数は14万6000余名に達し、その中で生存者は3万3000余名を超えた。この中

で、委員会が受けつけた生存申告者は675名であり、その中の585名は名簿で名
前を確認できなかった申告者であった。彼らの場合、生存者調査結果に対する
分析を通じて、被害者として確定した。それゆえ生存者調査は、被害の申告業
務の処理過程では、とても重要な作業である。

しかし、生存者調査の必要性は、単に被害の申告業務の処理に限定され

るものではない。それ以上の歴史的、社会的な意義を持っている。彼らの

記憶を収集して、残す作業は生存者の口述を通じて新しい歴史を作る過程
であり、生存者調査の結果は委員会の真相究明に大きく活用される。生存
者の口述を通じて、文献資料の誤謬を発見し、文献資料で捜すことのでき
ない貴重な事実も確認できる。また、生存者調査の結果は研究資料として
学界に提供され、関連研究を豊かにすることにも寄与する。併せて発刊物
や映像を作り、市民教育のための資料にも活用される。このように総合的
な必要性によって、委員会の生存者調査は企画・実行された。

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013  

委員会による労務生存者の調査は2005年2月21日、全羅北道地域から始

まり、江原道、忠清道、ソウル、京畿道等の地域で行われた。12月20日現

在、申告者226名に関する調査が進められている。「サハリン韓人同胞の問
題」 や 「小鹿島(ソロクト)強制動員」 等の真相調査に関連して129名の記
録を収集した。

全羅北道益山(イクサン)市に居住している生存者13名について2月に実

施した調査は、先行的な事業企画の性格を持っていた。それは全体的な総
合計画案を樹立するための試験的な作業として企画された。調査1課は試
験的な作業に関する結果を基にして総合的な実行計画案(「労務動員生存者
の口述聴取の基本計画書」) を作り、この実行計画案により調査マニュアル

を作成し、対象者を選定し、数回にわたって面談者の教育を実施した。3万

人を超える生存申告者の中で、一旦委員会が受けつけた524名を1次調査対
象者として設定し、調査地域を6か所の区域に分けた。このような準備過程

を経て、生存者調査は5月から再開され、その後、毎月1回地域別に調査を

進めた。

調査の具体的な過程は、次のようになる。
第1段階:企画及び準備段階 - (口述聴取の事前調査)
    イ. 口述聴取地域の決定
    ロ. 経験及び記憶の程度と口述可能等を考慮した基礎調査
    対象者と口述聴取対象者の分類:電話でのインタビュー
             A. 口述聴取対象者(録画・録音)
       B. 基礎調査対象者(録音)
             C. 健康状態により口述聴取が不可能な生存者
   ハ. 面談以前の準備:面談者の決定、質問紙の確定、準備・点検、
            地方(市、郡区)実務委員会との業務協議、訪問日時の確定等
第2段階:面談段階
    現場訪問による基礎調査、口述作業実施

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タンコ(炭鉱) だって?

014 

第3段階:面談後の整理及び活用段階
  - 「詳細目録」 作成   
  - 聴取文の作成 
  - 事実確認の結果書及び審議調書作成
  - 記録管理チームへの移送:整理及び閲覧、活用

生存者の現状把握

口述聴取地域決定

面談日程決定

口述者基礎調査実施

口述聴取

詳細目録作成

被害事実確認結果書

審議調書作成

記録管理チーム

面談以後、

整理・活用段階

面談者が

作成

地方事務委

出席

<生存者の口述聴取業務の過程>

このような過程を経て収集された生存者の調査の結果は、審議調書を作

成し、被害事実を確認し、真相調査を進行するために優先的に利用する。調
書は記録管理チームに移管して整理作業を経た後、研究者達が閲覧できる

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015  

ようにしている。また、口述記録集を発行し、国内外の関連機関と関係者達
に配布している。

2.『タンコ(炭鉱)だって?』の収録内容と性格

よくあることだが、「強制動員」 と言えば 「人間狩り」 という形が頭に浮

かぶ。田圃や畑から捕り縄に縛られて、トラックに乗せられ、去ってゆく
姿。その横には制服を着た人々の姿。しかし、強制動員の歴史像とはそ
れほど単純なものではなく、さまざまな形があった。戦争を遂行するため
に、日本は多様な方法で労働力を統制し、人力を動員せざるをえなかっ
た。「逃れようとしても逃れられない状況」 を認識させ、自暴自棄の状態
にさせる方法もあり、「条件の良い職場」、「月給が多く、技術者の資格証
も受けられ、学校も通える所」 と騙す方法も使われた。「あなただけに特
別に情報を教える」 と騙されて、志願するようにさせるという方法も広く
用いられていた。「今自分がしている事が強制であるのか」さえも判断でき
ない状況の中で、労役に従事した場合もある。あれやこれやの方法を使
い、必要な需要量を満たせない時に使われた極端な方法が 「人間狩り」 で
あった。動員する側からみれば、説得する時間や余裕がなければ、暴力
は迅速で便利な方法であった。

この本には、炭鉱で奴隷のようにこき使われた場合が記述されている。

だが、靴を作る工場での裁断や朝鮮人に日本語を教えた事例も描かれてい

る。毎月給料をきちんと貰い、牛を買って食べる生活をし、帰国したという

生存者もいる。それは強制動員の多様な歴史像のひとつである。

この本は、委員会調査1課が2005年度に8か月間、全国各地を巡りながら

収集した生存する労務被害申告者の調査結果226件のうちの19名の口述記
録を収めている。地域的には全羅北道、江原道、忠清南道、ソウル、京畿
道等が該当する。生存する労務被害申告者の調査が完了した状態ではない
ので、全国的に均衡した分布にはなっていない。動員地域も動員された全

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タンコ(炭鉱) だって?

016 

地域を対象にすることができず九州、関西、関東、中部・東北とその他の
地域に区分した。また、2005年6月から12月までの労務動員調査の中で、北
海道に動員された申告者に関する調査については行政部が担当したため、
北海道に動員された申告者に関する生存者調査を実施できなかった。その
ため、この本には日本の北海道を除外した地域と日本外の千島列島、南洋
群島、中国海南島に動員された生存者の口述記録を収めた。今後、委員会
は、労務申告者の生存者調査が完了した際、国外地域別、国内地域別、テ
ーマ別の口述記録集を発行する予定である。

この本に収録された内容は以下である。

九州地域では6名の話が収録されている。福岡3名、長崎2名と九州地域

という事実だけ知っている生存者1名だ。

朴龍植(パク・ヨンシク、78歳)お爺さんは、1927年忠清南道瑞山(ソサ

ン) 郡安眠(アンミョン)邑で生まれた。17歳になった1944年1月に、九州地

方の炭鉱に動員され、炭坑夫として仕事をした。カマスを編んでいた時、
村の集会場に集まれという連絡があり、そこに行くと、強制的に連れて行
かれることになった。着ていた服のままで、「巡査に捕まり」「何かの囚人

になったかのように、子犬のように引っ張っていかれ」故郷を後にした。年

齢がまだ幼く、炭鉱夫の仕事は手にあまり、苦しかった。「死ぬほど体をこ

き使え」と言われたが、生き抜こうとした。怪我をすれば、「お前のような者

がいるから、お国が勝つことができない」と言われ、「死ぬほど」叩かれた。
3年間、「くず鉄のように」酷使されたが、解放(終戦)になって故郷に戻れ
た。爆薬の破裂、石炭の火事など、多くの同僚が死んで行った。「天運があ
って」生き残り、戻れたと感じている。委員会で「歴史が記録され、今後二
度とこのような事が起こらない」ことを願いたいと語る。

現在、全羅北道の益山市に居住する趙用伕(チョ・ヨンソプ、81歳)お

爺さんは、全羅南道麗川(ヨチョン)で生まれ、区長の命令により1942年
11月頃、九州の三菱方城炭鉱に動員された。炭坑で2年間仕事をした後、

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017  

再契約になったからと、帰宅できなかった。切羽で事故に遭い、足を怪我

したが、治療もまともに受けられなく、仕事場を脱出した。しかし、故郷
には帰れず、小倉飛行場で5~6か月間、仕事をした。趙用伕さんは解放
される数か月前の5月に戻って来た。その理由は負傷がひどく、仕事がで
きなかったからだ。その後遺症のため、故郷に戻った後も農業はできず、

船員として生きることになった。故郷を後にせざるを得なかった。船に頼

り、座ってできる仕事を探さなければならなかったからだ。「懲役生活」

のような炭鉱生活が残したものは、肉体的苦痛であった。“老いは恨”であ
るが、「自分が死ぬ前にどうしても解決を見なければ」という願いは、依
然として強いものがある。

金翰中(キム・ハンチュン、84歳)お爺さんは、1921年に全羅北道高敞

(コチャン)郡で生まれた。咸鏡道長津(チャンジン)郡と平壌(ピョンヤ

ン)鎮南浦(チンナンポ)の飛行場へと国内に労務動員され、再び日本の福
岡の三井染料工場に動員されたという多重動員の被害者だ。上の兄が村の
区長であったが、下の兄も報国隊に動員され、車(リヤカー)を引っ張らね
ばならなかった。本人は3回も動員されるという不運を味わった。当時、仕

事場には軍人が関与していたので、本人は労務者ではなく、軍属であると
考えていた。月給は毎月20ウォン(円?)程度を受け取ったが、腹がいつも
空いていたので市内に出て、うどんを食べるのに使ってしまった。連日にわ
たる空襲によって、近所の村の人が一塊の土に変わるのを見て、戦争の悲
惨さに身震いした。

京畿道驪州(ヨジュ)出身の張悳煥(チャン・ドクファン、80歳)お爺さ

んは、1943年10月、18歳という幼い年齢で 「報国隊長」 の腕章をつけて故
郷を離れたという経験を持つ生存者である。驪州郡加南(カナン)面の金
塘(クムダン)簡易学校を卒業したが、父親の代わりに徴用に応じなけれ
ばならなかった。ソウルで夜間学校に通っている時に区長から父親に徴用
状が発付され、農業をする人がいなくなるため、代わりに徴用に行かなけ

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タンコ(炭鉱) だって?

018 

ればならないという手紙を受け取ったのだ。日本から来た引率者が「年端

も行かぬ学生を炭鉱に送ってはダメだ。学生が炭鉱で仕事をさせるには
もったいない」と言って引きとめようとしたが、面長は「人数が足りないか
ら…‥」といってごまかした。その代りに80名を引率する 「報国隊長」 にさ

せ、腕章をはめて福岡の山田炭鉱に行かせた。報国隊長であることから、
切羽での厳しい仕事をするのを避けることはできたが、民族差別や飢え、
そして同胞に対する殴打、事故で死んで出ていく同僚の姿を目撃し、苦し
んだ。60年が過ぎた現在でも 「頭のなかに忘れることのできない」 記憶を抱
いて、生きている。そのような生存者は張悳煥さんだけではないだろう。

1923年に全羅南道髙興(コフン)郡で生まれた張舜培(チャン・スンベ、

82歳)お爺さんは長崎で原子爆弾の惨状を目撃した。兄が北海道に労務
者として行って間もない1942年に、長崎の川南工業香焼造船所に動員され
た。全羅南道地域から集められた3000名が一緒に船に乗っていった。6000
余名〔約500人〕の米軍捕虜と一緒に仕事をして、同僚愛を分かち合ったと

も言う。造船所で仕事をして、僅かではあるが貰った月給でお好み焼きを

買い食いして使ってしまい、手ぶらで戻って来た。船便を求めるのが難し

く、闇船に乗って帰って来た。造船所で仕事をしている時は、常に飢えた

状態で、憲兵から気合を入れられる等、苦痛は止むことがなかった。原子
爆弾の火傷を被ることなく戻れた事だけでも幸いだったと思っている。

咸鏡北道清津(チョンジン)出身の金光模(キム・グァンモ、84歳)お爺

さんは長崎で原子爆弾の投下を体験した。24歳の時、1942年に府庁の職員
が持って来た徴用令状によって、川南工業深堀造船所に動員された。金光

模さんは電話の交換機の修理のために長崎市内に出かけ、原子爆弾によっ
て負傷をした。しかし、病院に押し寄せる患者が多かったために、治療も受

けられず帰国した。帰国して1年後、後遺症を発病したが、原爆症と認めら
れず、被爆者として治療や治療支援などを全く受けられないままである。
お腹いっぱい食べられずとも、米にサツマイモを混ぜたご飯を食べられた

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019  

だけでも幸せと語る。

関西地域は大阪と兵庫県に動員された2名の話で構成される。
李秀哲(イ・スチョル、82歳)お爺さんは、1923年に忠清南道瑞山(ソサ

ン)郡で生まれ、1943年日本の兵庫県の川崎造船所に動員された。思想家の

家柄ということで、兄は官憲に叩かれて死に、本人は徴用で家を去り、弟は
海軍に志願しなければならなかった。海軍に服務していた弟は砲弾で重傷を
受け、かろうじて帰国したが、すぐに死亡した。1945年8月、李秀哲さんは京
都の病院に入院していた弟を、苦労の末に連れて帰国したが、命を助けられ
なかった。李秀哲さんは15歳から海州(ヘジュ)で運搬船に乗り、力仕事をし
て過ごしていたが、家にたまたま帰った時に徴用された。巡査たちの監視の
下、釜山港を離れた。李秀哲さんは年齢が幼く、「若造、青二才」と文句を言
われ、配給の飯も人に奪われ、まともに食べる事もできず、ただただ故郷に
帰らなければならないという思いで、障碍者の真似をして耐え抜いた。1週間

に一度、外出したが、「恐ろしくて逃げることは考えられなかった」という。朝

鮮全地域から何千人、何万人も集められていたが、解放後には、逃亡や死亡

などであまり残っていなかった。爆撃はとても恐ろしかった。しかし、最も辛
かったのは、負傷した弟を結局、生かせなかったことだと語る。

1920年、忠清南道瑞山(ソサン)郡で生まれた鄭大成(チョン・デソン、

82歳)お爺さんは、1943年に大阪の軍需工場に動員され、1945年後半に戻

って来た。当時、海苔の養殖をして生活していたが、面の事務所からの通

知を受けて動員された。瑞山郡から80名を超える若者達と一緒に動員され
た。工場では鉄を溶かし、銃弾を作っていた。空襲が激しくなり、防空壕
の中から死体を80体、引き出すこともあった。日本人の死体だった。死体を

「川原に置き、ブリキ板に載せ、油をかけ燃やし、川に流す」という惨状を

直接目撃した。このように一握りの灰とされて川に流された死者は過去帳
や埋火葬認許証に名が残されなかっただろう。鄭大成お爺さんも爆弾によ

って腰を痛め、帰国後もまともに仕事ができなかった。「米が数粒しかない

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タンコ(炭鉱) だって?

020 

豆ご飯を食べ、腹が空いて死にそうになった」が、給料など一銭も受け取

らず、帰国したという。

関東地域では、東京に動員された5名の生存者の話を収めた。
李士炯(イ・サヒョン、78歳)お爺さんは1927年に全羅北道高敞(コチャ

ン)で生まれ、1945年に東京の三菱製鋼所に動員された。8年間、漢文のソ
ダン(書堂・私塾)に通い、漢文の素養を磨いた李士炯さんは 「小さな令

状」を受けて、「米軍の爆撃」を突き抜け、「空襲で鉄路が焼け、鉄が飴のよ

うに曲がっている」東京に到着した。「駅前にいた人々は、犬が焼かれるよ
うに爆弾を浴び、四方に散った」死体となって道を覆っていた。その東京に
あった製鋼所に行き、おぞましい苦役に耐えた。防空壕の中で 「火が付い

た服を脱ぎすて」生き残った。俸給などは貰ったこともなかった。5分以内
に食事を済まさないと「日本の奴の棒叩き」がいつまでも続いた。「家の代
を継ぐため」に三菱製鋼所を脱出し、〔新潟の中央電気工業〕田口工場で
黒鉛を砕く仕事をした。貨物船に乗って帰国した。

江原道春川(チュンチョン)で生まれた慶箕哲(キョン・ギチョル、78

歳)お爺さんは、東京瓦斯化学工業に動員され、朝鮮人達に日本語を教え
た。二番目の兄は徴兵で北海道に連れて行かれた。一番上の兄に出された
徴用令状を代わって受け、故郷を去ったのは、17歳(満15歳)の時だった。

「給料などは考えてもいなかった」が、朝鮮で日本語の講師をしていた経

歴があったので作業場の辛い仕事はしなくて良かった、それだけでも幸い

と語る。慶箕哲さんは朝鮮人労務者に50音図をはじめ、日本語の構文を教
える仕事をし、解放後に帰国した。

嚴正燮(オム・ジョンソプ、83歳)お爺さんは1923年にソウル市鐘路(チ

ョンロ)で生まれた。徴用を避けるつもりで、京城(キョンソン)電気会社

で車掌として勤めていた時に徴用され、東京の〔石川島〕造船所に動員さ
れた。退社後、帰宅すると令状が来ていたので、その次の日、楽園(ナゴ

ン)洞の召集所に出かけた。逃げるつもりで鞄一つ持たずに行ったが、小

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021  

隊長という肩書を付けられ、逃げる機会を失った。造船所で利材工として
仕事をし、事故の危険も何回かあったが、無事に帰国することができた。空
襲が激しく外出もできず、逃亡できないように統制されていた。父親が正
式に提出した申請書のお蔭で、1945年3月、帰国することができた。徴用者
の家族が区庁に行き、診断書を添付した申請書を正式に提出すると、子息
の一時帰国が許可されたと言う。しかし、全ての人に許可されたのではな

く、特別な場合に該当するであろう。臨時身分証を受けて、一時帰国した

嚴正燮さんは日本に行く船便が全て断たれ、作業場に帰れないまま、解放

を迎えた。

朴鎮亨(パク・ジンヒョン、80歳)お爺さんも東京の工作所に動員され

た。全羅南道珍島(チンド)で生まれ、経済的理由で中学校を2年で中退

し、独学をしている時に徴用状を受けた。朴鎮享さんは空襲の酷い時に、

防空壕で毒性ガスを吸い込み、気管支炎になり、現在でも苦しんでいる。

「逃げても爆弾に遭って死ぬ」状況下で、工作所が爆撃を受けて潰れた。

それぞれがバラバラになり、あちこちを回り、力仕事をしている時、解放
を迎えた。他の若者達は鋳物工場できつい仕事をしていた。自分は日本語
を知っていたからか、あるいは運が良かったのか、幸い厳しい労働をしな
いで、帰って来た。他の者は、とにかく涙が出るほどひどい仕事をしてい
たが、そんな目にあわず、組み立て機械の状態を検査する「シアゲ(仕上
げ)」の仕事をすることができたからだ。解放直前に徴兵令状を受け、徴兵
検査を受けて待機していたが、幸いにも解放を迎えた。

東大門(トンデムン)の大陸化学研究所で日雇い人夫として仕事をして

いた陳顕秀(チン・ヒョンス、79歳)お爺さんは1943年冬、18歳で東京の製
靴工場に動員された。退勤途中で受けた令状により、徳寿(トクス)国民
学校に集まり、会社の日本人引率者の指示で出発した。日本軍の軍靴を作

る仕事をする工場で少年にもかかわらず裁断の仕事をし、軍事訓練も受け

た。周りには逃げる人も多かったが、「飯を食べさせてくれ、仕事もそれほ

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タンコ(炭鉱) だって?

022 

ど厳しい仕事をさせなかったので、言われるままに仕事をし、逃げようとす
る考えはせず」、少しずつ与えられるお金で、外に行き、食べ物を買って食

べていた。京城電気の運転手をしていて徴用を免れた兄は、解放後、毎日
のようにソウル駅に行き弟を待っていた。

その他の地域では、岐阜県、新潟県、岩手県等の3か所に動員された3人

の生存者の話を収録した。

益山(イクサン)に生まれた金得中(キム・ドクチュン)お爺さんは、3回

も労務動員を経験した多重動員の被害を受けた生存者だ。黄海道の炭鉱に

動員され、1週間で逃走した。そして全羅北道の群山のチェボ桟橋に動員さ
れ、荷役作業をした。1944年2月に徴用の知らせを受け、「2回も行った」と
言うと、面の書記は 「それは皆、臨時で行ったのだ」 と言い、外してくれな
かった。岐阜県の神岡鉱山に出発した金得中さんは、連絡船に乗って行く
途中、一晩中泣いた。「我を忘れ、泣きながら行った」ので、どこがどこか

も分からず、作業場に到着すると、最初に除雪をさせられた。坑内で穴を
あけ、石をトロッコで運び出す危険な仕事をした。お金を沢山稼げるかと思
って危険を冒して仕事をしたが、布団代とか何とか言って、みな控除され、

手元に残ったものは、交通費の代わりの支給された米2升だけだった。朝
鮮から持ってきたお金を母親に送って安心させなければならないほどだっ
た。配給されたタバコと酒を売って、船賃を準備して帰国できたという。

朴泰俊(パク・テジュン、81歳)お爺さんは、1925年に江原道春川(チ

ュンチョン)で生まれ、1942年に新潟県の〔葡萄〕鉱山に動員された。正
月休みが過ぎて何日もならない時、村を訪ねて来た日本人の引率者に連
れられ、その日に出発した。とてつもなく寒く、雪が多い作業場で鉄の鉱
車で石を運ぶ仕事をしたが、ポンプの扱いを習い、力が少しいらないポ
ンプの仕事をした。仕事をしている途中で、徴兵令状が来た。労働力不

足を理由に鉱山の持ち主が徴集を1年保留させたため、軍隊に行かなくて
すんだ。軍服と軍帽まで支給されて、出発しようとする前日に保留にな

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023  

った。一日に2円20銭ずつ賃金を受け取ったが、「いつ死ぬかも分からぬ
命」 のため、お金を貯める必要も感じず、全て食べ物に使った。解放に
なったが知らせはなく、解放になったことも知らずに現場に行く途中、偶
然、神社に行き、それを知った。作業場に戻り、事務所を叩き壊し、帰国
を強く要請した結果、帰国できた。

1943年に長兄の代わりに徴用令状を受けて、岩手県に出発した李茂淳

(イ・ムスン、77歳)お爺さんは、15歳の少年の時に強制動員を経験した生

存者だ。江原道春城(チュンソン)郡で生まれ、小学校を終了した年に下の
兄が軍隊に連れて行かれ、さらに長兄に徴用令状が来たので、親戚たちの
頼みもあり、自分が徴用に行くことになった。民間の服装をした日本人に連
れられ、故郷を離れた李茂淳さんは黄海道に行き、1か月間、制式訓練と業
務に必要な規律訓練を受けた後、岩手県の〔久慈〕製鉄所に出発した。岩
手県で一日12時間2交代、12時間ずつ溶鉱炉に鉄を流し、溶かす作業をし
た。黄海道で訓練を受ける時、ぱさぱさの握り飯でひどく腹が空いた。しか

し、岩手県ではフーと吹けば飛んで行く程にぱさぱさで、炒り米が混ざっ

た飯だったが、黄海道よりは多かった。とても人里離れた場所で、歳も小さ

く、逃亡する考えも持てず、解放の消息も1か月過ぎて知った。しかし帰し

てくれず、焼き畑での耕作をさせられ、11月に戻って来た。数万人も乗れる

くらいの大きな連絡船に乗った。ソウル駅に到着してから、さらに汽車に乗
り、2回乗り換えて故郷に戻った。母親は11月になっても戻ってこない息子

を探し、毎日駅まで出ていた。岩手県は 「田舎なので空襲はなかった」 が、

小さな時に故郷を出て苦労した事は今も忘れられないと語る。

日本以外の地域は南洋群島、千島列島、中国の海南島の3か所だ。

南洋群島に動員された鄭相均(チョン・サンギュン、84歳)お爺さんは、

江原道春川(チュンチョン)市で生まれ、1941年、南洋群島のトラック島に動
員された。トラック島では飛行場工事の仕事をした。鄭相均さんはナウル
島に移動になり、飛行場工事と荷役作業等をし、1946年7月に戻ることが

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タンコ(炭鉱) だって?

024 

できた。志願兵に行けと再三勧誘されたが、志願しないでいると、郡から
南洋群島に行けという通知が来て、行くことになったが、その間5年かかっ
た。月給は毎月50円ずつ出すと言ったが、家に送ると言われ、貰えなかっ
た。その後は月給について言いもしなかった。家に送金したかを確認する
手立てはなかった。ナウル島では「井の中の蛙」のように外の世界とは断絶

されたまま、食べ物を得るのに汲々とした生活だった。外部からの補給が

途絶えると、ナウル島では自給自足をしなければならなかったが、様々な困
難があった。トラックに乗って回れば、30分あれば済む所であり、統制され
ていて逃げる考えなど浮かばず、囲われたまま過ごした。空襲と飢えで多

くの人々が命を失っていくのを見ながら、戦争の恐怖を感じた。オーストラ
リア軍が進駐すると、日本軍支配から離れ、帰国できた。

崔且起(チェ・チャギ、79歳)お爺さんは、1927年に慶尚北道の蔚山(ウ

ルサン)で生まれ、1945年4月、17歳の時に捕鯨会社に動員され、千島で
捕鯨をした。その後、ソ連によってサハリンに送られ、故郷を離れて44年
振りに帰国できたという哀れな人生の主人公だ。父親は 「そのままにして
おくと、年若い子どもが北海道やサハリンに送られ、炭坑で厳しい仕事を

させられる」 と言い、炭坑より仕事が厳しくない捕鯨会社に送られた。この
ため、父子の間は永遠の生き別れになった。崔且起さんは、村の人達7名と

一緒に故郷を離れ、千島列島で捕鯨をし、解放と同時に故郷に帰る夢で胸
いっぱいになっていた。しかし、9月3日にソ連軍が進駐して来て、3年間、
捕鯨を続けなければならなかった。一緒に仕事をしていた36名は、1948年
に日本人全員が撤収する時、その船に便乗して日本を経由で帰国する予定
だったが、ダメになった。朝鮮人達が一緒に撤収する計画を知ったソ連側
は、日本人が出発する一日前に彼らをトラックに乗せ、サハリンのゴルノザ
ヴォーツクという炭鉱地域に連れて行ったのだ。サハリンに行った崔且起

さんは石炭を掘る仕事ではなく、石炭から油を搾り取る仕事をした。2000

年になって、ようやく永住帰国することになった。若い時に身体の弱かった

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025  

息子を心配して送った捕鯨が、結果的に離散の痛みを抱かせることになっ
たのだ。

中国の海南島に動員された高福男(コ・ポンナム、89歳)お爺さんは少年

の時、日本人の巡査を暴行した罪で2年の刑を受け、服役中に、海南島に行

くことになった。平壌(ピョンヤン)で生まれ、青年らと遊んでいて巡査に

捕まり、巡査を殴り倒して逃げ出したことが、彼の人生を変えてしまった。
平壌刑務所に服役中、仲間800名と一緒に京城(現在のソウル)に行き、南
次郎総督の主催する行事に参加した後に出発した。「6カ月勤務すれば仮出
獄で釈放する、食糧も毎日6合を与え、看守と平等に過ごす」という総督の
言葉を聞き、一抹の期待感の中で 「南方派遣朝鮮報国隊」 という腕章をは

め、海南島に出発した。激しい空襲の中、毎日午前5時から午後6時まで格
納庫を作る仕事をしたが、棒での殴打と空腹は耐え難かった。海南島に到
着して1年過ぎた時に逃亡をしたが、捕まって鞭で打たれ、軍法会議を経て
3か月間拘束された。一緒に逃亡した仲間3名は獄死した。手錠が肉にくい
込み、手首の骨が見える程であったが、克服して耐え、再び機会を狙い、2
回目の脱出を敢行した結果、成功した。死んだ仲間の死体を埋める仕事を

していた時に、脱出の機会を掴んだのだ。脱出した後、すぐに戦争が終わ
り、香港に行き、当時中国にいた光復軍と「日本軍慰安婦」と一緒に船に乗
り、故郷に戻って来た。船に乗り「朝鮮の女性たち」がスイトンを作ってい
るのを見た。当時彼女達がどんな苦労をしたのかは知らなかった。

3.「奴隷の歳月」を解き明かす口述記録

「私達は人間でもなかった」、「メシを食う時もネズミを捕まえるよう

にやたらと殴った‥‥」、「私達は奴隷だった。私達は人間でなかった。
言葉としては人間だけど、人間でなかった」。生存者たちがしばしば使
う表現だ。

もちろん、全ての口述者が獣のように叩かれ、殴られて過ごしていたの

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タンコ(炭鉱) だって?

026 

ではなかった。全ての動員された人々が足首に足かせをはめられ、囚人の

ように蹴とばされていたのでもなかった。なかには、少しのお金ではあって
も、月給をもらっていた人もいたし、休日毎に市内に出て世間の見学をした

人もいた。しかし、彼らは「私達は人間ではなかった」という。「奴隷の歳
月」を送ったと話す。映画で見るように、決して足首に鉄の足かせをはめ
て、獣のように叩かれ、殴られたのではなかったとしても、奴隷の歳月でな
かったわけではない。彼らが当時、恥辱を感じていたとしたら、人間扱いさ
れていなかったとしたら、それは奴隷の生活であり、奴隷の歳月だ。私たち
子孫は、彼らがそのように認識していた生活の姿をそのまま受け入れ、心

に刻んでいく責任がある。この本はそのような努力の一環である。

この本に収録された内容は、深層インタビューという口述調査の方法を

通じて採録されたが、この本は 「口述史」 ではない。対面調査や深層インタ

ビュー等の口述史の調査方法を使用したとしても、厳密な意味では、口述

史料に基づいた記述とは言えない。口述史とは口述史料を活用し、口述者

自らが歴史記述を志向する歴史研究の方法である。したがって、口述者と

面談者の同意と相互作用によって口述史料が作られ、それに基づいて歴史
の記述がなされねばならない。だが、生存者調査の目的は口述史料を収集
するだけではない。「被害事実を確認する」という目的も、非常に大きな比
重を占めている。口述史料収集を目的に収集されたものもあるが、ここに収
集された成果は、口述史料収集だけを目的としたものではないのである。

また、この本では、発行目的に合わせ、口述史料に対して大幅に加筆

し、編集を加えた。「あるがままのもの」 を記録した資料集ではない。この

本の具体的な発行目的は生存者の口述を通して労務動員の被害の多様な
歴史像を共有することだ。具体的に言えば、一般大衆が日本帝国主義末
期に日帝により遂行された強制動員の被害を理解し、歴史の真実に一歩
でも近づくためのものだ。それゆえ、口語体をそのまま文章に移す編集の
方法は適さない。一般大衆が容易に理解するためには、読みやすさを加

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027  

える必要があった。したがって内容に関する理解を助けるために相応に
加筆した。とは言え、口述者の意図が壊されたり損なわれたりすることが
ないように努力した。

この本を通じて委員会が収集した労務動員申告者の口述記録の内容を、

一般大衆と分かち合い、強制動員の歴史について理解を向上させ、戦争に
対する認識も新しくできるだろう。強制動員の被害者の口述を通じて、どの

ような名分の戦争も起こしてはならず、平和を守ることがどれほど大切な

事かが確認されるとするなら、この本の発刊意義は十分に達成されるもの

と思う。

あわせて、この本は19名の生存者が、苦痛の歳月をやっとの事で解き明

かす過程を通じて誕生した。「振り返りたくない」、「今でも悔しく、恨を静
めることはできない」という苦痛の記憶を解き明かすことは、また、新たな
痛みを残しもする。口述者の中にも振り返りたくない経験を記憶すること自
体、耐え難い方もおられた。多分、口述をした後、病床に伏した方もおられ
ただろう。しかしながら、委員会の調査活動に積極的に臨んでくださり、資
料公開も喜んで許諾してくださった。このような口述者の献身的協力と努
力により、委員会は労務者として動員された強制動員生存者の歴史を新た
に位置付ける成果を発行できた。そのことに心から謝意を表する。

調査1課課長

  鄭恵瓊

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タンコ(炭鉱) だって?

028 

口述者の証言による強制動員地(韓国・日本)

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029  

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朴龍植 (パク・ヨンシク)
趙用伕 (チョ・ヨンソプ)
金翰中 (キム・ハンチュン)
張悳煥 (チャン・ドクファン)

張瞬培 (チャン・スンベ)
金光模 (キム・グァンモ)

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01

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01
朴龍植(パク・ヨンシク)

九州の炭鉱

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九州地域

033  

朴龍植 (パク・ヨンシク)  男、78歳  

1927年1月18日  忠清南道瑞山(ソサン)郡安眠(アンミョン)邑で

出生

1944年1月  

日本の九州の炭鉱1)に炭鉱夫として動員

1945年8月  

米軍のビラ散布で解放を知る

爆弾が破裂して死に、
地震で石炭に火がついて死に、
腸がちぎれて死に

お爺さんは強制動員当時、どこに住んでいましたか?1)
新野(シンヤ)里、そうだ(地図を見ながら)ここの区域の名前は長谷(チャ
ンゴク)里、ここが新野里で、新野里の面管内が古南(コナム)面でなく、承
彦(スンウォン)里だ。承彦里は安眠邑の管内で、そこに住んでいた。新野里
は本来の本籍だ。番地は141番地、そこで生まれた。

家族はどうなっていますか? 
母は幼い時に亡くなり、その当時はいなかった。父だけはいた。父がいて、兄が

1)·九州には炭鉱が多く、特に筑豊地域にある。

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タンコ(炭鉱) だって?

034 

いて、弟がいた。兄 は亡くなり、弟は現在も生きている。弟は一人、兄は一人、
だから3兄弟だ。女性もいた。女も入れれば5男女だ。女性は皆姉で、上は姉

〔二人〕で、兄が一人、下に私がいて、弟がいた。

徴用令状が来たのですか? 

そうだ。私の年齢が19歳(満17歳)だ。兄が病気で病院にいて、病床にいる時
だ。弟は学生だった。今になって是非を問うのはいけないかも知れないが、そ
の時はソワ(昭和)と言った。日本語で言えば昭和19年 (1944年)。その時は戦
争も激しくなっていた。19年度。19年に行ったが、解放になり、21年に戻って来
た。19年に行って、戻って来たのは3年後だ。解放された次の年に戻った事にな
る。日本人がいた時は、安眠邑の朝鮮人を管理して、日本の巡査もいた、警察
官。あの時、我々国民は、植民地統治下だったから、何の権限もなく、政治を奪
われていた。当時、私はカマスを編んでいた。カマスを坪当たりいくらかの労賃
を貰って編んでいると、巡査が来て、令状もなく理由も言わないで「お前、出て
来い」と言われ、連れて行かれた。「出て来い」と。その時、どんな名分かも知

らず、自分に何の罪科もなく、理由もなかった。村には、村中で会食することが
あった。村で行事がある時、集まって話をする大きな集会場があった。「そこへ

来い」と。それで巡査に引っ張られて、連れて行かれたんだ。

巡査が来て「村の会館に集まれ」と言われ、行ったのですか? 
そうだ。巡査が私達を集会場に入れて、門に鍵を掛けた。そこには私のような
者だけを入れた、行く人間を。20代でも、30代でも、あの時は人数の把握だけ

して行ったので、年齢の制限はなく、年齢による徴用検査というのもなく、その
まま連れて行かれた。何処かに嘆願することもできなかった。だから、言ってみ

ればカマスの部屋で編んでいた時の服装のまま行った。冬だった。時期がどう
だったかと言えば、陰暦12月で、陽暦では1月だったろう。昭和19年(1944年)
の陽暦で1月、集会場の部屋に集まった時、別の人はいなくて、行く人だけを閉

じ込めた。行く人は7~8人だったか?

同行者の中にお爺さんと親しい人はいましたか?
そうだ、いたけど、その時は私より年上の人だった。一緒に行った人は今や皆

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九州地域

035  

死んで、私だけが残っている。みんな死んだ。日本から戻って死んだ人、あちら
で死んで埋められた人、そんなにして日本から戻って死んだ人を除けば、私だ

けが生き残った。村の先輩に当たるが、名前が金ソンファンという人も、文ナム
シク、元マンシク…‥もっといたか、7~8名になるが、みな忘れた。死んだ者を
とやかく言う必要もない。この何人かに関しては、多少記憶しているが、それ以

外の人は忘れてしまった。そんなものだ。あの頃は。

同行者の中には知り合いもいましたか?
そう、いました。私より年上の人々。今は皆亡くなったよ。日本から戻って死ん
だ人、日本で死んで葬られた人。今は私一人生き残っている。

動員された時の話をしてくれますか? 
その当時、私達が行く時、理由も説明されなかった。ただ「行くぞ!」と言うだ

けだ。だから、倉庫にカマスを放り込み、服装もカマスを編むときの服装のま
まで行った。みすぼらしい身なりでカマスを編んでいた。そんな時だから、全く

思いもかけないことで、服を着替える間もなく、行った。その時の郡が瑞山(ソ
サン)で、現在は市であるが、当時は瑞山郡だった。それから泰安(テアン)が
邑だった。だから瑞山郡泰安邑だ。いまと比べれば、天と地の差だ。道路も舗
装もされていず、全くみすぼらしかった。その時は、全てを置いたまま行ったの
だ。日が沈み、時は午後の12時頃で冬の寒い時だった。泰安には舗装道路もな

く車もなかった。行く人を罪人のように連れて行ったのだ。まるで犬ころのよう

に連れて行かれた。ああ!車もなかった。その時は、家で服も着替えることもで
きず、家族は誰も来なかった。弟は今も生きているが、学生で学校に行って帰
ってから、私が連れて行かれたと聞いて、閉じ込められている所に来た。私の

服を持って来て、私に与えようとした。服を貰えれば良かったが、監督してい
た人が入れなかった。私は罪のない人間なのに。そしたら、なんてことはない! 
弟は「うちの兄が外国に行くのに、着ていた洋服を与えるのが間違いか」と言っ
た。弟は私と違って諦めなかった、学生であっても。それで、許可を得て、洋服

を受取った。それを一つだけ受け取った。それ以外には家族にも会えず、どこ
に行くのかも知らず、行くことになった。

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タンコ(炭鉱) だって?

036 

そこで一晩泊まりましたか? 
そこでは寝なかった。村から出発して、承彦(スンオン)里、安眠邑、そこから
泰安に歩いて行った。夜、歩いて行った。身動きできないようにして、前と後
ろに見張りが立ち、離脱できないようにして、夜に泰安に行った。泰安まで歩
いて行き、泰安で寝て、夜が明けると瑞山に行った。瑞山に行って朝ご飯を食
べ、洪城(ホンソン)に集結した。洪城に列車が来て、我々を乗せて行った。

洪城では人々は多かったですか? 
洪城では多かった。私達はなぜこんなに多いのか、分からなかった。年も若く、
悲しかったので、詳しい事はわからず、そこに何人ぐらいいたか把握もできな
かった。人は多かった。その時、洪城に集結した。そこで引継ぎをしたようだ。
私達をそこで売り飛ばすように、品物のようにした。そして、洪城から列車に乗

って行くのだ。その列車は人を乗せるのでなく、何か荷物を載せるようなもの

だった。釜山に行き、釜山で見ると、陰暦の12月1日になっていた。釜山に1日に
到着した。陰暦の1日に到着して、一晩泊まった。1泊し、陰暦の日付を教えられ
た。陽暦を調べれば分かるだろう。翌日、釜山から九州に連れて行かれた。そ
んなふうに行って、3年間、苦労した。理由も根拠もなく。なぜ行くのかも知ら
ず、ただ連れて行かれたのだ。

引率者はいなかったのですか? 
洪城警察署の警務主任だ。警務主任という職責を持っている人で、その人も私
達を連れて行きたかった訳ではなく、命令に従って、引継げと言われて、引継
いでいた。だから、警務主任が私達を連れて行って、釜山で引渡したのだ。釜
山で、日本の奴が引き受けた。

釜山には何人ぐらいいましたか? 
それは分からない。何人かは把握できなかった。そうやって、日本のハグァン

(下関)に到着した。釜山の向こう側にあるハグァン。そこまで引率する時も、

良い船に乗せて行ったのではない。良い船ではなく、何か荷物を載せる船に、
ギュウギュウ詰めで行ったんだ。

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九州地域

037  

船は大きかったですか? 
そうだよ。その時、その連絡船に1600名を乗せた。船は三層になっていたが、
1600名を一度に乗せて行くのに、人間を人間扱いするか? 行く時に一番上の三
層にまで押し込んだ。そんなにしたら、今ならとんでもないが、扱いがひどかっ
た。誰とも話などできず、死ぬなら死ねというありさまだった。そんなふうに連
れて行かれた。次の日に海を渡って、列車に乗り、三日目に九州の炭鉱に入山

し、仕事をした。

炭鉱に行った人の数はどのくらいでしたか? 
言い表せないほどほど多かった。どのぐらいと言えない、何人かと把握できな
い。その時、故郷の先輩たちも行った。現在、自分が話した人達は記憶に残っ
ている、彼らと一緒に行った。もっといたけれど、死んでいなくなり、記憶に残

っていない。彼らだけを記憶している。

他の村から来た人も多かった筈だが。 

ああ! 多かった。それは忠清南道、慶尚南道、まあ、近所からも皆行った。どこ
の人かは記憶してない。忠清南道、全羅南道、皆行っただろう。行けば、皆混
じってしまう。行けば、「俺の故郷はどこ」なんて。「俺は慶尚道だ」「俺は全
羅道」「俺は忠清南道だ」、そんな事は行ってから初めて分かることだ。行く時
は分からない。行って生活している時に「お前の故郷はどこそこ」と知るのだ。

行く前にはそんな事を尋ねる気もせず、まるで罪人のように連れていかれたの
だ。行く先も知らず、そんなふうにされて世の中を生きたんだ。

炭鉱に名前はなかったのですか? 
九州炭鉱だろう、九州炭鉱だ。他の名前があるのかないのかは、行政の管轄では
分かることだが、俺たちは九州炭鉱と言っていた。地名を話してくれなかった。

日本語も知らず、日本語はできなかった。おぅ!それは当然だ。学校に通えば日本

語が話せるが、あの当時、日本の学校に通わない者は日本語ができなかっただろ

う?日本人と話ができないから、身振りで教えて作業させた。他にやりようがな
く、それで何とかなった。炭鉱に到着したら、建物一つに40名ずつを配置した。

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タンコ(炭鉱) だって?

038 

炭鉱の生活はどうでしたか? 
朝5時になれば起床して、ご飯を貰いに行かなきゃ。ここでは我々が食べたこと

もない大豆の油かすがある。油かすと言う。ここでは取れない、収穫できない

安南米とキビ、油かすを飯にするから、掬えない。みな、こぼれてしまう。だか

ら日本は、〔わが国から〕米を持って行った。我々が野良仕事していた頃、わが

国全体が、彼らの言葉で言えば、「韓日合邦 (日韓併合)」だった。我々が合併し
たくて、したのではない。強制的に合併しろと言って、合併は命令だったのだ。
わが国の全国民はそんなふうに生きていた。ここで耕作したものは全て供出
だ。今では国が買い上げてくれるが、その時は、供出させられた。奪われたの
だ、奪われた。行ってみると、油かすというものは日本人らが農業するのに肥や

しにするものだが、それを配給した。俺たちがあちらに行くと、自分達は良い穀

物を食べているのに、俺達にはそんなものを与えた。それを与えて、このように
固めて、日本語では握り飯と言うが、一日にそれを三つくれた。それを死なない

ように少しだけくれ、生かしていたのだ。

炭鉱の作業はどうでしたか? 
炭鉱に入れば、まずどうするかだって?洞窟の中を500m、700m、800mまで入

って行く。そうやって坑内に入って行く。坑の深さが皆ちがうのだ。入って行く
と、どんな設備があるかって?まず、穴を掘るんだ。そうして、40~50m入れ
ば、坑道もなく、ただ支えているだけ。支柱で支えているだけだ。で、入る時に
どうやって入るかって? 坑口から下りて行く、炭車は上からワイヤーで吊るし、
スイッチで巻いた綱をほどき、それに乗って降りて行く。

それでは灯りもなかったのですか?
それは皆が、〔灯りを〕提げて入らなければ、それがなければ、何も見えない。
電球をここ、額につけ、スイッチを持って行くんだ。自分の前は自分で見なきゃ
ならない。そうこうしていると、上から水が落ちて来て、濡れてしまう。入って
行くとひどく濡れるので、体を伸ばしていれば、寒くて生きていけない。だから
死ぬほど仕事をする、体を酷使すれば、生きられる。寒くて生きられる場所で
はなかった。そこでは、サボろうとしても、サボれない。

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九州地域

039  

お爺さんの入った炭鉱は相当寒い所だったんですね。 
おう!水を被るから寒かった。寒いんだ、全く。土の中は寒い。たださせたので
はない。どうやってさせたかだと?「朝鮮人を楽にさせれば、我々(日本人)が
死ぬ目にあう。そうはさせない」、日本人の奴らの言葉だ。そして、炭車一つに
二人ずつ配置する。頑丈な者は頑丈な者と仕事をしようとする。身体の弱い者

とすれば、自分に被害が及ぶからしようとしない。俺も19歳で、一番弱い方だっ

た。順番が来れば、どちらにせよ、俺の番となる。とても辛かった。死ぬ程やっ
ても、相手よりも力がなくて、しきりに損すると相手が言うんだ。同じ朝鮮人で

も、俺の事がやっぱり嫌だったのだ。そうしている時、水が落ちて来て、いい加

減にしていれば死ぬから、死ぬ思いで仕事をした。そうして時間になると、飯だ

と言って、こんな握り飯をくれる。でも死なないように食わなければならない。

名前は弁当というが、握り飯一つだ。

切羽には何時に入ったのですか? 
6時に起きて行く。軍隊式で皆同じ。7時に始めて7時まで、12時間しなければな

らない。7時から7時までぴっちり12時間掘って出てくる。かなり昔の事で、しか
も年も若かったが、あの時の事は忘れない。そうやって出てきた。出てきた時、
まともな身体で出てくる人は何人もいない。「足が切れた」「手がちぎれた」

「どこが割れた」と負傷者が3分の2で、まともで出てくる人はわずか数名にもな

らない。そんなふう、哀れなものだ。「お前は苦労した。死なないで良かった」
と。まともに出てきた人は文句を言われなかったが、足など切れた人は死ぬほ
ど文句を言われた。「お前!鈍いから、怪我したんだ」と。「鈍いから怪我した」
と、そんな事を言うんだ。

「間抜けだから怪我した」という意味ですか? 

そうだ。頭ごなしだ。奴らはそんなだ。だから怪我したと、そんなふうだ。怪我
すれば、自分が恨めしい。泣きつく所もなく、赤チンを塗ってくれることもなか
った。そのようにこの世を生きていた。炭を掘るのに、素手ではできないから、
日本の奴1人に朝鮮人2人を加えて、朝鮮人は2人。なぜそうするかと言えば、
朝鮮人は新入生だから、炭鉱の事情を知らない。そこにいた古参の日本人は
経験者だ。彼らが出てきて削岩機を使い、穴をあけ、発破を装填して怒鳴る。

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タンコ(炭鉱) だって?

040 

「発破をするぞ!」と。とにかく危険だからじっとと座りこむ。そうしないと皆死

んでしまうから。穴を掘る時は数十カ所を掘る。こちら、あちらと。こちらに発
破を入れれば、あちらに逃げなければならない。奴らはそんなふうに穴を開け
た。他方へ逃げるが、運が悪いと、辺りが崩れる。入っていくが出てこられない
犬死の者もいる。それが炭鉱、炭鉱だ。

その発破作業はいつも日本人がしていたのですか? 
そうだ。先山は奴らで、経験があったから。それで、朝鮮人はその横で炭を集め、
少し離れた所まで引っ張って行き、それを積む場、停車場があった。そこまで引

っ張って行く。筋力が強いものはそれを押して行くのも楽だが、弱いものは金で

払わなければならない。夜中でもその数〔割当量〕を出さなければならない。

数を出さなければダメなのですか? 
ダメだよ、ダメ。それは言うまでもない。そうしないと! その時間でそれをしな

ければ。1時間にいくつと指定された。あの時は指定されたんだ。つまり「今日
の仕事は1時間に二つしろ」というように、毎日、指定された。監督が今日の仕

事は容易だからいくつと指定するんだ。そう言われれば、そうしなければなら
ない。奴らの指示するように、朝鮮人はした。棹取〔炭車を操作する運搬夫〕は
皆、日本の奴がした。朝鮮人はできない。そんな生活を我々はした。

事故も多かったでしょう? 
そりゃ、そうだ。切羽に入る人には、握りを三つくれたが、握りひとつを食べて
命が終わるかも知れないんだ。それを全部食べられる保証がない、全くないん
だ。今しがた入って、直ぐに命を失うこともあるのが、タンコ(炭鉱)だ。それ
から、日本という国は地震がひどい。石炭は発火することがあり、地震が発生す

ると燃え上がる、燃え上がるんだ。

爆発事故は多かったですか?   

とても多かった。爆発事故は多かった。大東亜戦争、米国と日本が戦争をした

時、爆弾でどこを狙う? 主に炭鉱を叩く。炭鉱を爆撃すると、炭坑に入ってい

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九州地域

041  

た人々は多く、大小に関係なく、入り口がピタッと塞がれれば、出てこられな
い。出られないまま、放置される。数百メートル掘り進んでいると、滝のような
水が出てきて、処理できなくなる。そんな時にこんな格好のポンプを入れて汲
み出し、例えば、山越えで汲み出し、解決しなければならない。そんな時には、
ポンプ方という責任者がいる。そこで、ナット一つ緩めれば、その中が水だらけ
になり、みんな死んでしまう。ああ!そんなふうにみんな死んでしまう。外では
爆発して死に、地震で石炭に火がついて死に、腸がちぎれて死に、そこに入る
者で傷つかない人はいない。だから、自分がいつまで生き、いつまで仕事をし
て生きるか、わからない。入った日に生きていれば、それが生きる時間だ。外に
出ると、1時間40分、我々の国では「愛国歌」のようなものだが、日本の奴の言
葉で、「コウコク シンミン (皇国臣民)」というのがある。それを3度以上、暗唱し
なければならない。で、その時、服装に水をちょろちょろと掛けられるから、冷
凍鱈のようになった。陰暦11月に来て、そこで仕事をする時、そんな事もあると
は思ったが、硬直させて練兵場に、身じろぎもさせずに立たせる。そんなバカ
な事をさせるので、冷凍鱈のようになってしまう。そうなったときに、誰が服を
着替えさせてくれるというのか? 明日には、その服を着て坑道に入らなければ
ならないのに。それを持って行って、脱ぐ倉庫があった。着られる乾いた服があ

>>> 

切羽で採炭作業をする朝鮮人坑夫

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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タンコ(炭鉱) だって?

042 

るんだ。他の服があった。着て寝る服。そうやって、次の朝また同じ服を着て出
かけるのだ。日本の奴らはそんな生活をさせた。

逃げた人は?    
そう、それも多かった。「逃亡兵」 と呼び、逃亡兵の服がある。日本のヤツはそこ

に赤い字で書いた。「逃亡兵は死刑」と。その服を着せたが、それが一種の「火
の用心」のようなものだ。「逃亡兵は死刑」の服を着せ、逃げ出せないようにし
たのだ。逃亡させず、逃亡した者は捕まえた。「尋問」を受けた者がいた。尋問
するところを見学、毎日、見学させた。逃亡兵が無くなる訳がない。その頃、来
た者は年寄りでなく若者だから、皆、逃亡しようと心に決めていた。考えていけ
ば、「このようにして死ななければならないのか、どうせ死ぬなら一時でも自由
に生きよう」、そのような気持ちになった。人間として、逃亡しないではいられ
ぬ世の中だった。しかし、それを日本の奴は同情もしなかった。とにかく奴らは

最悪の奴らだ。

人々が見ている前で尋問をしたのですか? 
言うまでもない。仕事をして、死ぬほど怪我をしても、骨が折れても、「奴ら
は怪我をして大変だな」という言葉もなく、「お前はグズだから怪我をした、
他の者は元気だ」というのだ。だから、怪我をすると「お前のような奴のため
に、お国が勝利できない」と言い、死ぬほど叩かれた。叩くのもこん棒で叩く
のではなく、彼らの有名な角帯のようなもので殴る。びしっと絡むもので殴る
から、それに肉が引っ付いた。奴らは「半殺し」 という。牛の筋を抜いて来て
作ったコマの紐のようなもので叩くから、肉に絡まり、引っ張ると、肉がくっ
付いて来る。だから、屈服せざるをえない。その鞭を受けても生きなければ、

「今日は無事で明日は平安に」とはならない。いつも困惑し、いつ叩かれるか

も分からず、それほど酷かった。なのに、一銭の報償金があったというのか?

それでは給料は? 
給料などどこにあるのか?そこに給料があるか?奴らが給料をくれたって? 貯
金通帳などというものもなかった。何もなかった。何をしてくれたって、ただ食
わせて仕事をさせただけだ。食わせてやる、それだけだ。でも、あれが食わせ

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九州地域

043  

た事になるか?おかずがあったか? 汁があったか?何があったのか? それは、

このくらい。あの握り飯を一日に3つ、5つくれた。配給品などはない。くれるっ

て、何をくれる。何もなかった。それ以外には、給料だって。それよりも、叩か
れなかったら、幸いだ。毎日、毎日。

手紙のやり取りは可能でしたか? 

その人の成績で手紙が許された。その人を見て、怪我がなく、どんな事故にも遭
わず、無病息災の人。成績を見て、元気な人だけに手紙を許した。連れて行か
れ、「お前にだけ、お前の家族に安否の手紙を書いてやる。お前が言いたいことを
言え」、そんなだった。それで、俺もその等級に入ったようだ。こちらで、父母が安

否の手紙を受けた時、「わが息子はうまくやっている」と思わせるのだ。それは、
奴らが作った嘘だ。良心があるのか。そんなふうに書き、「こんなふうに過ごして
います」という文を入れた。嘘でも、元気にしていると言えば、喜ぶだろう。不満

を示すような手紙は書けない。全て虚偽の宣伝をし、家族に「このように元気にし
ています」、「安心して仕事をしている」、そう思わせた。こんな心にもない嘘は言
えないものだが、彼らはそんな手紙を何度か送った。あー! 母は沢山受け取った

と、手紙を受け取ったそうだ。

今、そのような物を持っていませんか?   
そんなものを持っていて何になる? その頃は写真も撮れと言われて、たくさん
撮った。それも皆なくなってしまった。朝鮮戦争では2回、3回と戦いがあったか

ら、そんなものを大事にできたかい? 話を聞いただけでも鳥肌が立つのに、そ

んなものを持っていて何になる? それから、そこに行った仲間が皆生きていれ
ば、集まって、おう!と語り、自分達があの時を生きたという追憶を分かち合え
るのだが、皆死んでしまった。そう、皆死んでしまったよ。

休日には、どこか外へ行けませんか?   

日曜日には作業をさせない。日曜日は1日休みだった。遊ぶだけ。しかし、どこ

か外には行けない。鉄条網を張ってあり、じっとしていた。出かけるって、どこ
に行ける? 外出してどこに? 外出なんて言葉はない。

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タンコ(炭鉱) だって?

044 

食事を用意してくれる人は誰でしたか? 朝鮮人の夫婦でしたか?  
いや、朝鮮人夫婦ではなかった。でも、他の所には朝鮮人がいた。そこに住ん
でいたのは平安北道、慶尚北道、慶尚南道の地域の人々、以前から来ていた在

日僑胞で、そこに住んでいた。その当時、住民、すなわち日本の奴の中には年頃
の男は全くいなかった。みんな戦場に連れて行かれ、いなかった。だから、炊事

班や食事を作る人が必要だけど、そんな人はいなかった。我々朝鮮人には給料

も渡さず、飯場をまかせ、勝手にこき使った。植民地だったから。それで、朝鮮

人に飯場を持たせれば、利益になるから、させたのだろう。朝鮮人に同情して

させたのではない。ただ遊ばせるのではなく、こき使ったのだろう。 

それでは飯場は全て朝鮮人がしていたんですか?   
奴ら (日本人) の飯場だ。朝鮮人達は仕事で飯場に行くのだ。奴らは金を儲ける
ために、飯場を賃貸するんだ、運営しろと。収入をえるためにするのだ。朝鮮人
を生かすためではない。飯場を賃貸して金を得る。飯場は日本の奴のものだ。
貸すだけだ。権限を与え、税金を出させる。そうして一から百まで奴らのものに
するんだ。奴らはわが国の人間が得にならないようにする。そうやって朝鮮人
が飯場を運営した。朝鮮人は賢いから、うまくやれるような権利は与えない。与
えた歴史がない。我々が死んだようにしていれば、いることができた。その怨み
を返すこともできず、命があるから、やられるのだ。何を望めと言うのか?

その飯場の人々に、時にはお金を出して食べさせて貰うことがありました
か? 
それもあった。なかった訳じゃない。人のする事だから。しかし、買い食いし
たとしても、まともに食えたかは分からない。監視が多かったので、うっかり
したら。だから、そんな飯はは食べない方がいい。危険なんだ。お金を使って
平穏に食べるような状況ではなかった。その時は 「易地思之(立場を変えて考
える)」だ。死んでいいのなら、やっていただろう。ただごとではすまされな
い。買い食いする金も、買い食いする気持ちもなかった。若かったし、「それ
は食べない方がいい」と思い、加わらなかった。死ねといえば、死ぬ真似をし
て、生きろと言えば、生きる真似をした。天命だと思い、他のことは考えたこ
ともなかった。

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九州地域

045  

それで、お爺さんは炭鉱の外に出たこことがないので、何と言う炭鉱かと
尋ねた時、分からなかったのですね。 
そりゃ知らないさ。鉄条網が張られ、正門があり、外出証を出さなければ。じっ

としているだけ。

〔外出の〕自由があれば、炭鉱生活などするものか。その地域

の人々、その近所の案内を聞く、そんな時間は与えられなかった。じっとしてい
るだけ。考えて見れば、子ども心にでも様子を探れば良かった。ポケットにお
金があれば、飯場の主人に接触して、交換や交流もできただろう。俺のような
人間、貧乏人は、誰とも交流する時間はなかった。手に持つものがなければ、ど

うやっても、人との接触はできない。そんな人 (金のある人) なら、そうすること
もできる。そうでない人はなにもできない。

炭鉱にいる時に解放になったことを知ったんですね。 
そうだ。解放されたことは、ビラで知った。ビラで知った時、解放された経過

をみれば、陰暦の7月7日〔ママ、陰暦の1945年7月7日は陽暦1945年8月14日〕に

解放された。こちらでは光復節だ。あちらでは陰暦の7月7日で、解放する時ビ

ラを撒いた〔ママ〕。「陰暦で言えば、7月7日に米国が全て支配する。7月7日以
降は、米軍が列車から全てを運転する」〔ママ〕。そんな小さなビラが降ってき
た。朝鮮人がそれを拾おうとしても、日本人は拾わせなかった。

戦争に負けたからそうなったのですか? 
おう、そうだ! だからそれを踏みつけたとしても、たくさん撒いたから。さあ、
帰ろうという言葉が出た。「もう解放だ!」「7月7日以降は、解放だ!」日本の奴

ら皆あまり口にしなかったが、我々があちこちから出てきたので、炭鉱はダメに

なった。作業が止まった。7月7日以降、炭鉱の作業は止まった。

日本人達は何をしたのですか? 
あいつらが何をしようと、言おうとしても、奴らは死んだも同然だった。そう、何
ができた?奴らに何の活動ができるか? その日の午後になると、汽車も全て米軍

らが奪い、運転をした。それからは、あいつら (日本人) は手を挙げられず、朝鮮

人を殴打することもなかった。その後は、行く当てもなくなり 食べさせてくれる所

もなかった。食べさせてくれる所がないんだ。仕事をさせる所もなかった。

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タンコ(炭鉱) だって?

046 

それでどうしたのですか? 
だから、朝鮮人の中に団体をつくろうと。それで団体を作って、「我々が金をい

くらかずつでも出しあって、船を買って行こう」「船を買おう」と。我々が行く
ところは、国は奪われて無くなっていたが、解放されたので主人もいない。「我

々の国に行く奴はいないか? 主人がいないから、そこの主人になろう」、人々は

「船を買って行こう」と。日本の奴らは罪を知ってか、我々の国に渡してやると

言ったが、時は過ぎていった。なので「さあ、行こう!もう嫌だ」、そんな時、手
に金でもあれば、船も買えるのに。給料を貰って稼いだ金があったか? それ
で、何人かいたから、自分で金を稼いで、旅費を準備する方法を考えた。知っ
ている所で、何日か仕事をして、稼いでから行こう!そうした。農作業をした、

9月7日まで。そして、そこは秋の収穫が早い、その地域は秋の収穫が早いん

だ。早いので刈取り作業をした。作物を集める作業もあった。そこで熱心に仕
事をし、帰る準備をした。そのようにして、我々は誰の恩恵も受けずに、自分達
の手で一銭でも多く稼いで、旅費を準備して海を渡って来た。

それがいつ頃の事ですか? 
9月7日。忘れもしない、9月7日に来た。光復節を過ぎて。光復節は8月15日じゃ
ないか? 9月7日、光復節を過ぎて帰って来たのだ。そうやって9月7日に、それ
は陰暦の27日、俺はボケてるかな? 衰えたか、わからない。とにかく、10日程。
7日と27日だ。

船はどこで購入したのですか? 

闇船を買ったんだ。団体での帰還だから、いくらずつ出して戻ってきた。ハグァン

(下関)で船に乗り、また戻ってきたのだ。8日間かかった。行く時は8時間で渡っ

て行った。良い船だったから。それで、戻る時は闇船に乗ってきたから。その際、
戦時中に潜水艦が設置した物があって、それに掛かって故障した。それで8日間
で渡って来た、修繕をしながら。

船には何人ぐらい乗ったのですか? 

あの時は2~300名だったか、多分。貿易をする船だ。荷物を載せ、運ぶ、そん
な船。金を稼ぐことができずに、そんな事もしなければならない様子だった。我

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九州地域

047  

々の考えだけどね。そんな船で釜山に渡った。渡ったんだ、そうやって。渡った

来たけれど、自由に活動できなかった。わが国では保安隊が組織され、外国か

らやって来た人は、全て取り調べを受けた。取り調べを受けた。その時、お金を

少しでも持って来た人は、換えなければならない。日本のお金の千円分をわが
国のお金で8千ウォンになる。それも保安隊が取り扱かった。このように、案内

も宿舎も保安隊がしてくれた。無料ではなく、どこそこに行って寝ろと言った。
そのように釜山から、流されるように家まで来たんだ。

それでは釜山で、また汽車に乗って来たんですか? 
そうだ。釜山から汽車が行く所までは保安隊が送ってくれた。ところが、食事は
各自で買って食べなければ。その時は、人が多く、食糧は少なかった。米1升で
飯一杯。米を要領よく売って、飯一杯と換えて食べた。お金で飯を売る食堂は
なかった。米を得ることができず、それで苦労し、苦労しながら大田まで行き、
洪城までは汽車に乗ったが、泰安に行く人は洪城までしか送ってくれなかっ
た。列車の行く所までだった。洪城からは自由だ。トラックに乗っていくか、歩
いていくか、それは自由だ。あの時は商売する人が多くいて、瑞山に商売に行

く貨物自動車があると言うので、俺は、洪城からそれに乗せてもらい、瑞山まで

来た。舗装もなく、歩いて行く時代だった。だから歩いて行った。歩いて、歩い
て来たんだ。

戻って来たので、お父さんが大変喜んだでしょう。 
喜んだよ。兄さんが病気で苦しんでいるのを見て日本に出かけた。兄さんは足
が不自由になっていた。死にはせず、生きてはいたが、傷が良くなかったよう
だ。弟は学校に通っていたが、解放され、学校は中断された。俺に服を持って
来てくれた弟だ。ああ!弟は、今は慶尚南道亀尾(クミ)に住んでいて、俺よ

りも健康だ。軍人出身だ。とにかく、体はダメにならなかったが、このように3

年間、ひどい扱いをしたのだから、何らかの謝りの挨拶がなければならないの

に。挨拶があったか? だから、我々をこれほど凄惨に、他国の奴隷として、3年
間も、こんなに死ぬほどの苦労をさせ、どうしてその事に挨拶がないのか、そう
言いたい。不満はたくさんあるが、不満を言っても? この村で暮らす我々の力
だけでは、謝りの葉書一枚を受ける権限もない。わが国の偉い人たちが「これ

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タンコ(炭鉱) だって?

048 

は違う」と言ってくれるまで、待たざるを得ない。我国の優秀な人たちが「これ
はダメだ」と言ってくれるまで、待っているだけだ。生き残った人たちの中で、
学校に通って少し立派になれば別だが、そうできずに皆死んでしまったのだか

ら、空しい歳月を送ったということだ。だから、こんな状態にして置かないで。

我々のような者は、皆が生きてはいないが、ひょっとして生きている人の中には

「遅いな」と言う者もいるだろう。わが国でも人材がいるのだから、歴史に記録

して、二度とこのような事が起きないようにする。これは後になっても提起すべ
きことじゃないか。だから言っているのだ。 我々が今になって、何かを受ける、

受けないに関係なく「我々はこんなに無念だ」という事を知るべきでないか?今
後、時代が流れてどんな事が起こるか。再びこんな事が起こらないのか? 我々
はあちらに連れていく人もなく、聞いてくれる人もなく、こんな風に歳月を送っ
ている。子孫たちにこんなことが再び起きたら、わが国はどうなる。この事を世
界各地に訴えて、世界各地に知らせるべきだ。それが我々が望むことだ。集ま

りに出れば、我々の会長も来て、そんな話をする。わが国でもすべき事は多い

が、できない事も多い。どうして我々は他人の奴隷として生きなければならな
いのか、被害だけを受けなければならないのか。わが国の歴史では他の国に、
あれほど血や涙を流し、辛い思いをさせた事もなかった。我々はいつもやられ
ているばかりだった。そして、世界に何か災難がおき、地震が起きれば、我々も
必ず奉仕や補助の活動をするのに、自分達が何も受けてはいない。我々はこの

ように血を流して仕事をし、家庭を奪われ、他人の奴隷として奉仕をした。我
々は世界の名もない国で災難があれば、行って保障してやるべきだ。奉仕もし
なければならないし、派兵もしなけれならない。いま現在派兵してやらなけれ
ばならないが、どうして我々にはそれがないのか。そんな事は全くないだろう、

我々には? だから、この問題は、補償を受ける、受けないとは関係なく、知らせ

ることが全てではない。外国には我々の事を知らせる必要はないが、奴隷とし

て捕まったこと、わが国民がこの事を知るべきではないか。誰が知らせている
のか、このことを! 誰が生き、誰が死んだのかを、知らせる人がいないのだ。
今になっても。あの時は、韓日合併と言い、我々が弱かったから、強者に連れて
行かれたのだ。行きたくて行った人はいないじゃないか?したくてしたのでは
ない。強制労働させられたのだ。只々、こちらと言えばこちら、あちらと言えば
あちら、連れて行くと言えば、連れて行かれ、そうしたんだ。行きたくて行った

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九州地域

049  

志願兵など一人もいない。今考えて見てくれ。19歳や20歳になって、父母兄妹
が生きているのに、何の理由もなく引っ張られて行くという恥辱を受けたと考
えてくれ。ただ連れて行かれた。自分の足で歩いて行ったのではない。強制さ
れて、銃を持った人が後ろから追い立て、前にもいて、連れて行かれたのだ。
踏ん張って動かなければ、どうなる。言いたいことを一言でも言えたか。只々、
連れて行かれたのだ。そうやって連れて行かれ、解放を味わい、現在で60年、
50年が過ぎた。わが国の国民が無念にやられたと言っても、ひとつでも補償が
あったか、何もない。それは、我が国の全体責任でなされたんだ。我が国が何

もできず、仕方なくて行ったんだ。行きたい人が、その人が行ったのではなく、

「そうしろ」と我が国で言われ、屈服して、行ったのだ。行きたくて行った人は

いないじゃないか? こんなことを今後、再発させてはいけない。政府が知り、
歴史に記録して、事実を伝えるだけでも幸いだと思う。私の話は、何も付け加
えてはいない、自分が経験したこと、見たこと、歩いてきた経過、それだけだ。
一言一句、全てを言えば際限がない。大まかな話をしたよ。

もう一つお尋ねします。仕事をした時間はどれ程でしたか? 
夕方の7時まで。夜中に入って行く人もいた。3交替だから、そうなる。3交替に
組んでいた。そう、炭鉱を休ませず、交替で入って行った。炭鉱を休ませない

ように、そんなふうにしていた。

お話しいただいてありがとうございます。 
私は有難がられる人間ではない。しかし、あなたたちは、我々が苦労した事を
知らせようと来てくれたので、有難いことだ。我々のような者が苦労したのは、
運命だったのだろう。苦労をしたのは忘れない。自分が苦しんだから。今でも目
にはっきり浮かぶ。苦労した場所がはっきり見える。行って、現場に行ってみれ
ば分かる。ここでは記憶がそれほどはっきりしないが。行って、その現場を見れ
ば分かる。現在でも行けば、はっきり分かる。私がここからここと歩いて出たの
だから、分かる。 あの時、廃坑になったしまった。あの時、大東亜戦争の時、爆
弾で炭鉱が壊れ、その時入っていた人は出られなかった。

面談者:許光茂調査チーム長

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タンコ(炭鉱) だって?

050 

02
趙用伕(チョ・ヨンソプ)

福岡県 - 三菱方城炭鉱

              小倉飛行場(= 陸軍曽根飛行場、後の北九州空港〔現在は閉港〕)

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九州地域

051  

趙用伕 (チョ・ヨンソプ)  男、81歳  
1924年12月6日 全羅南道麗川(ヨチョン)郡 出生
1942年11月頃 

当時、父母と兄、弟と一緒に暮らす、船の仕事をする
区長の命令で、九州の三菱方城炭鉱2) に動員。

1944年11月頃 

方城炭鉱で2年間の労務、その後、理由なしに再契
約され、逃走、火薬設置の仕事をしている時に負
傷、まともな治療を受けず。

1944年12月頃

八幡製鉄所の採石場に逃走しようとしたが、逮捕され

るのが怖く、小倉飛行場3) に移り、5~6か月労働

1945年5月頃

動員されてから、約2年6か月後に帰国
足首の負傷が再発して、皮膚移植等の治療を受ける
現在まで後遺症で苦しむ

1965年頃      全羅南道麗川から忠清南道論山に移住

引き裂けた足が
今もずきずき痛む

2)·3) 

2)·三菱方城炭鉱··1902年三菱合資会社が方城炭鉱を開いた。1918年三菱鉱業株式会社が三

菱合資会社の炭鉱部門を継承。1962年三菱鉱業方城炭鉱は閉山となったが、方城炭鉱株
式会社として人員を縮小して操業、1964年に閉山。

3)·陸軍曽根飛行場(小倉飛行場)  1937年から1944年にかけて、陸軍曽根飛行場として建設され

た。敗戦後、連合軍が接収し、米陸軍が管理。その後、北九州空港〔現在は廃港〕。

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タンコ(炭鉱) だって?

052 

最初に行く時は、どのようにして行くことになったのですか? 
ああ!あの時の事か。今なら、本来は令状が出て、順序に従って行くのだが、当
時はそんな事もなかった。条件もなく、「行って来い」、そんなだった。命令だっ
た、命令。命令、それだけだった。死ぬなら死ね、生きるなら生きろ、そんなだ

った。当時、ソワ(昭和)17年(1942年)になる時。その時は昭和17年、俺が行
った年だ。

1942年に行かれたのですね。それじゃ、年齢は?
だから、甲子年生まれ。82歳。それで、区長という人が来た。その当時、俺の集
落の区長、4)日本人の命令で行けと言われれば、行かざるをえない。例えば、そ
の弟も日本人の命令で行った。俺と二人だけで行った。二人で。

日本までどうやって行ったんですか? 

〔集落からは〕二人で行った。日本に連れて行こうと、釜山の連絡船で行った。

全羅南道で集めた人が全部で約100名になる、100名。だから、我々が皆13期、
13番目。13期生。入って見ると、全羅南道で集めて釜山に行き、連絡船に乗っ
てハグァン(下関)に行き、また越えて、九州。車に乗って下って行き、三菱方
城炭鉱という会社に入ったんだ。三菱方城炭鉱。その時は咸鏡北道に三菱の炭
鉱の会社があると言っていた。そこだけにあったわけではない。

契約条件はどうなっていましたか? 
ああ、それは2年だった。2年、2年の期間を満たせば、戻るということだった。
それだけだ。何もない。金をやるという話もない。ところで、石炭を掘るのがそ
んなに危険だと言われたら、釜山で逃げていただろう。逃亡して戻らなかった
だろう。そんな話は全くなかった。言ってくれなかった。

4)·日帝時代、各村を一つの区域として、その区の長として区長を置いた。現在の洞長、里長

がこれに該当する。日帝時期に区長は最末端の行政員として、朝鮮総督府―道庁―郡庁
―邑・面事務所―区長と業務が行われた。区長は村の事情を一番よく知っているので、
警察、会社職員と同行して、直接、村の人を動員する時に助けた。強制動員の対象者を区
長が個人的に判断で決定する場合もあるため、村の人の怨みを買った。

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九州地域

053  

釜山から直ぐに下関に行ったのですか? 
そこから真っ直ぐ、夕方8時に船に乗り、日本の下関に真っ直ぐに入った。ここ
で募集された100人が皆一緒に行った。それ(仁洞、我々の集落)からは二人が
いった。二人行ったんだ。

村から一緒に行った人は誰ですか? 
朴ウギョンという人は、身体検査で目が悪く、坑道の中に入れず、外の仕事を

した。その残りは、残った人はいつの間にかどこに行ったのか、皆、いなくなっ

た。みな全部。知らぬ間にいなくなった、知っている人も。そこには、1期生、2
期生、たくさんが入れられてきた。3期生、5期生、そうして13期生として入って

きたのだ。13番目に。しかし、その人達がいつの間にかいなくなったんだ。それ

で、調べてみたら、そこでの労働が苦しく、石炭を掘るのは危険なので、全部、
逃げていなくなった。逃亡したんだ。

逃亡して捕まったら、どうなりますか?
逃げ出して捕まった人は、我々が飯を食べる食堂、広いんだ、約100名は座って
飯が食べられるほどだ。その前に立たせて犬を叩くようにぶん殴るんだ。捕ま

った人たちを…‥‥。それを見ると、逃げる気持ちにもならない。内情も知らな
いで募集で入って来た人もいるし、入って来て逃亡する人もいた。また、仕事
して見ると危険で。当時、飯は沢山くれたかって?飯も当時は安南米が出た。

安南米を今ふうに言えば、ベトナムで生産された米だ。大きくて、吹けば飛ぶ。
それでは足りないから、大根を刻んで混ぜる、大根。俺はそんな飯を始めて食

った。食べられるものじゃない。ところで結果的には、それでも食べなければ死
んでしまうから、それを食って仕事をした。

出かけて行って、どんな仕事をしたのですか?
石炭を掘った。それも、掘るのも二通り。坑道を掘るのと石炭を運ぶのと。言っ
てみれば、8サクと言えば8尺、10サクと言えば10尺。坑道を掘り進めるところ
で石炭を掘れば、ハコ (箱)5)〔炭車〕に入れて載せ、持ち出さなければならない

5)·炭鉱で使う炭車の箱。

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タンコ(炭鉱) だって?

054 

だろう? 出てくれば、それを貯炭場に入れ、空箱が入って行く。坑道を掘って
行くのが12尺。そこでは、片側に空きハコ〔炭車〕が入って行き、他の片側に
は石炭を積んだハコが出て行く。石炭をシャベルで掘った所は広い、野原のよ

うだ。このタンカタ〔炭片〕は、石炭が4尺詰まった所もあり、5尺詰まった所も
あり、6尺詰まった所もあり、8尺詰まった所もある。そこを掘って行く。そして

そこを掘りすすみ、鉄棒で穴を開け、火薬を、火薬を幾つか入れ、土で、赤土
で詰めて、爆発させる。そして破裂すれば、塵が舞い上がる、めちゃくちゃ、め
ちゃくちゃ! 全体が塵だらけ。そうすると、俺が出る番だ。シャベルで広げ、全
部出口に持って行く。下ろしてハコに載せる。掘ってから、上がって来る、上が
って来る。そうだ。我が韓国でも咸鏡北道で石炭が出るが、そんな石炭ではな
い。良い、良いんだ。油でテカテカして。でも穴を開けてダイナマイトを破裂さ
せれば、皆塵に、隣の人が見えないほどの塵がでる。

事故のような事はありませんでしたか? 
爆発する事故、ダイナマイトが破裂する事故はなかった。しかし炭車に載せ、
積む時にそれに轢かれれば死ぬ、死ぬんだ。我々は事故を知らないから仕事を
する。事故現場を見て、死んだ人を確認すれば、仕事ができないだろう。みん
な逃げるだろう。だから事故のことは絶対の秘密だ、秘密。石炭を掘るのはそ
れほど、危険だ。石炭を掘る場所も、ここでは陸地を掘って入って行くが、日本
では海辺で、海の底に掘って行く。石炭の坑道を作っても、水が入って来る。
水だ、塩水や真水が出る。

仕事をするのはどうでしたか?  
二交替で、昼に入って行く人が20名なら、夜に入る人も20名。二交替で午前8時

に入り、午後8時に出て来る。一週間一番方、次の一週間は二番方。そんな風に

替わった。あっ、そうだ。飯も腹いっぱい食わせてから、仕事をさせれば良いの
だが。さっき言ったかな? 安南米と言い、握り飯でもなく、おかずも、おかずも

タッカム (たくわん)、たくわんだけだ。時には、一度ぐらいは肉もくれた。飯を

食う食堂があった。食堂の事を言えば、最初は列に並ぶが、前の人にやって、
前の人がみな持って行くので、後ろの人は心配になった。結局、腹が空いてい
たので、何度も割り込みをした。そうすると、こん棒の洗礼だ。それだから、飯

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九州地域

055  

を食おうとなると騒動だった。飯の食券があった。食券を持っていれば、飯をく
れた。そう、日本式畳部屋があるだろう。一番方が10名なら、2番方が10名。そ
れを繰り返し、仕事した。

お昼の食事はどうしたのですか?
そりゃ、弁当をくれる、ベントウ。弁当を食堂でくれる。木の弁当箱をくれる。
そうすれば、朝飯を食べて、昼の仕事に入って行く時、弁当を持って行き、事
務所の職員が見る前に隠れて食べる。食べてしまう。はは! 誰かが尋ねれば、
弁当はハコ部屋に戻したと言う。弁当を坑道の中まで持って行き、坑道の中で
食べる人もいる。それでも、12時に昼を食べる人はいない、いないよ。先ず、腹
が減って12時まで待てない。食事の時に魚をくれる時はあった。肉は全然なか
った。魚と言っても、食べたくなるようなものじゃない。魚を少し入った汁をく
れるのだ。魚などほとんどない。

日本語はできますか?  
日本語は知らない。日本語。通訳してくれる人もいない。それでも、目を見れば

皆わかる。見れば分かる。それから、手つきなどで皆わかる。名前が変わった 
(創氏改名)。趙氏が 「タマカワ (玉川)」、タマカワで合っているか? 玉川は(韓国
語読みで)オクチョンだ。ところで自分は、咸安(ハマン)趙氏だ。韓国にはオ

クチョン趙氏もいる。日本に行くと、名前も変え、姓も変えた、日本の奴らが。

賃金は受け取りましたか? 
手間賃をくれた。それも、奴らが勝手に好きなように。勝手に、くれたいだけく
れるのだ。貯金を、○○貯金、労務貯金、事務室貯金、このように3つも引かれ

ると、小遣いも足りない。自由がなかったので、金を使う所もなかった。タバコ
も配給でくれる。配給で。酒か、酒はくれない。タバコだけど、「ホロンコ」 (タバ
コの名前)という、一番ありふれたもの、それをくれた。

それでも、お金を貰えば何に使いましたか?  
時々金を貰うと、外に行って腹が空いていたので、全部食べるものに使った。
食べるものが全て、人間はまず腹を満たすのだ。外に出たとき、キュルは韓国

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タンコ(炭鉱) だって?

056 

語で蜜柑。腹が減っていたので蜜柑を買い食いし、トゥブ(豆腐)、豆腐が食べた
かった。豆腐が食べたくて、外に行って豆腐を買って食べた。それも一人が行

き、二人が行き、仲間連れで行ったこともある。それも豆腐のカス、おからの意

味だ。韓国人がたまに貰うことがあったが、食べさせない、皆、棄ててしまう。

休みの日はありましたか? 
そう、日曜日に休んだ。日曜。なぜかと言うと、一番方(*2交替制)と替わる日
だ。替わって、箱も休む。一度、二度と外出して見ると、朝鮮人が移住して生活

している家があった。そこではマッコリも売っていて、飯も売る店だった。だか
ら、そこで買い食いした。

以前から渡日していた朝鮮人も炭鉱に来て、仕事をしましたか?  
以前に渡日した朝鮮人たちで、炭鉱に来て石炭を掘る人は1人もいなかった。日
本人たちが昔から炭鉱で仕事をしていて、高給の仕事だから、時間も短く、お
金も沢山貰った。日本人の中に石炭を掘る人はいたが、以前に渡日した朝鮮人
はいなかった〔ママ〕。無理に引っ張られて炭鉱に行き、仕事をした人以外に
はいない、朝鮮人は。

どれぐらい、そこにいたのですか? 
まあ、2年以上になったが、帰してくれない。最初は手紙のやり取りは少しした。し
たけれど、後では、大東亜戦争の時には、ダメになった。そんな事は全て現場が

止めた、止めさせたのだ。家族、母、父、そして兄弟の間でもそうだ。その時、兄
が長崎に、日本の長崎の造船所に行った。兄の名前は趙ヨンギ。趙氏の姓が玉川

(オクチョン)で、本人が何と言おうと、タマガワと呼ばれたそうだ。

家の生計は? 
弟達が責任をもってしてくれた。それで、1期、2期、3期、5期、これらの人は3
年、4年、経っても帰してくれず、戻れなかった。彼らは自由だ、自由。彼らは別
格で、その気になれば、遊びもして、自由があった。彼らをじっと見ていると、
いつの間にか、いなくなった。1人もいない。同じ食堂で飯を食い、一緒に寝て
いた者がいつの間にかいなくなった。行く所ができて、農業しに行った人もい

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九州地域

057  

て、韓国から来た人は、主に土方の日雇い労働をしたそうだ、聞いた話では。

そこに、いつまでいたのですか?
だから、あの人たち、それで、ああ、考えて見ると、ここタンコ(炭鉱)にいても生
涯、言ってみれば、懲役暮らしだ。懲役暮らしにしかならない。だから、ああ! 故
郷の咸興(ハムフン)の人と俺と二人いた。「そう言ってないで、我々もここを逃
げ出そう。ここにいても月給もまともにくれるか。仕事をしても労賃をまともにく
れるか。だからと言って、2年の期間を満たせば、帰してくれるか。逃げよう!」 そ
れで、その時のことを言えば、一番方に替わった日、替わった日の朝飯を食べて、
午前8時になったか。8時、9時に病院に行く患者がいるので、その患者たちについ
て、我々も出かけた。ついて出て、逃げたんだ。逃亡して小倉に行った。そこに慶
尚南道晋州 (チンジュ)、晋州の人と会った。その人によれば、炭鉱を逃げ出した
人を集めて土方にして送ると。とにかく逃げてくる人がいる。土方する場所に人
を集めれば、どれだけでも押し寄せる。仕事をする人が土方に。ミヤモトだか、そ

うだ、ミヤ、ミヤモト(宮本)か。姓が何か、分からない。その時、ミヤモトと言っ

たか。山奥から、汽車に乗り、俺は逃げ出した。そいつらにばれれば、タンコにま
た入れば、死ぬ目に遭う。逃げる場所を探すと、上にあのハコのようなものが、大

きな箱のようなものが行ったり来たりしていた。よく見ると、空中にワイヤーがあ
って、それで山の上をすっと越えて行く。それについていき、越えた。越えてみる
と、下に石を掘る工場あった、石を掘る工場。下りて行くと、そこが八幡製鉄所6)
という所だ。そこから何が出てくるかと言うと、石も高級な石、大理石のような。

八幡製鉄所の工場には3種類あったと言う。

それで、そこで仕事をすることになったのですか?  
そこに行くと、朝鮮の人が多かった。下りて行って、村に入ると、1人の女性が
慶尚道の女性だった。炭鉱から逃げて来たことは直ぐに分かった。それで、そ

こで夕食を食べさせてもらった。夕食を沢山準備してくれた。そして「そうしな

いで、ここでも石でも掘ったら」と言うんだ。しかしここでは、炭鉱が雇ったヤ
クザが毎日のように逃げて来たかを調査し、捕まえるという。小倉で叔父が飛

6)·石切り場を間違えて表現した。

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タンコ(炭鉱) だって?

058 

行場の工場の基礎を作る仕事をしていた。飛行場に工場を作っていた。飛行機
が降りる場所だ。寝て、朝食を食べ、そこに行った。小倉に行く市内バスがある

と言う。行って市内バスに乗り、そこに行った。行ってみると、人夫が5、6人い

た。皆、炭鉱から逃げてきた人たちだ。そこに行ったのだが、飯のことだが、精
米しない米、純粋の米、丸ごとの米をくれた。本当に世の中にこんな場所があ
ったんだ。

そうして解放になったのですか? 
そこで、5,6か月していて、足を怪我して、仕事もできなくなった。そこの主人が
下関まで来て、連絡船の切符を買ってくれた。「タマカワ、お前は朝鮮に行け」、
それでその主人の指示で朝鮮に来た。こちらに来て、8月に解放された。こっちに
来て、約3か月で解放になった。朝鮮に行き、解放されたと言うことだ。

怪我をしたのはいつですか?  
炭鉱にいる時、火薬の発破を連結していて、怪我した。連結して「爆破する
ぞ!」と叫べば、出ないと、早く逃げ出さなければならない。早く出ないで、爆
破されれば、終わりだ。それで、逃げようとした時、ローラーに引っ掛かり、引

き裂けた。ここだ。それで応急治療を受け、仕事をした。韓国に来てから、再び

病院で治療してもらい、直って出てきた。出てきたが、また結局、大学病院に行

き、悪い所を全部掻きだし、皮膚移植をした。もう、だいぶ前のことだ。今でも

足がずきずきする。ずきずき痛い。若い時は何とかなったが、年取ると仕事もで

きない。朝鮮に戻り、自由になったので、治療を何度も受けた。

>>> 

趙用伕お爺さんの怪我をした足首

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九州地域

059  

故郷に戻った時、家族の皆さんは無事でしたか? 
そう!皆生きていた。兄は長崎の造船所に行って、解放の後に戻って来た。兄

も健康で、皆帰国した。工場(小倉飛行場)では、月給は仕事をした分は受け

取った。全部貰い、足の治療に全部使った。そこでの貯金は受け取らなかっ
た。炭鉱でしたものも受け取らなかった。受け取れず、一銭も受け取っていな
い。くれないから、受け取れなかった。陸地より、船舶生活、船の生活、そう
だ。麗水(ヨス)で魚を捕まえて暮らした。その当時、陸地での労働はできなか

った。(足が悪かった。) 船の仕事は、寄りかかって引っ張るんだ。船に乗っての

生活だ。そうやって暮らした。

日本に行って来た他の人で、記憶している人は? 

全羅北道では、ここからあすこ、新平 (シンピョン)、新平集落の人が1人い
た。あっ! 死んで遺骨になり、探して持って来た人も。炭鉱で死んだ。名
前は分からない。それは分からない。俺は知らない。日本に行き、遺骨を持
ち帰ったと。

>>> 

八幡製鉄所の様子(出典:林えいだい『清算されない昭和』

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タンコ(炭鉱) だって?

060 

日本で死んだ人は多かったようですね? 

俺は知らないが、多いだろう。多い。他の人も行ったよ。うちの集落からは兄と
隣の人の2人。我々と隣の人と2人が行った来た。皆、死んだ。皆、死んで、故人

になった。

戻って来たのは論山(ノンサン)でしたか?
いや、全羅南道の麗川(ヨチョン)郡。ここに引っ越して来て、約40年になる。

どうしてここに引っ越したかと言うと、俺の下の弟が論山に住んでいたんだ。そ
の当時、軍隊に入隊した。そして、論山の訓練所に来てみると、ここが…‥‥。
とにかく、ここで暮らした。ここが田んぼで、ここは国有地が多い、国有地が。
ここに来てサツマイモを作って食べれば、麗水より良いんだ。それでサツマイ

モを食べるため、土地を耕した。生命を維持するには、どんなにいい魚でも、魚
だけでは生きられない。身体を良くするには足りない。最初は美味しく食べるけ

ど。他の仕事がなかった。父の代から苦労してきた。それで、弟が「皆で諭山に

住もう」と言うので、戸籍まで整理し移した。戸籍まで。こちらに引っ越す際。

故郷の人で他に覚えている人はいないですか?
朴フビョン。朴フビョンは私たちの村の人だ。彼は日本に行った。炭鉱の募集で
行った。私は石炭を掘る坑道で仕事をしたが、あいつは目が悪く、身体検査に落
ちた。それで、あいつは石炭を入れた箱を押したり、引っ張ったりしていた。あい
つはそこに3カ月もいないで逃げてしまった。解放になり、故郷に帰ってから会っ
た。会うことはあったけれど、今は亡くなってしまった。私は引っ越して。

そこで、何人ぐらいが仕事をしていたのですか?
三菱方城炭鉱では、3000人程仕事をしていたが、どう言えば良いのか、そこは人夫
たちが、いわゆる寝て食事をする飯場で。

炭鉱に行った他の朝鮮人たちは?
炭鉱に募集で言った人達か? 全羅南道の麗川からも行ったが、そこから一緒に
行った人は私も知っている。名前を見れば皆分かるが、ここでは分からない。こ

この人はただ記憶に残っている人は分かる。一緒に行った人は知っている。今

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九州地域

061  

でも覚えているのは朴フビョンだ。他に誰がいたかな。あ! 名前は全部忘れて

しまった。

天気はどうでしたか? 

日本、あそこは韓国より暖かい。火を入れることはない。畳の部屋に薄い布団を

敷いて、掛けて寝る。あそこは寒いと文句を言われることはない。九州と言えば
南の地域、だから暖かい所だ。

タバコやお金などはどのぐらい貰いましたか? 
タバコが出るのは、時たま、報国と言ったか、何か、名前は忘れた。タバコが主
に配給されたが。タバコを買って吸うのも、並んで順番を待った。買いたいよ

うには買えない。その当時は、三つの貯金を取り、○○貯金、労務貯金、事務

所貯金。そうして、我々に印鑑をくれず、我々に貯金もさせなかった。ダメだっ
た。事務室で全部持っていた。見せもしない。これだけ貯金したとだけ言うだ

けだ、言葉だけ。お金を一度は家に送った、一度。会社の金を。

お金はいくら送ったのですか?  
えーと、あの時の金はいくらだったか。20ファン〔円〕もなかった。その時は20
ファン〔円〕も現金では大金だった。その時のお金で50ウォン?50ウォン? タバ
コ1箱がその時5銭、一箱5銭。豆腐がいくらだったか分からない。皆忘れてしま
った。

移って行った所に関して話して下さい。  
そこは山奥で、仕事をしていたが、ミヤモトの嫁に会ってその家で一日、夜に寝
て、その家から仲間の家に引き継がれた。

韓国に帰る連絡船の切符は誰が斡旋してくれました? 
韓国人。慶尚南道の晋州の人だった。そこに行って6カ月、土方をした。そ
の時の金で日給をたくさん、時に15ウォンもくれた。死ぬか生きるかだっ
た。日給は7ウォンずつ、また10ウォンもくれた。一人であっても、二人分
の仕事をすれば、一日15ウォンも受け取った。その時、足が痛かったが、ス

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タンコ(炭鉱) だって?

062 

コップ仕事もだいぶした。大丈夫だった、その時は。お金で治療を、治療で
だいぶ助かった。

逃げ出して、小倉には誰と一緒に行ったんですか?
いや、自分一人で行った。一緒に逃げた人は、他の所に行った。俺一人で行っ
た、その人は他の所に。

炭鉱の話を少ししてくれますか? 

そこでは仕事する作業がみな違う。支柱を置く所があり、掘る所があり、ああ、海
の下に入っていく、言っただろう? そこに長く住んでいる人がそう言った。「ここ
は海の下、万一坑道が崩れたら、そうしたら海水が入って来る」と言った。

石炭を掘った話を少ししてくれますか? 
石炭が詰まっている所に追われるように入り、石炭を掘る。海の底まで入って
行く。時間的に長く働くのは主に韓国人だ。日本人は何と言えばいいか。天井
が崩れないようにする支えの柱、主にそんな事をする。日本人のなかでも分か

らない奴を穴の中に入れ、仕事をさせる。そうだよ。ああ!昼飯はまともには食

べなかった。午前に腹が減ってみな食べてしまうんだ。昼食時は、休むんだ。
休む。座って休むんだ。夕食を出されて食べるが、腹が減る。一日中腹が減る。
それで、坑道から出ると炭塵を被っているから、風呂に入る。風呂から出て、飯
場に歩いて行く力もない。力が果て、力が全て抜けてしまう。

飛行場には軍人たちがいましたか? 
軍人たちはいなかった。そこでは監督する人、2人が日本人、それ以外全て朝鮮
人だ。全てが朝鮮の人だ。組長は朝鮮の人、その下も朝鮮の人だ。日本人はい
ない。監督2人だけだ、その仕事を受けている人。
 
余談を一言。  
最近被害者の集まりに行ってみた。全羅北道扶安(プアン) 郡、居昌 (コチャン) 
郡、淳昌(スンチャン)郡、そこの人が一番多かった。かなりの年齢だった。生

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九州地域

063  

きている人全てが高齢者、高齢者。そう、年をとるのも恨、恨めしい。若ければ
いつまでも続けて、最後までやって、解決もするんだが。年を取るのも恨だ。俺

が死ぬ前に何とかして解決しなけりゃ。そのように悔しくて、歯ぎしりしている
人間もいるんだよ。

面談者:金美賢調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

064 

03

金翰中(キム・ハンチュン)

咸鏡南道長津(チャンジン)郡梨上(イサン)里ダム工事(右)

福岡県 - 三井染料大牟田工場(現三井化学)(左)

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九州地域

065  

金翰中 (キム・ハンチュン)  男、84歳  
1921年3月8日

全羅北道高敞(コチャン)郡 雅山(アサン)面で出生

1942年2月~8月   咸鏡南道長津(チャンジン)郡、イサン里ダム工事現

場で仕事

1942年9月

平壌(ピョンヤン)鎭南浦(チンナムポ)飛行場の
工事現場に移動配置、1カ月仕事、契約期間の延長
に故郷の父母が反対し、1カ月で戻る

1945年

陰暦1月、日本の福岡、三井染料大牟田工場7) に動員さ
れ、解放後帰国

以北(朝鮮北部)

に行って来たら旧暦の元旦に

「今度日本に行け!」

7)

どこに行って来たのですか? 

私は二カ所だ。私は一人で2回行った。以北(朝鮮北部)に行ったのと、日本
に行ったのと。日本にも行き、以北にも行った。

7)·三井染料大牟田工場 三井鉱山のコークスの副産物を利用して化学肥料や合成染料等を

生産した工場。1941年、三井染料工業所、石油合成三池試験工場などで三井化学工業株
式会社を設立。

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タンコ(炭鉱) だって?

066 

お爺さんが行く時は、元々ここで農業をしていたのですが?
農業をしていたよ。以北に行く時は22歳で行った。約2年いて、そして解放さ
れた年 、昭和20年(1945年)に日本に行き、その年に戻って来た。正月の最
初の日に行き、9月の最初の日に戻って来た。結婚もせずに行った。私は27歳
で結婚した。結婚する前に日本に行って、戻って2年ほどして結婚した。

兄弟はどうなりますか?  
現在は4人兄弟、7男女、そのうち、私は3番目、下の弟は朝鮮戦争の時、戦争
に行って傷痍軍人になり、そして死んだ。今生きていれば75歳だ。ここで、下
の兄は報国隊に行った。車(リアカー)を引き、薪のようなものを積み、車を
引いたという。小さな車に積んで、薪も積んだ。上の兄は農業をして、区長の
仕事もしていた。

お爺さんの創氏は何ですか?  
カラメツ (金光)8) だ。カラメツ・カンツだ。カンツは翰中だ。

誰が来て、行けと言ったのですか?  
行けと言われて、面事務所に行った。面書記が家を訪ねて来た。その時は通
知もなく、捕まって行った。捕まって行っても、家族はじっとしていた。理屈
も何もない、その時は。仕事ができる者は、そのまま行けと。

面からどこに連れて行ったのですか?  
面からあそこ、高敞(コチャン)に。当時は高敞郡で、郡庁に集め、飯を食わせ、
訓練させ、井邑(チョンウプ)に行き、一晩眠って、そして汽車に乗って行った。

訓練はどんな訓練をさせたのですか?  

「ミギ、ミキ、ミギ〔右向け右〕!」「ヒダリ、ミキ、ヒダリ〔左向け左〕!」「ウシロ

ムケ」、「キオツケ!」、 高敞で2日ほどこんな訓練を受けた。 井邑に行って一晩眠

8)·カネミツと読むが、間違って記憶したと思われる。

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九州地域

067  

って、汽車に乗り、咸興(ハムフン)だ。咸興 は咸鏡南道だ、そこでまた汽車に乗

り、駅を10カ所過ぎて、 ホッケを越えて、ボンア里に着いて、握り飯を食べ、また

車に乗り、咸鏡南道長津郡の梨上(イサン)里に行った。

行く時、面で集まった時、およそ何名ぐらいの人が一緒に行ったのです
か? 
70余名だったろう。高敞の各地から来て、数十台の車が来た。荷物車やトラ

ック。それに乗り、車一つに30名ずつ座って行った。

井邑でも数台の車で、人々は行ったんですか? 
井邑からも行き、各地から数十名が来た。サクド(索道)でも行った。サクドが
何だかと言えば、ケービ‥‥何て言ったかな、ソウルのケーブルカーのような、
サクドはケーブルカーのようなもの。これは人を乗せるが、サクドは笊のような

もの。引揚げて、こんなにして、行けば、引っくり返る。日本語でサクドと言う。
ここではケーブルカーと言うが、人が乗って引っ張るサクドはケーブルカーのよ
うなもの、このように引っ張る。ケーブルカーのような格好をしている。

今、長津での話をしているのですか? 
長津の話をしている。鉄の車もあり、シャベルで掘り、掬い、ミキサーかミシ

>>> 

朝鮮人達が警察の統制下、

       トラックに乗り出発する姿。
   (出典:林えいだい
       『清算されない昭和』)

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タンコ(炭鉱) だって?

068 

ンか、シャベルで混ぜて、また積んで、合板を立てた。我々は施設係だ。機
械を使うときに付けるベルトを準備する仕事だ。ベルトを入れる、ベルトが何
だと言えば、発動機にベルトがあるが、そこのベルトはこんなに広く、ゴムで
できていて、たわみながら回る。そうするとこぼれる。そこでシャベルで砂と

混ぜて、その下でミキサー機が回って、鉄の車に載せる。

それではお爺さんは車の仕事をしたのですか? 
車の事もしたし、鉄の車もしたし、シャベルもした。そこで仕事をして、咸興か

ら9月だったか出て来た。寒くて仕事ができずに出て来た。

ここ、長津郡で何カ月したのですか? 

咸興に3月行き、陰暦の9月に出たから、3月初めに行った。だから(指で数え
ながら)3月、4月、5月、6月、7月、8月、9月の7か月いた。

作業場はどこにありましたか? 
咸鏡南道長津郡イサン里という所だ。ダムを造る所だ。ダムを造る。ここに
土、そして最後に石灰で全部を詰める。石灰だ、ここはセメントではない。

ダム工事をするのに、朝鮮人は多かったですか?  
全てが朝鮮人だが、中国人もいた。サブランキ(*削岩機と推定)もあった。
現在は機械でするが、サブランキでガタガタ! 穴が開き、そこに火薬を入れ
る。その人達はそこで爆破の仕事をする。中国人が爆破をした。サブランキ
で穴を開け、爆破する。そこを出て平壌の南浦(ナムポ)港に行った。平壌か
ら南浦港に行くには130里だ。南浦港から西海(ソヘ)まで10里、そこで飛行
場の工事があった。そこに行って1カ月仕事をした。

南浦港から西海(ソヘ)海岸の方に10里行き、飛行場の仕事をしたのですか? 
飛行場を造った。そこでまた、鉄の車の仕事をした。それでも、寒くて出てき
た。咸興〔の工事〕は中止になった。9月は寒くなり、春に仕事をしようと中
止された。人夫たちがどこに行ったかは知らない。我々は南浦の飛行場に行
き、1カ月して戻った。

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九州地域

069  

食事や宿舎などはどうしたのですか? 
飯場があった。飯場頭が引き連れている。当時の頭にチョ・ス〇というのがい

たが、金堤(キムジェ)の人だと言った。井邑を過ぎると、金堤じゃないか。

引き連れていき、食事も与え、宿舎も用意してくれる。咸興、あそこではどう

して飯があんなに少なかったのか、半分ぐらい。飯は米だったが、それだけ

では仕事ができない。それだけでは、生きてもいけない。米をくれる什長の

奴がくすねていた。その嫁さんが皆くすねるのだ。いゃー! 腹が減って。什

長たちはそんな調子。腹が減って、それでも生きのびた。

什長と言うのはどんな人たちですか?  
そこで仕事をさせる人だ。皆朝鮮人で、仕事をさせる人を什長という。飯場
頭の下には少なくとも40~50名がいる。什長は現場にいる。現場で別に住
む。我々に「何時までに出てこい」と告げる、そんな仕事をするのを什長と言

う。 什長は「仕事に行け、行きなさい」と言い、人夫達の名前を書く。誰が
どのぐらいと、金ハンチュンであれば、金ハンチュンはどれだけと、そんな指

示を飯場頭がする。自分で来て、話し、書きとめる。お金がどんなかは、我
々は知らない。そいつが書きとめ、彼だけが知っている。そいつが書き取り、
そこで誰が仕事をしているかを書き取る。事務所があったんだ。事務所に行

き、誰が仕事に来て、誰にいくらやるかを決めていた。だが、お金の匂いも
分からなかった。彼が金を受け取り、全てを処理したから。しかも、金と言っ
ても、飯場で食べたり、寝たりするので、それを差し引く。食事代も控除され
た。腹がとても空いた。間食もない。それでも、食べなきゃならない。

飯場が幾つかあったのですか?  
飯場はいくつもあった。こっち、向こうと両方にあった。飯場は十数カ所あっ
たから。あちらはあちらで運営して、こちらはこちらでする。南浦港に来たの
だが、日本語で話す人が何人か、何人か一緒に来た。日本語で話す人だ、全
部。日本語で話すんだ。班長の下で、班長のように人夫を統率するんだ。

それでは、そのチョ・ス〇という飯場頭が皆を南浦に連れて来たということ
ですが、南浦に移動すると時、何に乗って行ったのですか? 

トラックに乗って出てきて、咸興から汽車に乗り、平壌に来て。ソウルから咸興

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タンコ(炭鉱) だって?

070 

に行く鉄道があり、

〔平壌から〕咸興に行く鉄道もある、2種類だ。以北に行くの

は、そうだ。咸興からの事はそれで止めて、飛行場に行ったことを話そう。

飛行場ではどんな仕事をしたのですか?  
飛行場には中国人はいなかった。学生と我々労務者が連れて行かれ、仕事をさ
せられた。とても急いでいて、飛行場作りは夜明けから出かけた。あいつらが
多くさせる時には夜明けに出かけ、朝の何時だったか、分からない、その時は時
計がなかった。分からないさ。真っ暗な時に出かけた。起きて飯を食えと言わ
れ(*横になっていたのを、上半身だけ起こし、座った姿勢をしながら)こんな

にして食べた。寝ていて「飯を食え」と言われも、目だけ開け、食べた。そこに
も飯場があった。

それでは、その飯場も咸興でしていたチョ・ス〇がする飯場でしたか? 
その人に従っていた。それで、ここでも飯場頭だった。ところで、ここに来
て、年上の人に聞くと、面では大騒ぎになったそうだ。「うちの息子を連れて
いくとは、何だ」と抗議して。

息子たちを連れて行ったと? 
1か月でそこは終りなのに、また延長しようとし、村の年配の人に許可を取ろ

うとしたが、「なぜ、よその息子を連れて行く、どうするつもりか」と言って、

大騒ぎになったので、1カ月を過ごし、帰って来れた。父母たちも文句を言っ
た。だから、飛行場工事は1カ月した。

親たちが何と言ったので、「皆、故郷へ帰りなさい」と言って、帰してくれ
たのですか?  
一緒に来た、飯場頭も一緒に来た。その人は自分が連れて行ったので、責任
を果たさなければならない。連れて帰ってきた。学生達を臨時に、数日ずつ
仕事させ、宿泊させ、食事もさせたのだ。

その学生たちは他の腕章をつけたり、旗のような物はなかったんですか?

旗のようなものはない。夜明けに丸くなって並び、訓練した。若い人たちで、

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九州地域

071  

飯もよく食べ、我々よりも体格が良く、仕事も良くした。我々も若かったが、
彼らは学生だったので、素早かった。

学生は午前に訓練をしたのですか? 
朝に数時間ずつ、ぐるりと回って、日本語の歌を歌い、わっしょい、わっしょ
い、と言いながら訓練した。そこはリンゴ畑が多い。リンゴ畑をなくして、飛
行場を造る。家も全部壊し、飛行場を造る。田圃も埋め、畑も埋めて、リン
ゴ畑をなくし、ここのようではなく、石が餅のようにコロコロしていた。そし
て、彼らは平べったい石を、屋根に載せて、瓦屋根の家のように見せた。遠く
から見ると、瓦屋根の家のようで、まあまあだった。

それでは、リンゴ畑や住んでいた人を追い出して、造ったのですか?  
そうだ。ここにダムを造る時のように。谷間だった。トラックが行く所まで。

三重に塞いだ。上を塞ぎ、下を塞ぎ、そんなふうに塞いだ。3回、塞いだ。そ
れは高く、水が山を越えると言う、このようにガツンと水が流れる、咸興の
事だ。エンテイ(堰堤)と言う。ダムで水を塞ぐのを堰堤と言う。そこを終え
て、故郷に戻り、3年間農業をして、25歳の時に日本に行った。

日本に連れて行かれる時の話を少しして下さい。 

家で農業をしていて、日本に連れて行かれた。正月の最初の日に行った。面
書記が来たが、誰だったかよく分からない。面書記は通知をしに来ただけ
だ。実際には里長が行けと言った。その時は、区長と言った。区長、区長の名
前が金ビョン〇で、その時は力が強いのではなく、今の里長のように、区長を
一度すると長くした。ゴム靴のように長くした。長く、長く。途中で仕事がで
きないと言われ、替えられることもない。それで区長はあんなに堂々としてい
た。ところで、その人の息子が来て、行けと言った。金オン〇という息子が、
私を見て、行けと。自分は区長ではないが、自分の父親の話を聞いて、「お
前、日本に行け」と言った。その時は紙(令状)もなかった。日本のどこに行
けという言葉もなく、ただ面で集めて、そこから郡に行った。家族達も訳が分
からず、何も言えなかった。行かせないとも言えず、一度行っているので、外

してくれとも言えず‥‥‥。

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タンコ(炭鉱) だって?

072 

面に集まって、その次はどこに?
高敞郡に行き、また井邑に行き、汽車に乗って日本、日本の九州に行くのだ。船

に乗り、ハグァン(下関)に行き、ハグァンからまた船に乗る。そこは遠くない。ハ
グァンに行こうとすれば、船に乗らなきゃ。ところで、行って来た人の言葉では、
ハグァンから博多まで水の中を行くの(海底トンネル)があったと。我々は船に乗

り、それから汽車に乗った。

日本に行く時、人々は何名ぐらい集まったのですか?  
あの時は、鎭安(チンアン)からも、高敞(コチャン)からも行き、何名行ったかは

分からない。少なくとも2つの郡から行ったから、海里(ヘリ)から20名程になる。
雅山(アサン)が5名だけ、高敞からはたくさん行き、茂長(ムジャン)からもたく

さん行き、少なくとも200名を超えていた。雅山面からは5人だけ。海里、高敞、高

敞からも少なくとも20名以上、海里からも20名以上、雅山面からはかなり歳を取っ
ている人が多く出てきて、ほとんど追い払われたので、5人だけ。来たのは50名、
全部そのような人で、5人だけ行った。後でまた、連れて来た。

それで、日本でまた汽車に乗り、行った所はどこだったのですか?  
それが、九州。日本の九州、大牟田市。三井工場、9)コークス。コークスが何
だか知っているかい。石炭を焼いたもの、それを無煙炭と言ったか? 煙を
抜き、毒気を抜いたものだ。それを日本でコークスと言う。行った人々200名
は皆この工場に入った。鎭安からも来た。だから、大部分がそこでは軍属とさ
れ、5人ずつ組んだ…‥‥。

大分部が軍属ですか?  
軍人達か関与していたから、軍属だ。そして、工場は大きな工場だった。日
本人が何百、何千人と言っていたけど、三井工場は日本でも二番目に大きい

と、その工場は日本の大阪にもあったという。三井工場は日本の大牟田市に
あり、そこは日本人が全部班長、我々はコークスの仕事をし、フタ(蓋)が閉
まったり、開いたりして、機械で押せば落ちて、下で受け取り、火で真っ赤な

9)·実際の作業場の名前は、三井染料大牟田工場

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九州地域

073  

ヤツを押し入れる、水を入れれば、消えて、下に蹴り落とせば、それを受けて
汽車に積む。ケーブルカーもあり。汽車もあり、下で積んで行く。それを夜明
けまで積む。夜明けまで、汽車も引っ張られ、人が往き来するのが見えた。

全部見えるのですか?  
その下にトンネルがある。だから、汽車が引っ張られ、機械で蓋を閉めたり開け
たりして、それでその上にふるい落とせば、あちらから機械が押してくれる。落
ちれば車に積みこまれ、火が消える。そうするんだ。日本人もして、朝鮮人もそ

うだ。クミ(組)が別にある。日本人は日本人でして、組が別にあった。

それでは、軍属と言うと軍人もいたのですね?  
軍人もいた。マイバラ〔米原〕隊長が日本のあれだ。マイバラ隊長と言い、一
番上の人。家が30棟あり、そこで寝て、畳の部屋一つに5人が寝た、そんなだ
った。畳を知っているだろう? 畳部屋は藁を編んで、こんなに厚くして下に
広げて、それを畳と言う。そんなのが30棟あったんだ。事務所は3階建てで、
そこには管理する人々、日本人が5、6人いた。そして、食堂に通う人は女子が
5、6人いた。マイバラ隊長。その人の下の者がさせる、直接はしない。

仕事はどうでしたか?  
コークスの時、無煙炭の時、仕事をするのに8時に出てきて、8時に入って行

く。三交替。一交替、二交替。一番、二番、三番と言い、そうすると一番が朝

の5時に行けば、12時に出てくる。そして、二番が入り、二番は夜の10時に出
てきて、また三番が入る。そうすると朝に出てくる、三番は出てくると、風呂
に入り、飯を食べて寝る。そうして、また夜の12時になれば、入る。

それでは、出退勤する時も、印鑑を押してするのですか? 
それは、班長が我々を引率していた、工場に。班長が工場に引率して行くと、
フダ(札)がある。木を削って作ったもの、行くとそれを、このように引っくり
返す。入る時はこのように引っくり返す。これが表示だ。私の名前をこんなに
引っくり返すんだ。

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タンコ(炭鉱) だって?

074 

それでは月給はどんなにしてくれるのか?  
一月に20ウォン〔円〕ずつくれたが、くれても使えない。ここでは、組からく
れはする。一月に20ウォンずつくれる。20ウォンが月給だ。その20ウォンは別
に使いようがない。その頃は金を使うことなんてなかった。出かければ、あの
柳川に行き、遊んで来た。市内(大牟田)には「テイデンシャ」という、ここ
での地下鉄のようなもの。そこでは、テイデンシャといった。汽車があり、テ
イデンシャがあり、それに市内電車があった。それに乗ってでかけ、柳川に行
って遊ぶ、そうした。10里ぐらいの距離だったか。ああ、そこは高敞のような
市街だ。そこに行き、間食をし、酒も飲んだ。間食と言うのは、日本ではうど
んを食べるか? 食事時になり食堂に行っても、米 はめったになく、ご飯も出
ない。全てがヤミで、飯を食うのもそんなだ…‥‥。

それでは、工場の食堂で飯はちゃんとくれましたか?  
飯はくれても、色々食べなければ。緑豆を漬けて、とんとん刻んで飯を炊いた

もので、皆はチュトンパプ(ネズミの糞飯)と言う名前を付けた。緑豆を漬けて

刻んだ飯を炊くので、黒いものが入る。緑豆という黄色い野菜がある。それをと
んとん刻み、チュトンパプと言う名前を付けた。それは、油かすのようだ。

お爺さん、外出は思うようにできたのですか? 
いいえ。私がどこかに行こうとすると、書かなければならない。書いても、その
時には出られない。1週間はダメで、少なくとも1か月、数カ月に1度ぐらいだ。
私がどこかに遊びに行こうとすると、どこにと書かなければ。簡単には出られな
い。それを「テシラ〔外出申請〕を書く」と言う。私は8カ月いて、9月に帰って
来た。1年にはならなかった。

ここの工場に行く時、訓練のようなものを受けましたか?  

行く時は訓練を受け、そこに行って10日ほど訓練を受けた。日本に行ってか

らも、10日なり、1か月受けた。「ミギ ミケ ミギ、ヒダリ、右向け右、左向け

左、全体チャリョ」「チャリョ」は韓国語だな。また、朝、飯を食べる時にコ
コク シンミン(皇国臣民ノ誓詞)を暗唱した。「アレラハ ココク シンミン〔我
等は大日本帝国の臣民〕‥‥‥」、こんな事を唱えたが、だいぶ忘れた。食事

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九州地域

075  

をする時、時々「ココク シンミン」を思い出し、ご飯を食べる。

そこで、親しくなった日本人はいませんでしたか?  
私は日本語もできないから、親しくなる人がありえるか。日本人で親しくして
くる人もいない。もし日本に3年いたなら、親しくなるかも知れない。また、日
本語も分かれば良いのだが。日本語をよく出来なくても、もぐもぐやれば通じ
るのか。日本語がお互いに通じれば、親しくもなるのだろう。日本語ができる
人が何をしたか分からいが、私はそんな事はできなかった。 

事故に遭ったことはなかったですか?  
そこで一度、爆撃があって、高敞の人が一人死んだ。鎭安の人は9人死んだ

〔ママ〕。どうしてそうなったかと言うと、爆撃は焼夷弾を少なくとも5、6発を

受けた。大きな爆撃に一度やられた。どうなったかと言うと、大きな工場で高
射砲を隠していた。三番方から戻り、寝ていたら、「クスケ(空襲警報)」「ハシ
レ(走れ)!」「ハシレ!」と言われ、サイレンが鳴り、外に出た。飛行機が数十
機来て、空中を回る。下から高射砲を撃つ。高射砲を撃つと、ピリリリと飛行
機が一機落ち、(*手を叩いて) 叫んだ、空中から大きなものを撃ち落とした。
他の飛行機が数十機、また来て、空襲をするところだったが、一機落とした。
だが、工場はどれほど持ったのか。日本の家と言っても、泥を塗ったもので、
バリバリと1棟、屋根の土が落ちた。そして、飛行機は1機落としたが、工場は

>>> 

朝鮮人が出発する前の訓練の姿(出典:林えいだい『清算されない昭和』

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タンコ(炭鉱) だって?

076 

全て壊れた。工場が皆壊れ、壊れたのを片付けられなかった。コークスも取

り出せず。怪我をして、病院で治療していて、死んだ人もいた。茂長の人、二

代続いた家の一人息子か、三代続いた一人息子だ。それほど年も取っていな
いのに死んだ。病院で死体となった。年若いのに結婚していた。高敞の人は
死ななかった。海里から来た人は火葬された。そこにお坊さんが来て、念仏
をして埋めた。燃やして火葬し、箱に入れて、お坊さんに念仏させた。日本語
で念仏をしてくれた。粉骨は持って来た、そこにいた人々が。茂長の人は茂
長の人が持って来た。粉骨は皆持って来た。

それでは、お爺さんは空襲の避難のようなことは随分しましたか? 

「クスケ (空襲警報)」と「ハシレ (走れ)」と言いながら、空襲の時は走って行っ

た。炭鉱の中にも奥まで入った。あっ、炭鉱に洞窟があるだろう。「クスケ!ハ
シレ!」と言って、一目散に走って逃げた。後で、出てきて、仕事を続けた。

解放の事はどうして知ったのですか。 
私は解放になってから帰って来た。ちょうど8月15日。その時、8月15日、工場
は休みだ。8月15日は陰暦で言えば、7月7日の七夕の日だ。陽暦の8月15日は
陰暦の7月7日で、みんなが遊びに行った。ところが、日本人は「俺たちは死ん
だ」と言っていた。「なぜ死ぬのか?」と言うと、ソワ〔昭和天皇〕が手を挙
げたので、死ぬと大騒ぎだった。ああ、これで生き延びた。我々は帰る。マイ
バラ隊長が「センソハオワリ (戦争は終わり)」と言い、そして韓国に送ってや
ると言った。降伏したんだ。1月後に戻って来た。七夕だったから、2か月経っ
ていたか。早く帰って来た。陰暦の12月に帰って来た人もいるのに、我々は早

く帰った。その時一緒にいたが、三番方、一番方がいたが。工場が壊れて、

人々は。そこにいた人々は一緒にいて、一緒に仲良くし‥‥‥。

帰る時はどのようにして帰って来たのですか? 
行く時は ハグァン (下関)、帰って来る時は、博多で船に乗って来た。一度で
戻って来た。そうやって、日本から出てきた。釜山で「高敞の人は来てくださ
い。高敞に連れて行きますから来なさい」と言うので、汽車に乗った。論山の
辺りか、茂長か。そこで満州や日本から帰った来た裕福な人たちが、握り飯

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九州地域

077  

を投げてくれた。席もなく、汽車の上に乗って来た。握り飯を投げてくれたの
で、昼食で食べた。 井邑に着いたら、 高敞から迎えに来た人々が、大変でし
たと言ってくれた。彼らが車をもってきたので乗せてもらった。 高敞に着い
たら、日本から帰ってきたことを歓迎し、「ようこそお帰りなさい」と言ってく
れた。その職員たちは郡庁から来たのだろう。日本の会社は、博多から船に
乗る時に米2升、数十ウォン(円)ずつくれた。

写真の説明を少しして下さい。何を記念して撮ったものですか?
日本で撮ったものだ。ここにいるな。これが私だ。我々は遊びに友人と出か
け、写真館で撮影した。私が25歳で行ったから、この写真も60年になった。こ
れが私だ。これが井邑の人で、海里の人、このように親しく過ごし、4名で写
真を撮った。この洋服は今でいえば紳士服だ。イルボク(作業服)と言い、こ
れは紳士服だ。国防色だ。洋服が上と下が同じだ。

一緒に行った人を思い出しませんか?  
一緒に行った人は、井邑の人も一緒に行く時は知らないで、あちらで知った。
仕事をして知って、過ごした。ところが、この写真にはいない。金ジェマンは
ここに、それは雅山の人だ。私より年下。雅山から少し年を取った人、私と、
河インヒョンと金ヨンパルと。でもみな若かった。20歳前後。私は25歳だっ
た。20歳以上の人もいた。20歳にならない人もいた。若い人が沢山行った。

朴ドンソプやチョ・スン、この人達は覚えてないですか? 
あっ、あの海里の人を言っていると思うが、朴ドンソプではなく、朴サルレで
ないか? あの時は高敞の朴ドンシクが班長で行った。その人が班長として行
き、我々が「どこ、どこに行く」、そうすると書き取って、夕方点呼する時、
そこで「何名!」と報告する、そんな事をした人だ。マイバラ隊長が、朝に
朝の点呼、夕方は夕方の点呼をすると、朴ドンシクに日本語で尋ねる、「何名
だ?」それに応えて朴ドンシクが報告していた。

                    面談者:金美賢 調査官 

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タンコ(炭鉱) だって?

078 

04
張悳煥(チャン・ドクファン)

福岡県 - 日産化学 山田炭鉱

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九州地域

079  

張悳煥 (チャン・ドクファン)  男、80歳  
1926年6月2日

京畿道驪州(ヨジュ)郡 加南(カナム)面で出生

1943年10月

日本福岡県山田炭鉱10) に動員

1944年12月

徴兵検査のため帰国

18歳の若さで

「報国隊長」の腕章をつけ、

故郷を後に

10)

故郷から動員されましたか? お爺さんが連れて行かれる当時の家族の状
況から聞かせて下さい?   

そうしよう。京畿道驪州(ヨジュ)郡から行った。当時は父母と兄弟たちは皆生きて
いた。当時、父母は農業をしていた。私が日本に徴用で連れてかれる時、年齢が18

歳だった。私が長男で、下に弟たちがいた。そして、彼らは朝鮮戦争に行き、二人

10)·日産化学山田炭鉱··日産コンツェルンは日本炭礦を設立し、1934年に山田炭鉱を買収、

その後、日本炭礦は日本化学工業に名称を変え、1937年には日産化学工業となった。山
田炭鉱は日産化学山田鉱業所となった。戦時には朝鮮からも労働力を動員、1959年10月
に閉山。

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タンコ(炭鉱) だって?

080 

が戦死した。戦死して、参戦勇士証を受けた。[家族写真を指し示しながら]これが
私で、これは私のすぐ下の弟、これは亡くなった母、これはキファンというその下の
弟、私が一番上だ。それで、参戦勇士証というのが出る。金大中大統領の時に受け
たもの。そして、これは母が亡くなる前に受けた国家功労賞証書で、朴正煕大統領
の時、これを受けた。息子が戦死すると、父が年金を受け、父が死ぬと代りに母が
受けるのだ。受けていたが母が死んだら、切れてしまった。それで終わりだった。そ
れで、この母が、呉オクソンという名前で、この証書を受けた。

それでは弟達は? 
皆、戦争に行った。弟が4人いたが、2人は戦死した。その中の1人は軍隊に行く
時、死んだ。丁度、入隊しようとしていたが、そうなった。そして、米国にいる
弟がいる。その弟、つまり4番目が現在米国のアリゾナ州にいる。そして、末の
弟が流感で死んだ。軍隊に入隊しようとして死んだ。それを合わせて、私以外
に1、2、3、4。私を入れれば5人だった。現在、妹のクンスンイは70何歳だ。彼
女がいて、その下にヨンジャがいて、ファジャがいる。だから妹が3人だ。

それで、お爺さんは徴用には、18歳で行くことになったのですね。 
徴用に行くことになったのは、親父が農業していたが、田舎の驪州でひどい山
間の所だ。その田舎で農作業をしたいた。私はソウルに行き、夜間学校にも通
い、他人の仕事もしていた。ところで、田舎の区長が手紙をくれた、私に。親父
宛に徴用令状が来たと。親父が行けば、農作業は誰がするのか、だからお前が
行かなければならないと。それで、故郷に戻って、私が行った。行ったのだが、
その時、驪州郡には加南(カナム)面と占東(チョンドン)面があった。加南面

と占東面の二つの面から80名で、その80名を連れ、私が日本の炭鉱に行った。

それでは、お爺さんが引率者になったのですが、日本語はできたのですか? 

日本語は知っていた。それで、引率者になったのだ。九州の福岡県に山田炭鉱が
ある。記念写真がここにあるが、ここにいる人々が隊員たちだ。隊員たちは、いま

では皆死んでしまっているだろう。なぜかと言うと、私が最年少だったからだ。18
歳。私がこのような老人になっているのだから、これらの人はみな当時45歳、30歳

を超えていた。現在では大部分が死んでしまっただろう。私が引率をした。

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九州地域

081  

炭鉱に行って、管理もお爺さんがしたのですか?   
いや。管理をするが、管理する奴は他にいる。日本の奴らがするんだ。これが私
の写真、私がいまこんなになっているんで、これは、もうおよそ60年前、私が勤
労報国隊で行く時の写真だ。だから、ここにいるのは日本の奴ら、寮長と言った
が、日本の奴らだ。ここに帽子を被っているのが私だ。ところが、ここにいる奴

らが、私に帽子を脱げと言った。それがなぜかというと、帽子を被れば日本の

奴らのように見えると言うんだ。だから、しきりに帽子を脱げと言うんだ。でも
私は、「ナイセンイッタイ (内鮮一体)、どうして言葉だけのネソンイルチェ(内
鮮一体)なんだ? 帽子を被るのと関係があるのか?」と言った。そして、その
帽子を被って写真を撮った。これが日本の奴で、これ、私一人だけ帽子を被っ
ていた。
  

引率者の選定はどのようにしたのでしょうか?  
それをするのに、会社に就職するように履歴書や学歴などを調べることもな
い。日本のヤツが来て、その面に来て、その面から何人出せ。そこで、面長が
選んで出すのだ。そして私が驪州、面も多いが、この京畿道にも郡が多いだろ

>>> 

京畿道地域での募集の光景、面の事務所で訓示をする面長の姿

     (出典:林えいだい・武富登巳男『異郷の炭鉱』)

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タンコ(炭鉱) だって?

082 

う? 私のいた所は加南面で、占東面は隣の面で、この2か所の面から80名、そ
こで、私を隊長に選べと。ところで、日本の奴が何て言ったかと言うと、面長を

見て「このような学生をあの炭鉱に送ってはダメだ」と言った。日本の奴は、私
が行くのを反対した。学生が炭鉱で仕事をするのはもったいないと。炭鉱の洞
窟の中で仕事をしなければならないからと言った。しかし当時、私は炭鉱の仕
事がどれほどひどいか知らなかった。聞いていると「炭鉱に行って何をするの
か、このような郡や面、こんな所で仕事ができるじゃないか。なのに、なぜこの
学生を炭鉱に送るのか?」と言う。そうすると、面長は「人員が不足しているの
で‥‥‥」と言うと、「隊長にでもさせろ」と怒鳴った。だが、「あの年の若いの
に隊長をさせても、他の人が話を聞かない」と言ったようだ。それで「条件付

き隊長にしよう」と、そんな話になった。それで「釜山まで行く間に、逃亡が、

最初の人員より逃亡する人数が少なければ、隊長に任命する」と言うことにな

り、行った。それで、驪州から小さな汽車に乗って行った。昔は小さな汽車が

あった。それは水原(スウォン)を往復している汽車だ。水原に行き、水原で大
きな汽車に乗って、釜山に行くんだ。水原に行く途中で多く逃げた。13名が逃
亡したが、私が隊長した時は3名しか逃げなかった。だから、釜山で正式に隊長
に任命された。隊長として韓国のお金、当時は朝鮮の金を日本の金に換えた。

>>> 

勤労報国隊 団体写真 (提供者:張悳煥)

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九州地域

083  

そうして、正式に任命されて、隊員たちの持っていた小遣いを全部日本の金に
換えた。換えてから、10月にそこ、釜山から下関と言う所がある。ハグァン(下
関)。そこには当時、連絡船が2隻あった。一つは金剛丸、一つは藤丸と言うや
つだ。10月14日か15日か、我々驪州からの報国隊は金剛丸に乗ると私が書き込
み、それに乗れと言ったんだが、満州の奉天で日本の奴らが満洲事変を起こし
ていて、それで日本軍の交替兵力が釜山にやって来た。それで 「交替兵力が来
るために、我々は次の船に乗る」 と言うんだ。だから、まず軍人の交替兵力を乗
せた。金剛丸が全部で3千名か、或いは数千名を乗せて、日本の奴らが出かけ
た。その次の船だが、その日なのか、次の日なのか、次の藤丸という船に、我々
が乗ることになった。乗ることになったのだが、金剛丸には私達は乗れず、日
本の奴ら、軍人がさっと乗って、釜山を出発した。ある程度行くと対馬というの
がある。そこで、米軍の潜水艦が海の中にいた。米軍は情報がとても速いだろ

う? 日本の奴ら、約3千名が乗って下関に向かっている。それを撃沈しろ、そん

な命令があったのだろう。それで、魚雷を発射した。撃ったから、船が爆発し
て、全滅してしまった。〔10月5日の崑崙丸への魚雷攻撃・沈没、死者不明等約
580人の事件とみられる〕

それで、日本にはどうやって行ったんですか?  
それで、日本の奴は全滅して、我々は釜山から日本のハグァン(下関)まで行っ
たが、連絡船がどのぐらいの時間がかかるかと言えば、普通の時は8時間で行

く。それが、その日本の奴らの連絡船が破壊されたために、船が「之」字で進

むんだ、このようにジクザク航行で。魚雷の被害を避けて、このように行くので
10時間かかる、日本に行くのに。その前は8時間で行っていたのに、魚雷にやら
れて日本の軍人が皆殺しにされたので、我々はその次の船に乗った。もし前の
船に乗っていたら、皆死んでいたろう。幸い、奴らが乗ったから、我々は次の船
に乗って日本に行った。そこから九州のモジと言ったか、字で書けば「モジ (門
司)」か、どこかに行った。その時、地下鉄に乗った、多分。土の下にある地下
鉄道〔トンネル〕で、門司に行った。

その時が、1944年ですね?  
そして、そうやって出かけたのだが、「日本に行く勤労報国隊の船が爆発し、皆

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タンコ(炭鉱) だって?

084 

死んだ」という記事が新聞に出てのだ。私を送りだした山間の村では惜しい青
年が死んでしまったとなった。日本の奴の国旗を掲げ、祭祀をしたと言う。私
が死んだものと思って。ところが、その時、満州か奉天かに行っていた友人2人
が、新聞を見ても、私の名前がなくて、日本の奴が死んだ話だけだったそうだ。

とにかく、 私は日本に行って。そこに渡って、正式な隊長になった。日本の山田

炭鉱。プッカン(福岡)県、そこに行ったんだ。

門司から福岡のその炭坑に直ぐに行ったんですか?  
そうだ。福岡に行った。その福岡の前に炭鉱がいくつかあったようで、日本の奴
の話を聞くと、18,000か所があると言う。18,000か所〔ママ〕。そこに行き、朝な
夕なと全く見慣れぬところに住んだ。炭鉱に寄宿舎と同じようなものができた。
そこに行くと、報国隊員達が住む所がある。寄宿舎。それを、日本の奴はリョ

(寮)と言う。リョと。そこに寄宿して、80人を3交替、3交替で入って、仕事を

する。8時間勤務をして、その組が次に出てくるとその次が入っていく、こんな
形でした。

福岡の炭鉱でどんな生活をしたんですか?   
それほどいなかったが、その時は北、南がなかったろう? 金日成もいなかっ
た。ただここを見て、朝鮮を見て、半島と言った。そして、あの以北の平壌、咸
鏡道の奴らは少しきつい。以南の人より、きつくてケンカをよくする。私が隊長

をしている時も、我々の隊員の中の1人が日本の奴に叩かれた。日本の奴に叩か
れて、歯が折れた。その話を、隊員の1人が上がってきて、私に言った。何と! 

我々の隊員が、その「トリシマリ (取締)」と言ったな。その日本のトリシマリ、そ
いつに叩かれ、歯が折れた。その叩いた奴がどこにいるのか。今、ここの風呂に
いるのか。そこは、炭鉱に入った後は直ぐに、無条件で風呂に入らなければな

らない。真っ黒なので。それで風呂に行ってみると日本の奴がいた。それで、私

が東西南北に仕切り、ここは平安道、ここは咸鏡道、ここはどこと、こんなふう
に囲むように配置して、そいつらが逃げようとする所を捕まえて、こうやると教
えていた。どうやって連絡したのか、彼らが先に来ていた。そして、そいつが風
呂から出てきたのを捕まえた。捕まえて、叩きのめした。

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九州地域

085  

そして、その後何もなかったですか?  
それで、どう周りにそれが伝わったのか、その下の警察署、派出所だろうか、何

と言ったか、そこに連絡され、巡査達が刀を下げて、青い顔をして上ってきた。
どうやってそれを知ったのか。上って来た奴が、隊長以下、班長、我々を全て

呼んだ。我々は、今で言えば、暴行犯として、日本のどこかに行くのではないか 
(*暴行犯として、検挙され日本の他の地域に移送されるのではないか)。我々は
呼びつけられ、そこで日本の警察官と、多分、今でいう巡査部長や警部補かも
知れないが、とにかく話をした。「とにかく、韓国から苦労してやって来て、仕
事をしているのに叩かれ、歯を折ったこと事は誠に申し訳ない」、そしてその日
本の奴がいうには「これからは待遇を良くする」と言った。それで私は言った。
待遇を良くすると言ってどうするか。現在、わが国から来た農民は飯を沢山食
べなければ。飯を沢山食えれば良いのだが、飯は、このぐらいの小さな窓から、
食堂で計って、飯をよそい、こんなふうに置き、何グラム、何グラム、こんなふ

うに飯を貰う。それで、腹が空く、我慢できるか? 田舎で麦飯、大麦飯をどん

ぶり一杯にぎゅうぎゅうに詰め込んで、飯を食べて農作業をしていたんだ。そ
れで、炭鉱に行って、これぐらいの飯をくれ、みそ汁だ。そうだ、みそ汁を少し

くれて、こんなだ。だから私は日本の奴に言った。「炭鉱でそんなふうにしては

ダメだ。まず、この隊員たちに食事が十分に食べられるようにしなければ、仕事
もできないじゃないか」と。そうすると、その日本の奴が言うには、馬肉を与え
ることはできると。ヤツらは馬肉を食べるが、韓国では馬肉を食べるのは聞いた

ことがない。もちろん、競馬をするから、馬が死ねば、そのまま放って置かない

だろう。ここでも、食うなり、どうにかする筈だ。それで「馬を10日に1匹程度、
一月に2匹捕まえて、その馬肉をやる。食事を少し改善しよう」と。そんな話を

した。そのように約束したのに、役には立たなかった。それも、うやむやになっ

た。そして、その寮の事務所の横に松の板があった。その松の板に釘を持って
来て、数百打ち付けた。これは何だ? 韓国の奴、朝鮮の奴が逃げてバレたら、
そこに人を置き、釘に打ち付けるのだ。「死ねば、捕まれば、針のむしろ」とい

う言葉があるが、こいつらは松の板に釘を打ち、逃げて捕まった人たちを叩くと

いう。腹が空いて、密かに逃げて捕まって来る。連れて来られると、そこでその
人を叩くのだ。撃金帯(金属が付いたベルト)と言うのがある。それで突つき、
叩くのだ。

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タンコ(炭鉱) だって?

086 

当時、腹が空くことはとても辛い事でしたでしょう?  
それで、腹が空いて市内に出ると、日本の子どもたち、日本の女子たちが食べて
少し残ったものをみなゴミ箱に捨てる。そうすると、韓国の労務者がそっと近づ

き、ゴミ箱を漁ってタクワンの一かけらでも、残ったものをごしごし洗い、それで

腹を満たす。そんなに暮らしだ、言葉では言えない本当に苦しい目にあった。

近くには日本の女がいたのですか? 
そこはなぜかと言うと、その寮に炭鉱を監視する人、取締がいて、寮長がいる
が、彼らだけが男だ。残りは全て女だ。なぜ女か。床屋に行っても女、郵便局

に行っても郵便局長だけが傷痍軍人で、男だ。後はみな女だ。なぜかと言う
と、その頃はデトンア(大東亜)戦争といい、日本の奴らが数えきれないぐらい

死んだ。だから、みな女ばかりだ。男は負傷して除隊した軍人、傷痍軍人、そん
な奴らが男だ。床屋に行っても女、風呂に行っても女。それで、韓国の人は風

呂に行けば、服を脱がなければならない。そして、入ろうとすると、日本の女が

何を言うかと言えば、「なぜそれを隠すのか、皆あるのに。あたりまえ、皆ある
んだ」と。そんなふうに言う。風呂屋の女は男のようで、ここでは男湯、女湯は
別にあるだろう? それが、そこにはない、その頃。最近はどうか分からないが。

こんな風に、全てが女の世界だった。言葉で言いきれない。

そこの天気はどうでしたか?   
九州地方は1週間に1回は雨が降る。屋根の下はいつも水が流れている。水が、
それほど雨が多い所だ。それで九州では綿布で作った青い服を着ていたが、
韓国に来ることになり、その時が12月、釜山に降りると雪がこんなに積もってい
た。寒くて我慢できない。日本のそこでは、一重の洋服を着ていても、何ともな
かったのに。九州、あっちはまるで熱帯のようだ。それで釜山に来て見れば、
世の中が全く別だ。雪がこんなにつもり、寒くて歩くこともできないくらいだっ
た。そこで待っていて、帰って来た。その年であったか、次の年であったか分か

らないが、私は徴兵検査のために戻った。だから、そこには長くいなかった。

徴兵の対象者になったのですね。   

そこにいたんだが、徴兵検査と言って、私は日本の軍人として行かなければな

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九州地域

087  

らなくなった。それで私を、徴兵検査の時に韓国に送った。それで韓国に戻っ

た。私が戻る時、怪我をした人が17名いた。手が折れ、足が折れて、仕事をし
ていて怪我をした人達。坑道に入って行くと、何かが落ちて来る。石が落ちれ
ば、何倍も深刻だ、打撃になる。こんなのに当たれば、ぽきんと折れるほどだ。
そのために怪我をした人達がいた。また死ぬ人も多い。1日に1人ずつ死ぬほ

ど。毎日、石に当たり死に、仕事をしていて死に、そんなだ。それで、韓国に戻
る時、そのように怪我をした人を連れて来た。

それでは同じ年に行って、徴兵検査のために12月、冬にまた戻って来たと
言うことですか?  
どうかな、そうなるか。それで、私が韓国に来てみると、軍人になると、何か
くれた。その時、驪州邑まで銃を全て持っていろと、銃を。38式、99式、そう
いう日本の奴の銃だ。軍隊に行く人に1丁ずつ与えた。それを持って、驪州の
邑に行くのだ。ところが入隊すると解放になった。解放になって、帰れと。そ
れで銃を返納して、出てきた。だから日本から戻って、家にどれだけいたか
分からない。そして、私が軍隊に行く時は、家で頭髪を刈り、手の爪、足の爪
を切り、全て入れ物に入れた。私が死ねば、終わりというわけだ。それで、手
足の爪を切り、頭髪を刈り、こんな袋に入れて父母に与え、そうやって出かけ
たんだ、軍隊に。

当時、負傷者を何名ぐらい連れて来たのですか?  
私が連れて来た人が17人か18人、とにかくその程度だ。ところで、その人達が
全て一つの村の人でなく、隣の村の人もいる。私の村は小さな村で、徴用に行
った人は思い出せないが、ちょっと考えてみる。私が驪州郡加南面安金(アン
グム)里で、安金里に1区があり、2区もある。2区で李マンジュを記憶してい
る。李マンジュ。その人も軍人として行かなければならなかった。それが怪我を

し、軍人で行けなかった。負傷したんだ。その時、私とともに一緒に戻ろうと言
った。しかし、その人は嫌だと言った。自分は死ぬならここで死ぬと。そのまま

炭鉱にいると言うんだ。それで残ったのだ。李マンジュ。その一人だけ覚えて
いる。他の人は思い出せない。ところで、後で李マンジュに連絡しなかったの
で、死んだのか、生きているのかは知らない。李マンジュはその時、負傷者だっ

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タンコ(炭鉱) だって?

088 

た。その名前を知っている。年齢は私より多かった。

炭鉱の寮の話を少ししてくれますか?  
炭鉱の寮は炭鉱の前に並んでいるのではない。少し離れている。そして、寮に
名前があったが、覚えていない。そして、寮長と言うのは日本の奴だ。私は報
国隊の隊長だ。寮長と言うのは寮の隊長だ。寮長の下に取締りがいて、そこで
は寮長が一番偉い。そして、報国隊の隊長と言うのは取締りの下で管理する人
だ。だから、我々は1日に1度ずつ上がったり、下りたり、上がったりしなければ
ならなかった。確認して、また上がらなければならない。それは死ぬほどだっ
た。確認は直接するから、他の仕事はできなかった。

切羽に入って行く時は、何に乗って下りて行ったのですか?  

あの時は、歩いても行き、車(*坑道内の炭車)のようなものに乗って下りても行

く、色々した。行く時は、仕事をする人と一緒に乗って行き、上がる時はそこで交

替した、仕事が終わった人と一緒に乗って上がってきた、そうしたよ。だから1日1
度は、仕事はしないけど、そうしたよ。

髪の毛を刈るのも女子がして、お風呂も女子がした訳ですが、床屋などは
みな炭鉱の寄宿舎の近くにあったのですか?   

その近所、炭鉱のある村にあった。そこで風呂にも入ったが、風呂は寮の中にも
あり、髪の毛を刈るのは機械でしたかどうかは覚えていない。ところで、村は自由
に行ったり来たりできた。だから、腹を減った人は外に行き、ゴミ箱を漁って食べ
た。今考えると、当時髪の毛をどう刈ったのか、鋏でそのまま風呂でしたのかどう
かは覚えてない。とにかく食事にしても、女が多かった。飯を炊く女、飯をよそう

女、おかずを出す女、こんな風に多かった。

逃げ出せば、どうなりますか?   
逃げると死ぬ目にあう。だから、逃げられないように、逃げ出して捕まった人
は、あの釘を刺した松の板でぶん殴る、そんなふうにした。だから、隊員たちを
みな呼び出し、見ている前でする。だから、身じろぎもできない。それを見せる
のだ。

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九州地域

089  

監視する人はいましたか? 
監視する人はいなかった。ところが、交替する時間になると、寮の事務室で既
に「どこに何名」と知っている。その時、時間を決めて出る人の人数を確認す

る。隊長と言うのはそれを把握して伝える。

近くに韓国の女子はいましたか?   
韓国の女は見なかった。韓国の女は見ず、皆日本の女だった。その日本の女は
韓国に行けば、飯も沢山食べることができ、自由が多いと言う話を聞いたよう
だ。ここに連れて来て、仕事を死ぬほどさせ、飯を食わせない。その女たちも、
私が話すのを聞き、私が韓国に行くことを皆知っていた。だから、女たちが驪
州に行くと追いかけてきた。私が戻る時、3、4人の女が追いかけて来た。下関
で取締に捕まって、全員戻った。そんな事もあった。

配給品のような物はありませんでしたか?   
ない。私はその頃タバコを吸わなかったから、必要なかった。現在もタバコは吸
わない。ああ、タバコの名前を思い出せない。韓国ではあの時、タバコが「ピジ

ョン」「ミドリ」「カイダ」というのがあったけど、その時「ピジョン」など、韓

国のタバコを1箱持って行けば、日本の奴のタバコ「興亜」というのがあった。
そのタバコ10箱、20箱と韓国のタバコ1箱と換えたそうだ。韓国のタバコの味が
良かったという話を聞いた。私はそんな事は見もしなかったが、韓国のタバコ1
箱と日本のタバコ10箱、20箱と換えて吸ったそうだ。

洋服などは補給を受けましたか?   
貰ったか貰ってないか分からない。洋服はとにかく同じもので、報国隊として、

日本の奴の軍隊式のものだ。そして、その洋服には、背中に印が押してあって、

腕章も与えられた。そこの他の人はその時、軍人として行く歳は過ぎていた。
30歳から40歳。最高が45歳で、30歳、34歳、全てがそんな歳だった。みな農業

をしていた人で、軍人に行ける歳の者は私だけだった。

とても記憶力が良いですね。   
山田炭鉱、私は良く覚えている。日本の福岡県の山田炭鉱。それは頭から忘れ

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タンコ(炭鉱) だって?

090 

ない。山田炭鉱というのは、今でも記憶から消えない。

日本語を全くできない人もいましたか?   
いた。だから、先ほどの人がなぜ殴られたかと言えば、日本人のトリシマリが言
う言葉を聞き取れなかったのだ。坑内で坑道を支える木がある。トンバル(支

柱)と言った。それを日本の奴はコボク(坑木)と言い、それを持って来いと、
だからその歯が折れた韓国の人は答えを間違えたのだ。元々英語ができなくて

もNOとはよく言える。NO、OK.そんな言葉を言うように、「分からない」と言
った。俺は分からないと。そしたら、日本の奴が「貴様、分からんか?」と叩い

て、歯が折れたのだ。だから、日本語を知らなくても「分からん」と言うことは
できる。英語を知らなくても、NOとOKはできるのと同じだ。

他の写真や資料はないのですか?   
(*写真を見ながら) 他の写真はない。これは、よく見れば、寮の事務所の前だ。

これが建物だ。ここに屋根と軒がこのようにある。この建物は他のものだ。

お爺さん、他の隊員たちはお爺さんより歳が上だったですね。お爺さんが
指示などをしても、良く従ったのですか?   
従わざるをえない。なぜなら、その当時、国民学校、小学校に通った人は私だ
けだった。私が多くの人の手紙を書いてやった。私が故郷の驪州、韓国に、朝
鮮に手紙を書き送ると返事が来る。その返事を読んでやり、また私が手紙を書
いてやった。私が全てした。私が書き、読み、そのようにした。隊員たちが手紙
を書いてくれといい、そう言えば、私が手紙を書き、送ってやった。

さっき、咸鏡道や平安道の人はケンカをよくしたと言いましてね。  
なぜかと言えば、咸鏡道や平安道、あちらの人は以南の人より強い。現在も事

実だと思う。以南の人より以北の人が、現在でも以北は派閥が強い。彼らは、
昔、日帝時代でもそうだった。日帝の時、平壌サッカーチーム、黄海道サッカー
チーム、ソウルサッカーチーム、こんなのがあった。ところが、平壌サッカーチ
ームには勝てない。以北の者は強い。

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九州地域

091  

その炭鉱に行った時、京畿道驪州の人以外で、既に平壌や以北の人が先に
来ていませんでしたか?   
咸鏡道の人もいた。それらの人とは一緒に行った。一緒に行って、そこで仕事
をした。我々は驪州邑から行ったが、驪州と占東(チョムドン)面の人の中にも
以北の人がいた。驪州に住んでいたが、本来の本籍は以北の人という事だ。平
壌や以北から、直接ではない。

炭鉱では事故はありませんでしたか?   
炭鉱の坑内にガスを貯蔵する所がある。ところが、そこに入って座っていて死ぬ
人がいた。仕事をするのが嫌で入って行くのだ。そこにはガス管があり、そこにド

アを開けて入り、座っていて死んだ人を私が数名発見した。切羽に入る時も、吊
るして使う灯りがある。額に付けて入る。そのように灯りを付けて座っていると、

坑道に出たガスで死ぬ。疲れて、ツルハシで掘るのがきつく、密かに入って座っ
ているとき、それがガスであるかなんであるか分かるか? そこに座っていて、その

まま死ぬのだ。責任者はそんな事も見なければならない、やることが色々あった。

>>> 

坑内でガス爆発が起きた直後の様子

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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タンコ(炭鉱) だって?

092 

事故で死んだ人には、日本人はいなかったでしょう?   

日本人はいない。全て韓国人、朝鮮人だ。そして、人々が石炭を掘るために入っ

て行く所、それを坑道と、そう、坑道だ。坑道でものを掘り、小さな鉄の軌道をそ

こまで敷く。そこでこんな荷車のようなものに積んだ。

他の報国隊の隊長もいましたか?    
そんな人もいただろう。ええと、全羅道、忠清道、そこからも報国隊として連れ
て来て仕事をさせたから。どうなっていたかは、知らない。

リョという寄宿舎に80名だけがいたのですか?   
それは、そんな寄宿舎が数棟並んでいた。そこに、数百名いたか、数千名いたか

分からない。寮長というのは言ってみれば、炭鉱の仕事で、寄宿舎にずっといて、

その全体を管理する、寮を管理する責任者を寮長と言った。寄宿舎1棟当たり1名
いるのではなく寄宿舎全体で1名いたのだ。

その日本の人は年取っている人でしたか?    

日本人は全部在郷軍人、軍隊に行って来た人だ。軍隊に入ったが、怪我をして

戻って来た傷痍軍人、そんな人たちだ。そんな人が寮長の仕事をする。日本の
軍隊生活をして、炭坑に来て仕事をする日本の奴は、言葉で言い尽くせないほ

ど、とても質が悪い。ちょっとしたことで癇癪を起こすんだ。

学校に通っていた時の話を聞かせてくれますか?    
そこには、早く結婚した友達がいた。国民学校、普通学校の時に嫁を貰った者
がいた。国民学校3学年、2学年でも、結婚した学生がいた。私が通ったのは初
等学校ではなく、簡易学校と言った。簡易学校では、息子が2学年で父親が1学
年、そんな事もあった。そこでは、息子でも何でも関係がなかった。子どもを産
んで直ぐに簡易学校に入り、1学年になり、2学年になる。日本の奴がしきりに学
校に通えと言っていた。息子が2学年で、父親が1学年、そんなになった。本を
入れる風呂敷を肩に巻いて結び、勉強しに行き、そんなにした。日本の奴らが

日本語を習えと、しきりに学校に行けと言った。

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九州地域

093  

お爺さんが通った学校はどこにありましたか?   
金塘(クムタン)簡易学校。驪州郡加南面金塘簡易学校。そこを2年で卒業し
て、初等学校の4学年に入る。4学年に。初等学校の4学年になり、勉強する。

簡易学校では何を教えたのですか?   
簡易学校では日本語を教えるのだ。日本語、朝鮮語も教える。算数、そんなも
のも教えた。その簡易学校では大概、農村の貧しい家の息子、娘たちが学ん
だ。背負子を担いで通い、背負子には鍬、鎌、そんなものがある。だからそんな

ものを日本語で学ぶ。簡易学校には朝鮮語もあり、日本語もあり、色々ある。あ
るにはあるが、主に日本語を多く教える。たとえば、これを持ってムル〔水〕と

言う。それは日本語ではミズ(水)というじゃないか。そんなやり方で教えるの
だ。日本語を教える。それが簡易学校だ。

簡易学校の先生は朝鮮の人ですか、日本人ですか?   
韓国人が教える。なぜ国民学校と言うかって? 今の小学校、そこには日本の子

と韓国の子がいた。もちろん日本の子が多かった。韓国の子もいたが、小学校、

今は国民、初等学校と言うか? 初等学校と言えば、校長は日本の奴で、その下
の職員は韓国人も少しはいたが、ほとんどが日本の奴だ。

釜山から日本に行く時、他の所から来た人も多かったですか?  

うん。他の所から来た人もたくさんいた、いたよ。ソウルから来た人もいて、別

な所から、色々な所から来ていた。

お爺さんが連れて行った人で、逃げた人もいましたか?   
あ、それは驪州を出て、水原(スウォン)まで、小さな汽車で来る時にいた。汽
車が山を登れない。それで、汽車が登る時には機関室の横を見ると、砂を入れ
た桶があった。砂の桶。その砂を汽車の車輪に撒きながら登って行く。汽車が
引っ張るだけではないんだ。昔はあの驪州から水原を行き来する時、山をこの

ように登って来る時、汽車が汽笛を鳴らすところがあるだろう? その横に桶が
あった。それが砂の桶だ。その中に砂が入っている。こう見ると、砂が落ちて車

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タンコ(炭鉱) だって?

094 

輪のレールの上に敷かれる。そうすると、砂のために速力がまともに出ない。
だから、そこでたくさん逃げた。ゆっくり進むときにドアを開けて、飛び降りる
のだ。ところが、私が責任を負った部分では3名だけが逃げた。3名ほどが逃げ
て、残りは逃げなかった。

どうやって、徴兵検査を受けることになったのですか?   
ああ、その検査? 私は「どうしてもここでは暮らせない」と思い、日本の奴に

「私の年齢がまだ若く、明日、明後日が徴兵検査だ。韓国で。徴兵検査のため

に行かなきゃならない」と言った。そしたら、私を送ってくれた。出て行けと言
われたのではない。「徴兵検査」そういう事だ。徴兵検査を受けるために。私が

徴兵検査の該当者と言えば、最初から韓国から日本に送らなかったろう。日本
の奴が「お前は徴兵検査の該当者だから、行け」と言ったのではなく、私が「徴
兵検査が、明日、明後日だから行かなければならない」と。そう言って出てき
た。出てくる時、私が「あの負傷者たちを連れて行く」と言って、一緒に出てき
た。「この負傷者たちをここに置いておいても、仕事もできないから、どうせな

ら、家に帰して家族と会わせてやってくれ。私は徴兵検査をするためにここを

出て行くので、一緒に家に送ってやってくれ」と。そんなふうに言うと、承諾し
てくれた。それで負傷者たちを私が連れてきた。自分達も、負傷者をそこにお
いて置けば、頭痛の種になるだけだった。負傷者には驪州の人もいて、他の地
区の人もいた。思い出せば、安城(アンソン)がどこか知らないが、安城の人も
いた。どこのどの面、それは分かった。とにかく、その時、私が徴兵検査するた
めに帰るので、仕事ができない面倒な人たちを付けて送ったのだ。

それでは旅費は出してくれたのですか?   
ええと、旅費を受け取ったか、覚えていない。だけど、旅費をくれたから、汽車
に乗れたと思う。日本を出る時、下関から連絡船に乗り、戻って来た。そこの
港から連絡船に乗って来た。だから、多分日本の奴がくれたから帰れたのだろ

う。無料では乗せてくれなかったろう? 良く分からない。

それでは、釜山で別れたのですか?
そこで別れたら、それで済む。釜山まで来れば、全羅道の人もいるから。でも、

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九州地域

095  

私の知っている隊員たちと戻ったのではない。負傷者と一緒に来たので、餅に
粉をまぶすように一緒に戻った。
 
それでは、そこから真っ直ぐ家に帰ったのですか?  
他の所には行かず、家に帰った。その時、釜山から何に乗って来たか、そして
水原まで行って、水原から田舎まで。驪州まで日本の奴が汽車の切符を用意し
てくれた。多分、そう思う。切符を用意してくれ、それで来たのだ。驪州まで来
た。彼らが用意した汽車の切符、連絡船の切符を使って来た。けれども家が山
間であったので、驪州から故郷に戻る山道を行かなければならない。歩いて行

ったが、腹が減って、今思い出した、どの家であったか、入って行き、夕食を貰
って食べた。飯をご馳走になったが、ある小母さんが麦飯をどんぶりにしてく

れたのが忘れられない。それが今でも、目に鮮明に残っている。驪州で麦飯を

くれ、ご馳走になった。

家に帰って、村の区長や人々がどうして帰って来たのかと大騒ぎではなか

ったですか?   
そんな事はなかった。なぜなら、私がその時に軍人として行くために来たとこと
をすぐに知ったんだ。その時は、軍人として出かける人は、あの徴用令状や徴

兵検査の通知でなくて、あの時は日本の奴らは大東亜戦争で慌てていた。慌て
ていたために、銃を1丁ずつくれた。その銃を私が持っていて、銃を持って入隊

した。弾丸はくれなかった。

どこで入隊したのですか?   

行ったのは、驪州だった。銃をくれる時は、やはりその面の学校で訓練もした。
軍隊に行く人には訓練をする。だから、軍隊に行く時は人々を連れて来て、日
本人が軍隊に行く訓練をするだろう? 訓練をするようになると、明後日に戦場

に出かけると言い、訓練所で訓練を受ける。ところが、訓練所が別にある訳で
なく、学校で銃をくれた。そして銃を持って訓練をした。そうしているうちに解

放になって驪州郡庁に武器、そんなものを納めた。その後、そこでどうしたか
は、知らない。

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タンコ(炭鉱) だって?

096 

炭鉱に長くいたのですか?   
その時が、10月の何日だったか、15日か14日かに行ったんだ。それは冬の事だ

と言っただろう。それで1年だったか、そんなだった。私が韓国に来る時は12

月、雪がこんなに積もっていた時に戻って来た。だから、私はそこに約1年いた

ことになるか、どうしたことか、日本の奴は徴兵検査するために、条件なしで送
りはしない。年齢を確かめ、該当するから送るんだ。炭鉱に行って韓国に戻っ

て来る間が約1年になるのか。それ以上になるかは分からない。

この事務所で給料をもらったのですか?   

給料はここでくれる。ここでくれるのだが、呼びつけたのか、どのようにくれた
のかは思い出せない。金を貰ったのか、思い出せない。ただ仕事をして出てき
て、食堂に行って飯を食ったことしか思い出せない。金を貰ったのか貰わなか

ったのか、思い出せない。

炭鉱の中でどのようにして移動したのですか?   
最初は炭鉱の中に入って、作業する工具、たとえば工具とか必要な物、そんな物

を受取り、坑道の中に入って行く。坑道に入る車に乗って行く。

市内には、たまに出かけたのですか?
市内には、何カ月かして出かけた。一日に8時間、3交替だから、8時間と言えば
時間的余裕がある。だから、そんな時に出かけた。しかしよくは覚えだせない。

炭鉱生活で特別に記憶に残る事はありますか?   

日本の炭鉱で覚えている事は、あの九州では1週間に1回雨が降る、雨がよく降
る。また、逃げて捕まった者の話を聞くと、捕まってひどくこん棒で叩かれ、連

れて来られた者もいた。彼らの話を聞くと、私が12月〔10月〕に韓国から日本に
出て来る時、雪が降ったと言ったかな? それで、日本では11月になっても、山
には柿やペチュ (白菜)、食べる白菜がまだ畑にあるんだ。韓国では秋になると、
既に何でもカチンカチンと凍り付く。でも、話を聞くと、山には柿がぶら下が

り、白菜もあり、食べ物があると、そんな話を聞いた。どうこう言っても、私は

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九州地域

097  

徴用に行ったが、まだ生きている。あの時行った人々は皆たくさん死んだ。皆あ
の世に行った者たちだ。その人の家族、その息子、徴用に行って死んだ家族、
誰かの息子であり、日本の奴に引っ張られて軍隊に行き、死んだ人々、軍隊に
引っ張られた者の遺家族たち、そのような人々に、何とか、政府から何かがな
いものか? 父親が軍人として出かけて死んだ、徴用に行き死んだ、そのように
死んだら、ある程度、遺家族に対して補償のようなものが、少しはないものか? 
それから、突拍子もない話だが、慰安婦、挺身隊、言ってみれば、日本軍の慰
安婦、そんな女たちもたくさん死んだ。死んだが、その家族はどうなる。嫁にも
行けず、歳をとり死んだ者も多い。本当に。小さい頃、学校に通っていた時に、
結婚した者もいた。その時、結婚した娘が、私の友達の夫人で、日本の奴は娘
達を捕まえて行ったという。私が捕まって行けば、大変な事にならないか?と言

うと、いや、日本の奴が捕まえて、軍人の嫁にすると言った。その時、私は何て
ことだと言った。それは言ってみれば、慰安婦だ。そして、慰安婦で一番ひどく

やられたのが、中国の人だ。日本の奴は南京、上海と攻め込んでいった。そうす

るとそこに中国の女がいる。それを殺した。女たちを慰安婦のように強姦し、そ

れがばれるから銃殺した。日本の逃亡兵が馬に乗って来て話した。日本に行く
前に私が聞いた話だ。一度、日本の奴が軍服を着て田舎に馬に乗って来た。日
本の奴らは「チャンコロ、チャンコロ」と言っていた。中国の人を「チャンコロ」

と。「チャンコロ」の女たちをそのままにして置かず、撃ち殺した。その日本の軍

人達の悪事がばれるから、殺した。それで、韓国の女も連れて行かれ、生き残

った女性がそこに何年ほどいたのか知らないが、アイゴ! それは言えない。そ

れは、とうてい言い尽くせない。

面談者:許光茂 調査チーム長 

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タンコ(炭鉱) だって?

098 

05
張舜培(チャン・スンベ)

長崎県 - 川南工業香焼造船所

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九州地域

099  

張舜培 (チャン・スンベ)  男、82歳  
1923年6月28日 全羅南道高興(コフン)郡 道陽(トヤン)面 出生
1942年

日本長崎県の川南工業香焼造船所11) に強制動員

1945年

日本長崎で原爆を目撃、解放後、闇船に乗って帰国

ピカッと光ったと思うと、
フワッと空中に飛ばされた

11)

家族関係とお父さんお母さんが何をしていたのか、話して下さい。   
それじゃ話しましょう。私の父の名前は張ワンスです。それで、二番目、その
次は女なので置いておき。女まで話さなければならないの? 母の名前は金ク

ンベ。兄弟は張ドングン、張ヨンベ、あっ!その後が私、チャン・スンベ(張舜

培)だ。ほかに上の姉がいる。一番上の姉がいる。姉は現在でも生きている。90

11)·1936年2月、川南豊作が旧松尾造船鉄工所を買収、川南工業株式会社を設立。川南造船

所は中日戦争により、軍需生産を担い、設備、材料、労働力を確保し、戦時標準船の建
造で飛躍的に発展した。長崎では香焼島と深堀に造船所を持った。敗戦後、川南豊作は
公職追放(1947~51)。

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タンコ(炭鉱) だって?

100 

歳の姉が生きている。妹がいる。それから、張ヨンナム、その後に張キョンベ、
その後が張ソンシム、その後が張ヨンシム。その次、その下に張ジュンベ、それ
が末子だ。ソンシムとヨンシムを間違えた。ヨンシムは死んでしまい、ソンシム
は生きている。男女10人で、1人は死んだ。兄弟間ではよく話をした。

当時は何処に住んでいましたか?  
髙興(コフン)郡で暮らしていた。私の母、父が全て労働をしていました。労働

と言うのは農業の労働です。父は恥ずかしがっていたが。昔はあの小鹿(ソロ
ク)島。全羅南道の小鹿島という所は、癩病患者が住んでいた。その全てに癩

病患者が住んでいた。それは全羅道の人であれば、皆知っていた。父の兄弟は
4兄弟だったが、それを知らずに、兄弟でそこに引っ越した。

小鹿島に引っ越したのですか?   
私は小鹿島で生まれた。私を産んだその事情は複雑だ。小鹿島に私達の本家が

あったと言う。父の本家が小鹿島にあり、「小鹿島で癩病が流行している」、そう

して髙興郡庁から「小鹿島に住んでいる人は出て行け、皆出て行け」と。それで

皆が出た。政府がそうしたのだ。政策だ。それで、それぞれが島から出ることにな

った。お祖父さんは龍井(ヨンジョン)〔里〕に行き、龍井は道陽(トヤン)面 鹿

(ノク)洞のすぐ上で、鹿洞から近い。二番目の伯父は錦山(クムサン)に行き、

それで父も郡南(クンナム)に行った。父は郡南に行ったが、嫁の家に行ったの
だ。母の実家に行ったんだ。簡単に言えば、私はそこで成長した。そこで成長し
て、結局は、鹿洞に定着した。鹿洞〔道陽面〕が今、邑になっている。その時は面
だった。その時は面であって、鹿洞ではなく何と言ったか? 面を何と言った? 道
陽面だ。そこにいたが、結局、得良(トゥニャン)里で、そこから宝城(ポソン)と
言う所に引っ越した。我々全てが宝城郡に引っ越したのだ。宝城郡へ、うちの家

族全てが、兄弟たちも全部が引っ越して、宝城に来て、落ち着いたのだ。落ち着

きはしたが、髙興郡からそのように宝城に行き、結局、そこに行って、兄弟たちは

バラバラに住んだ。それは、私が日本に行く前の事だった。

日本に行く前に、何をして暮らしていたのですか?  
日本に行く前は船に乗っていた。船に乗り、魚を獲っていた。私も乗り、父も乗

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九州地域

101  

り、兄も乗り、村の里長の所に船があった。船を準備して父が魚を獲りに行く

が、船は一人では乗れない。船では仕事をするのが3人いる。それで、3人で乗
った。兄が2人と父と、親子3人でした。父が持っている船だから、船に乗って魚
を捕まえ、食べて生活した。船に乗らなければ、田舎には土地があるから、仕
事もして、他の事もして一緒に暮らした。日本に行く前は結婚していなかった。
その時は結婚せず、結局、日本に行って来て結婚した。

日本に行くことになった話を少ししてくれますか?  

得良(トゥニャン)里にいる時だ。兄と私が徴用で行ったのだ。兄は北海道の労
務者として行った。その時、令状が来て、羨ましかった。私にも徴用令状が来
て、一緒に行こうと思った。

令状は誰が持って来たのですか?  
いえ、持って来たのではなく、集落に区長がいる。区長がその令状を持って来

るはずだった。令状を見せるのではなく、「お前は船に乗るのもやめて、他人の

家に世話にならず、徴用に行け」「令状が来た、令状が来たから」、そう言っ
た。それで、この純な人間はその言葉を聞いてすぐに行った。行ってみると、鹿
洞に行くと、皆が来て集まっていた。

そこが鹿洞(ノクトン)ですか?  
鹿洞だ。そこが鹿洞、島だから鹿洞に出る。行ってみると、そのように徴用令状
が来ていると言うことだった。錦山面、道陽面の全てから人々が集められ、来て
いた。

何名ぐらいが集まったのですか?
その時、実際に集まった人が15名ほどだった。それは面が13だから、各々の面
で1名であれば、13名になるか? それで、全ての面から来たわけではないが、
15名ほどは来た。私はその時は皆覚えているかな? その頃はしっかりしていた
が、今となっては、ぼんやりした記憶だけだ。どこから何人、どこで集めたの
か、そんな事は記憶していた。

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タンコ(炭鉱) だって?

102 

鹿洞で集まった時、日本の人が来ていましたか?  
いなかった。引率は韓国人がした。日本人は見なかった。韓国から行く時はい
なかった。日本に行く前にいたと話もあるが、その時にいたものか、私は見てい
ない。それで高興郡の各地の面から来たので、人数が10名を超えていたから、
部隊長〔以下、隊長〕がいなけりゃダメだろう? その人が引率に来た、隊長が。

その人を隊長と言ったんですか?  
その人は区長で、隊長と言った。自身が鹿洞、集落の中で一番年上なので、隊
長をするのも同然だが、そこで令状が来て、令状を受け、それが色々問題があ
って出たのかも知れないが、彼は学校にも行き、区長をするほどだから区長を

していた。面で区長をしていたので「お前が引率しろ」と言われ、それで隊長
になり、引率して行った。どこに行ったかと言うと、光州に行った。光州に行っ

てみると、各郡からこんなに集まり、数百人になった。

あー!たくさん集まりましたね  
光州に松汀(ソンジョン)という所がある。松汀里に行くと、珍島(チンド)方
面、金堤(キムジェ)方面、色々な所から、全羅南北道の色々な所から全てを集
めた。そこが松汀里だ。条件もなく、各地の隊長も皆来て、引率した。そこに集
まり、大田(テジョン)に行った。大田で乗り換えた。大田に集まり、大隊長も
一緒に汽車に乗った。

そこから何に乗ったのですか?  
汽車に乗った。汽車は貨車だ。座る所もない貨車だった。汽車に乗って行った
が、とても厳重なのだ。なぜ厳重だったかと言うと、その全員を一人も逃がす

ことなく、日本に一緒に連れて行こうとしていたからだ。高興から隊長が引率し

て来て、まず小隊長を送り、小隊長が隊長に報告する。高興では15名であった
が、光州に行って合わせると、数百人になった。ここで大隊長に報告する。大田
からは大隊長に報告をする。何百名という事を報告する。そのように連れて来
て、釜山では約3千名になった。釜山まで行った。汽車に乗って行った。どれだ
け長い時間がかかったか分からない。

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九州地域

103  

釜山に行くと約3千名?  
そうだ。約3千名。私はそのことを確実に記憶している。なぜかと言うと、そこ
で連絡船に乗ってみると、全部にこれを、何といったか、くれる。船が沈没して

も生きていられるような前後にはめる物がある。水に浮くチョッキのような物。
それをひとつひとつ与える。それを与えて「はい、行きなさい」と言った。とこ
ろで、私は他の人と何かに寄りかかって眠っていたろうか? 今考えると、ひど
く腹が立つ。とにかく、それを持ち下の3層、地下室に行き、眠ってしまった。

皆疲れていた。ニギリメシを一つずつくれて、それを食べて眠った。連絡船が
出航するとドアの外に一人も出さない。だけど、監視している人も人間だ、どう

して夜通し監視できるか? その人が眠っている間に、外に出た。外に出て見回

すと、前に潜水艦がいた。その時は分からなかった。潜水艦が何か知らなかっ
た。潜水艦がこのようにして行き、横に船が2隻付いて来た。当時は戦時でなか
ったか。風が吹き、北東の風だった。グングァン(金剛)丸という船だが、何の
意味か分かるか? それで降りたが、どこに降りたか、当時の私はどこか分から
なかった。後に話を聞いて分かったが、日本のハグァン(下関)に着いたと言う

ことだった。ハグァン(下関)と言えば船が行く所、韓国の船が。

下関について話しているのでしょう?  
そこがハグァン(下関)だ。そこからは日本の物を食べるようになる。何と! 韓
国で、どれだけ美味いのを食べているか分からない。今でもそうだ。ところがそ

こに行ってみると、豆ご飯(韓国では囚人の食べる飯)、豆ご飯もあんな豆ご飯
はない。こわ飯も艶がない。こわ飯に何か黄色いものが混じったもの、そんなも

のを一つずつくれた。握った物を持って来て、一つずつくれるのだが、半分は
下に落ちてしまう。それを一つずつくれる。それをいつくれるかと言うと、下関
に降りた時、その人達が3千名も行くので、あらゆる船室を全て数えるのだ。全
部数えて「無事何名が皆来ました」と報告する。いくつ、いくつとそのニギリメ
シを数の通り、配る。そのまま、くれるのではない。日本の船では報告を催促し
ていた。首を伸ばして来るのを待たなければならなかった。それで貰ってみた

ら、たいしたものではない、何だ、これ。じっとしていると、その何と言ったか。

大声を上げて叫ぶのだ。「ハヤク (早く)」と声がする。「ハヤク、ハヤク起きろ」

という言葉だ。「ハヤク、ハヤク」と。それで順々と汽車にのった。そこで汽車に

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タンコ(炭鉱) だって?

104 

乗って見ると、腹が減って耐えられない。食べるものがあるか?ないのだ。家
を離れて行くと、遠くに行くと、鞄にミスカル(麦焦がし)を、母がそれを包
んでくれていた。それを出してみると、匂いがとても香ばしかった。同じ面の
人々が一緒に行っていたから、一人で食べる事ができるか?ミスカルは水で
食べるものだが、水がどこにある。人々がうじゃうじゃしている島[ママ]に降

り、下関で、同じ洞内に住んでいた人と2人で座って泣いた。そして、長崎に

行き、長崎で皆苦労した。このようにそこで握り飯を一つずつ貰って食べ、ま
た連絡船に乗った。

下関から長崎まで何に乗って行ったんですか?  
汽車に乗って行った、そしてまた、連絡船に乗ったんだ。連絡船に乗ったが、

どんな連絡船かと言えば、それは普通の船だ。それに乗ってコヤギシマ(香焼

島)に行った。コヤギシマに到着した。コヤギシマに行って、一晩歩いて一つ
の峠を越えて、海辺に行ってみると向こうにタカシマ(高島)があった。風がと
ても強かった。そして住む家に行った。アパート(宿舎)は3千名を連れて来て
住めるほどだった。そこは到着した部隊、部隊が住める所で一つの部屋に15名
ずつ入った。どうして、暮らせる場所と言えるか? しかし、そこが世の中だと考
え、そこに住んだ。周りもそんなふうに暮らしていた。

宿舎に到着したのですね?  

これをどう言えばいいか? ここは畳の部屋で、ノミが部屋の中をピョンピョンし

ていた。とても気持ちが悪かった。結局そこから出勤するようになった。朝、全
員を点呼し、飯をくれる。家で、部屋で、15名の部屋で、二人ずつ、二人ずつ組
ませ、全部回って行く人もいる。木製のトレーを作って15名分を入れて、弁当ま
で持って来る。汁物はここで言えば、鷹の爪 (唐辛子)、大きな鷹の爪、そんなも
のを一つずつ入ったのを持って来る。そんなものがどうして飯と言えるか? そ
れで、飯は全部持っていき、昼食が来るまでに食べてしまう。それで、仕事を
言えば、全てが船を造ることだった。

船を造る仕事ですか?  
船を造る仕事。その仕事だけど戦時、戦時だから行ってみると、米国の人と、米

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九州地域

105  

軍と一緒に仕事をした。全て捕虜として捕まって、無理やり入れられていた。
捕虜として6千名を捕まえていた〔捕虜数は約600人、オランダ兵が多数〕。彼

らを道端に立たせた。彼らは敵陣から来た人間だから。そして、韓国人も逃げ
る者がいた。逃げて捕まって来た者も道端に立たせる。そのように皆を。この
ようにして置いて、彼らは皆我々と仕事をする事になった。そして、訓練をする

のだが、皆一緒に耳を塞ぐ。なぜそうするかと言えば、鉄の音でガンガンして、
何も聞こえない。横にいる人の声も聞こえない。そうして、耳を塞いで、訓練し
た。約6か月間、訓練して、訓練は終わった。訓練は無事に終わった。終わった
が、我々の港で配給を見ると、鉄板が配給されると、鋲もあり、引っ張って来る

と、トトゥトントンと落ちることがある。そうすると補給をしなければならない。

配給がなければ、仕事ができない。大きいものは大きいものと、小さいのは小さ
いのと、鋲の首の部分を締める、首を締めてやるのだが、焼いて締めなければ
ならない。

焼いて、与えるのですか?  
熱く、焼いて。重ねて両方が同じになれば、上手く行くのでないか? ネジ

とネジとを入れて (*リベットでの連結と推定)、熔かして。そのようにするの

だ。そうして、ここを簡単につなげば、終わりだ。そうでなく、こうしてここ
をピタッと締める人がいて、名前がある。アテバン (あて番:リベットが動か
ないように反対側で当てている人)、イバン (2番)がいた。最も大きいのは、7
分 (鋲の大きさか?)。7分をしたら、ボルテギ(*入口)を5分で塞ぐ。5分で塞
ぎ、1分ならば、それをピッタリ当てる。

ああ! 目印を付けるのですね。聞こえないから?  
聞こえないから。7分をして、切ったと言えば、1分に回す。このような訓練を
何回が受けた。6か月の間、「トリツケ」「ボーシング (親方・鋲打ち)」、「アテ
バン」と、皆そのような訓練を受けるのだ。その船が少し大きいって? 1万ト
ンと言い、1万トンと言えば、口では言えないほどだ。どれだけ大きいか分か
らない。このような家を建てても、高さが70メートルだ。船がこちらに入って
くる、本当に大きい。そして、それが終われば、水が入ってきて、船が浮か
ぶ。そうして引っ張って出て行く。

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タンコ(炭鉱) だって?

106 

その船は何をする船ですか?  
それが、何をする船かと言えば、軍事用で使う船だ。軍事、武器のようなもの
を載せて行く、何をするかと言えば、そんな事に使う船だ。ところで、こいつは
物資がきちんと入ってくれば良いのだが、物資が入ってこない。それで仕事が
できるかって? 仕事をしても、腹が減ってできなかった。それでも韓国人はす
るから、日本の奴は内心「実際牛のように仕事をするから、何でも食わせろ」と
思っていた。彼らは大豆を茹でたもの、韓国には味噌玉を作る釜、大きなのが
あるだろう? そんな大きなものを持って来て、それで何をするかと言えば、干

し菜を茹でて、干し菜を。大根を植えて、干し菜を作って、そこに小麦粉を入れ

て、お粥を作るのだ。干し菜を作るんだ。韓国人は昼飯前に弁当を食べてしま
い、昼飯を食べていないんだから、こんなだから、夕方になれば、午後に仕事
が終われば、5時になれば、それを炊く。

日本人がしてくれるのですか? 
日本人がしてくれるのだが、きっちり時間がある。5時に来ると言えば、6時に
は「無い」と言う。無いと。そうすると、結局、食べようとすると、ここから400
メートルほど行かなきゃならない。そこも走って行って少し食うのだ。無くなれ
ば、終わりだ。結局、仕事をする道具、そんなものがあるだろう。それを片付け

れば、その後支障がなく仕事ができる。それをしないと頬っぺたを叩かれる。監
督者がこんなにパチンと叩く。こんなに、こんなに。

監督しながら、韓国人を叩いた人は誰ですか?  
そりゃ、皆日本の奴だ。罪も何もないのに。だから、彼らは韓国人ではなく、日
本の奴らだ。日本の奴はそんなにひどかった。

仕事は韓国人だけでするのですか? あるいは日本人と混じってするので
すか? 

日本の奴らが何をする? 食べる飯だけくれて、これほどのハンマーを持って、

偉そうにしていた。しっかりと打ち込めば、固くなる。もし間違えれば、それを
鳴らす。そして、我々を見て「キリ (切り)」と言う。キリ、切ることを彼らが、直
接する。我々には切るなと言う。自分達が「キリ」と言い、切って落とす。全て

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九州地域

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の「キリ」をする、火で切り取る仕事だ。この地下室の中も、このようにずっと
6尺ずつにして、四方を6尺ずつ測って、きっちりと角を測って、それを皆このよ

うにしてきちんと覆う。蓋を被せ、そこにも鉄板をする。なぜそうするかと言う
と、魚雷にあえば、突き破ってくるから。

魚雷にやられても水が溢れないようにするのですか?   
魚雷にやられても、その仕切りだけは水も、他のものも入らないようにする。
それで、このように作る。このように作るから、それはとても難しい。そのよう

にして、足場に乗って、こんなに上がって行く、その足場から落ちれば、命はな
い。その次に、隣で事故が起きる。いつも、こんな大きい木材を運んだり、鉄を

運んだりするじゃないか? そいつの端をちょっと押すだけでも、その人は落ち
てしまう。周りに人がいなかったら、誰がしたのか分からない。

たくさん怪我をしたのですね?   
それで、ひどく涙が出た。生きていた時の思い出があるから。一緒に行った人
に一度電話をして、尋ねたら「うちの父は亡くなりました」、そう言うんだ。どこ
か、尋ねる所があるか? 一緒に行った人は、皆亡くなっていない。子ども達が

「うちの父は亡くなりました」と言う。そう言われれば、何を言っていいか分か

らない。アイゴ!

香焼に行かれたが、船を造る会社の名前を知っていますか?   
良く分からない。ああ! その記憶はない。私が寝て、越えてきたアパート(宿
舎)、そこがどこだったかも分からない。一緒に過ごした隊長の名前も思い出せ
ない。どうしても思い出せない。日本に来た人たちはもう死んでいると思う。そ
れじゃ、原爆が落ちたことを、私が話そう。長くなる。

原爆が落ちたのですか?   
そこで仕事をしていたが、そのうちに船を造れなくなった。物資が来なくなっ
て。こいつらが戦争をしたのは、とんでもない事だった。韓国人を送り返すこ

ともできず、そのまま遊ばせるわけにもいかない。長崎のどこかの憲兵たちが

土地を掘るために、何をするのかは知らないが、40名ほど、選んで連れて行っ

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タンコ(炭鉱) だって?

108 

た。香焼島から。

香焼島から長崎の方に40名を選んで行ったんですか?  
そう、選んで行った。それもずっと行ったのではなく、少し、ちょっとの間、行

ったのだ。しばらく行ったが、3、4日で、1週間で戻って来る。そこに行ってみ
ると、どんな仕事をするかと言うと、山を掘って、その土で埋め立てる仕事だ。
ところで道具があれば、やることもできるが、道具がどこにあるか? 作業服も

道具などがどこにあるか? 無いんだ。電車だけは時々走っていた。それで40名
が行ったが、そこで、私は命拾いをした。正直、その時、〔原爆に〕出くわして
いれば、あの世に逝っている。なぜ逝くのかって!家に帰って来ても、それは何
度も言った。なぜそうなるかと言えば、だから、20名ずついたんだ。20名がトラ

ックに乗り、土を積んで運ぶために、行き来した(埋め立てのため)。つまり、20

名がそこで掘ってカマスに入れ、二人で担ぎ、それを運ぶ仕事をした。海辺は

とても広かった。この人達はトラックに乗って、行ったり来たりするので、どん

なに良かったか? こちらの人はただリアカーで運ぶ。リアカーをあのトラック
に載せて行ったり来たりしたら好かったのだが。私は汗が出て、とても暑くて、

どうやってここから乗ろうかと思い、「きついな」と言いながら、その〔トラック
の〕人々の中に入った。そこで点呼をしたら、19名にしかならなかった。1名が

乗ったから。日本の奴が「タレガ ハイッタカ」と言う。「タレガ」は誰が、という
言葉だ。「デテコイ」と言い、「出てこなければ殴るぞ」と言った。そうすると横
から「玉岡が入った」と言われたので、「はい」と言って出た。「ドウシテ ハイッ

タカ?」と言いながら、後頭部を一発殴り、「玉岡ドウシテ、ハイッタカ?」と言
う。私はどうして良いか分からなかった。汗を出して仕事をした。彼ら(*20名)
は、車に乗り、市内を回って、楽しかったようだ。私を見て、「いいざまだ、お

前、きついだろう」と言った。ところが、彼らは2回、乗って行ったが、その日に
原爆が落ちたんだ、その日に。それで、韓国でも原爆が落ちれば、こんな風に
言っていた。絶対に、原爆は投下してはダメだ。なぜ落としてはいけないか。そ
れは、例をあげれば、仁川(インチョン)の海に原爆が落ちたとすると、議政府

(ウィジョンブ)まで全てが瓦礫になってしまう。それから商店にある商品など

は使い物にならなくなる。ひとつも無くなる。全部、道端に飛び散ってしまう。
これが問題だ。そして、残った物にはボウボウと火がつく。投下する時の方法

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九州地域

109  

はどうかと言うと、音だけして飛行機は見えない。憲兵たちはしきりに「敵だ」

と叫ぶが、見つけられない。落ちて来ると、「フセ(伏せ)」と言った。「フセ」と

言いながら、鼻と口を塞ぎ、妙な姿をした。「フセ!」、それに従わなければなら
ない。そうでないと死ぬ。死んでしまう。結局、それに出くわした人は死んだ。
なぜって8月はとにかく暑い。それでランニングの格好でこんな短いズボンを穿
いて歩いているから、原爆に遭えば、全部皮が焼けて、皆死んだ。腕が折れた
人、そうやって苦しんで死ぬより、直ぐに死んだ方がましだった。死ななけれ
ば、とても苦しかったか。その人も痛いと言って、苦しんでいたが、誰が助けて

くれるのか? 時限爆弾がドカンと!長崎市内に落ちる。6時間後、40時間後、20

時間後、ドンと落ちる〔ママ〕。全て、外に出し、入らなくさせた。危険だ、危険
だ。電車の線路には電車がひっくり返り、死んだ人が電車の中にゴロゴロして
いた。悪臭が広がった。何か月振りに家に帰ることは、いつになっても諦めるこ

とはできない。諦める人がいるか? 諦められない。それで香焼島に帰った。一

緒に行った人々(*トラックに乗って行った20名)が死んだのは、事実かと〔聞
かれた〕。それで事実だ、と〔答えた〕。私が親しくしていた従兄弟もそこにい
た。しばらくすると隊長が、自分が引率して出かけると言った。

従兄弟の名前は何ですか?  
死んだのは。パン・ジェイルと言い、香焼島にいた人だ。私はこのように捜す

ことができた。死んだ人を捜すことができるだろうか? お金を使っても捜せな

い、みなそうだ。こんな状態だから、捜す気もなくなり、そのままになった。捜
せないのだ。

では、トラックに乗りたかったが「出て来い」と言ったため、生き残ったの
ですか?  
一度は死ぬところだったが、生きて返れた。間違いなく死ぬところだった。その
人達はトラックに乗っていき、そのまま死んでしまった。一人も残さず死んでし
まった。皆死んだのに、私がそこに行って、誰かを探せるだろうか? もう故郷に
帰る事だけしかないのに。誰を捜しに歩き回るのか? 到底できない。ここを出
ていく金もままならないのに、何ができる。

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タンコ(炭鉱) だって?

110 

ところで、健康ですね?  
そうだね。妻が他の人だったら、死んでいただろう。私の息子、嫁がこんなによ

くしてくれる、私によくしてくれた事は死んでも忘れない。借金もまだ少しある

が、今死んでも、これ以上望みもない。これまで生きて来たから。息子と嫁が
何をしたかわかるかい?「お父さん!行けるなら遠くにでも旅行して楽しみ、長

く生きして下さい。まだ生きる時間はたくさんあります」、そう言ってくれた。

我々で写真を撮った。これ、引っ繰り返して見てください。これが補聴器。3年
すれば変えなければならない。それから、こんなに130万ウォンもする薬もくれ
て。この補聴器は数千万ウォンする。長く生きなきゃ。これから18年生きれば
100歳だ、100歳まで生きなきゃ。

その後、香焼島に戻ったのでしょう。戻る時、警察が証明書のようなもの
を発行してくれましたか?  
いや、なかった、何も。香焼に必ず行けという人もいなかった。それでも、香焼
に戻った。ただ皆が行くから、他の人も行くから、私も行ったんだ。

長崎から香焼に戻ったと言いましたね。その後の話を聞かせて下さい。
長崎には少し行っただけだ。その時、トラックに乗らなかった我々20名は生き残

った。だけど、名前は全然記憶してない。香焼島に逃げようと言って、行ったの

だが、その後の連絡はない。

皆が集まり、香焼島にいったん逃げようと言って、行ったのですか? 
ああ、みな行った。どの村から来たのかも分からなかった。どの村から来たの
か、なぜ分からないのかといえば、3千名が行ったから。我々は興国寮と愛国寮
に入った。興国寮は全羅南道の人が集まった所で、全羅北道、忠清北道、忠清
南道、大田(テジョン)から行った人は愛国寮だ。それで大隊長が3千名の引渡

しを受けたのだ、そこで。

だから、3千名という数を覚えているのですね?  
だから、3千名と記憶しているんだ。だから覚えている。私が記憶しているこ

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九州地域

111 

とは、そこで、解放になったじゃないか? 解放になれば、誰かが解放された
と話すだろう? ショワ(昭和天皇)が放送した。「今日はショワが放送するか
ら、皆さんも聞いてください」と言った。泣きながら放送したそうだ。泣きな

がら皆さま申し訳ないと。でもそれを私は聞かなかった。そこは飯を食う食堂
だった、食堂。そこで多くの人が飯を食べた。食堂に行くと、釜を置いて炭で
シュシュとして炊いていた。シャモジでこのようにして取った。飯もシャモジ
で置いてあった。食堂で。

解放されてから、変化することが多かったですか?  
解放されると、日本人がいなくなった。一人もいない。サッとどこかに行っ
たのか。人々はどこに行ったのか。目を凝らしてもいない。それで、食堂に
行くと、きちんと積み上られた米があった。米を驚くほど所有していた。そ
の米を持ち出し、もち米もたくさん持ち出した。米を目の前にして誰が飯を
炊かないでいられるか? 釜を据えて炊いた。米を炊いて食べた。釜はいく
つもあり、全部は食べられなかった。それを袋に入れ、それを乾かして袋に
入れ、そうやって持って来た。

帰って来てから、直ぐに仕事をしましたか?  
2,3か月いた。なぜかと言うと、船を求める事ができなかった。下関から船
が出るのだが、手段がない。どうすれば下関まで行けるか? 機雷が広く敷
設され、海に出ると鉄船は全て爆破されるというから、鉄船に乗って行ける
か? それで木造船。それに結局は乗って、ポンポン船に乗って出て来た。そ
れに乗ったが、アイゴ! 一人当たり300円、300円を出して。全て皆が出して
来た。お金がなく、家から持って来た服を売り、朝鮮から送られたもので補っ
た。それでも足りず、家に連絡したら「隣の人に借りろ」と、それで隣の人に
借りて、帰って来た。裕福な家の人は故郷から持って来たお金があった。そ
の人からお金を借りた。

えっ? 船を造る所で給料を貰わなかったのですか?  
いや!ない、ないよ。そこではいつやる、やると言っていたが。我々は受け取ら
なかった。鋲をたくさん打てば、お金が少し出る。出るが、わずかだ。出ても、

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タンコ(炭鉱) だって?

112 

ピンデトク〔お好み焼き〕を買って食ったが。お金をくれても、貯めた事がな
い。皆食べ物を買った。

船の持主はどんな人ですか? 

ここもあちらも、飯場の持主、そんな稼業をする人のようだ。それで話を聞い

て、人々が、いろんな人々が皆一緒に出て行くじゃないか。この飯場に住んで
いた人もいて、だから分かる。何名がこのようにして来たのか?そう、何百名が

このように集まり、その時、約300名になっていたと思う。

それでは、船は大きかったのですか?  
大きいよ。そこで木造船に乗り、ハグァン(下関)まで来たが、香焼島から随分
回りながら来た。そこから直に渡ったのでなく、下関まで来て、そこから釜山に
行くのだ。そこ〔下関〕に夜に来た、夜だった。下関まで来た。記憶にあるのは
ガスの灯りが見えた、日本の方にガスの灯りがあった。それでその角のコース
を、下関をめざし、その間を来たが、機雷が浮いていた。それが鉄船なら、鉄
船なら引き寄せるが、木造船なのでそうはならなかった。そこで鉄船が座礁し
ているのを見たから、とても有難かった。日本から釜山に来た。船に乗って来

>>> 

朝鮮人達が埠頭に集まり、帰国を待っている姿。

     (出典:林えいだい 『清算されない昭和』)

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九州地域

113 

たが、風に流されたのだろう、釜山の東側だと分かった。それで船に帆を上げ
て、このように来た。釜山は広い。そして、夜が明るくなり、陽が上がり、釜山
が見えた。そうやって釜山に到着した。

釜山は混雑していたでしょう? 
釜山に到着すると各地から人々が集まっていた。日本からもどこからも来て、各地か

ら集まるんだ。木造船に乗ってこのように来たのだが、汽車があった。ここまで来た
ら、大丈夫だ。汽車が一つあったのでそれに乗った。それが、座ることもできず、立

つこともできないほどだった。どうしてそんなに人が乗っていたのやら。こんなに大

きくなった娘たちがどこに行って来たのか、戻って来ていた。労務者として行って来

たのだろうか? 釜山の紡績工場のどこに行って来たのか? このような人たちを連れ
て行って、釜山から行けない所はない。日本の奴らはどこまでも連れて行き、仕事を

させて、後で帰すと言って放って置いた。だから、今帰って来たのだ。

女子たちも厳しく仕事をする所に連れて行かれ、帰る所だったのですか?
ああ、帰って行く人達だ、その人達は。たくさん乗って来た。腹が減って、列車は

日が沈んでからも、いっぱいに詰まっていた。狭くてひどく疲れ、そんな状態で家
に戻った。すると故郷で、「なんだ、うちの子は連れて来なかったのか?」と、そ

んなふうに言われた。一緒に行ったのではなく、他の所に連れて行かれた人たち
だ。ところが、家に帰ってみると、死んでいるか、不明であるか、そんなだった。田
舎の人もソウルに上がって来て、分かれて行った。その息子たちはこんなふうに
死んだと言う。私も健康でなく、なんとか生きている。他人を心配する余裕がなか
った。ここに戻らなかった人、戻れなかった人をできる限り、私が健康なうちに捜
せたら嬉しいのだが。私がその人達に世話になった。私が生きているうちに。

故郷に戻って見ると、強制動員をさせた区長や隊長、こんな人々もいたの
ですか?  
帰って来てからか? 実際、故郷に戻るのは、我々が最後だった。一緒に来たと

しても最後だ。私達より先に来たのか、帰っていないのかは分からない。どこか
ら、どうやって帰ったのか分からない。北海道に送られた兄もすぐに戻らなかっ

たが、数か月過ぎて戻ったのかも知れない。そして、行って戻って、暮らしていた

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タンコ(炭鉱) だって?

114 

が、昨年、一昨年死んでしまった。残念だが、戻って来た人をたくさん知っていた
が、電話などでお互いの話をしたいのだが、一人も分からくなった。あれはいつの

ことだったか、60年過ぎた。60年も過ぎると、叔父が生きているのか、死んでいる

のかもわからなくなる。連絡して見ると「うちの父は亡くなりました」と言う。あの
時は子どもたちも小さかったから、分からないと。皆大きくなっているが、父がそ
のように日本に行っていたことは、父母が話を聞いていれば知っているのだが、

知らない子どもたちも多い。この調査を急げば、少しでもわかる。

お兄さんも徴用でいったそうですね?
伯父〔兄。以下、兄と表記〕は香焼ではなく、北海道に行った。兄の話では、そ
の船はとても大きい、船に列車がゴトンゴトンと入って行く。列車に人を乗せた
まま入る。北海道に行くのだが、船が列車を載せて行くという。そんなに大きな
船。人も全部乗せて行くんだと。何日も船は行く、何日も。そんなふうに乗せて
行ったそうだ。ここから行った人も、外に出られず、船に乗せて行ったと。

香焼で船を造る時、隊長もいて、大隊長もいたということですが、どんな
人だったか記憶されていますか?  
分からない、知らない。なぜかと言うと、忘れてしまった。大隊長も、いや。大
隊長も一度見たか、訓練をしている時。こんなにして入って行くのだが、見る

ことはできなかった。隊長は、こんなふうに印鑑を押し、誰か来たか来なかった

か、カードに。隊長だからと言って何か書いたものを付けているわけではない。
その時間に来て、点呼をして、合図をして、そのまま行ってしまう。とにかく行

く所が多い。なぜかと言うと、米国の奴ら(捕虜)は我々と通じる所があった。

なぜかと言うと、このように仕事をさせるので、所々で投げてくるものがある。
だから、何かサッと投げる。向こうで仕事をしていて、投げるのだ。仕事を失敗

したのだろう。こんな、こんなにして「ご免なさい」と。そして、尋ねもする。こ

れが「何時だ?」という意味だ。そうすると、我々が何時と答える。このように
見せれば、5時だ。12時なら12時、これが一定、通じる。こんなふうにした。「今
5時になった」これが皆、暗号だ。5時にもうすぐなりそうで、5時でないと「5時5
分前だ」、こんなふうに叩く。遠くから見ると、何かを置くようだ。このように前
にサッと下ろす。そうすると、5時5分前だ。全部、手の指でする。

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米国の捕虜と親しくなった話ですね。  
彼らは韓国をとても親しく感じていた。彼らは韓国人が腹を空かしていると、こん

なふうに言う。「ニホン、チョット ナイ」。12)腹が減るから、日本はチョっとないと言

う。そうすると食うものを持って来てくれる。弁当をくれるので、直ぐに食べた。韓

国人はいつも腹を空かしていた。飯場が後ろにあった。「飯場に行って何か探し
て食おう」と言って、そして食べた。腹が減っていたので。そうして、歩いて山に

も行った。今は話せば好いことのようだが、実際、昔このように行ったことを一々

思い出すと、皆夢のようだ。遥かな夢。仕事をしていたが、病人のようだった。ビ

ワという果実を食べた。木から飴が落ちて来たようだった。それを取って食べ、

登ってゆくと空襲警報が鳴った。小さな部屋に入って、座っていた。

防空壕に入ったということですか? 
そこに入って、また出て、また山に登ると、取って食べられる果実(ビワ)が多
かった。とても多かった。それを落して持って来た。日本にはこんなに果実が多
いので、良かった。それを取って食べ、また食べ、腹を満たした。

それでは隊長なり大隊長が韓国人か日本人か分かりませんね。顔もよく見
ていなければ?  

よく見られなかった。見てはいないが、我々が寝ていると、眠ってしばらくする
と、憲兵か誰かが来て、集合させた。死ぬほどひどい目にあう。彼が来るという

知らせがあれば、対処できるのだが、前触れもなく来る時がある。川に連れて
行かれて、水の中に入れと言われた。下が水なのに「ハイレ」、水の中にはって
入れと言うのだ。「ハイレ」、そこは川の水なのに。どこから入るのか、冷たいの

に。すると「ドウシテ ハイレンカ」、なぜ入らないのかと言う意味だ。入れと言
われても入らないと、そいつは棒で殴る。そんなだから入らない訳にはいかな
い。結局、入って出てきた。(*我々に) 悪口を言って、帰った。

  

リョで寝ていた人を引き出し、全体をそのようにしたのですか?  

全体にした。全体に「ハイレ!」と言った。まだ新米でまごまごする者もいた。

12)·「日本はたいしたことない」·の意味だが、口述者は他の意味で理解。

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タンコ(炭鉱) だって?

116 

川の事があったが、そのあとは皆を走らせた。走らなければ、耳を殴られるか

ら。それから、宿舎は畳の部屋なので、ノミがたくさん湧いた。洋服があるとそ

の上を這い上ってきた。水を汲んで置き、押し入れに入って、そこで寝ると眠
れた。脚の毛に沿って上がって来る。朝に起きると、部屋の床が見えない。ノミ
が落ちて死んで、床が見えないほど。バケツ一つに一杯だ。一つずつ、一匹一
匹ずつ落ちて、下が見えないぐらい沈んでいる。それほど多かった。途方もなく
多かった。それで、夏は畳の部屋は良くない。畳の部屋は冬にはいい。冬に、毛
布一枚敷いて寝れば、少しも寒くない。ところが夏はダメだ。

香焼造船所で仕事をする時にどんな洋服を着たのですか?  

ランニング姿だ。ランニング。服などくれたことはない。くれるって、どんな服
をくれるか? 朝鮮から行く時に持って行った。トランクで持って行った。隊長や
そのような人は国防色の軍人の服のようなものを着ていた。ところが、徴用だか
ら、我々には服をくれない。軍人だったら、軍隊で全て与えるが。徴用だから、

徴用は供出と同じだ。徴用だから何も渡さない。関心も示さない。タバコも何も

くれない。

原爆は大変大きな災難をもたらしたので、とても恐ろしいですね。  

ここに落ちなくても瓦が落ちた。ここに落ちれば、即死だよ。爆風で瓦が落ち

た。爆弾の威力はそれほどすごい。そこかしこと、全てが燃え上がり、苦しむ人
がとても多かった。蠅が飛んできた。苦労した。死なずに生きていた人はどん
なに苦しかっただろう。夏だったので、蠅が傷口にとまていた。そんな人は1人

も残さず死んだ。苦労した。いま考えると、死ねずに、生きているだけだった。
どれほど痛かったか。少し怪我をしても痛いのに。そこに薬を塗っても効き目が
あるのか? アイゴ!何の役にも立たなかった。それは嘘じゃないよ。そして、悪

臭がひどかった。

どのようにして帰国しましたか?  

結局、汽車で来て、船に乗って渡って来たと思う。車に乗せ、船まで送ってくれ

るか? お互い、我々は出て行った、好きなようにしろと言うのだから、出て行く
しかない。好きなように出たのだ。食事はニギリメシを一つずつくれた。我々が

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九州地域

117 

寝る場所で、何人いて何人いないかと報告させた。その報告で何人残ったかを
知り、名前を呼んでくれた。

名前を呼んでニギリメシをくれたんですか?  

タマオカ(玉岡)というのが私の名前だ。タマオカがチャン・スンベ( 張舜培 )
だ。隊ではそう呼ばれた。タマオカと言えば張舜培だ。「タマオカ」といえば、

私一人しかいない、玉岡。このように戸籍にも出ている。当時は倭政(日帝時
代)のため、戸籍に玉岡と記載した。人々は玉岡と呼んだんだ。父の名前もタマ
オカ。姓がタマオカと言えば、皆が分かっていた。そこで、タマオカといえば、
張氏と分かるのだ。タマオカと言えば、日本の奴も分かっていて、了解される。
それで通じたんだ。そう言わなければ、役立たない。それは偽物だ。日本で呼
ばれた名前を使わなければダメだった。でも、子どもたちは知らない、タマオカ
が何かは知らないよ。

香焼島で船を造る時、何時から何時まで仕事をしたのですか? 
出勤する時間はここと同じだ。ここと時間が同じだと言うこと、どういうことか

というと、出勤のとき、我々は一緒に出掛け、自分の札を掛ける。自分の名前を

掛ける所があって、釘に名前を掛けた。名前が入っているのを、そこに掛ける。
掛ける時間は、ここも普通8時に入って行くだろ。8時に入って行かないか。そし
て、退勤時間は、土曜日は4時、平日は5時、それは確かだ。

交替して仕事しなくて、皆一緒に出勤して、一緒に退勤していたのですか?  
皆一緒にしていた。皆一緒にして、交替してすることはなかった。一緒に朝に、
時にどこか痛いとムダン(無断)した〔休んだ〕、痛いと話した。ここと一緒、

ここと同じだ。

土曜日や日曜日に外出しませんでしたか?  
外出、実際に外出することはなかった。外出といえば、自分で夕方、飯場に行

き、自分が食べるために、何かを買った。それが外出と言えるか、そんな事は
した。それ以外に外出することはない。「お前ら外出せよ」という言葉もなかっ

た。外出して憲兵にでも捕まれば、鞭打ちだった。だから、外出などなかった。

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タンコ(炭鉱) だって?

118 

そんな事はなく、厳重だった。それから、ムダンをした。ムダンとは仕事に行か
ない事だ。仕事に出ないため、勝手にここが痛いと言って、とにかく出かけな
い。出かけないで休んだ。

寝るとこ以外に飯場が他にあるのですか?  
仕事をして、さっと出ると、飯場が多い。まるで山の街(貧しい人が住む集落)
だ。韓国にある山の街だ。許可なく、無許可でぶっ建てた小さな小屋が広がっ
ていた!そこに何人いるか分からない。その飯場には、徴用に行った人相手に
商売をした。何を売るかと言うと、豆。炒って食べる豆がある。それで餅を作っ
て、1升やって2倍を受取る。店が開けば、一遍に行く。一緒に行って、その人
達が買う。買って来て、弁当のおかず入れに一つずつ入れ、食べる。仕事をし
ている人に売るために、全て買う者もいる、全て。そうするとそれはおしまいと
なる。粥を炊いてくれ、1碗でも貰って食べようとする。それが食べられなけれ
ば、豆でも買ってきて食べる、水を飲んで、量を増やす。それでそれを買う。ム
ダンした人(*出勤しなかった人)の中には、その常連になり、買って来て売る、
そんな奴もいた。夕方にそうやって副業していたのだ。どこでどのように持って

くるか分からず、韓国人がいれば、顔を見てそうした。韓国人が暮らしていれ

ば、ここもあすこでも同じだ。やる事を見れば。自分が早く成功しようとするな

ら、ここでも同じではないか? 堅実なヤツは仕事をし、一方、ごろつきもいて、

他人に悪い事をする、ごろつきがとても多かった。

飯場で豆を売っていた人は徴用で来た人でなく、以前から来ていた人たち
ですか?  

そういう朝鮮人達だ。昔からいる人達だ。徴用で来た人でなく、その前から来
て暮らしていた人達だ。もちろん、徴用で来た人ではない。ところで、歳をとる

と、多少事情が分かった者は抜け出す。どうやるかというと、どこかに良い稼ぎ

があるというと金を出す奴がいる。そこに住んで10年もいる、20年も住んだの
か。そのように、こちらで長く生活し、事情に詳しい人がいるんだ。その人の所
に集まり、「我々も連れて行ってくれ」と言う人もいる。女はそうはできないが、
男は他の所で金を稼いで、逃げ出す奴もいる。点呼の時、「行方不明がいる、何
名残っている」、こんな報告がある。

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九州地域

119 

点呼をしたのですか?  
報告する人がいる。その行方不明になった人は逃げた人だ。だから、その人達は
飯場の知人を通じて他の場所に行くのだ。他の所に行ってしまうのだ。そうして、

出て行って戻らない者もいる。ここに残っていたが、どこかに行った人も多い。私
はそこで見ていたから。他の人が逃げたりしたのを話す必要があるか。何名がそ

うし、何名だと報告するのも一理ある。一理あるが、皆死んでしまい、生きている

人もあまり少ない。これもまた憂鬱だ、そうじゃないか?人が苦労した事を若い
人々が知って、今後残った家族が少しでも苦労がないようにすべきだ。辛かった

ことも知って。若者達が写真を撮り、このようにビデオも持って来て、録音までし

て、それを見ると、少し心が落ち着くよ。本当に、こんな事は「あり得ないこと」に
なって、このような目に遭った人々の事を社会に知らせた時、どれだけの人が涙
を流してくれるだろうか。だから、ありがたい。こんな事になることを知っていれ
ば、私は大隊長でも隊長でも、名前を良く記憶していたのに、今となっては一つ

も分からない。このことを研究する人もいるが、その人(*大隊長や隊長)が誰か

分からない。朝になると連れて行かれ、戻ってくるという、そんな日々だった。私
が見ただけでも、たくさんの人が死んだ。仕事で、板を押しつけると鋲が床にタ

ッタッタッタと打たれ、向こうからもこのように押してくる。気を付けなければなら

ないのに、気を付けずに押すと人にぶつかって、倒れて下に落ちてしまう。人が
落ちて死ぬのを見ると、自分もそうなったのではないかと思う。居ても立っても居

られない。そういう問題があったが、それは変えられない。仕方のない事だ。故郷

で私が死んだと噂が立ったようだけど、とにかくそういう経験したから、心が穏や
かではない。実際、生き残ったこと、我々がどうして過ごしたかに関わらず、生き
残って世の中を見られることは嬉しいことだ。

面接者:許光茂調査チーム長

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タンコ(炭鉱) だって?

120 

06
金光模(キム・グァンモ)

長崎 - 川南工業深堀造船所

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九州地域

121  

金光模 (キム・グァンモ)  男、84歳  
1922年4月29日 咸鏡北道清津(チョンジン)里で出生
1942年

日本長崎県 川南工業深堀造船所13) の電気工

1945年9月

帰国

その日は、空は青々していたが、

火事のように、ピカッとしたんだ

13)

どちらに行って来たのですか?   

咸鏡北道清津(チョンジン)里で暮らしていた。そこで徴発され、長崎に行っ
た。長崎に川南工業深堀造船所がある。そこの電気工場で仕事をした。造船所
の中に電気工場があった。全ての電気関係を保全する、そんな仕事の場所、そ

こで勤務した。

13)·長崎、川南工業深堀造船所··1943年に川南工業深堀造船所として設立。戦時はE型戦時

標準船を建造した。戦後、川南の破産後、大洋造船、林兼造船所、長栄造船を経て、現
在は福岡造船長崎工場。

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タンコ(炭鉱) だって?

122 

徴用令状は受け取りましたか?   

そうだよ。受けたよ。内容は記憶していない。いつ受け取ったかも分からない。
24歳の時か? 何歳の時か正確にはわからない。とても寒い時ではなかった。徴
用令状も職員が、府庁の職員が持って来たと思う。それもよく覚えてない。清
津から汽車に乗り、釜山に来て、釜山から連絡船に乗り、そして下関で降りた。
そして、汽車に乗り、長崎に行った。数日かかった。

清津でお爺さんだけが徴用されたのですか?  
いや! 何人も徴用されたが、皆死んでしまい1人も残っていない。李ガンシル、
洪スンヒョン、みな市内に住んでいた人だが、洞内からは私一人が行った。現
在は市になったが、当時は清津府だった。清津府の広場に集まった。

長崎に行ったのであれば、原爆が落ちた事を経験されたでしょう?  
私が行った時、長崎に原爆が9日に落ちたが、その時、九死に一生を得て生き残

り、帰って来た。造船所の本社は長崎市にあった。構内者(*構内に勤務してい

る人)が、交換機が故障したので、来て直してくれと言ったので、さっき話した

洪スンヒョン、その友達と2人で、市内に修理に行った。船に乗って1時間かか

る。島ではないが、ぐるりと回って行く。当時はバスもなく、船に乗って行き、

交換機を修理していたが、全て直さないうちに12時近くなった。それで昼食を
食べに行こうと2人で市内に入って行った。警戒警報が発動されなかったが、
飛行機の音を聞いて避難した。肉眼で見ては見えなかった。サイレン、そんな

ものもなかった。山の上で大砲がドンドン鳴った。その時、飛行機が来た。それ

が毎日通って行くので、余り神経を使わなかった。それで5分ぐらい歩いて行っ
たが、空はとても青々していた。そこで、火事が起きたように、ピカッとした。
少しすると、爆音が、その時、道路の向こうから聞こえた。そして、その頃は、
電車の軌道の横に防空壕が掘ってあったが、形だけのものだ。他に行く所もな

く、そこに入る気持ちもなく、店に跳び込んだ。そして、何とか2階に上がった。

少しそこにいると、静かになった。下りてから「アイゴ! 昼飯の何のと言わず、
早く行こう」、行こうとすると、ここがじっとりしていた。その頃、暑かったので
上、下に白いものを着ていた。上着の端を結んでいたが、見てみると血が流れ
て、服が濡れ、腕が上がらなかった。ところで非常用に包帯をたくさん持って

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九州地域

123  

いた。それで包帯を巻いた。友人と私の包帯を一緒に巻いた。そうして行くと
本社で職員が見て、「これはどうした事か。ダメだ。病院に行こう」と。それで
病院に行くと、怪我をした人が数十名いた。血を流して、人々の顔は真っ青に
なっていた。そこで血止めを少しした。そして、夕方になると本社から船が来た

と。船に乗り、工場に戻り、治療を受けた。長崎の*** 患者が来たという話をす
るなど騒いでいたが、良く分からなかった。その時、飛行機から爆弾を、原爆
を落としたが、落下傘に結んで落としたそうだ。B-29が慌てて逃げると爆発し

た。影響を受けないように、逃げた後に爆発させた、そうするのだ。被害地域は
4キロメートル以上だったと言う。市内、電車、小劇場が飴のように溶けて、人

もたくさん死んだ。市内にいた人々はほとんどが死んだ。

お爺さんは市内に直接入って行って、市内を全部見たという話ですね?  
そうだよ。後で行って見た。(*原爆落下から) 10日過ぎに行っただろう。防空壕
を掘っていたから、子どもたちや老人は皆そこに入っていたのでないか。入っ
ていても、四方に火がついて、空気が熱くなって生きられなかったろう。皆死ん

だ。大学病院に煙突が二つあった。ところが、一つは倒れ、もう一つはどうなっ
たかと言うと、熱を受けて、爆風に押され、45度ぐらいに曲がってしまった。私
はその時、運が良かったんだ。山があるが、山がこうあるのだが、その下にいた
訳だ。こちらに行けば、熱を受けて死んでいたろう。山の陰に入ったので、直接
に光線を受けず、間接的に少し受けた。怪我はしたが、破片がぶつかったもの
か、良く分からない。

傷痕がまだ残っていますか?  
傷痕はない。ところが帰って来て、帰国して見ると、こんなのができた。1年ほどし
てできた。病院に行ったが、手術しても治らないと言われた。血管が細くてそうな

ると言われた。原爆被害者、何とかいう団体もあるようだ。大邱(テグ)かどこか
に。大邱からは遠く離れているので。

全国に支部があります。協会があり、そこに行きましたか?  
いや、行かなかった。指定病院が大邱にあると言う。そこに行って見ようと思う
が。大邱に行くには、交通費も宿泊費も持って行かなければならない。どうす

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タンコ(炭鉱) だって?

124 

ればいい? 指定病院が大邱にあると言う。

創氏改名した名前は何でしょうか?  

日本にいる時の名前、クムチョン(金村)エサク、カネムラエサク、エサクは、

栄華の「栄」と耕作するの「作」だ〔栄作〕。ところで、戸籍に名前が無い、戸
籍が南にないから。で、清津にいる時は、3の「三」と募集の「募」で「サンモ 
(三募)」という名だった。「募」は兄弟が共通に使う字だ。それで、仮戸籍を作

る時、「三」が気に入らず、それで自分の好きなように変えた。

〔本人紹介では

「金光模」となっているが、元の名は「金三募」であり、仮戸籍を作る時に名を

変えた。〕

下関から造船所まで、どのように行ったのですか?  
汽車で行った。汽車で長崎まで行った。そこから、船に乗って造船所まで行っ
た。清津から徴用された人はこのように行った。数百名になる。各地から、咸鏡北
道、咸鏡南道と集まったから。その時は解放前なので、以北の人も多かった。

到着したら、どうでしたか?  

すると、それぞれを調査して、技術のある人はこちらに送り、溶接ができる人は溶接
をする所に送り、そうやってそれぞれ素質がある場所に配置した。電気工場で電気
が故障すれば直した。当時、修理工などがいなかった。

日本語はよくできましたか?  
日本語ができたかと?学校に通った、学校に通う時に教育を受けた。清津工業

学校に通った。

日本人が多かったですか? 
そうだ。ところが、若い者はいない、みんな軍隊に行っていた。歳を取った人、

軍隊に該当しない歳の人がいた。女がいた。

一日の勤務時間はどのぐらいでしたか?  

1日に8時間ほどになる。朝の8時に出かけると、夕方5時に退勤したと思う。朝

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九州地域

125  

は8時頃だろう。夕方は5時、6時頃に戻った。夜もした、交替勤務の場合もあっ
たが、勤務時間はそれほど長くなかった。日曜日になると休んだが、毎週遊ん
だかは分からない。日曜日には遊んだ。時々、船に乗り、市内に出て遊んだ。遊
んだと言っても、食べる物を少し買って食べ、そしてぶらぶらするだけだった。

そこでは何を作りますか?  
造船所だから、船を造る、輸送船。その時は、大きなものは造れず、約500ト
ン、1000トンまではいかないものを。とても大きな船は造れなかった。ところ
で、電気工場では、船は作らない。モーターのようなものが故障するだろう。そ

したら、それを修理し、燃えてしまったら、電線を巻き直して、修理した。何か
を作るのではなく、電気に関する修理だけした。工場が色々あるじゃないか? 

いろいろな場所があるから、モーターや機械を持っていき、修理した。他の所
のことは分からない。溶接する所や切断する所があったが、そこが3交替をした
か2交替をしたかは分からない。我々の所は2交替だった。

宿舎はどこでした?  
寄宿舎。だから、工場の外にあった。そこが何というリョか、「寮」という字がつ
いていたが、名前は記憶ないが、宿舎が工場の直ぐ横にあったので、そこから
出退勤した。

食事はどうでしたか?  

えーと、食堂があった。食券をくれる。寄宿舎の横に食堂があった。食券を持っ
て、飯を貰って食べた。丼で食べたけど、飯を腹いっぱい食べられなかった。
あの時は、若い盛りだったから。そんなのを食べて、お腹が一杯になるか? そ
して見てみると、そこではサツマイモを切って、飯に混ぜていた。おかずは1、2

種類しかなかった。

爆弾が落ちて、しばらくして戦争が終わったという話を聞きましたか? 
防空壕の中で治療を受けた。造船所の横に防空壕を掘っていた。そこで治療を
受けて、ラジオを聞いた。「天皇陛下が白い手袋をはめた手で涙を拭きながら、
文を朗読した。降伏の文を」、そんな放送。ところで、そこでは放送をまともに

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タンコ(炭鉱) だって?

126 

流さず、作業をさせた。だから普通の人は聞き取りにくかった。そこで治療を約
2週間受けた。そして、いつ出発したか覚えてないが、ナガサキ(長崎)から汽
車にのり、ハカタ(博多)という所に来た。ハカタから船に乗り、釜山に到着し
た。私はソウルに9月20日に到着したから、早く来た方だ。

日付を正確に記憶していますね。 
なぜならば、父母が北で、清津にいたから、父母に会いたくてソウルで一泊もせ
ず、直ぐに38度線を越えた。それで、鉄原(チョルオン)を過ぎて、全谷(チョン
ゴク)と言ったか? 漢灘(ハンタン)江の横にチョンゴクという所があるだろう? 
そこを汽車で下って行き、38度線、漢灘江の鉄橋があった。鉄橋を越えて行く
が、その時には南韓と北韓を行ったり来たりする人がいた。その人達が、万年筆

と時計はソ連軍が無理やり奪うから、気を付けろと言うのだ。時計ははずして、ズ

ボンの腰の部分が広かったので、そこに入れて、万年筆は風呂敷で包み、ポケッ

トに入れて渡って行った。ソ連軍は灯りをこんなに持っていた。鉄橋を渡って行
くと、体を調べるが、万年筆にだけ手を付け、万年筆だけ持って行ってしまった。

そして、チョンゴクだったか、汽車に乗ろうとした。当時は客車がなく、ソ連製の
軍用車両だけがあった。行くと既にホームでは、今度の汽車は満杯だと言う。軍

>>> 

朝鮮人達が博多港で順番を待ち、乗船をする姿

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』

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九州地域

127  

用の汽車が入って来ると、一般人が乗るのは無理だと言い、その時は乗せず、そ

の後にまた汽車が来た。それに乗り、朝にポンソンで降りた。ポンソンでも席がな

く、ホームに人が一杯だった。それで元山(ウォンサン)で市場に行くと、長いパ

ン(ロシアパン)を売っていた。その時一つが50ウォン程だった。それで一つ買っ

て食べた。軍用の汽車で時間がかかった。汽車に乗り、清津まで行くのに、1週間
かかった。お金はあったが、汽車がいつ出るかも分からず、それで腹をすかせ、清
津に行った。そこは、ソ連軍の艦砲射撃に遭い、何も残さず燃やされてしまい、
広い草原のようになっていた。家に行ったが、そこにいられなかった。その時は、
旅行には許可が必要だった。連絡して、旅行許可を出してもらい、船に乗って、
元山に来た。元山に来て、一晩泊まった。

清津の家族はどうですか?
父母がいて、兄1人がいて、下には弟が1人いて、だから3兄弟だ。妹が2人いた。父

は肉体労働をして、兄は私より歳が多いので、徴用には行かなかった。はっきりと覚
えていないが、兄は郵便局のような所にいたと思う。

爆弾が落ちた時、お爺さんはどこを怪我したのですか?  
横腹を怪我した。そこから破片を取った。一緒に行った洪スンヒョンは怪我を

しなかった。ソウルに住んでいたが、もう死んでから年が経った。その友達が

生きている時は、そこに行き、会うこともあった。

爆弾が落ちて10日後、市内に行ったと言われたが、そこでどんな事をした
のですか?  
ああ、その時、工場が閉鎖され、仕事もなかった、また降伏していたから、見に
行ったんだ。高い建物などはなくなり、ただ広い野原になっていた。10日後に
行ったと思う。友達と一緒に見に行った。さっき言った、李ガンシル、洪スンヒ

ョン、それから他の人たちも。名前は分からない。

放射能が残っていたといいますが。 
10年とか、草が生えないと言っていた。真っ赤に燃えた。そこには三菱の工場
があった。外から入れないように、左右周りを囲んでいたが、鉄骨が剥き出しに

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タンコ(炭鉱) だって?

128 

なり、飴のように溶けて崩れていた。

深堀造船所を一度、絵で描いてくれませんか?  
(*絵を描きながら) こちらに工場がずっとあって、ここが山で、この外に変電所が

あり、ここに宿舎が何棟かあった。ここが山。宿舎が数棟ある筈だ。職員が数千

名だったから。食堂がその間にあった。これは皆工場だ。長崎市内に行こうとする

と、こちら側がずっと山で、ここから船に乗って行く。連絡船でなく、小さな船が

あるだろう? イカ釣り船のようなもの。10トン程度か。汽車はここにはない。ここ
に来るには汽車もバスもなく、船に乗って市内に行くのだ。ここから船に乗って約
1時間かかる。

他の朝鮮人も被害を受けたと思いますが、その辺りの話を聞きましたか?  
我々の工場で、造船所で勤務している人々は、普通自分の好きなように外出す

る人はいない。だから被害は特になかっただろう。当時は、通行証明書のような
ものがあれば、出かけて船に乗ることもできた。

面接者:許光茂 調査チーム長

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九州地域

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タンコ(炭鉱) だって?

130 

李秀哲(イ・スチョル)

鄭大成(チョン・デソン)

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関西地域

131  

西

02

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タンコ(炭鉱) だって?

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07
李秀哲(イ・スチョル)

神戸 - 川崎重工業艦船工場

尼崎市 - 延原製作所

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関西地域

133  

李秀哲 (イ・スチョル)  男、82歳  
1923年8月10日 忠清南道瑞山(ソサン)郡所遠(ソウォン)面 出生
1943年11月

募集係の文セ〇により日本兵庫県の神戸市所在の
川崎造船所14)に動員

1945年

解放後、帰国

思想家の家だと兄は殴られて死に、
おれは徴用に連れていかれて

14)

どちらに行っていたのですか? 

私は1923年生まれだ。それで、10日だったか5日かは分からないが、倭政(日
帝)の時、軍人で引っ張られないように、徴用に行った。〔誕生日が〕20日か
15日までは軍人として行ったが、私は5日ということで行かなかった。徴用で
引っ張られて行った。行ったが、軍人の対象ではないと言って審査を、郡で
審査を受けた。日付を間違えて連れて来たと。現在の歳は、戸籍の歳では82

14)·川崎重工業艦船工場··1896年、株式会社川崎造船所として創立、1939年に川崎重工業

(株)に社名変更。軍用艦船を製造。現在は川崎重工業船舶海洋カンパニーとなり、船舶

や船舶機器を生産。

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タンコ(炭鉱) だって?

134 

歳、我々の歳では83歳になる。当時、創氏改名でクニモト・シュウテツ (國本
秀哲)、

〔韓国読みで〕クンポン・スチョルと言った。

幼い時の話を聞かせてくれますか?  
我々は学校に通えなかった。私の兄は思想家として追いかけられ、引っ張れ
ていき、私たち弟の思想についても疑いをかけられた。兄は殴られて病気に
なり、死んだ。父は私が13歳の時に亡くなり、母だけになった。母は農業をし
ていた。兄がいたが、倭政の時に亡くなった。兄はあちらこちらに引っ張りま
わされ、亡くなった。漢文をたくさん勉強した。兄は倭政の時に中国まで行
き、漢文をたくさん勉強した。それが仇となり、思想家として追われ死んだの
だ。薬もなく。

勉強をたくさんしたようですね。  

ええ。弟に秀が千もあるという意味の秀千がいる。スチョン(秀千)と言う。弟
は倭政の時に志願兵に引っ張られ、2年8カ月振りか、9カ月振りかに、家に帰っ
て死んだ。帰ってから死んだ。私が日本から連れて来た。妹が1人いる。母と二

人を残し、兄弟は皆、連れて行かれた。それで、妹だけは生きている。

それでは、男女4人の中で、2人だけ健在ですね。お爺さんは学校に全く通
わなかったのですか? 
通えなかった。その時は追及がきびしく、暮らしが苦しかった。そのために、私
が強制徴用の年齢で行き、弟が海軍に志願して行くことになった。その弟は死
んだが、近興(クンホン)面 安基(アンキ)里の人で李ワン〇氏という者がい
る。倭政の時、所遠(ソウォン)面の面長をしていた時だ。李ワン〇氏だ。彼が
面長の時、私が年限で強制徴用に行ったが、弟がどこに行き、何をしたか、分
かるか? 弟は「志願」して出され、3年間になる前に戻った。怪我をして帰って
来た。傷痍軍人となって京都にいると聞いて、私が連れて来たんだ。

お爺さんは何年に行ったのですか?  
それが、解放される21カ月前に行った。それは、確認すれば、1943年11月頃だ

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関西地域

135  

ろう。21カ月前に行った。その時、周りで連れに行くことも、事情も分からない
ままだった。その時、20歳ぐらいだった。結婚もしていなかった。それで、あの

人(*隣の席のお爺さんを指して)は1期で行った。私と同じ村だった。その人が
1期で行き、私は半月遅れで2期として行った。彼らは昼に行ったが、私は夜明

けに行った。連れていく人が夜明けに連れにきた。

誰が連れに来たのですか?  
区長だ、夜明けに来た。文セ〇という人が捕まえて行った。徴用でも徴兵で

も、皆面で、面の書記が担当する。だから、いわゆる徴用担当者だ。その日、朝

食も食べずに、朝ご飯を用意していたが、朝食も食べずに出ていった。母は何

も言えなった。土地を耕す間もなく、うちの母は、息子がどうなるのか、怖がっ

ていた。何も言えなかった。それで、着ていた服のまま、出ていった。

事前の情報はありましたか?  
ない、ないよ。ここの人が瑞山(ソサン)まで斡旋していたが、倭政の時、チョ

・テ〇氏と言い、私の部落、隣に住んでいる人だ。チョ・テ〇氏、その人が所遠

(ソウォン)面の5人を斡旋したと言った。それで瑞山に集結させた。瑞山でま

とめ、釜山まで連れて行く人を、世話人が選ばれ、チョ・テ〇氏が行った。引率
して釜山まで連れて行った。そうやって瑞山郡の人を皆連れて行った。

チョ・テ〇氏が?  
だから、彼が面長だった。副面長もして、倭政の頃、全てをこなしていた。相当
に偉い人だ。その人が連れて行ったのだが、何人かは生きていたが、皆死んで

しまった。ここに住んでいた人で、李ナンボク、金チョンイル、そして李グチュ
ンという人がいた。それで私と4人だった。所遠面から4人、遠北(ウォンブク)

の人が5人来た。近興(クンフン)から4人、いや!近興から5人だった。近興か

ら行った人の中で2人が生きていて、3人が死んだ。

近興(クンフン)から行った人で、生きている人がいますか?  
ああ、いるよ。名前を崔ビョンヨンと言う。遠北の人もいる、朝鮮から行く

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タンコ(炭鉱) だって?

136 

時、船に乗る所に遠北の人で金ソクホがいた。私と前後に集められた数百、
数千人がいたが、そこに来て隊を分けられ、小隊別になったが、小隊をみた
ら、その人に会った。私は6小隊で、金ソクホも6小隊になった。そんな所では
兄弟であっても分かれるのに。その人達がやれと言うとおりにやった。それで
その人たちを知るようになった。死んだ人もいたが、金ダルコンと言う人は知
っている。その人も遠北の人だ。一人は馬山〔里〕の人で、一人は堂山(タン
サン)里の人だ。それ以外は知らない。ああ!一緒にそこに行き、とても苦労
した。

徴用に行く時の話を少し聞かせてください。  
瑞山にいる時、その時、洪城(ホンソン)で日が暮れて、汽車に乗せられた。
貨物車、あの真っ黒いものに乗せて、そこが3時半か4時、多分そのくらいだっ
た。それは覚えている。到着はしたが、逃がさないように、所どころに立たせ
ておき、巡査だ、巡査を連れて来て、全員を**警察署に連れて行き、交代し
て逃げないように、交代で監視していた。

一緒に行った人は何人ぐらいいたのですか?  
それは、瑞山郡の人が300名ほど、集結した。そんなにも多くが行った。洪城郡

まで合わせれば、もっと多い。洪城郡は他の所に集結したそうだ。釜山に行く
と、彼らは既に船出したようだった。練炭〔ママ〕を載せて走る汽車に乗って、

洪城から釜山まで行った。天安 (チョナン)、その時は天安がどこか分かりもしな
い。正直にいって何も知らない。天安を過ぎて夜通し行ったが、その二日の間

に、11時に朝食を、ニギリメシをくれた。汽車に朴ウォンギルと言う人が持って
きた。釜山なのか、どこなのかも分からなかった、我々には。我々は仕事をしに

行くのではなく、奴らのやることに対し、我々が朝鮮で反乱を起こすから、青年

を皆、捕まえて行くのだと思った。日本では、休めば殴られる、それが我々の役

割だった。腹が空くから泥棒して食べて殴られる、そう、それが役割だった。

ニギリメシを食べながら、釜山まで行ったのですか?  
そうだ。釜山に行った。全員、降ろした、釜山まで行って。降ろした人は鉄道の
駅長だった。鉄道の駅長が降ろし、みると2000名程になっていたようだ。人々

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関西地域

137  

が各地から集まっていた。釜山から連絡船に乗って出発する人々が、各地から
集まっていた、広場が一杯になっていた。その時、木綿の服を着て、全てこのよ

うに帯をした。皆、このような赤い帯をした。大きな帯を一つ、逃げ出さないよ
うにと、それをくれたようだった。我々が帯を結んだところ、そこを釜山の亀浦

(クポ)洞と言った。見れば釜山に入る入口だ。ところが、とても汚れていた。

広場がとても汚かった。その時期は草が生えない時なのに、草が伸びていた。
そこの人達の話によれば、日本の奴は我々朝鮮人を連れて来て、物を貰って食
べ物にありつこうとする者や役に立ちそうでない者をぶん殴って捨てたという。
だから、草が茂るほど、そこに屍があったそうだ。朝鮮戦争の時のように。そこ
で3日間、訓練をさせた。いうことを聞かせるために駆け足をさせた。銃は持た
なかった。徴用だから、軍人ではないから。日本語で、「キオツケ!」など、そん
な事を教え、そして、規律を守らせようとし、間違えれば、殴った。その時は、
家を出てから4日、5日経った頃だ。人間は誰も同じだろ? 私はその時20歳で、

まだ子どものようだった。22歳~24歳の人が多かった。私より下はいなかった。
とても幼くかわいい顔をしていたから、日本の奴が殴る時、5回たたくのを3回し
か叩かなかった。私の顔がかわいかった。本当にそうだった。

>>> 

乗船に先立ち、釜山水上警察署の前で人員点検をしている様子

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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タンコ(炭鉱) だって?

138 

寒かったでしょう?  

ああ!寒くない訳があるか? それでも眠った。ちょうど寒くなる時だが、釜山は
ここよりは寒くなかった。朝食まで、その時まで、斡旋したチョ・テ〇氏が、我
々を監視して来たが、そこではその人も日本人には存在感がなかった。そこで
は、捕まえられたネズミのように、朝鮮人として扱われた。

そうして、出発したのですか?  
それで、そこで寝て、3日間の教育を受けて、入り口の前に行くと、オニギリを
一つずつくれた。それを受けて、持って行き、船で食べた。どこから入ったの
か、3階だった。3階。上がると船か陸地か分からなかった。それで我々は2階に
上った。いつから乗ったのか、船の中の何カ所かに乗せられた。10時頃に門を
ピタッと閉めた。忠清南道の徴用対象者が上がって来るからと、チョ・テ〇氏が
そこで監視していた。監視しろと言われたから、そうしたのだろう。我々が上が
ってドアが閉めたので、彼はようやく家に帰った。その時が一番恨めしかった。
一人残して来た母親。チョ・テ〇氏は我々の故郷に戻るというのに、自分はこ
れから出発するのだ。そこには弟が1人いるが、海軍に行っている。怪我をした

と聞いているが、面会ができるだろうか、どうすればできるのだろうか? そこを

出て、1日かけて日本に向かい、ハカタ(博多)に到着した。ハカタに降りると、
釜山から連れて来た者を、新しい人に引き渡すと言う。そこからは、日本人の中
隊長、小隊長、分隊長、良い人と会った若者達は、それほど殴られないが、悪
徳な奴にあった若者達は足も延ばせないほど、どこでも殴られた。とにかく、そ
んなに悪い奴がいる、彼らには。冷たい土地だった。若くはあったが、筋力はな

く、学力もなかった。ちょっとした学校を出た若者たちは日本語で対抗したが、
よく殴られた。あー! 叩いただけかって? 殺される程だ。靴で頭を踏みつけた

んだ。逃げることもできなかった。

小隊が何名くらいですか?  
私は6中隊だった。6中隊、6小隊、30名だ。3×6=18だ。小隊が6つ集まれば1中
隊になる。大隊にするには、中隊が6つで大隊になる。それで、中隊長、大隊長

といった人に良く見えるようにしなければならない。生き残るには、自分を殺
さなければならない。大隊長、中隊長のような人の名前は思い出せないが、ホ

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関西地域

139  

シヤマ〔星山〕という小隊長がいた。人は良いのだが、人をしつこく殴る、とて
も。奴らは皆、傷痍軍人達だ。満州事変、支那事変などで怪我をした人達が家
に戻って、人がいないから、そんな仕事をしていた。

博多からどこに行きましたか?  
ハカタから汽車に乗り、彼らに引率されてシンホ(神戸)に、シンホに行った。
汽車の中でその日の夜は一晩中眠り、次の日、太陽がゆっくり上がる頃に、コ
ウベ〔神戸〕で降ろしてくれた。コウベという所、そこで降りると海が、大阪
に入る海が見えた。コウベに駅があった。そこで降りて、支所がある所まで行
った。山より少し行くと、高等学校、中学校がある所から少し行くと、村の小
学校のようなリョ(寮)があった。そこが桜町だ。そこには人々がぎゅうぎゅ

う、一杯だった。

神戸駅から歩いて行くのですか?  
歩いて20分ほど行く。桜の木だ、そんなものが所々にあるが、その間に家を作っ
たと言う。我々のような者が来るから。そこに人々がぎゅうぎゅうだった。入っ
て見ると、20棟ぐらいになるのだが、その時は朝鮮八道(全国)から来ていた。
朝鮮の八道、全国から集まっていたのだから、人が一杯になるだろ?

人が多かったのですね。  
そうだよ。ずらりと立ち並んでいて、1棟が3階だから、どうかすると2000名以
上入るだろう。そこには、数千人、とにかく、うじゃうじゃいた。1人死んでも
分からないぐらいだ。夜になると殴り殺される、膝をつかせて、水に入れて殺
す、そんなふうに言っていた。そんな調子だから、怖くて。そこに行って母の
顔を一度でも見ようとするなら、病人の真似をしなければならない。可愛いと
言っても、少し間違えば、死ぬから。そして、私は年少でもあり、良く怒られ
た。こいつはガキだからって。たくさん謝って、そして生き延びた。日本の奴
が叩く時、団体で気合を入れると言って、叩かれた。日本の奴は団体で気合
を入れる、我々の韓国も同様だけと。1人ができなければ、団体で気合を受け
る。1個小隊が全員受ける。分隊が間違えば、分隊10名皆、受ける。

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タンコ(炭鉱) だって?

140 

どんな間違いをすれば叩かれましたか?  

だから、泥棒すると叩かれた。腹が減って、掠めて食べ、そこで少し悪い事を

した。畑のような所に行き、日曜日などに行っては、ジャガイモの根っこのよ
うなものを掘って食べ、木の実のようなものを取って食べた。そんな事をすれ
ば、報告される。ところが、日本人たちも大分見逃してくれた。そうでもしな
ければ、持たない。何かしないと。食べる物がなかった。しかし、我々のよう
な者にくれるのは、文字通り大豆のカス、安南米がいくつか付いたもの、そん
なものを貰って食べた。どこかに行って、食い物を盗んで食べられるか。怖く

て、できなかった。 

宿舎はどうでしたか?  
それは新しく建てたもので、畳が敷いてあった。畳み1畳に毛布が2つ、そのよう

に3枚ずつくれる。2枚を敷いて寝た。神戸は温かい。雪が空中には舞うが、下
はつめたくない。冬は寒くなく過ごした。1年ほど過ぎて、連合軍が近くまでき
ていて、戦争が激しくなり、爆撃にもあって、辛かった。最初は畳1つ分あって
良かった。ところが6~700名が横になって寝ている所が爆弾を受けた。眠れな

くても訴える事ができない。寝ていても一緒に寝るから、同じ朝鮮人の中で泥

棒をする人、ケンカする人、刃物で刺す人、他人のものを盗んで食べる人、そ
んなだった。皆が窮していたのだ。

食事はどうでしたか?  
飯は食事の時間があった。食券というのがあった。このようなもので、6小隊
なら6小隊の印鑑が押され、箱に入れるようにと。だから、何時にどの小隊が
食べ、何時にはどの小隊が食べるということ、分かるだろう。それで食券を持
って行き、門の前で並ぶ。弁当だ。こんな弁当で、飯は豆ご飯だ。それを食べ
ていれば死にはしない。ある時、朝ご飯に白米を炊いてみそ汁をくれた。夜
には、汁はなかった。ただお茶を沸かして、食堂にずっと置いてあった。飯盒
が2つと匙。いや!匙はなく箸だけあった。飯盒に飯を掬ってくれ、そんなふ

うに食べた。飯を食べるのだが、こんなに少しだった、私は何回か食べられな
かった。泥棒達が走って来て、私のものを持って行って食べてしまうから、ど
うにもならない。そこで、日本の女たちが飯を出してくれると、持って行くの

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関西地域

141  

だが、とんでもない奴が取って行ってしまうのだ。飯を返せと言ったら、叩か
れて死ぬよ。それで腹を立てる事もできず。本当に死に物狂いだ。それで私
は何食か食事を欠かした。一緒に行った遠北面や所遠面の者が集まって、分
かち合って少し食べるなどした。我々を捕まえて大東亜戦争をさせようとし
たのではなく、叛乱を起こすことを心配して、連れて行ったようだ。

それでは、そこに行って直ぐ次の日から仕事をしたのですか?  
いいや。1か月半の間、教育を受けた。訓練を受けて、日本語を学び、そう
して整列、駆け足、そんな訓練を受けた。そして、歩いて神戸市内に行き、
見学して慣らした。そして少しずつ大阪にも行った。鉄道で約20分あれば
行ける。それに乗り、数百名ずつ、大阪に連れて行き見せた。川崎工場に行
くと軍艦と航空母艦を造っていた。その場所は、天気が晴れている時には山
がよく見え、曇った日には見えない。

お爺さんがいた所はどこですか?  
大阪からこのように南の方に下りて行く。そこはキュル(蜜柑)がとても多い。
キュル、蜜柑が我が国で松の木があるように多い。それで工場の名前は川崎。
神戸市の川崎だと。神戸市の川崎造船所の工場だろう。人々は18カ月、そこに
出入りし、そこで何を、何をやれ、お前は責任を持ってやれ、技術を学んでや
れ、そう言われた。私はただ鉄を削り、それを片付け、歩いて使い走りもし、そ
んな仕事をしたが、爆撃のために仕事ができなくなった。一日に数回空襲があ

り、地下に入ったり出たり、そんなだから仕事ができない。後に地下に入った
ら、ジャガイモを茹でるように熱かった。「空襲になったら、お前ら、好きなよう

に退避しろ」と言われた。〇〇〇のような人たちは、後で逃げ出して、解放にな
ってから出てきた。好きなようにしたんだ。

それでは、そこ川崎造船所に1か月半の間、見学も少しして、通っていたの
ですか?
昼夜、訓練を受けて、使い走りをした。鉄粉が出れば片付け、便所掃除の人

もいて、色々だった。そうしていると空襲があり、何ができるというのか、そこ

で。他の会社の見学もした。臨時で送られたのだ。本部は神戸にあるのだが、

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タンコ(炭鉱) だって?

142 

臨時で2カ月、3カ月と「あそこに行け」、そう言われて行った。そこに約1年6カ
月の間いた。「ノビハラセサクショ」(延原製作所)が東淀川という所にある。4
学年の教科書に話が出たので有名だ。その延原製作所。そこはとても大きな機
械を作る所で、そこに行ったが、俺たちに何ができる?

そこにいて、何カ月仕事をしたのですか?  
そこに行き、そこで解放を迎えた。解放を迎えたが、解放になった日、神戸に行
った。つまり、本社にまた行った。皆が行ったのではなく、自分の判断で。解放
になったので。15日に解放になったので、16日の午後、私は神戸に行った。その
理由はなぜかと言うと、解放になり、どうなったのかと、様子を見に行った。全

く分からなったから、分かりようがないだろ?

川崎造船所で、朝は普通何時に行って、何時に帰って来るのですか?  
朝6時に起きて朝礼をする。面倒なので分隊別にさせた。だから分隊長も行く、
私も分隊長を見たが、全員いた。朝の点呼があり、飯を食う時間もない。小隊
別に食べるから、早くは食べられない。朝9時30分になって食べ、人が多いので
食堂では食べられず、小隊ごとに食べた。神戸の寮から川崎に行こうとすると、
20分以上地下鉄〔以下、鉄道〕に乗って行く。鉄道で自由に行くのだが、証明
書がほしい。通勤証をくれる。それに服や帽子を最初はくれたが、後にはくれ
なかった。服が不足していたから、仕方がない。

食事はどんなものでしたか?   
昼食時は飯の時間だとサイレンが鳴る。昼飯に工場に行けば、鉄[ママ]の弁当

に安南米だが米の飯をくれる。鉄の弁当に一匙ずつこのように入れる、黄色い

鉄の弁当に入れてくれる。

それでは、午後は何時頃に終わりましたか?  
午後は5時に終わる。早く終わる。寮に来ると風呂がある。最初は風呂もきれい
だが、数十名ずつ入るから、シラミが移り、死ぬ目にあった。痒くて赤くなり、
死ぬ目にあった。不快なので服を脱いで見ると白いものがいた。

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関西地域

143  

逃亡をする人もいるでしょう。 
小隊長や分隊長が呼ぶんだ、1小隊配置!と。1小隊、1分隊、このようにして配
置をした。10日もすれば何人かがいなくなる。逃げたり、死んだりしていなくな

る。土方の現場に行けば、電線を埋めて引くような現場に行けば、米の飯を食

べられて、金も稼げると言うので、逃げていくのだ。なので、私もそうしようと
決心したが、怖くて逃げ出せなかった。解放になったら、逃げ出そうと考えて過

ごしていた。また、我々がいる所に、捕虜が約700名いた。なので、空襲になる
とそこに行った。ドンドン爆撃されても、そこ(*捕虜のいる所)には落とさない
と言うから。逃亡して捕まれば、営倉ものだ。ひどく叩かれ、営倉だ。けれども

後になると、逃げても関係なくなった。毎日爆撃されていたので、それどころで
なかったんだろう。

そこで死んだ人はどうなりましたか?  
死んだ人をどうするかって? 火葬するのだ。寺に納めると。日本全体に寺が
あるではないか。日本では仏教が多い。仏教を信ずる者が多いのに、なぜそ
んなに邪悪なのか。火葬してそこに預け、解放後に、現場に残っていた人々
が、忠清北道、丹陽(タニャン) の人を探してきたという。可哀そうなので、寺
に行き、持ってきたという。寺に預けたものを友人たちが持ち帰ったともい
う。持ち帰っても、どうしようもないが。

風呂に入ると、夕方は何をしますか?  
だから、その時になれば、寝る時間だ。小隊長や中隊長のような良い人がきて

も見向きもしない。悪い奴は、刃物を手にして歩き回り、あいつを殺すんだと口

走る、そんなだった。こんな長い刃物を持って、何をするかって? このように首

に当てて殺すのだと、そんな動作をした。

1週間に一度は休むことはできましたか?  
そうだ。日曜日には我々も外出した。外出証をくれる。田舎、村に行き、何
か買って食べようと、出かけて食べた。時々タバコのようなものが、何本か
でる。箱ではなく、それを持って田舎に行き、米の飯を貰って食べようと

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タンコ(炭鉱) だって?

144 

し、少し何かを買ってくるのだが、4時半に集結しなければならない。5時過
ぎに戻ると、門でその小隊の所属が分かって大事になる。

外出して逃げる場合もありましたか?  
逃げるさ。外出して、それで逃げた。ところが、後になると逃亡しても関知しな
かった。自分達が面倒だから、そうしたのか。与える物もなく、勢いに押されて
そうなったのか。どこに行っても。例をあげれば、8小隊や7小隊の寮がすっかり
空になった時があった。夜になると、その日の夜見ると、車が行ったり来たりし
た。夜にどこに積んでいくのか。どこへ積んで行き、どこに送るのか、魚雷が爆
発して死んだという話も聞いた。朝鮮の八道(全国)から集まった人間は、本当

に!何千人、何万人が集まっていた。後に、解放後に見ると、それほどではなか
った。逃げたり、死んだりで。

家に手紙は送りましたか?  

したよ、それはした。ほんの数語だけど、たとえば、「私は元気ですから、心配
しないで下さい」、そんな事を。それほど多くは書かない。30字以上は送れな

い。さらに、「私はここでは生きていけない」、そんな事を書けば、ああ!手紙は
出されない。送れないのではなく、殴られ、殺される。だから、彼らの言う通り

「ワタシハ ゲンキ デス」と書いて送れという事だ。朝鮮語で書く。だから、夜

も昼も、眠っても起きていても、故郷が思い出される。手紙は10回出しても、返

事は2回、3回しか来ない。

家から食べる物が来ることもありましたか?  
食べ物は2年の間、米粉が一度送られてきた。封筒で小包にして来た。後で聞
いて見ると、家では10回以上、送ったと言う。そんな中で生きて来た。何も知ら
なかった。我々が故郷を離れると、郵便局長、倭政の時に郵便局長がいただろ

う? 大韓、つまり朝鮮の郵便局はとても威張り散らかしていて、蹴っ飛ばした

いぐらいだった。我々は腹が減って死にそうだったのに、なぜ小麦粉、米粉の

ようなものを送ってくれなかったのか。日本に到着して日本人が食べたのか、朝

鮮でピンハネたのかは知らない。解放になって帰って母に聞くと、多分7回、8回
ほどは送ったと言うんだ。 

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約1年6カ月、造船所にいて、本社に戻った後どんな仕事をしたのですか?  
他の所に見学に行った時、解放されたと言われた。16日に本社に、神戸の本社

に行った。ここも造船所の所属なので、そこに行かされたわけで。私は夜も昼も

使い走りをした。

解放をどうして知ったのですか?  
だから、咸鏡北道、平安北道、平壌(ピョンヤン)だ、平壌の人が一緒にいた。
延原製作所ではなく、神戸にいた。その人が連れに来てくれた。「午後2時に日
本のショワ〔昭和天皇〕が手をあげた」と言った。彼は二人といない親しい仲
だった。その人が「お前の弟は今、怪我をして京都にいるだろう」と言うんだ。

「京都に行って連れて帰れるようだったら、連れて行け。心配するな」、「故郷

に帰れるなら、それ以上願うことはない。帰って、稼げばいい。何を心配するの
か?」と言った。次の日、誕生日だったから、28日だ。それで私が28日に京都に

行った。弟が病院にいたから、私が京都に行った。そこで面会した。

ひどい怪我をしたのですか?  
ああ、行った。病院にいて、死にそうだった。ここ、胸の真ん中が砲弾の破片
で、海軍だから火砲を発射して、その破片が跳びだして火傷し、病院に入った
が、様子は良くなかった。その所属が海軍だったのだが、いま家に帰るのはダ
メだと言った。職員が後で送るから心配するなと言ったが、それを信じることが
できるか。「私はお金があるから、明日にでも連れて行く」と話して、そうした。
そのような状況で、弟を病院に残して行けるか? 考えてごらん。帰ると言った
ので、軍糧米3升、乾パン数袋をくれた。海軍からだ、帰りながら食べろと。海
軍に咸鏡北道の若者が担当者として、いたからくれたのだろう。日本の奴がく
れるか?

怪我をしている人を連れて来るのに苦労したでしょう?  
言い表せない。電車に乗り、汽車に乗った。次の日に神戸に連れて来て、夜は
病院に行って寝かせ、持てる物は持って、19日の夜に神戸に来た。以前は死ん
だようにし、尋ねられても返事もしなかったのに、解放されたので、とても活動

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タンコ(炭鉱) だって?

146 

的になった。解放されて弟を連れて帰ろうと思うと、もう言うことは何もなかっ
た。そして、神戸まで連れて来たので、そこにいた同期が夜に歓送会をしてく
れた。死なずに生きて、無事に帰れと。

工場にいた人達が歓送会をしてくれたのですか?  
工場ではなく、リョ(寮)にいた人達。6小隊、7小隊、小隊長、分隊長も3,4名

もいて。お互いに抱き合い、親切な仲で、こんなにしてくれた。夜明けの4時に

行くが、汽車に乗る場所がない。青森、いや、博多駅に行くのだが、日本の奴が
乗るのでどうにもならない。仕方なく汽車で火を焚く所があるだろう。そこに乗

ったんだ。ところが、日本の奴が言った。今は構わないが、トンネルに入ると煙

で死にそうになるから、「服を脱いで、顔を覆え」、「前かがみになれ」、そう言っ
た。日本語で行ったのだが、私も少しは聞き取れた。弟は日本語ができるから
それが分かり、言う通りにした。
 
博多からはどうやって来たのですか?  
そうやって、夜通し来たのだが、死にそうだった。弟は死んだようだった。汽車
が30分停車すると言った。だから機関車の車両にこのような階段があって、階
段を下りると、前に汽車の荷物を載せる車輛があって、ドアが空いていた。そこ
に大尉1人が乗っていた。日本の大尉。弟には日本の傷痍の勇士の章を病院で

くれた。これがあれば許可が出ると。その話をすると、大尉が連れて来いと言

った。可哀そうにと言いながら。降りて、その車両に乗ると、車両に食料が一杯

だった。軍人達が利用していた車両のようだった。無いものはなかった。蜜蜂
の蜜の壺もあった。大尉があれやこれや風呂敷に包んでくれた。持っていて食
べろと。可哀そうだ、注意して帰れと言って。このようにして、博多に来たが、
朝の8時になっていた。夜通し、来たことになる。アイゴ! 人々がごった返して
いて、どこに行くものか、我々韓国人がいっぱいいた。ところで忠清南道の人も
いた。忠清南道の保寧(ポリョン)の人がいた。それで聞いてみた、その忠清南
道の保寧の人は、倭政の時にトミ(鯛)を積んできたが、朝鮮の釜山に戻らな
ければならない。我々の同胞がこんなだから、いっしょに乗せて行こうと言う。
鯛、魚、海産物、そんなに良いものを日本の奴らにやるなんて、おかしいじゃな
いか? 売りに来たのではなく、徴発されて持ってきたのだ。博多まで来ていた

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関西地域

147  

が、人を100名しか乗せる事ができない船、小さな船だ。魚を載せる船、ああ!1
人当たり1500ウォン〔約150円?〕ずつくれと言った、その時。

船賃が高いですね?  
高いとか安いの問題ではない。1500ウォンずつ出せと言うから、その船に乗る
ために出した。2人分で3000ウォン出した。この間、食べもしないで、タバコを
売って集めたのだ。小さな船だが、どうして、しっかりしていたのか、速かっ
た。その時、博多が暗くなり出したが、出発した船が20隻を超えていた。全部、
釜山や済州島に行く船だったが、保寧の人のお蔭で、忠清南道の人をかなり優
遇してくれた。苦労してきた人たちだから。うちの弟は死にかけている重病人
だった。良い場所を与えてくれたから、ここまで連れて来られた。このようにし
て瑞山へ。まず釜山で降り、釜山で遅い食事をして、また汽車に乗った、天安

(チョナン)行きの汽車に乗った。

そこで、お金は受け取らなかったのですか?  
そこでは受け取らなかった。釜山で〔汽車を〕斡旋してくれた。天安に着いた

ら、その時、瑞山郡から人が来ていた。連れに来ていたということだ。そこから

はお金は少しもかからなかった。15日に解放され、9月20日に瑞山に到着した。

早く帰って来ましたね。 
早いどころか。所遠(ソウォン)面で私が最も、最も早く帰って来た。そうする

と、周辺から事情を尋ねに来るだろう? 答えようがない。尋ねに来る人が減ら

ないんだ。数カ月も「誰々は、まだ戻らないか?」そんなふうに続いて尋ねて来
た。ところで、一緒に行った者であるなら分かるが、それ以外、どうして私に分
かるだろうか。

弟さんはその後、どうなりましたか?
弟を大学にやろうかと思っていた。仁川産業組合という呉服商の組合で、若者
を1人採用するというの出かけた。知っていることもあったので、そこで仕事を
させることにしたが、仕事が大変で6カ月間働いていて、連れに来てくれと言わ

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タンコ(炭鉱) だって?

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れた。行ったら死んでいた。今頃であれば、治療も出来ただろうが、死んでしま

った。解放されて6カ月ぐらい過ぎて、そうなってしまった。それでも故郷に連

れてこられたのは幸いだった。母は61歳で亡くなったんだけど、皆は弟の姿を
見ることが出来たので、目を閉じることができたのだという。

タバコを吸わないので、それを売ってお金を貯めたのですね?  
そうだ。それに酒も出た。日本に清酒があるだろう。それが少しずつ出された。
升でくれるのだが、4、5人で分けて飲むのだ。ところでそんな時には、杯に分け
て出す。それで、酒がなくなると、人がお金を出して買ってくれる。私はお金を
貯めたかったから、ただでやる訳には行かなかった。我々の社会は親切で、た
だで酒をやるのだが、当時は貧しかったから。

結婚をしてから、徴用に行きましたか?  
いや! 結婚できなかった。結婚式をしないで行った。春には結婚式をしようと

していた。その日付を決め、旧正月が過ぎてから、挙げようとしていた。令状が

夜明けに、令状が先に来たので、翌日出かけることになった。そんなふうに連
れて行かれるとは思わなかった。私は嫁の所に行ったが、この訪問が最後にな

るのかも知れないのに、思いはあってもうまく言葉が出なかった。当時、恋愛は
すると言えば、叩き殺されるほどの罪だったじゃないか。「こんな状況になった

が、幸いにも私が生きて帰ったら、結婚式をし、幸せに生きよう」と、そう言っ
て出かけた。戻って来てから結婚式をして、その嫁が5年後に死んだ。子ども

もいなかった。病身になって、嫁いできた。今なら、たいしたことのない病気だ

が、死んでしまった。月経の病と言っていた。女子の月経が1か月で15日にもな

るのだと。15日以上になるから、次第に病気になり、臍が桃のようにとび出し、

結局は痩せ細り、死んだ。その後、また結婚して、現在、息子が3人、娘3人にな

った。今いる家内が生んだのだが、まだ元気だよ。

空襲が始まると、連合軍、米軍の捕虜がいる所の横に隠れていると、米軍
はそこは爆撃しなかったのですか?  
しなかった。絶対しなかった。米軍たちはある建物に集められ、住んでい
た。空襲が始まると、彼らが早く来いと言う。韓国人のことをよくわかって

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関西地域

149  

いた。そして、彼らは軍靴、捕虜として捕まって来る時、好いのがあるじゃ
ないか? 我々はバスケットシューズというか、黄色いもの、1、2か月履くと
足の指が出るようなもの。そんなものを我々と交換してくれた。人情の厚い
人たちだ。だから、連合軍を撤収させろ、マッカーサーの銅像を燃やせ。こ
んなことを言うのは、性悪の人達だ。そういう人も連合軍の恩恵を受けてい
るんだ。我々は連合軍がいなければ、死んでいただろう。連合軍が助けてく
れたのだ。

面談者:李秉煕 調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

150 

08
鄭大成(チョン・デソン)

大阪 - 大阪陸軍造兵廠(推定)

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鄭大成 (チョン・デソン)  男、82歳  
1920年2月12日 忠清南道瑞山(ソサン)郡 所遠(ソウォン)面で 

出生

1943年冬

大阪所在の軍需工場15)に動員

1945年後半

帰国

空襲があるのに、朝鮮人だと
防空壕に入れてくれないんだ

15)

徴用にどうして行ったのですか?
私の戸籍届が遅れていた。以前は里長が出生申告をしていて、本来の戸籍より
4歳上だ。戸籍の歳より4歳多い。実際には1920年の生まれだ。戸籍は1924年だ

ろう。徴用は26歳(*満24歳)になった年だ。その時、行った。その時、私の家

15)·大阪陸軍造兵廠枚方製造所と推定。大阪陸軍造兵廠は1870年に設立され、1937年の日中

戦争後、三つの製造所(火砲、弾丸、鋼材)から五つの製作所(火砲、弾丸、薬莢、鋼材、
信管)に拡充され、1938年1月、枚方製造所が設立された。1940年、大阪陸軍造兵廠枚方
製造所になった。100万平方メートルを超える敷地に工場が9つ建てられ、最高3万名の労
働者が昼夜交替で各種口径の砲弾(被覆銃弾、爆弾、信管、火具)を製造。

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タンコ(炭鉱) だって?

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族は、庶母と父、それだけだ。私が長男で、亡くなったお祖母さんには息子が1
人しかいなかった。私には息子が2人だけだ。家で海苔を少し栽培し、生活して
いた。海苔、自然のもので、こんなにくっ付いていた。我が家は、農事はせず、
海苔を栽培して暮らしていた。で、徴用に行った。冬に行った。冬に行って、解
放になって戻って来た。もう1月いれば、2年になる所だった。

誰が徴用に行けと言ったのですか? 
当時は郡守より里長が上だった。その時は里長を区長と言っていた。その人
の名前が良く思い出せないが、行けと言った。何か紙を貰ったか貰ってないか
は分からない。まだ父親が生きている時だったので、父親が受け取ったのか、
知らない。それで、仕事をしている時に来て、面の事務所から通知が来たと言
い、その次の日にすぐ、徴用に出かけた。次の日なので逃げだすこともできずに
そのまま行った。

どこに集まったのですか?  

だから、ここに集まり、瑞山 (ソサン)、当時は瑞山郡と言っていた。それで郡庁
に行った。その時、瑞山郡から80名以上が来ていた。うちの所遠(ソウォン)
面でも何人かが行った。ほかの人は思い出せないが、朴サヘンという人が一緒
に行った。その人は波涛(パド)里、そこに住んでいた。我々よりは若い。そし
て、李グゥアンソンと言う、波涛里に住んでいて解放後、所斤(ソグン)里に引

っ越した。あー、あの **里にも人がいた、1人いるのだが、崔、崔・・だけど、名

前が出てこない。

どのようにして行きましたか?  

一緒に〔郡庁に〕歩いて行った。その時、兵事係が引率した。引率して、釜山
に行った。汽車があったが、それは何の汽車だったか? 何だ、貨物列車でもな

く、他の汽車。油で走る汽車ではない。洪城(ホンソン)で、また人を乗せた。

洪城で人を乗せたので、人が多くなった。百名以上になっただろう。皆を乗せ
た、ここで乗せ、あそこで乗せ、皆を乗せたから、正確にはわからないが、百名
は超えただろう。行く途中で逃げないように、日本の奴が見張っていた。日本の
奴のために、身じろぎできずに行った。大便をしようとすると付いてきて、小便

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にも付いて来た。だから、逃げだすどころではなかった。捕まりでもしたら、死
ぬ目に合った。

そのようにして、日本に行ったのですか?  
ただ乗せられて、夜になった。どこを通っているのかも分からない。釜山で一晩
寝た。旅館で。それから釜山から日本の テパン(大阪)に行った。汽車に乗り、
汽車だよ。汽車に乗って、テパンで降りた。テパンに行く前に、どこだったか、
ハカタ(博多)という所で降りて、行った。後から聞いたんだが、ハカタと言っ
ていた。当時はそこがどこかわからず、そしてテパンに行った。我々を汽車で連
れて行った。そこは所遠(ソウォン)面よりも平らで広かった。そこの工場に行
けと言われた。

到着してみて、どうでしたか?  
行くと直ぐに、家のことだが、工場の横に建っている家を、空襲が来るから壊
せと、家を。当時、空襲があった。木造の家を、我々に全部壊せと言った。工
場の横、周囲を囲んでいた。その工事を3か月した。それをした後も、他の仕
事をした。

何の工場だったか知っていましたか?  
何の工場かを知っておくべきだ。後に金属の仕事をさせた。家を壊せと言った
後、金属を選り分け、真鍮を鎔かす、そんなことをした。真鍮、丸いものだが、

〔炉に〕入れると一度に水のように溶ける。岩のようなものも入れるとすぐに熔

ける。そして熔けたものを型に流す、韓国人に注ぎ込めと言った。その仕事をし
た。戦争がさかんになり、戦っていた時だから、もっと鉄砲の弾、鉄砲の弾を作
れと。その型は四角で、工場はとてつもなく大きかった。

最初の5か月はどこで寝たのですか?  
だから、ほぼ1年は宿舎で寝た。工場の外にあり、工場まで歩いて20分、30分行
けばよい。車に乗って通った。このように両方に門があって、ここにも、そこに

も門があった。このように門は多いけれど、3人ずつしか入れないようにしてあ

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タンコ(炭鉱) だって?

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る。部屋は多い。このように中に廊下がある、このように。全部が部屋だ。床に
は何かスポンジのようなものが敷いてあった。1人に毛布3枚ずつ、1部屋に3人
しか入れない。

食事はどうでしたか?  
飯は、ここではメシと言うが、その時は握り飯、固めたものを一つずつくれる。
水もくれず、1日3回、そんなふうにくれた。1日に握り飯三つ。三つだけくれるの
だが、おかずがあるか? 握り飯はおいしくもなく、少ししょっぱくて、握り飯と
は言うものの、我々のよりは小さい。

工場ですが、工場の周りにあった木の板で作った家をすべて壊す仕事をし
たのですか? 
空襲がやって来ると家は燃え上がってしまうので、引き倒した。それは、みんな
人が住んでいた家だ。工場の横にあり、住んでいた家だ。ところが、空襲で爆
弾にあえば、耐えられないから、全部引き倒すというのだ。我々に引き倒せと言

った。家には40家族ほどが住んでいた。その日の夜に引っ越すようにとマイク

で言っていた。〇〇〇がやって来たと。そして、我々を一カ所に集めた。石で新

しく建てた家にはすぐに爆弾が落ちた。我々はただそこにいた。そこには、日本

の奴で若い者は1人もいなかった。若者はいなかったが、昼に軍人が竹を銃のよ

うに削り、お互いに突き合って刺す練習をしていた。

工場では事故はありませんでしたか? 
工場でも、たくさん死んだ。建物の外には塀が見えるが、(*空襲になると) 事前
に避難しなければならない。出ていこうとしても、奴らは門にしっかりと鍵を
掛けている。それで死ぬ、そこで。奴らが門を閉めて出られなくするから、そこ
に爆弾が落ちれば、死ぬよ、どうしようもない。そのようにされ、生きていたの
だ。50名ずつ配置される、配置されて仕事をするが、その日の当番がいた。当
番になった人が最後に出てくる。当番は皆が出てから最後に出る。当番は皆が
出てから、そうしなけりゃならない。当番が先に出て門を閉めれば、我々が出

られなくなり、死んでしまう。そうして、いざ空襲が来れば、防空壕に避難しよ
うとしたするが、日本の奴、女性達が、防空壕は「ダイジョウブ」と言って、中

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にいれば大丈夫だと言っていたが、事故に遭って、我々は死体80体を引き出し
た。全て日本の女、娘達だった。全く不思議な事があるものだ。死んだら、我々
に引っ張りだすなり、何とかしろと言っていた。

その死体はどうしたのですか?   
アイゴ! 燃やすんだ。川に置き、ブリキを敷いて、油を掛けて燃やす。最初にこ
れを取り、ここの頭蓋骨の部分を取り、箱に、丸い箱にこのように入れる。あと
で探しに来る時があるだろう。そのために名前だけ書いて貼って置く。捜しにこ
いと言うと日本の奴はくるようだ。その日、韓国人で頭に被害を受けた者がいた
が、死にはしなかった。その時、頭に火傷を負い、病院で治療を受けた。

他の日に亡くなった朝鮮人はいましたか?  
たくさん、たくさん死んだよ。朝鮮人はそこで。その人達は「ダイジョウブ」と
言って、出られなくしたので、爆発して死んだ。そこに入っても、良いことはな
い。皆死ぬんだ。その人達も、我々に燃やして、水に流せと言った。土の下に埋

めるのではなく、条件もなく川に入れる。そうすれば流れて、流れて行く。

頭を怪我した人も多かったですか?  
そんな人も多い。それで病院に行き、治療を受ければ治るには治る。それか

ら、水車のように回っている所がある。そこの仕事をする時、奴らがじっと見て

いる。そうすると、カタ(型)に金属の塊をもっと詰めろ、詰めろと言う。その通

りにしていれば、我々は怪我をしない。それでも、金属の塊を運んでいて、事故

にあうこともある。頭に落ちてきて怪我をすることも、そんなだった。銅熔解の

場所に1年以上いた。

それでは、ずっとご飯は握り飯を一つずつしかくれなかったのですか?  
握り飯は最初2か月くれて、後は全部豆入りだ。最初はそうだったが、後は豆ご
飯をくれた。木にこのようにしてくれた。弁当だと。それは米が十数粒混じって
いる。全て豆だ。おかずにはタクアンの数切れ。ああ! 腹が減って、死にかけ、
生き延びた。

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タンコ(炭鉱) だって?

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休みの日はなかったのですか?  
休みの日はなかった。空襲のために、仕事ができないので、休みもなかった。そ
れに、我々は防空壕に入れない。防空壕に慌てて入ると、日本の女がいるだろ

う。我々韓国の人が入れないようにする。だが、どうしても隠れなければならな

い。それで、夜昼なく、避難のため、走り回るのだ。防空壕に入れないから、走

り回らねば。焼夷弾と爆弾が雨のように降って来る。まるで花畑になる。花畑。

昼に空襲は無い。夕方、午後を少し過ぎると、その時からだ。B29が50機も来る
のだ。私は爆撃され、腰が使えない。

それは銅を熔かす所にいる時も、そうだったのですか?  
銅を熔かす場所にも空襲があった。ところで、私が当番で遅く出てきて、どこに

も入る所がなく、大きな鉄の桶、煙突のような大きなもの、鉄の桶に、禮山(イ
ェサン)の人が私から入れと言うので、駄目だ、お前から入れと言うと、入った
ので、後から入った。狭くて腕をこんなにして入った。その人はここが切れた。
その鉄の桶にぶつかったようだ。2本の腕が切れた。それで治療を受けたが、手

が切れて無くなった。そこで治療を受けて出て来たが、さてジャガイモのような
物を与えると、足でこうやって食べる。その人は禮山の人だ。禮山。昔の事だか

ら、名前は知らない。

爆弾が落ちて、腰を痛めたのですね。その後はどんな仕事をしました? 
その後は、できなかった。ただ、彼らがしろと言う通りに、仕事をした。結局、
人々がした後、残った武器を全てビニールで包み、大きな桶に釘打ちして置い
た。最も値打ちのあるものだけを包んでしまった。つまらないものは包まなかっ
た。ビニールで何重にも包んで大桶に入れて置いた。「解放になる、ならない」

と言っていた時、値打ちのあるものだけ包んで取っておいた。それは解放後、

我々が出る前にしていたことだ。その後のことは、私達が出ていったからわから
ない。

解放前の事ですか?  
解放になってからの事だけど、解放前にもしていたろう。武器を後で使うため

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にそうしたのか。武器を後で使おうとしたんだろう。手をあげた後、出て来る
時。全部そのようにして、後で使おうとしたんだ。銅を熔かす所で、銃弾を作
っていた。銃弾は最後まで作っていた。その人達は韓国人にそれをしろと言っ
た。私は銃弾を作るのに失敗したので、するなと言われた。そこは軍需工場だ
った。

給料や他の条件はどうでしたか?  
給料をくれるか? 食べる物もまともにしないのに、給料がどこにある? どこに
風呂がある? それもなかった。服も作業服と言って、くれはしたが、その時の作
業服は着られるような物でなかった。着られるものは、我々にまで回って来なか

った。ひどい物だけをくれた。

解放されたのは、どうして知りましたか?  
解放直後に、解放されたとそこで言われた。長官がいたが、とてもひどい奴、日
本の奴だ。自分の刀を取り出して刺す。長い刀がある、長い刀。とても残酷だっ
た。我々は腹を刺して死ぬのを見た。アルコールを飲んで死んだ、アルコール

を飲みながら、そいつは、最初に〇〇〇していたが、焼けて死んだ。手を付け
られなかった。バリバリと燃え、手を付けられなかった、バリバリと。とても悪

辣な奴らだだ。

解放後、どうして戻って来ました?   
解放になれば、我々韓国人をこちらに送ってくれるか? 我々を送って、そいつ

ら(*日本人)が帰っても来る。日本の奴らは自分の国に戻って来る、手をあげ

たから (*降伏したから)、日本に戻って来なければならないし、我々を送らなけ
ればならない。しかし、船を待たなければならない。船を待っていたら、日本の
奴らが送ってくれたので戻ってきた。家に帰れと、旅費もくれず、ただ送ったん
だ。それで戻ってきた。

大阪から来たのですか?  
博多から船に乗って来た。大阪から博多まで来て、旅費はくれなかったが、送

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タンコ(炭鉱) だって?

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ってくれた。そうやって来るほかはなかった。解放されたから。金は出さずに、
そのまま乗った。朝鮮の人間なので家に帰らなければならないから、乗せてく

れと言って、乗った。そこから連絡船に乗って帰ってきた。
 
解放されてすぐに家に送ってくれたのですか?  
解放されて、かなりいてから、出てきた。3~4カ月過ぎてから出てきた。解放さ
れて、何の仕事をしたかって? 仕事はしなかったが、飯はくれた。飯は豆だ。
飛行機が倉庫を、食べる物が入っている倉庫を壊したので。どこでも、食糧が
少しでもあれば食べられる。(*米軍の爆撃で、) 食糧倉庫が破壊され、どこにも
食糧などなかった。韓国人には豆だけ与えた。
 

日本に来てから、途中で家に手紙を送りましたか?   

手紙が来ることがあったか? そんな時間もなかった。たとえ書いたとしても送

ってくれない。韓国の若者の手紙を、どうして送ってくれるというか?

家に戻ると家族が喜んだでしょう。その後、どのようにして過ごしましたか?  
ああ。戻ってきたけど、ひどい状態だ。腰を痛めていたため、仕事ができなかっ

>>> 

朝鮮人を乗せて帰るため、博多港に入港した船

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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た。治療を受けたけど、元には戻らず、怪我のために仕事ができなかった。怪
我をした時、病院が工場の横に別にあった。その時も1か月半ほどは通った。そ
れは解放になって、帰る頃のことだった。
  

面談者:李秉煕 調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

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李士炯(イ・サヒョン)

李士炯(イ・サヒョン)
慶箕哲(キョン・ギチョル)
嚴正燮(オム・ジョンソプ)
朴鎭亨(パク・ジンヒョン)
陳顕秀(チン・ヒョンス)

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03

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タンコ(炭鉱) だって?

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09
李士炯(イ・サヒョン)

東京 - 三菱製鋼(株)深川製作所(上)

新潟県 - 中央工業電気工業株式会社田口工場(下)

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16) 17)

年齢はお幾つですか?  
1927年6月9日生まれ。戸籍の年齢はそうなっている。本当の年齢は違う。本来
の歳は、誕生が3月の陰暦で、3月20日だ。父母が戸籍を遅く出し、住民番号も

16)·東京 三菱製鋼(株) 深川製作所、1942年に三菱製鋼(株)と三菱鋼材(株)が合併し、三

菱製鋼(株)を設立。深川製鋼所は三菱鋼材によって1941年に新設された工場。

17)·新潟、中央電気工業株式会社田口工場· 1922年に中央電気株式会社設立、1943年に中央

電気工業株式会社となった。田口工場(現·妙高工場)では電気を利用し、電解金属マン

ガンを生産。

李士炯 (イ・サヒョン)  男、78歳  
1927年6月9日

全羅北道高敞(コチャン)郡 心元(シンウォン)
面で出生

1945年1月の頃 心元面から強制動員され、東京深川の三菱製鋼16) 

に移動、3カ月の訓練を受ける。

1945年6月1日

三菱製鋼所を脱出して、新潟の田口に行き、中央電
気工業田口工場の八工場17)で仕事

1945年9月頃

解放により、帰国

鍛冶屋の鞭叩きは
本当に酷いんだ!

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タンコ(炭鉱) だって?

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遅いままの記載で、6月9日になっている。6月9日。それが戸籍に書かれている。

日本に行く前には、こちらで何をして暮らしていましたか?  

農業をした。学校には行かなかった。日政の時、日本語も良く知らず、学校も行
かなかった。ところが、日本に行き、3カ月いた、大方聞き取れた。その前に漢
文を教える書堂(ソダン)に行っていたから。日本のヤツらは書堂に行けないよ

うに、妨害した。それで書堂は無くなってしまった。日本の奴が行けないように
してしまった。私が7歳から書堂に通い始め、十何歳か、15歳まで通った。それ

で、その前に漢文を良くできたとは言わないが、少しできた。しかし、続けてい
ないので忘れてしまった。残念ながら忘れた。『小学』まで勉強したのに。

日本に行く当時の状況はどうでしたか?  
当時の状況は、私は18歳だった。昨日の事のようだが、もう数十年も過ぎたこと

だ。私が18歳の時に令状が来た。令状は小さかった。(*A4の半分) このぐらいし
かない。そこに、いつまでに出てこいと。高敞(コチャン)まで出てこいと書い
てあった。その頃は、車もなく高敞まで歩いて行った、自分の足で。

その時、兄弟は何名いましたか?   
独りっ子、独りっ子だった。父も 独りっ子、私も独りっ子。息子1人。息子が1人
だ。姉妹はいる。姉たちがいる。男女7人だった。全て姉で、私の下に妹が2人、
妹だけいる。息子を産もうとしたのだが、娘ばかり生まれた。

令状の内容は記憶していますか?  

ああ!もう60年も過ぎたが、覚えているかだと? 思い出せない、それは。令状を

くれながら、どんな事かと話もしなかった。無条件で日本に行け。家から母が高

敞まで歩いて付いて来て、大変だった。「一人息子なのに、行ってしまったら、

どうなるの?」と泣いて、泣いて大変だった。我々は高敞まで歩いて行き、トヨ
タ(豊田)のトラックに、トラックに乗せて、井邑(チョンウプ)まで行った。井
邑で降りて列車に。良い列車に乗ったかって? 貨車だ。荷物を載せる貨車だ。
それに乗って、釜山に行った。

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関東地域

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高敞(コチャン)には何人ぐらい集まったのですか?  

トラックに乗って、とにかく、そのトラックに我々と一緒に乗った人は、金堤 

(キムジェ)、高敞の二つの郡からの人だ。井邑(チョンウプ)にどれだけいた
のかは分からない。金堤、高敞で日本の奴2人がリュクサックか何かを担い
で、我々を連れに来た。日本から直接、来た。それで、金堤と高敞の人を毎日
のように集めた。日本の奴が2人やって来て、2人で我々を引率した。そいつら
が引率した。朝鮮人でなく、日本の奴だ。身体検査のような事もせず、無条件
で連れて行った。

集まった人たちは、お爺さんと同じ年頃でしたか?  
歳が多い人もいる。私より1歳年下もいた。私が18歳、私より1歳年下もいれば、
年長者もいた。無条件で捕まえて行ったんだ。

逃亡した人もいましたか?  
逃げ出した人もいた。釜山から少し行くと、大麦の飯を少し、大麦をこのぐら
い一つずつくれたが、その時に故郷を思い出し、悲しくなった‥‥‥。それから
は故郷が思い出されるばかりだった。釜山から連絡船に乗って日本のハグァン

>>> 

朝鮮人達が出発する前に神社に参拝する姿

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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タンコ(炭鉱) だって?

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(下関)まで。「何時間かかるのか?」と尋ねると、8時間かかると言った。8時間

が釜山から日本の下関に到着する時間だと。しかし、何と! 夜中になっても到
着しない。途中、テマド(対馬)を過ぎる頃、ここで枕大のものを担いで出て来
いと言われ、外に。それを担いで、24時間、海に浮いていた。

何を担いだのですか?   
枕のようなものを担いだ、そして水に浮かんで24時間、楽にしていた。浮いて沈

まなかった。みなそれを担いで出てこいと言った。それで出た。出たが、しばらく
して入れと言った。解除になったと。それが夜だった。その時は大東亜戦争の時

だっただろ? 米軍の飛行機がやって来て爆撃するので、どこか島の陰にいて、去

るのを待った。空襲解除の時間を利用して行ったから、2日目の明け方にハグァン

(下関)に到着した。

夜明けに下関に到着して、どこに行ったのですか?  
下関に到着したが、人々は死んだような状態だった。無理に、奴らが船に乗せ
たので、船酔いで皆死んだよう、糞尿まで垂れ流し、皆死んだようになった。

まともに歩けなかった。下関で降りて、我々は東京に行く事になっていた。東京
に行くため、下関で降り、そこで2日泊まった。なぜそうしたかって? 空襲。空

襲で鉄路が飴のようになり、鉄がまるで飴の棒のように曲がってしまって。それ
で3日後に、大阪、名古屋などに立ち寄りながら。駅の前には人が沢山死んでい
た。大量死だ。各地で人が犬を焼くように、爆弾にやられた。 

どうやって、それを見たのですか?   

列車から見た。線路一本で通って行った、そんなだった。駅前も皆燃え上が

り、それで東京はどうなったか! 下関からそこまで直に行ったのだが、長い時

間がかかった。空襲のために。それで、夜中に行き、日本の東京駅で降りた。
当時は朝鮮と言い、韓国とは言わなかった。わらじを履いて、ああ、それから! 
韓服も着て行ったが、このわらじが破れて、素足で夜、どこかを歩いた。とこ
ろが、空襲のために電気の灯は使わない。1日前に行っていたら、我々はみな死
んでいた。到着地に行くと、我々が行く目的地は1日前に爆撃されていた。爆弾
で。そこは東京のフカガワ(深川)区 (現在の江東区の北西部)、我が国で言え

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ば、ソウルの恩平(ウンピョン)区のような所だ。それで、そこを目的地にはで
きず、戻って他の所に行った。行き先が変わった。皆燃えてしまったから。それ
でフカガワ(深川)区のミツビシ(三菱)セイクンカブシキ(製鋼株式)会社に
入った。株式会社だ。

それは何をする会社ですか?   
鉄工所だ。鉄の塊で物を作る所。鉱石から抜き出した鉄を、火で熔かして型に
入れ込む、汽車用の鉄や他の物も作る、そんな鉄工所。そこで、3カ月間、訓練
を受けた。

どんな訓練をしたのですか?   
当然、軍人のように軍事訓練を受けた。韓国語で言えば「チャレ (気を付け)」

「シオ (休め)」この手の先がここに付いても、鞭を持って来てパチッと叩く。18) 

横腹にピッタと付けなければ、鞭を持って来て、手をパチパチ叩く。食べる物を

まともにくれたかと? 毎日、キムチの切れ端をこれぐらい、3切れ。そして飯も

玄米をくれる。1人ずつくれるが、殻は半搗き、幾つかは半搗き、剥いてないも
のだ。そして日本のヤツは「5分内に食事をしろ!」という。だから食べ終わらず

に出る。そうしないと棒を持って来て叩く。そんなふうにされた。眠ることもで
きなかった。

訓練する時、宿舎が別にあるのですか?  
ああ、宿舎がある。2階、3階まである。しかし、それはコングリ(コンクリート)
の家ではなく、杉の木でできていて、日本では杉の木をこんなに植えている。2
階、3階まで。それで、ああ!米軍の飛行機が数百機ずつ飛んで来るので、眠る

こともできない。300機来ると言っても、300機が一遍に来るのではなくて、夜は

一編隊ずつ飛んで行く。300機も飛べば、夜が明けてしまうから。それで眠れる
か?眠れない。

18)·*面談者注:規律の姿勢で手をピタリと脚につける様を説明

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タンコ(炭鉱) だって?

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飛行機が来ればどこに避難するのですか?  
防空壕を掘って、防空壕に入るのだが、防空壕に入れば、そこは死の穴にな

る。日本の奴は家の地下に防空壕を掘り、そこに入る。家が全て燃えれば、その
中で皆すっかり死んでしまう。ただ一点避けることができるのは、高射砲の破

片や爆弾の破片、それだけは予防できる。そこは死ぬための墓のようものだ。
破片のようなものは、防空壕の下に隠れていれば、避けることができる。そのた
め、夜、眠ることもできない。私は、破片の火が服につき、それを脱いで生き残

った。そんなだった。

訓練所と鉄工所は距離が遠いのですか?  
訓練所が別にあるのではなく、その工場の周辺にある。広い運動場があるだろ

う? (*手の指で円を描きながら)、このように、学校の運動場ほどのもの。そん

な所で訓練をした。ところが、そこも皆壊されて、工場だけが残った。皆壊れ、
東京市内、あの広い市街が燃えてしまい、何棟も残っていなかった。最近は復
興しているが、当時は何棟もなかった。でも、ショワ(昭和天皇)がいる所は家
がいっぱいだった。そこだけは残っていた。日本の各地が無くなった。なのに、
奴らは分別もなく、広島を原子爆弾、爆弾で攻撃した。

鉄工所でどんな仕事をしましたか?   

どんな仕事? 鍛冶屋に入って、鉄を叩くこと。それを、鉄を削るとか、そんな事
をした。道具がすり減ってしまうから、それを直して使用した。そこに鍛冶屋が
あった。鍛冶屋で仕事をするが、鍛冶屋の鞭はひどくおぞましい。日本の奴で

測量をする者がいたが、そいつは殺したくなる奴だ。やってきては殴打する、間
違っていると言って。

日本人はひどくしましたか?   
日本の奴のひどさは言葉では言えない。当時、日本人もたくさん仕事をした。工

場で1日に、通常、1人は死んだ。人が不足していた。おう!この鉄を熔かして長

くするのに、大きなヤットコでしっかり掴み、こんなにする。それを受けて、他

の穴にブスッと入れてやると、機械が回る。いい加減にしてれば当たって死ん

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関東地域

169  

でしまう。鉄の塊を受取れなければ、死ぬんだ。

仕事をする時、何か組のようなものがありましたか?   
そんなものはなかった。技術者1人、私のように鉄を叩く者が1人、そんなだ。技
術者は日本の奴だ。鉄を火で焼いて熱くさせ、このように叩けと言われれば、そ
れを私が叩いた。

工場には、どこの地域の人が多かったですか?   
我々が行った時は、他の地域の人は分からなかったが、金堤、高敞などの人は
分かった。他の所の人は見なかった。慶尚道の人もいなかった。工場に我々が
行った時、爆撃にあって工場がなくなっていた。我々はとんでもない所に行っ
たのだ。だから、他の所の人は見られなかった。それに、日本の奴もそれほど多

くはなかった。指導者、つまり、訓練させたり、指導したり、そんな人だけがい

た。工場では娘達も仕事をする、そんなだった。

娘さんたちが、どんな仕事をしたのですか?   

どんな仕事をしたかと言えば、昇降機、工場に昇降機があるだろう。昇降機。

鉄の塊をワイヤーの綱をかけると、すっと上がっていって、それを外に下ろす。
外に下ろす。それを娘がしていた。工場には年をとった人、年寄りしかいない。

日本の奴は老いぼれしかいなかった。

工場では、何時から何時まで仕事をしましたか?   
それは、夜明けの5時に起床した。起床してから、運動をした。体操、それもし
た。今それをしろと言っても、皆忘れた。ははは。国民体操、その程度だ。首や
肩を回すのも同じだ。あー! 当時、苦労したことを考えると、夜明けの5時に起

きて、運動をし、その次にほんの少しだが、飯を食い、仕事をして、昼食を食べ
る。食堂があった。行って食べるが、5分でと言う。5分以内に食べないと、「食
えないのか?」と言って、棒でめちゃくちゃに叩く、日本人が。そして、そこを出

て、仕事をして、夕方5時頃に終わる、そんなだった。戻ると点呼だ。

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タンコ(炭鉱) だって?

170 

点呼はどのようにしたのですか。   
毎日する。毎日、1日も欠かさず。朝の点呼、夕方、寝る時の点呼。日本語で「コ
キョ、ムケ (皇居、向け)」と、故郷〔以下、皇居と訳〕に向いて礼をしろ19) と言

うので、皇居に向いて礼をした、わが皇居に。「コキョ ムケ」 と。皇居に向かっ

て礼をして、そして就寝だ。電気は点けない。空襲があるから点けない。消灯し
てしまう。

宿舎はどうでしたか?   
我々が行った時、1部屋に7名が寝た。2階で。畳の部屋だ。そんな部屋が建物ご

とに数十室あった。通路があってその両方にあった。多くはそんな建物だ。

そこで逃げる人はいませんでしたか?   
いないわけがないだろう? 逃げて捕まってくれば、ひどくぶん殴られた。どこに
行っても、捕まって殴られた。ところで、工場は川辺や海辺にあり、塀などはな
かった。海に、このように島のようにあった。このように丸くなっていて、その中
が全部工場だ。工場の宿舎もあった。そこから東京に行こうとすると川、大きな
川が一つあった。

川が一つあったのですか?   

うん。この川の橋を渡って行く。ところがこの橋がずれた。板で臨時に何とかし

てあって、我々は渡った。工場もその中にある。皆ここに住んだ、その道を我々
は入って行った。ここ、橋がずれて板を臨時に置いているが、その道を入って
行った。日本の奴は目がいいようだ。我々は3日間、腹を空かしていた。下関か

ら東京に行ったが、3日間食事はない。履いていたワラジも全てダメになり、座
り込んだ。我々は座り込み、「これ以上行けない」と言った。そしたら日本の奴

が、引率者のような奴がリュックサックから菓子を2つずつ出した。カンパンで

もなく、菓子と言っていた。その年にはカンパンも無くなっていた。菓子を2つ

ずつ出したので、それを食べて、入って行った。

19)·口述者は·「皇居、向け」·の「皇居·(こうきょ)」を「故郷·(こきょう)」と誤解していた。

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関東地域

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目が良いという言葉は、どう意味ですか?   

我々が3日間食べずに来たので、お粥を炊いた。味噌を入れて、お粥を炊いてく
れた。3日間腹を空かしていたので、それを食べたが、量は多くないため、もう
一度食べようと入って行った者がいた。もう一杯、貰うために。最初は良かった
が、3回目は摘まみだされた。「俺の目は千両ものだ」(私の目は一千の目だ)と
言って叩いた。その日本のヤツが、「私の目は千両ものだ」と怒鳴り、目をギュッ

とさせ、睨みをきかせた。

その人は継続して工場で監視する役割をした人ですか?   
それが親分だ。日本の奴で、名前は分からない。腕章、そんなものもなかった。
指導は40代、50代ぐらいの奴がしていた。出退勤する時、印鑑を押すようなこ

ともなく、そんな事は何もなかった。

給料は受け取りましたか?   
俸給、給料などもらった事はない。家に手紙で連絡をした。皆、手紙の連絡は

した。ところが、金をくれないから、家に金は送れなかった。給料もないのに、
どうやって金を送れる。給料は一銭も貰わなかった。タバコ代なども一切なか
った。その時、未成年だったので。18歳だったので、タバコなどはなかった。花

札、そんなものもなかった。その当時、我々は、箱を破り、花札のように1、2、
3、4と書いて、遊んだものだ。

外出はできませんでしたか?   
外出、その話をしよう。父も独りっ子、私も 独りっ子、だから「私がここで
死ねば、父は永遠に門を閉じることになる (*先祖代々の家系が断絶)」と考
えた。当時、私は18歳、昭和20年(*1945年)6月1日から行事があり、そこに
遊びに行って来いと、このぐらいの握り飯を1つずつ包んでくれた。我々は前
から逃げようと準備をしていた。倉庫に米や豆を焦がしたものなどを運んで
非常用に準備しておいた。そのようにしておき、遊びに行けと言うので、そ
の日、出かけた。日本の東京市内へ、何だったか、地下鉄。地下鉄駅に行っ
た。切符の買い方を知っておくべきだった。その時が、初めて工場から外に

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タンコ(炭鉱) だって?

172 

出た時だった。当時は「イド ショメショ」、日本語で移動証明書というのがあ
った。我が国で言えば、罹災民証と言うか。そんなのがあった。それがある人
は切符を買えた。切符をどこまでも買えた。ソウルまで行くと言えば、売って

くれる。我々のような一般人はそれがないから、3駅までしか買えない。切符
を買う方法が分からず、横でする人の言葉を聞いて「キピョ イチマイ ドコマ

デ クダサイ (切符1枚○○まで下さい)」。先ず1人が前の人がするように言った
ら、くれた (笑い)。私は耳が少し良い。日本のヤツは漢字をよく使う。漢字を
少し読めればいい。駅では全て漢字で書いてある。そのようにして切符を貰
った。それを持って、私まで含めて3人で逃亡した。

3人で逃亡したのですか?  
3人で逃げ出したが、駅を3つしか行けず、3つ行って、また切符を買った。我々
が目的にしたのは、新潟だ。新潟。

何故、そこに行こうとしたのですか?   
ハグァン(下関)に行けば、帰るのに近いのだが、逃亡者が多く、捕まって

しまう。地図一つで、ニガタ(新潟)に行ったのだ。ところでこんな事もあっ
た。面白い話だ。行く時、お腹も空いたので、旅館に入った。泊まることはで
きるが、食事はないと言う。それで、食事はなくても良い、寝かしてくれと言
った。しかし、お客さんが来てくれたので、何とか食事をしてくれた、その旅

館で。それで、食事をした後、風呂に行った。風呂に入ろうと行くと、わ! 女

と男が一緒に入る風呂だった。ドアを開けて入ると、女もすっかり裸だった。
そうしていると、女が「ドージョ、イラッシャ」と言った。「中に入れ」という

言葉だ。そこに行き、女と一緒に風呂に入った。その旅館で。そして、次の日
に出発したが、電鉄に乗ったのだが、どうも戻っているような気がした。どう
なっているんだ!それで一緒に行った人に「どうも、逆に戻るのに乗ったよう
だ」と言った。

反対に行くのに乗ったのですか?   
逆に乗っていた。私の目はよく効く。下りてみると、もと来た所に戻っていた。
駅3つを引き返したとすれば、そこから駅6カ所を行かなければならないのか? 3

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関東地域

173  

駅損したのだ。そこで電車に又乗った。ニイガタケン タグチ(新潟県田口)、チュ

ンアン チョンキ コンオプ(中央電気工業)チュシクフェイサ(株式会社)タグ
チコンジャン(田口工場)という所に行った。田口は〔韓国語で〕「チョング (田
口)」 だ。田の「チョン」と入口の「グ」という字だ。そう駅前に書いてあった。
ニイガタケン タグチという所にいて、解放後、そこから帰って来た。

田口に到着してから、どのくらいして解放になったのですか?   
ああ!長くいた。その人達とこんなふうに出会った。(*隣の部屋を指し示しなが

ら) そこ、ニイガタ タグチという所に行って、李ジェピョンや何人かと会った。

今は皆、死んでしまった。そこに私の田舎の人達、私の村の人もいた。なぜそう
なったか、ああ!その話はとても長くなるよ。

長くなっても良いです。お願いします。私は知りませんので。   
それで、2人と、いや3人と行ったが、夕方の汽車を待つため、事前に立ってい
なければならない。クダリ。地方に行く汽車をクダリと言う。そこで私に立って
いろと言った。我々は3日間、食事をしていなく、どこかに食べ物があるか見て

くると言って2人が出かけた。でも、戻って来ない。食べる物を探しに行って、

戻って来ない。この人達、私の飯を買いに行った人が、私の飯を買ってくるには
遅すぎはしないか?「彼らは憲兵に引っ掛かり、私を置いて行ってしまったので
は」と、 私はそう考えた。「どうして良いか分からなかった。西の方に行けば、
我が国が見える、そうだ」と思い、山道を一目散に登った。山をかなり登った。

ところが日本人が2人、女1人、男1人、下りて来た。私は日本語で何と言えば良

いのか? それで、大体こんなに言った。「コノミチハ ナンノ ミチデスカ」、「ニイ
ガタマデノ ミチデナイデスカ?」と。尋ねてみると、「ニイガタニ イク ミチデハ
ナイ」と言った。それで再び下りて行った、山道を。その男女はお墓に行って来
たようだ。横の道を行くようにと教えてくれた。それで、再び下りて、新潟に行

こうとした。で、二、三歩、歩いたが、「言葉も知らない私が、新潟に行って何
をするのか」と考え直した。3日間何も食べず、腹が空いて死にそうなので、あ
る家に行き、「オバサン、オバサン、メシヲ スコシ クレ」と言うと、「飯ないです
よ。困るね」と言い、警察に知らさなければ、と言うのだ。

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タンコ(炭鉱) だって?

174 

警察に、ですか?   
警察に行って証明書を受ければ、その証明書を持っていれば、無料で汽車
にも乗れ、どこにても行けると。それで、警察に行こうと言うので、ぎくり
とした。私は逃げて来たのに。いけないと思い、それで「私は東京から逃げ
て来た人だ」と言った。それで「ケイシャツ イッタラ ダメデショーネ」と
言った。「そうですね」、「警察に行ったらダメですね」、日本の婦人はそう言
った。日本人はじっと見て、困っていた。私が気の毒に見えたのだろう。そ
うすると、膝を手でうち、「あっ!この辺りに半島人がたくさんいます。そ
こに連れて行くから、行こう」と言った。そうして行ってみたら、私の村の
人、さっきまで隣の部屋にいた李ジェピョンら、心元面の人が10名余りい
た。とても嬉しかった。

そこが何と言う作業場でしたか?   
そこは山の畝間のような所だ。山の中だ。山の中で外から見えない所。それで
工場が1、2、3から8工場まである。でも、工場の名は知らない。朝鮮の清津(チ

ョンジン)から石を持って来ると、サッと割って。サッ、サッと割って、石を砕

いて入れる。窯に入れるとこのぐらいの塊になり、日本の娘たちがこうすると、
石だけが落ちる。そうして、それを他の工場に持って行って、大理石〔マンガ
ン〕を取り出す。〔中央電気工業は電解金属マンガンを生産〕

そこは、石を熔かす工場だったのですか?   
私は八工場に入った。そこには黒鉛というのがある。鉛筆の中にあるような物。

日本の奴の言葉では、黒鉛。そして、もう一つピッチ (pitch〔黒色の樹脂〕)、ピ
ッチというものがある。道路工事で使う土〔アスファルト〕のようだ。それも黒

い。そして、それを一カ所に集めて、一塊にする。それを電気で挟む、電気がよ

く通じるようにするのだ。その仕事をしていた。〔黒鉛と炭化ピッチで炭素材料

(電解用電極の素材)を生産〕。そこにいた中の1名が上がって来ず、そこから

逃げだした。〔食料で騒動が起き〕捕まって、警察に15日拘留された。 

15日間、拘留をしたのですか?   

うん、アライ(新井)警察署という所に15日間拘留された。我々は食料をもう少

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関東地域

175  

しくれ、腹が減る、そういった。我々が「もっとくれ」と言うと、「なにを言う」
と騒動になった。それで警察署から調査が来て、連行された。警察署に15日間

拘留され、出てきた。我々は警察署で、他の工場の住所を教えた。名前も皆変

え、そこに戻らないようにした。我々は別の工場の名を教えた。その工場から人
が来た。来てみると、そこで仕事をしていた人ではないことがわかる。警察では

3回連絡したから、人が来てはみる、しかし、違うとなる。警察は我々を留置場

に閉じ込めたが、結局、お前たちは帰って仕事をしろと、そう言って、八工場に
また戻った。そこに5カ月いた時に、解放になった。8月15日。日本の天皇が15日
の12時に放送をした。最初は知らなかった、聞かなかった。後で話を聞いて、

知った。

それで、家にはどうやって戻って来たのですか?   
家に行って、8月秋夕〔チュソク、旧暦8月15日〕に休もうと、帰ろうとした。解
放になり、家に帰って秋夕に休もうと言ったんだ。日本の女が食堂に3人いた
が、我々が朝鮮に帰るときに食べる握り飯まで用意してくれた。夕方8時に、リ
ンリンリンと電話が鳴った。「お前らは帰れない」と言うんだ。日本の女たちは
良かったと、ピョンピョン跳ね喜んだ。全く、わかっていない女たちだ。

その人達は何故喜んだのですか?   
我々が帰れなくなったことに対してか。そう、我々がいれば自分達の収入にもな
る。食堂で仕事をして暮らしていたから。そうやって彼女達は飯を食い、暮らし
ていたから。その時、なぜ帰らなかったのか、もう終わったのに、と思うだろ。
その頃、米国は機雷を海に流した。そうすると、船に磁石でくっついて、爆発
する。それで、韓国人が帰る時、500人か一度に死んでしまった。海で死んでし
まった。だから、それをみて、行けないと延期になり、3カ月? 3カ月延期になっ
た。その機雷が片付けられた後に帰って来た。

闇船に乗ったのではないのですか?   
闇船には乗らなかった、連絡船でもなく貨物船で、新潟港から直接、船に乗
って釜山に行った。そこで死ぬ目にあった。釜山に行くより、清津(チョンジ
ン)に行くのが近い。新潟と清津は近かった。ところが、直接、釜山に行った

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タンコ(炭鉱) だって?

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ところ、波が、波がひどくて。どうして波がこんなに酷かったのか、とても苦

労した。 

ひどい暴風だったのですか?   
風が吹いて、波がこんなに船の上まで水が上がって来た。釜山に行く船で、全
羅北道、全羅南道、慶尚道の人々が一緒になっていた。行く先ごとにまとめて
乗せた。全羅道の人は「こっちゃ来い」といった地方語を使って、教える。それ
から、釜山に来てからも、死ぬ目にあった。汽車、列車に乗ったが、汽車の上で
一晩中、乗っていた。その時は、もう一晩乗った。汽車に椅子はあるが、人々が

とても多いので、立っていた。だから、汽車がこのように入っていくのだが、人

が立っている。立っていたら、後ろから押すのだ。汽車が停まってもいないの
に、人々にひどく押されたので、私は汽車から下に落ちた。

汽車は停まりもしなかったのですか?

うん! 下に落ちてしまった。行ってしまった。石のように落ちてしまったのだ。
あー!なんてことだ、私が。後で気づいたが、トランクに臭いがする、便の臭い

だ。周りに大便をしてそのままになっていた。トイレで便ができなかったんだ。
便をしたくなればせざるをえない。トランクの隅が汽車に敷かれたが、落ちた
私は何でもなかった。そんなこともあったが、列車に乗って来た。故郷に戻った
んだ。

八工場では、石の塊を入れて砕く仕事をしたのですか?   
八工場で仕事をした時、真っ黒くて固いもの、機械で回転するものがあった。
機械、そこにこのように入れれば、串のようなものが刺さって、砕く。心元面の
1人がそれを突っついていたが、手が引き込まれたので、私が助けた。愚かな奴
であれば、助けもしなかったが。手の指3本だけの怪我で済んだ。そいつはもう
死んでしまった。ハン・サンスといったが、死んでしまった。

その工場で何時から何時まで仕事をしたのですか?   
その工場に何時に入ったのかは忘れた。とにかく出勤時間に入ると、工場の正
門で印鑑を押して行く。そして出て来る時も印鑑を押す。そうやって1日の仕事

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関東地域

177  

が終わる。ところで、私はそこで真っ黒になって仕事をしていた。風呂に入れと
石鹸をくれた。風呂に入っている時、耳に水が入ってしまった。不注意だった。
病院に行けといわれ、工場で印鑑を押して、病院から帰って来た時も工場で印
鑑を押した。それで、給料はそのままくれた。その時の給料がひと月30ウォン

〔円〕、ひと月30ウォン。病院費は無料で、車代も無料、工場で証明をしてくれ

た。「病院に行く」ときに1枚、工場で証明をしてくれた。そうすると、それを持
って朝、病院に行く時に工場で印鑑を押し、病院から帰るとまた印鑑を押す。
給料はまともに出た。30ウォンずつ、3,4カ月、受け取った。

この8工場は前にいた工場より良いですね?   

増しだった。飯も米飯で豆は入っていたが、こんなにくれた。前の工場のよう

に、5分内で食べろ、そんな事はなかった。そこを出て、他の所で土方をして
も、飯は腹いっぱい食べた。

土方の方が、むしろご飯もたくさんくれたのですか?   
飯も食べたいだけ食べ、金も稼いだ。ここの人達はみな、逃げて来て、土方で
生活してきた人だ。みな元々、徴発され、日本の奴の工場へと直接、仕事に来
た。期間が終わり、出て来た人たちだ。その人たちは私より先に行った人だ。と

ころで、我々は期間も切れる前に、解放された。一緒に帰って来た。

故郷に一緒に戻った人の中で、思い出す人はいませんか?   
私の故郷の心元(シンウォン)面からもたくさん行ったが、もうみな死んでしま

った。さっき言った李ジェピョン、彼だけが生きている。うちの村からは6人行
った。私李士炯、金ジョンヨン、李テグィ、チュ・パンドゥ、李ヘング、朴ボグ
ィの6名が行った。人々はみな東京に行った、一緒に。ところで、私は逃げ出し
た。李テグィ、金クムサンの2人は後から来た。あっ! そうだ。あのことが抜け
た、逃げ出した日の話。

逃げ出して、別れた話ですか?
その日、李テグィと別れた。ところで、彼の同期がそこ(*八工場)にいた。

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タンコ(炭鉱) だって?

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(*手を叩きながら)李テグィの同期は心元面の人で、八工場にいた。高敞の

人だ。さっきその話をした。飯を探しに行った人たちは後で来たが、私がいな
かった。「あっ!あいつは憲兵隊に捕まった」と彼らも私と同じように考えたん
だ。そして、山の上に登って、どこかで寝ようとした。そうこうしていたら、朝
鮮の歌を聞き、朝鮮人と分かった。それで朝鮮語で「ちょっと尋ねたいが」と言

った。その同窓が「お前、テグィじゃないか」と言った。日本人なら、テグィと
は呼ばない。そのように出会い、八工場に連れて来た。私のいる所へ。それで

一緒にいて、戻って来た。「我々は外に出れば、生きかえるようだ」それで、外
に出て、朝鮮の歌も歌い、歩き回った。仲間たちは長くいたから、内情を良く知

っていた。友達もたくさんできた。

八工場で李テグィとか金クムサンという人と一緒にいて、帰って来たので
すね?  

うん、一緒にいて、戻って来た。奇跡だよ、奇跡。あんなふうに会うことは、奇

跡だよ、奇跡。それから、捕まって日本の留置場にいたが、飯の皿の数が3つ
だ、飯の皿が3つ。ワカメの茎も3つ、それも各々だ。このぐらいの容器に入れて

くれた。それを食べていたが、ある日、李テグィの前に飯を3つ置いた。少し多

めに目の前に置いた。それで笑ってしまった。私が先で、彼も笑った。そうする

と、日本の看守が来て「お前たちの飯を持って来るからと、お前らの召使だと思
っているのか」と鉄の細い棒を持って来て、殴りつけた。

笑ったのですか?   
我々が笑った。そしたら、お前らの召使だと思っているのかと食って掛かって来
た。私は病人だ、痛いと言って横になった。そのままにしていたら、布団を一枚
持って来た。裏返して使った。私が最初に笑ったが、叩かれたのは李テグイ、
彼が叩かれた。(*笑い) ああ! 看守は交代する。後に別の者が飯を持って来た。

さっきの事を思い出し、笑ってしまった。(*笑い) そうすると、そいつもまた、叩
いた。いっそうひどく叩いた。そして水をくれなった。15日間、水をくれなかっ
た。どうしてか。我が国のようにその中にはトイレが別にある。扉を開けるとト
イレに行け、用を足せる。扉を開けるのが嫌だから、水をくれなかった。だから

「なぜ、水をくれない」と言って、必死に争った。全く呆れる話だ。それで日本

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関東地域

179  

語では「ヨオト (用足し)」と、その通りだ。正にそうだ。それで、日本の奴は東
京に電報を打ったが、返信はなく、その日に我々を出した。我々は出て、1、2、
3、八工場まであったが、田口という工場に行った。ああ!言い落としていること
がある。すべて話せば、本にすれば何巻もの小説になるだろう。

記憶力がとても良いですね?   
おお! 私は頭が良いと言われた。書堂(ソダン)に通う時、7歳の頃、『小学』

まで読んだから。その時、私がまともに勉強していれば、こんなふうに暮らして
いないだろう。

解放になり戻って来て、日本に行けと送った人々はどうなりました?  
驚いただろう、日本に行った人々が戻って来たため、面の職員も、区長も皆逃

げてしまった。一つの村で生活していたが、区長に何の決定権があったか? た
だ上から下達されてしたのだ。言われた通りにしなければ、区長は捕えられた
だろう。あの時は、農業をしても、米飯が食べられなかった。カマスを編んで、
車もなく、背負子で持って行った、背負子で、そんな時代だ。

面書記などはどこに逃げたのですか?   
それが、どこか遠くに逃げた、出て行った。区長はそのままいた。区長の名前
は、具チョン○か、金クィ○だったか、誰だったかな! 村の区長は一人かって? 

この人がしたり、あの人がしたりしていた。その前は10年間していた。当時の区

長は村の人が選ぶのではなく、任命制だった。だから彼らも面から下達が来れ
ば、令状を持ってくる。使い走りだけをし、それに反対すれば、捕まった。

お爺さん、日本の名前は何でしたか?   

日本の名前? 日本の名前は、初めて行った時は、東京にいる時、最初はクニモ

ト・シケイ (國本士炯)、イ・サヒョン(李士炯)なので、シケイだ。あの八工場に

行っている時は私が名前をナヤマ(名山)と変えた。捕まって東京に連れて行
かれないように。同じ名前にしていれば、捕まってしまう。それで、名前と住所

を変えた。捕まって再び東京に連れて行かれないようにした。

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タンコ(炭鉱) だって?

180 

日本で撮った写真はないですか?   
日本で撮影した写真はある。東京で撮った。団体写真はなく、一人で撮ったも
のだ。訓練を受ける時に撮ったものはない。日本の奴は撮っても、それをくれな
い、我々に。奴らは皆を写すのだが、我々にはくれなかった。日本で訓練を受け

て3、4カ月なったが、彼らは何をさせたかと言うと、死体の作業だ。

死体の作業? それは何ですか? 
海の潮が満ちてくると、このぐらいに脹れた死体が押し寄せる。死体が押し寄
せて来ると、鈎で引っ掛けて引き寄せる。引き寄せたのをトラックに載せる。載
せてから火葬場に放りこむ。それができない時は、穴を掘って埋めた。3、4カ月

して全て燃やしたが、死体が見つかると蠅がたくさん群がっていた。3、4カ月

経つとゴミが溜まるように蠅がウェンウェン飛んでいる。そこを掘ると死体が出
てくる。

その人達は、何をしていて死んだのですか?   
ああ! 誰が死のうと思う? 家に爆弾が落ち、死んだのだろう。熱かったので、
海の中に入り、死んだのだろう。どれほど熱いか、私が言うからよく聞いてく
れ。コッテという荷物を積む船があった。こんなに分厚く、数十年間も水に浮
いていた船だ。そこにこのぐらいの釘を載せていたそうだ。焼夷弾が落ちたの
で、釘が塊になり、船も全て燃えた。それほど熱いのに人間がどうして生きて
いられるか? 窓のガラスも全部溶けて飴のようになった。溶けて、塊になった。
なのに、どうして人間が生きていられる。生きられない。偵察機というのがあ
る。米軍の偵察機は写真を撮影する飛行機だ。昼にそいつがブンブン飛んで行

く。こう飛んで行き、日本の重要都市、工場都市の写真を撮る。写真を撮ってい
き、その次の日の夜にB29が数百機飛んで来る。その写真を見てやって来る。
どこを探してくるか? この国に高い山がいくつかあり、富士山がある。飛行機の
目的は富士山で、富士山から東京はどのぐらい、大阪はどのぐらいか、正確に

時間を合わせ、1秒も違わない、1分も違わないで、その場所に落とす、そして最
初に焼夷弾を落とすと、火が燃え上がり明るくなる。真昼のようになる。それで
また、焼夷弾を落とすのだ。国土全体が火の海になる。

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関東地域

181  

新潟でも火災が多く発生しましたか?   
そこは山の中だから火災は起きなかった。東京は全焼した。新潟は山が多く、
東京、下関、大阪、名古屋、神戸、横須賀、横浜、それら全てが以前の姿を失
った。

そんな事をどうして知ったのですか?   
ああ! 全てを見た。私の目で見たから、知っているのだ。嘘でなく、実際に見
た。東京に行く時から。帰る時に名古屋と神戸は見てない。行く時に見たから、
そう言えるんだ。

面談者:金美賢調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

182 

10

慶箕哲(キョン・ギチョル)

東京 - 城東区、東京瓦斯工業株式会社(上)

神奈川県 - 東京瓦斯化学工業(株)横浜工場(下)

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関東地域

183  

慶箕哲 (キョン・ギチョル)  男、78歳  
1928年4月8日

江原道 春川(チュンチョン)市 孝子(ヒョジャ)
洞で出生

1944年2月5日

徴用令状を受けて、東京の亀島の東京瓦斯化学工
業20) に動員。日本語講師の経験があったので、工場
で日本語を知らない朝鮮人労務者に日本語を教える

1945年

解放後帰国

20)

どこに行っていたのですか?  

東京の城東区のガスの会社。瓦斯化学工業株式会社。1944年2月5日、ここから
出発した。陰暦では1月1日。そこに行くまで、10日ほどかかった。ここから釜山

に行き、当時、そこは日本の領土であるが、衛生検査をした。服を全部脱ぎ、電

気蒸し器に入れて、蒸した後に着た。シラミが多いが、電気蒸し器に入れて蒸

20)·東京城東区・亀島、東京瓦斯化学工業(株)、東京瓦斯化学工業横浜工業(株)。 1885年に

東京瓦斯会社創業。1944年秋頃、東京瓦斯化学工業の工場は破壊され、その後、慶箕哲
は神奈川県横浜市鶴見区の東京瓦斯化学工業(株)鶴見工場で労働。

「勤労奉仕」 とごまかす労働力の

搾取が徴用、強制労働なんだ

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タンコ(炭鉱) だって?

184 

すと、シラミがさっと死ぬ。服を全部取り出すと、死んだシラミがくっ付いて真
っ黒になる。全てを完全に消毒をする。そうやって渡って行くのだが、その時は
大東亜戦争が激烈な時で、関釜〔博釜〕連絡船に乗って、ハカタ(博多)で降

りたが、そこで数日留まった。2、3日。そして、九州にフクオカ(福岡)という所

がある。フクオカ〔門司〕からシモノセキ(下関)まで海底ルート、トンネルが
できていた。我々はその海底トンネルを通って東京に行った。

空襲は無かったですか?   
私達が行く時は、爆撃のようなものはひどくはなかった。ひどくはなかったが、現
地に着いて見ると、毎日のように空襲があった。毎日。そこはワサ工場だ。ワサと
いうのはガス(瓦斯の韓国読み)だ。それで、何からできるガスかと言うと石炭、
石炭からはガスを作り、繊維を取り出して布も作る。ナフタリンもたくさん作っ
た。そうやって過ごしていたら、解放となり、戻って来た。その間のできごとはと
ても複雑だ。私はこちらの私設学院で教師をしていたので、あちらでの苦労は少
ない方だ。

教師をしていたのですか?   

ええ、教師をしていた。その時、選抜された時は、強制動員だから。我々は3兄

弟だが、皆行った。徴用だ。その時15歳になれば徴用状が来る。そして、うち
の上の兄、二番目の兄、私と3人が出かけ、徴用の検査を受けた。ところで私は
教員だからと外してくれた。2番目の兄は徴兵検査を受けた。しばらくして現役
で行ったので、徴用から外した。上の兄が出かけることになった。その頃、家の
土地は7~8000坪あったが、農業をしたこともない者が耕したら、家族みなが飢

えることになる。また供出が続き、あの日政時の供出の量は本当に多かった。更
に、いろんな容器、鋳物で作った容器、また真鍮で造った容器など、いろんな
ものを取り立てて行った。もちろん、穀物も取り上げて行った。どうにもならな

くなった。それで、叔父たちや家族が集まり、「おい!お前が行け、兄は農業を
しなければならない、お前に農業ができるか」と。もう亡くなったが、父母もあ
る程度の仕事をし、その兄も一緒にしていた。兄一人では難しい。そのため、郡

守が直接〔徴用の〕審査をしていたから、郡守の所に行った。郡守は日本人だ

ったが、「私が日本に行きます」と言った。すると「何、そんな若いのが行ってど

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関東地域

185  

うするのか」と言うので、実情を話した。「うちは農業をしているが多くの坪数

があり、農業をするのに、兄が管理をしているので、兄が出かけてしまうと農業
ができません」「農業ができなければ、我々の家族も苦労するが、国家もそれだ
け生産が減るという結果になるだろう」と。そんなわけで代わったのだ。私にも
令状が出ていたのだが、教員なので行かなかったが、私にも令状が出ていたの
だから、代わったというわけでもない。それで、兄が外れた。下の兄は17カ月行
っていた軍務が終わり、北海道に行くことになり、北海道に行った。

東京での生活はどうでしたか?   
私は東京に行ったが、ここで教員していたというと、そこでもそんな事をした。
労務者達に日本語を教える事をした。ところが、爆撃のために何かする時間は
なかった。すこし座っているとサイレンが鳴り、防空壕の中に行き、座ってい
た。そんなように過ごした。

ここ、春川(チュンチョン)生まれたのですか?   
ええ、そうだった。本籍が西(ソ)面芳洞(パンドン)里。こちらに本籍を移し
たので孝子(ヒョジャ)2洞になっている。孝子洞は後で引っ越した所だ。その

戸籍謄本にある筈だ。ここ、これが私の生まれた所だ。徴用に行った時もこの
住所だった。

>>> 

朝鮮人達が出発する前に、警察署長が訓示する姿

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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タンコ(炭鉱) だって?

186 

お兄さんの代わり行ったので、お兄さんの名前で行ったのですか?   
違う。私の名前で行った。日本の名前はヨシハラ (慶原)、〔韓国語で〕キョンウ
ォンだ。キテツ(箕哲)はそのまま。キョン・ギチョル(慶箕哲)の間に、「原」
を1字加え、ヨシハラ。私の誕生日は、1928年4月8日だ。だから2848となる。そ
れで忘れない。4月の最初の8日。

20歳の時に行ったのですか?   
行く時は17歳、戻って来る時は18歳。それで、戻ってから師範学校に通った。
その名刺に教育大総同窓会副会長とあるが、そこに通っていたからだ。この教
育大ではなく、その前身の師範学校だ。教育大に通った人は年齢がまだ若いだ

ろう? それで、同窓会の運営を我々が今までして来たが、今回、私は辞めた。

全て、サッと。後は教育大の出身者がするだろう。

日本に行く時、どこで、春川のどこで集まったのですか?   

駅に出て来いとあったので、春川駅で集まり、汽車に乗って行った。皆そこに
召集された。徴用状には検査をすることだけが記され、他の内容はなかった。
その後にしばしば指示が来た。検査した人には、何月何日何時までにどこに集

まれと。我々は春川駅集合になっていた。その時、父母や家族達が出てきて、

歓送とか何とか。今から見れば、歓送という言葉はおかしいけれど。人がとて

も多くて、誰が誰なのかを識別できなかった。当時はここから乗って行き、ソ
ウルに行って一晩泊まり、その次の日に京釜線に乗って下って行った。今でも

軍部隊を慰問しに行くだろう。その時は汽車にまで入って来た。歌手やそんな
人達、日本人達。爆撃なども怖かった。私が日本人に「引っ張られて行く」、
その気持ちは何ともいいようがないものだった。気分もそんなで、実際、自分
の主体性も奪われるので、反抗心も生まれた。行く時から日本は負けると、そ

う思った。

全て分かって、行ったのですか。   
そうだ。負けると思った。ソロモン群島の海戦〔上空〕で太平洋〔連合〕艦隊司
令官、日本の山本司令官が死んだ。戦死した。その時、既に日本海軍の艦船の3
分の2が破壊されたと言う。また飛行機もない。米国ではしきりに作っていた。

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関東地域

187  

これは負けるのが明らかだった。だから、日本に行っても、気持ちをしっかりし

て耐えねばと思った。

春川の駅には、人々がどれくらい集まっていましたか?   
行く時、我々が約200名。1人に対して家族が5人、6人出て来るから。だから、千
名以上になっただろう。狭い駅に千人以上が来たから、予想外に多かった。我

々は全てひとつの列車に乗って行った。その時は、6両、5両。ここが初めて開通
した頃、本来は客車が2、3両だった。〔移送は列車を〕特別に貸し切り、他の人
は乗れなかった。同じ目的の人だけが乗った。軍人に行く時にもその人達だけ
を乗せて、他には誰も乗せない。強制連行だから、文字通りの。その人達だけ
を連れていく。ソウルに行き、夜泊り、私は彼らの用意した宿舎で泊まった。こ
こを離れてからは、全てが彼らの責任だった。春川駅を出発する時は、そこの

会社、日本のガス工場から来た人、彼らが引率した。

それでは、200名皆がその工場に行ったのですか?   
そうだ。皆そこに行く。その時、一緒に行った隣の人もいる。ここに私が書いた
人はもう皆死んでしまった。死んだよ。西面にいた黄ソゴという人は、私が教
えた人間だ。私は教え子と一緒に行ったのだ。教え子が私より2歳年上だった。
昔はそんな事があった。崔チョルキュ、この人は原州(ウォンジュ)に住んでい
て、みな友達だ。そしてその次は山越えして来た人、この人も死んだ。黄チョン
ギョンと言う。こうしてみると4人になる。それから、ソンドン面の副面長だった
玄ハクボンという人も死んだ。私とよく付き合っていた人だ。

その会社に春川の人が行ったのは初めてでしたか?   
そうだ。そのような労務者として初めて行った。その後も、続けて行った。たく
さん行った。でも当時私も若く、今ならよく注意して見るのだが、その時は若か
ったから、よく分からなかった。

出発する時、その経過を少し話して下さい。   
釜山に行って3日間待っていた。さっきの話と一緒だけど、待っていた。船を待

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タンコ(炭鉱) だって?

188 

ち、私達の手続きに時間が掛かった。衛生関係での手続きが長かった。日本か

らこちらに渡って来る人も、こちらから行く人も検査した。玄界灘を越えて日本

から来る人は下関で衛生検査をして、ここから日本に行く人は釜山でした。そ
の検査所には船に乗って行った。そこで馬肉の汁をくれた、馬肉。釜山で馬肉
の汁をくれたので、それを食べた。だけど、その時は腹が減っていたから、それ
でも肉汁だと思って食べたが、少し堅かった。

汽車に乗り釜山に行き、3日間そこで休んだとのことですが、逃げる人はい
なかったのですか。
逃亡したかって? みなで一つの組を、組を作る。組をその時は4~5名ずつにな

ったか? 自分が知っている人だけで組みを作るのだ。お互いに監視して逃げな
いように。お互いに監視をするが、悪意のある監視ではない。「あっ! あいつが

行くので自分も行かなきゃ、どうしよう」、こんなような。その頃、抗日精神が不
十分だった。ある程度、考える人はいたあの時、日本は戦争を続けていたが、日
本が勝つという考えを持つ人もいた。だが少し分かる人はこの状態では必ず負

けると考えていた。色々だった。

東京に行くことは知っていましたか?   

それは教えてくれた、東京に行くことは。どんな会社に入るのかは、そこに行って

知った。どこの会社でどんな仕事をするのかは、そこで知った。

東京で200名が降りて、会社まで行ったのですか?   
解放になるまで、そこにいて、戻って来た。その日付は、ここにあるが9月に戻

って来た。8月15日に解放されたが、来たのが10月か9月かは、記憶が曖昧だ。
とにかくその頃だった。

どんな仕事をしなければならないか、教えられたのですか?  
それは、構文読解どころではなかった。日本語を少しも知らない人もいたか
ら。それで、単語を主に教育したので、工場に行っても、現場の仕事はしなか
った。皆に親日派ではないかと疑われるかもしれない。そこに連れていかれ、

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関東地域

189  

教員をしたことになる。日本では「コオコク シンミンノ セイシ (*皇国臣民ノ誓
詞)」というのがあるが、私に先に唱和しろと言った。それを上手くやったので、
そんな事だけをさせた。

寝るのはどこで寝たのですか?   
会社、会社に全てある。会社にこのように所持品を置いて寝る。寝るのは、いまの
軍部隊に内務班のよう、そんなやり方で。部屋は綺麗だった。横に長い形でもな

く、真ん中に通路があるのでもなく、私物入れのような物があった。隣は友達が使

っていた。そこで寝たり起きたりした。自分は自分なりに。食事はそれなりに良か
った。雑穀だけくれるのでもない。しかし、どんな風に過ごしていたのか、今はよ

く思い出せない。60年前の事だから。もう解放60周年だ。その前の事だから、61

年も前だ。

日本語を教えていたと言われたが‥‥‥‥ 
日本語ではなく、単語を教えた。文字を。日本語には50音と言って、日本語には

簡単な文字がある。それは、たとえば「あいうえお」というのがある。全て合わ
せれば、文字が50だ。「ん」という文字が51番め。

別に教える教室はありましたか?   
それは、まあそれで。起居する所の小さな空間、食堂。食堂は広いので、全員
が入る。おもに、連絡は食堂、そこでする。皆が集まるから。

日本語を教える他の人もいましたか?

私は知らない。私自身の事は知っているが、他の人の事は知らない。私の他に、
私より年齢が10歳上の人もいた。年齢を混ぜて連れて行ったから。その中にと
ても優秀な人もいただろう。

ガス会社の工場は大きかったですか?   
そこに行った人達の数で考えれば大きい。中以上の所だ。そこはソンドン(城
東)区、ここだ。ここにソンドンがある。城東区の一帯が皆工場だ。煙突がずっ

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タンコ(炭鉱) だって?

190 

と立ち並び、主に石炭を燃やしていた、工場では。我々は石炭から色々な物を

作っていた。我々が行った頃は、ナフタリンをたくさん作った。それに繊維。石
炭から繊維を引き出す。現在はそれをナイロンと言うだろう。ナフタリンは防虫
剤だ。当時は、衣服などを虫がたくさん食べたから、防虫剤として使った。

給料は貰いましたか?  
ないよ。給料など考えもできなかった。我々は一銭も貰わなかった。タバコの

ようなものも。私は当時タバコを吸わなかったので、くれたのかどうかも知ら
ない。時々他の人が吸っていたのは、買って吸っていたのか、どこかからもら
ったのかは知らない。服も配給されることはなく、自分が持って行ったもの、

行く時に着ていたものだった。その時、3、4着持って行った。釜山で衛生検査

をする時に、自分が着ているものを脱いだ。それでその時、そこでガウンのよ
うな、こんなのをくれて、それを着ていた。その時は2月の寒い時だった。それ
でブルブル震えていた。それを皆消毒するので、また脱いで、自分のものを着
た。団体服などなかった。いまでは軍人達が行けば服も与えるが。もちろん軍
人は我々とは少し違う。その当時は、徴用と言うのは、軍人として出かけるの
と同じだったのだが。それでどう過ごしたかって? 私はそれほど抑圧的な事
は感じなかった。日が暮れれば寝て、朝になれば起きた。その頃は洗面道具
もひどく貧弱だった。歯磨き粉もなく、粉だけだった。その頃、粉と言った。

粉で磨いた。粉だけだった。中には妙な味がするものもあり、あるものは少し
薄味だった、そんな感じだ。歯ブラシは木に刺したもので、使っていると抜け

る。口で一つ抜けると、みな抜けてしまう。ドミノ状態。それも本人が買ったも
のだ。歯磨き粉、歯ブラシはそんなものだった。ここから行く時、準備して行
った。麦焦がし。麦焦がしは、私が持って行ったのは大マス程だ。 ぺクソルギ 
(米の蒸し餅)、それも乾燥させて持って行った。わざわざ、乾燥させたのでは
なく、持って行けば、ひとりでに乾燥する。それを1升ほど持って行った。苦

労して担いで行った。持って行って、それを時に食べた。米の蒸し餅をなぜ持

って行くかと言うと、乾燥したら腐らない。水さえあれば、解いて食べるのに

丁度いい。ヒントク(白い棒状の餅)のようなものは食べられない、茹でて食
べるのだ。これは茹でなくても丁度良いものだ。麦焦がしは砂糖を少し入れて
甘くして食べる、餅は白い蒸し餅。

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関東地域

191  

故郷には連絡しましたか?   
手紙は書いた。そこに行って感じたことは、私は教員をしていたのが、こちら

(朝鮮)では白墨も配給だった。その当時、鉛筆もない、配給だ。運動靴はくじ

を引いた。50名に運動靴1つ。それで、誰かが当てれば、その家では大騒ぎ。そ
んな状態だった。日本に行くと、そうでなかった。鉛筆も、白墨もどれだけでも
あった。米も好きなだけ買えた。

差異がとてもありましたね。   
差異、それは見て感じた。植民地と言うのはこんなにも差が出るのだ。日本で
は不足がなかった。それで、鉛筆を故郷に送った。送ったものは無事に到着し
た。小包で。私は子どもたちに与え、使えるようにと言ったが。そうはさせず、
そのまま保管して私に返してくれた。父母が。

戦争がどのように進んでいるか、その状況の話は継続して聞きましたか?    
戦争は継続していた。情報、軍管区が情報を流した。軍管区ごとの放送があっ
て、情報が出された。当時あの硫黄島、硫黄島が米国の飛行機の目標だった。
硫黄島を目指して来る。それからグアム島がある。太平洋の真ん中にある。そ
のグアム島から少し行けば、硫黄島がある。その次に、日本には富士山がある。
富士山を右に回って、東京を攻撃する。そして、左側に回れば、名古屋、大阪、
神戸、それらを攻撃する。その富士山が爆撃に役に立ったと言う。どんなに高く
飛んでも、それ以上は上がれなかった、飛行機が。それで回らなければならな
い。左に回れば大阪の工場地帯、右に回れば東京、我々がいた所。

飛行機が飛んでいるのを、お爺さんも見ましたか?   

もちろん。飛行機が飛べば、それがみえる。「サチライト (探照灯)」というので、

灯りが強いのがある。そのライトが飛行機を照らしていく。そうするとこのよう

にX字になる。その間を飛行機が行く。ところで、高射砲を撃っても、そこまで

届かない。高射砲、それが問題だ。我々も撃つのを見たが、その下方で爆発す

る。だから、下りて来ないようにするだけだった。飛行機が一度、一度撃墜さ

れるのを見たが、うまく撃墜できない。とても高い所を飛んで行くので。ところ
で、そのライトはそれを照らしていく。それ程すごかった。その飛行機が来ると

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タンコ(炭鉱) だって?

192 

高層建築も全部照らすので、見ごたえあった。それに、飛行機が来ると4~50機
ずつやって来る。集団で、それほど多くの飛行機がやって来て爆撃する。広い
地域をすべて爆撃する。それも1度ではダメだから、2度、3度と。

いつ頃から、爆撃がそのように激しくなったのですか?   
それが一番激しかったのは、1943年6月〔1944年後半〕から1年間だった。6月か
ら。私が行く以前、6月から徐々に激しくなり、最も激しく爆撃したのが1944年

〔1945年〕3月10日だ。それを東京大空襲と呼んだ、後に。

工場地帯が多いのですが、近所に料理屋はありませんでしたか?   
そんなのはなかった。どこにあるかも知らない。工場の食堂だけ。工場の中に
構内食堂、それしかなかった。病院は、病気になれば引率者が病院に連れて
行く。どこかは知らない。ついて行けばよい。病気をすれば診てくれたと思
う。大病になる人はいなかった。せいぜい、熱が出るか、疲労で少し痛みがあ
る程度。

日本人とも一緒に仕事をしましたか?   

我々がいた所の日本人は皆、寄宿舎に住んでいた。我々はただ言われた事だけ

をした。シャベルで掘り、掃除する、そんな事が主だった。それは労務者だった
から。労務者という言葉はそういうことをさせられること、それが労務者だ。

 
朝礼はしましたか?   
朝礼はした。その朝礼をする時、さっき話した忠誠心を確かめる (*「皇国臣民ノ
誓詞」の朗読)。そして、日政時も徒手体操があったので、それをした。ある時

には町を一回り走った。そして、食堂に入り、団体別に食事をした。それから、
ちょっとした指示を受けて、飯を食べた後に仕事をした。単純な作業だ。そん
なふうに過ごした。

朝は何時頃、仕事に出かけましたか?   
朝は早く起きる。起きる事は早く起きる。あー! そこで夜が明ければ、明るくな
れば起きる。夜は9時に寝た。朝は6時になれば起きる。そこでは、夜、交替する

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関東地域

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組がある。夜間作業と言って、交替でした。それは、今ここでも同じだ。夜の仕
事をする人が仕事をして出てくると、交替して入って行く。

解放されたのは、どのようにして知りましたか?   
それは分かった。我々は団体で行った。ラジオの放送があり、それも聞いた。な
ぜ 「終戦宣言」と言ったのか。降伏とは言わず。日本では休戦宣言〔ママ 〕。

「我々は休戦する」、そう言った。降伏とは知らず、休戦すること、戦争をしな

い、そう理解した。後で話を聞くと王様(*天皇)が直接発表し、録音して放送

したという事だ。8月14日に、8月15日に発表されることは知っていた。それは既
に伝わっていた。伝わってはいたが、王様が8月14日に録音して、15日に電波で

伝えるということだった。

9月に戻る前まで、継続して仕事をしましたか?   
その時期は休んでいた。ただ自分の事だけをした。仕事をさせるようではなか

った。その時期は、飯を食って時を過ごしていた。簡単な事、掃除などはした。

帰って来る時は船で来ましたか?   
船で来た。そこで帰してくれたから、春川から一緒に行った人と一緒に戻って
来た。みんな一緒に。行った時のように、下関に行き、船に乗り、釜山に入っ
た。それが、行く時よりは速かった。戻って来るのは。検査も何もしなかった、
ただ船に乗るだけだった。

帰って来る時、退職金は貰いましたか‥‥‥ 
無いよ。ああ! そんなものがあれば、前に、その時に退職金をもらっていれば、
今のように「補償しろ」という話にはならない。その時、出されるものを横取り
されたのか、最初から出なかったのかは知らないが、無かった。元来、徴用とい

うのは給料を与えるものではないようだ。我々の考えでは、ただの搾取だ。その

時、給料も貰っていれば、現在それを補償せよという声は出さない。どんなに
少ないか多いかにかかわらず、只でしたのだから、無料奉仕だろう。奉仕とは
言えないが、とにかく強制労働だ。強制労働とみなされる。強制労働だから、金
をやる必要ない。飯はくれた。金というのは飯だった。

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タンコ(炭鉱) だって?

194 

釜山に来る時は引率者がいましたか?   
その時は「さあ、行こう」ということで、引率者はいなかった。その頃、列車が

まともにあるか? 動きの速い奴が乗れたんだ。当時客車はなく、全て貨物車
だ。貨物車だから、座る所もない。石炭を載せる車輛もあり、何でも載せる車輛
だったから、真っ黒になって戻って来た。運が良ければ、客車が入って来る時
もあった。大部分が貨物車、人でなく物を運ぶようだった。まるで荷物だった。

釜山では人々は多かったでしょう。
その当時は、他の人がいるかどうかなどみる余裕がなかった。ただ、自分の目的
地が春川(チュンチョン)なので、春川に向かって来たが、汽車が何処だと言

えば乗り、その後は分からなった。市街地の様子も知らず、駅に行けば、汽車の

乗ることだけ考えた。人が多い、少ないなど見る間もなかった。

日本に行く前、何年間日本にいるのかを聞いていましたか?   
そんな事はなかった。その人達は解放が遅れれば、遅れるほど長くかかると言っ
ていた。遅れるとは考えていたが、予想より早く敗戦になった。それは予想もでき
ず、話もなかった。行く時に「解放されたら、戻って来る」、そんな風に話した事
はない。日本人は「我々が負ける」という話は少しもしなかった。いつかは勝つと

言っていた。いつ聞いても、勝つことは間違いない、日本が勝つ、一刻も早く勝と

うと。そのために、皆は一生懸命仕事をしろと言うんだ。妙な話だが。勝つことは

間違いない、一刻も早く勝とう。この戦争を終われば良いという話だ。

日本に行く前に、朝鮮の他の場所に労務者として行ったことはありません

か?
いや、他の所は行かなかった。書堂(ソダン)か、いや違う、何だっけ、簡易学
校と言った、学校がそこしかなかった。日政の時。そこで1年、子どもたちを教
えた。だから、その時は国民学校を出て、直ぐに子どもたちを教えた。他の所に
労務者として行く暇はなかった。そのまま来たんだ。

以前は、村ごとに愛国班やそんなものを作りましたか?   
そんなのがあった。愛国班がどこにもあった。全国で皆が労役に出る、そんな

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関東地域

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事があった。道を切り開くなど、色々な事を。それも労働の強制だ。それも強制
労働だ。そんな事をした。国内にいた人も皆、された。何十里も出かけ、道を開

く、そういう仕事を本当に。それも辛い仕事だった。当時は春川市からソウルま

でまともに車で行けなかった。舗装をし、何をして。そんな所にも出かけ、全て
庭のように道を掃かなければならなかった。掃除、主に掃除をした。石拾い、そ
の道が狭い所は峠を削って、広げた。そんな事をした。プヨク (賦役)、そうプヨ

クだ。他に言葉はない。それは日本の奴が言うには、クンロポンサ (勤労奉仕)。

奴らの言うクンロポンサだ。「クンロポンサ(勤労奉仕)に出て来い」と。我々に

「賦役に出て来い」と言うことだ。

クンロポンサ(勤労奉仕)とはどんな意味ですか? 
クンロというのは、仕事を真面目にすること。ポンサは金を貰わずに仕事をする

こと。現在はポンサ(奉仕)だけだ。クンロポンサ(勤労奉仕)は真面目に仕事
をして、奉仕するという意味だ。

それでは家ごとに出かける人が?    
愛国班に連絡をすると、このようにしろと配置される。行かない人には、次に
回される。雪の片付けまでさせられる。畑もどこからどこまでと、西面(ソミョ
ン)芳洞(パンドン)2里だ。どこからどこまで、どこだ、どこだと。このように
割り当てがある。そして、梅雨になれば畝がへこんだと言っては、埋める。前に
は働けと言っても、そんな事はしなかった。

負役に行かなければ、何か不利益がありましたか?   
それはあった。とにかく面倒なことになる。そして報国隊とか何とか言って、遠

くまで行くことになる。私のように行くことになるのだ。それで遠く、日本まで

行った、徴用で。そんなだ。そして、それ以外にも、約40里にもなる所に行っ
て、大きな仕事をすると行って、何時間もしてこなければならない。夜明けに行

って仕事して、夜帰って来る、時にはそんな事があった。

当時、春川に農業以外に他の仕事をしている人はいませんでしたか?

他の仕事と言えば、木炭、炭焼き窯に行って、木炭を焼く。木炭を担いで運

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タンコ(炭鉱) だって?

196 

ぶ。炭焼き窯がそこにあり、たくさん担いで運んだ。以前は薪をある程度自由に
集められたので、それを市場に持って行って売った。木を割って。

昔は供出が多かったですが、どんな供出がありましたか?   
全てが供出にあった。麦、粟のような穀物、次には器、器も真鍮。それから何、
銑鉄、銑鉄を熔かす、それを多く出した。それ以外に廃品回収があった。それ
は何でも。金属全て。それから橋の欄干があるだろう?奴らはそれも皆剥がし
て行った。それも金属だから、全部。金属を剥がせない物は置いておき、外せ

るものは皆持って行った。日本に行くと全てを持って来たのか、そこにそのまま
ある。ここから行ってみたら。笑い話のひとつだ。廃品を持ってきて積んである

所があった。私が直接見たのではないが、聞いた話だ。このように休んでいる

と、時計の音がした。見ると時計があった。それも持って行ったのだ。それはゼ
ンマイで動くものだから、動き続けていたのだ。それは全てほどけるまで、音が
コチコチ! こんな音がした。それは置時計、置時計が主だった。そんなものも

集めた。全てこちらで集めた物だが、手をつけていなかった。橋の欄干もその

ままだった。それを供出と言う。

当時の西面の面長は地位が高い人じゃなかったですか?   
そうだ。西面(ソミョン)の面長は韓国の人がしていたが、そこの有識者。土地
も食べる程度はあり、評判も悪くない。そこの西面の人々で面長の悪口を言う
人はいない。その人達が日本に忠誠を尽くすものでもなく、みな心の中では、敗
戦になるだろうと感じていた。

学校で子どもたちを教育する時、どんな事を教えましたか?   
教科書だけで教えた。日本で教えるものを。日本語になった教科書で教えた。
そうした。子どもたちを連れて、勤労奉仕にも出かけた。子どもたちもした。行
政系統から田植えをしろ、そう言われ。田植えを、数日奉仕しろと。日帝末期
には松脂を取った、松脂取り出し、松脂を持ってきて窯に入れた。入れて下か

ら火を焚き、容器で炊きながら、一カ所にその油を絞り出すようにして受ける。

それを松炭油[=松根油]と言う。松炭油。松炭油にして、それを戦争で使うと言

う。機械が回る所に塗ったり、火を扱う所で使ったり。ところで、解放後に見た

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関東地域

197  

ら、謄写版のインクのようだった。それを原紙につけて、擦ると汚れてはいた

が、字が見えた。持ち去らなかったもの、残っていたものを使ってみた。ともあ
れ、国民学校では、全てその作業、松炭油を出すことだった。

学校ごとに出す量は決まっていたのですか?    
それは決められてはいないが、熱心にやり、出来る限り多く出せということだ、
子どもたちに。松脂は固い。鎌で叩くようにしてもよく剥がれない。怪我をした
子どもも時にいた。そんな事もあった。それ以外には、さっき言ったように道を
ならすこと、毎日した。また学校の敷地を広げるために山を削り、低い所を埋
め、高い所を削り出し、面積を広げる、そんな事もあった。以前は、器具など
はなかったので、全部カマスで4カ所をこのようにして、それをモッコと言った
か。その4カ所を、それを担ぐ。2人なら土を載せて持って行く。また1人で両方
にぶら下げて行くのもあり、それを毎日してハンコを貰う。やったことを認めて

もらわなければならない。今日はどれだけしたのかを。それをしないで行くと、

殴られる。

誰が叩くのですか?   

ああ、担任が叩く。先生が叩くのだ。話をして行くならば、構わない。子どもたち
の中には、こっそり帰ってしまう者がいた。私もしたが、数日抜けた。やらないと
出てこいと言われた。出ていくと頬を叩かれた。それも強制労働だ、それも。

家に帰っても、仕事をしたのでしょう?   
家の仕事はたいしたことじゃない。父母の助けといえば、牛に草を食べさせ、草
むしりをする、そんな事をした。学校では堆肥増産と言われ、草を刈らなけれ
ばならない。草を刈るのだが、割当の量があった。今回は40貫と言われれば、
40貫全て出さなければならない。自分で刈り、学校に行き、それを量る。

それでは、それを学校まで持って行かなければならないのですか?   
そうだ。持って行くと量るの。今日は5貫、明日2貫刈れば、7貫にならないか? 

このように40貫になるまで、目標量を達成するまでするのだ。それを堆肥にす
る。学校の畑の。学校の畑には実習者がいる。そこに埋める。学校によって違う

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タンコ(炭鉱) だって?

198 

が、私の場合は錦山(クムサン)学校だ。錦山学校の畑が千坪ある。現在は運
動場と校舎になっている。そこで栽培したものはサツマイモ。我々は生姜まで
作った。その時は、生姜も植えて、トマト。普通ここで作る野菜は全てやった。

お爺さん、写真などを持っていませんか?   
無い。朝鮮戦争の時に皆燃えてしまった。私も集めて鞄に入れ、こんなにしと
けばよかった。私は本当に考えが足りなかった。キムチ置場があるだろう? 家
々に。冬になって掘り出す、キムチの甕を埋めて。その上に雨に当たらないよう
に藁を編んで屋根を作る、そんな場所があった。その上はこのように凹んでい
る。そこにおけば、誰にも分らない。そこに置いておいたが、朝鮮戦争の時にす
っかり燃えてしまった。日本に行った資料もあって、卒業写真のような物も、み
な燃えてしまった。朝鮮戦争の後、引っ張り出してみたが。小学校を卒業し、保
存している友達がいれば、複写して分けてくれるだろう。そんなものでもあれ
ば、良いのだが。我々と一緒に行って来た人が、今どこにいる? 以前は写真を
撮ることも難しかった。卒業記念式の日にどうやって撮れる、個人で。我々の記
念に写真を撮っておこうとは考えなかった。

その時、西面から日本や他の所に徴用で行った人たちはみな戻って来まし
たか?   
それは、私は把握してないので分からない。でも、同じ村に住んでいた人たち
は大部分戻って来た。徴用で行った人は、国内の工場地帯、咸鏡道の咸興(ハ
ムフン)のような所、そんな所には工場があった。そこに行った。それ以外は、
皆あそこ、日本だ。

休日の様な時、外に遊びに行ったり、そんな事をしたことがありますか?    
時々出かけたが、爆撃が恐ろしくて歩き回れなかった。だから我々だけで家の中

にいた。我々がいる防空壕が狭かった。とても。そこで3月10日に爆撃を受けた、

夜に。夜、爆撃を受けたが、朝起きて見るとその防空壕の上に焼夷弾を落として
いた。爆撃では爆弾を落とさずに焼夷弾だけを落とした。焼夷弾とは何かと言え

ば、火だけが出る。そこは木造だから、全部。火だけを出すものだ、深くに入って

行く爆弾は落とさなかった。それを落としていれば、我々も死んでいた。

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199  

防空壕はいつ作ったのですか?   
その防空壕は、後で知ったのだが、そこの工場の建物が燃えてしまって、こん
なにトンネルのようになっていた。その上はレンガが3メートル相当になるか。
それを積み上げて、そこに入って行くとトンネル。そこに200名以上入れる。だ
から、そこに入っていればいいのだ。が、さっき言った黄チョンギョンだ。黄チ

ョンギョンという者。荷物の風呂敷を取りに、寄宿舎が燃えているのも知らず、

風呂敷を取りに行って、焼夷弾が落ちて、火を浴びた。それで、顔にひどい火
傷をした。その防空壕は広い。広いが、その真ん中に工場の残骸があった。残
骸の下にトンネルがあった。そこに身を隠したんだ。我々寄宿舎にいる者だけ
が入った。

他の寄宿舎や工場が別にありましたか?   
他にも別にあっただろう。ラジオが継続して鳴った。情報と言うのか、軍管部の
情報。それで、それを聞いていた。聞いていれば、飛行機が現在どの辺に来て
いるか分かる。それで入っていれば、必ずやって来て、爆弾を落とす。日本人

も人命の被害がないように気を使っていた。我々もそこにいた。我々だけがい

たのではない。空襲がある時は、恐ろしい事は恐ろしいが、「死なないで生きよ

う。ここで死んでも仕方ない。生き残れれば、幸いだ」、こんなふうに考える、

怖くて。ああ! 怖くて震えていたが、それが何になるというのか。あったと言っ
ても見られるものでもなく、無かったと言っても確認する術もない。話尽くすこ

とはできない。詳細に話そうとしたが、うまく話せなかった。傾聴してくれ、有

難う。また他の人と話をすれば、少しずつ違うこともあるだろう。我々は自分の
置かれた状況について話すし、みな違う状態だから。とにかく、ご苦労様。この

ように、我々の話を聞くために、回ってくれて。

面談者:金潤美 調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

200 

11

嚴正燮(オム・チョンソプ)

東京 - 東京石川島造船所

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201  

嚴正燮 (オム・チョンソプ)  男、83歳  
1923年8月4日

ソウル市 鐘路(チョンロ)区 楽園(ナゴン)洞で
出生

1944年夏

京電(キョンジョン、〔京城電気会社〕)電車課車掌

として勤務

1944年10月頃

日本の東京所在の東京石川島造船所21) に動員

1945年3月

父親の病気の消息を聞き、臨時身分証を受け、帰国

21)

この身分証は何ですか?   
これを持って。こちらから昭和19年(1944年)に行って、20年(1945年)戻って

来た時、これを受けた。これは途中で発給された、20年に。私は途中で、父母
の加減が悪いために戻った。その際に、これをくれた。証明、戻れる証明だ。徴

21)·東京石川島造船所。 1853年、江戸幕府が墨田川河口の石川島に造船所という名前で創

業。1893年、東京石川島造船所(株)に改称。1945年、石川島重工業株式会社になった。
1960年には石川島重工業(株)と播磨造船所が合併して石川島播磨重工業(株)となり、
2007年に株式会社IHIへと商号を変更した。

徴用を避けて京城電気に入ったが、
逃れられず日本に行った

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タンコ(炭鉱) だって?

202 

用に行った人が日本から戻れる証明書だ。この証明書を持っている人、日本に
行って受けた人なら、皆知っている。ところで、私が日本に行った時、召集令状
は置いたまま行ったので、証明するものがない。私は給料を貰うことなく、家に
送ってくれと言った。給料を一度も貰った事はない。全てそれを家に送ってく
れと。だが金は家に来ていない。銀行にあると聞いた。

ひょっとして、通帳は持っていますか?    
通帳? 私は申請だけして、初月給をもらう時、話をした。家に送ることを。彼

らが送金するか、直接受け取るかと言ったので、送金してくれと言い、そこに

書き込んだだけだ。通帳と言うのはない。ところで、現在、銀行にあると言う
話だ。フカガワ(深川)区イシカワ (石川)、そこに銀行があるから、そこにある
のだろう。

日本に行く時、家族には誰がいたのですか?   

家族かい? 父、母、姉 (嫁いでいない姉)、義兄、上の姉、下の姉 (嫁に行った
妹)。その時、兄は亡くなっていた。私が出かける前に亡くなった。息子は私一
人だった。父は農業をしていたが、年老いたため、田舎の家からソウルに出て、
何もしていなかった。かなり年を取っていたから。

>>> 

嚴正燮 (オム・ジョンソプ)の身分証(提供: 嚴正燮 )

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関東地域

203  

出かける時は、何歳でしたか?   
その時、父の歳がいくつだったか。あっ!私が、何歳の時に出かけたかって? 父
が何歳なのかと尋ねたと思った。私が出かけたのは20歳の時。昭和19年(*1944
年)だ。みな忘れてしまったが、10月頃だ。夏が過ぎてから行った。そう、夏
が過ぎてから行った。20歳だった。20歳に間違いない。1922年生まれは軍人

として出かけ、1923年生まれは徴用で行った。私は1923年生まれだから、19年

〔1944年〕に行ったのは間違いない。

どのようにして、行くことになったのですか?   

今の韓電 (*韓国電力公社)は、昔は キョンジョン (京電)〔京城電気会社〕と言っ
ていた。キョンジョンの電車課にいた。電車の車掌をしていたんだ。それで、あ

る日家に帰ると召集状が来ていた。それで、受け取ると直ぐに出かけた。その次
の日。とにかく受け取ると猶予はなかった。そこで住んでいた所が鐘路 (チョン
ロ)、現在そこは楽園(ナゴン)洞。今の言葉で言えば、その時は、協成(ヒョプ
ソン)実業があった所だ。協成実業があり、建国大学があった所、建国大学。

    
何人ぐらい集まりましたか?   

それは分からない。何人かは分からない。ぎっしり一杯だった。どこに行くかの話

もなかった。言わなかった。言わないで、召集状を持って出て来いというので行
ったんだ。行くと小隊に分けて中隊を作った。1小隊、2小隊、3小隊、4小隊、5小

隊にして。小隊は何人だったか‥‥。正直言って、私は逃げたかった。しかし行
かないという、逃げるという理屈がなかった。それで、何も持たずに、手ぶらで行

った。その運動場に行って見ると、ぎっしり一杯だった。私を見て、3小隊だ、早く

並べと、それで一番後ろに並んだ。見ての通り、背が一番低い。背も高く、身体も
大きい人がたくさんいたが、私が最後に行った。他の人は風呂敷包みを持って来
ていたが、私は何も持っていなかった、逃げようと思っていたから。ところで日本
の奴が私を呼んだ。一番後ろにいる者、出て来いと。それで出て行った。そした

ら「お前が小隊長だ」と。それで小隊長となった。一番後ろに立った。その時は妙

だと思った。私は逃げようとしていた。他の者は鞄など全て持って来ていた。私
は何も持っていなかった。私の家は楽園洞だ。その学校から距離はそれ程なかっ
た。仕方なく、そのまま行った。小隊長なので、どうにもできなかった。それで3小

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タンコ(炭鉱) だって?

204 

隊。20名を超えていたが、何人だったのか良く分からない。

   

その日に出かけたのですか?
その日は鐘路2街のYMCAの後ろにあるケソン旅館にいた。名前がケソン旅館
だ。皆がその旅館に泊まったかは知らないが、3小隊はケソン旅館と聞いた。
旅館にみなを押し込めた。一晩中、全員を閉じ込めた。そして、夜明けに起き
て、ソウル駅に行った。そこに各自で行った。若者たちは私を小隊長と呼び、
一晩中、遊ぼうと言った。小隊長だったので、日本の奴も「お前が遊ぼうと言

うなら、遊べ」と言った。それで明日の夜明けに出かけるから、今日は夜通し酒

飲んで遊ぼうと。「やー、知らんぞ、逃げるなら逃げろ!」と言った。駅に行った
時は、他の隊では落伍する者もいたが、我々の隊ではそんな人は1人もいなかっ
た。私は、家から鞄を持って来てくれ、その旅館で寝た。鞄を持って来てくれ
た。各自で行った、全員が追われるように行ったのではない。私は「ソウル駅に
集まれ」と言った。列を作ってではなく、ソウル駅にみなが来た。ソウル駅に。

ソウル駅から出発する時、歓送会をした。そう、みんなを並べて。そうして、釜
山に行って、釜山から東京にやって来た。

ひょっとして、逃げるのではないかと監視する人はいなかったですか?   
いや。そんなのはなかった。それに、行く途中で、水原 (スウォン)、天安 (チョナ
ン)、などでさらに乗るから、逃亡できなかった。汽車の各車両をこんなにして
いた。我々、ソウルから行く者はソウルの人間で1輌を使って、釜山に行く途中
の大きな駅で停まると、そこで地域の人を乗せた。我々のいる所には乗らず、自
分達だけで乗り、釜山に行き、降りて連絡船に乗った。それは集団ごとでなさ
れたから、何が何だか分からなかった。私はキョンジョン(京電)に、戦場に徴
兵されないように、ここにわざと就職した。バカな話だ。ここに入ったのに、私
まで徴用に引き出された、行かないようにしていたのに。呆れてものが言えな
い。私は徴用にいかないようにと、ここにわざと入った。誰が行くことになるの
かも知らずに。

そうして、日本に到着されたのですね?   
いろんな人が行ったから。小隊には遊び人もいた。行ってから、11リョ(寮)に

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関東地域

205  

入った。これが宿舎だ。宿舎。私は向こうで配置されたように入った。そこに行

く前、かなり大きな駅で降りて、一晩泊まって、そうして東京に行った。10日程

かかった。毎日同じように進んで行ったのではないか。釜山では、その日寝ず
に、直ぐに出かけ、下関で寝て、次は京都、大阪、名古屋、そんな所で一晩ず
つ寝た。東京が目標なのだが、直ぐには行けなかった。そして、1日ずつ、大き
な駅で1日降りて泊まり、次の日に出発した。汽車の時間を待っている間、見学

も少しさせた。そんなで長く掛かった。東京に行くのに。そうやって東京に行っ

た。東京には1年しかいなかった。

造船所に直ぐ入ったのですか?   
直ぐに入った、直ぐに。汽車1輌分の人間が行ったが、入ると宏大だった。数千名
だと言っていた。私はただ並んで立っていただけなので、詳しいことは分からな
い。歓迎された。かなりの人が行ったようだ。両側にずっと並んで、歓迎された。
11寮、12寮、13寮とずっと並んでいた。11寮に私は入った。12、13、14、15とあっ
た。終わりが幾つか分からなかったが、それほど沢山あった。とても多い、数千名
だから。ああ!そこは2階建てで木造だった。1部屋に普通10名程の人がこのよう

に暮らした。1か月の間は軍事教練を受けた。海辺で、四つんばいになって訓練を

受けた、軍人将校が我々に。毎朝起きると1か月、そんな訓練をした。

>>> 

下関港の姿(出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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タンコ(炭鉱) だって?

206 

訓練を受けている間は、どんな仕事をしましたか?   
訓練の間はそれほどしなかった。朝は9時だったか、正確には分からないが、夕
方は早く終わった。そして、休んでいた。20日か1か月か、訓練して、1人ずつ調
査して、「お前ここに行け」、「お前は旋盤工」、「お前は利材工」、「お前は○○工」 

と分けた。そこには色々な課があった。鉄板を運ぶ人、あるいは鉄板を磨く人、

上の起重機で運ぶ人がいて、色々あった。それを一々配置する。ところで、鋲を
打つのではなく、船の上に鉄板を持って行き、その鉄板をくっ付けなければな

らないだろう? くっ付けるのに、単に鋲でなく、火で、真っ赤な鋲が、このぐら

いの鋲が火の玉で、火の玉だ。それを投げると、それを受取って、入れて打ち
込む。その火で焼けた鋲をはめる、両方からガチっと打ち込むのだ。ここは造
船所だから、木造船ではなく、大きな軍艦、そんなものを造る所だ。誰も入れな
い。私が直接したことではなく、通りすがりに見た仕事だ。

それでは、お爺さんは何処に配置されたのですか?   
利材工という仕事、鉄板を運ぶ、そんな事だ。船があるだろう。船の横にくっ付
ける鉄板だ。その鉄板を運搬するのだ。そこの仕事はレールがあって、レール
に車(*線路の上の運搬車)がある。それで、我々はそれを配達する。挟むもの
があるだろう? それで、このように両方からぶら下げる。人は1人、2人でない。
それをぶら下げて、持ち上げるのだが、1枚、1枚、持ち上げる、そして載せて、
それを押して行く。それを押して、そこまで、船のある所まで行かなければなら
ない。船のある所に行き、そこでまた降ろさなければならない。そんな仕事だっ
た、利材工は。日本に行き10月、11月の頃、仕事が始まった。訓練を受け、配置
され、みな別々に仕事をした。

何時から仕事をしましたか?    
朝8時だろう。出かける時は印鑑を押して行く。昼食は食堂に行く。朝食、昼
食、夕食、全て食堂に行って食べる。きちんと過ごしていた。風呂はばらばらで
はなく、団体で全員が風呂に入る。始終一緒だ。徴用された人の服にはここに
マークがあった。服は外出する時にもそれを着た。仕事をする時もそれを着た。
作業着は別にはなかった。下着は洗濯したが、作業着、それは洗濯したことは
ない。他の人がどうだったか分からないが、私は洗った事はない。出かけても、

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207  

日本人は徴用者と言うことが大体わかる。日本人は服が違うので、直ぐに分か
る。軍服に、ここに徴用のマークがあった。違うから大体わかるんだ。

休みの日はありましたか?   
休みの日か?日曜日のような日には休んだ。外に出ることができた。許可を受け
て出かけた。出かけはしたが、いつも出かけたのではない。しょっちゅうは、出

られない。遊びに行かせないのではなく、爆撃のためだ。出かけようとしても、

爆撃があるので出かける訳にはいかなかった。爆撃が止むことはなかった。

給料はどれくらい受け取りましたか?   
給料がどれくらいか知らない、京城では毎月50円受け取ったが、日本では3倍の
150円くれると聞いた。しかし、実際には受け取っていない。家に送ることにし
たから。家に送ってくれるものと承知していた。しかし、父親によれば一度も受

け取らなかったそうだ。1銭も受け取っていない。通帳はない。送金の通帳もな

く、送金すると最初に話しただけだ。送金すると言った。通帳はない。送金は銀

行で送るので、知らない。どんな内容で送ったかも知らない。通帳もくれなかっ
た。無かった。

小遣いもなかったのですか?   
小遣いではないが、お金を使うことができた。小遣いをくれたのではない。その
時は、このように配給をくれた。タバコもくれ、ジャムもくれ、色々だった。そこ
でも私が小隊長だった。11寮の小隊長。それで、若者たちが出かけると、そん
な物を持って行って売った。それを小遣いに使った。給料はなかったが、その

ように毎月、物を売って小遣いに使った。

食事はどうでしたか?   
食堂があった。食堂が別にあって。そこに入って、順序に従って、どこでもこん
なお盆で受け取る。そこで出された物を食べる。普通、量が少ない。多いと言う

よりは少ない。

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タンコ(炭鉱) だって?

208 

その中で色々な事があったでしょう。朝鮮人と日本人と衝突はなかったで
すか? 
それを話せば、キリがない。そこで事件が起きるのを全て話す事はできない。
なぜかと言うと、日本人と韓国人が争うのは1、2回ではない。それを一々言うこ

とはできない。仕事に行っても日本人と衝突する。仕事をするのは、我々だけ

ではない。私が利材工だから、利材工として行く。そうすると、日本の将校も来
て、徴用された大学生も来ていて、囚人も徴用されて来ている。すると、それ
ぞれ一か所に集めて仕事をさせる。利材工も一か所に。利材工が一つの組にな

る。旋盤は旋盤として、そのようになる。そこに入り、徴用に行った人がここで

1人、2人と出会う。始終は会えない。何と言っても、広いからどこで仕事をし

ているのも分からない。仕事をしていると出会うことも、そこで仕事をしている

と。今の言葉では、技術主任か何かをしている人など、色々な奴がいる。それ

でも、始終は会えない。囚人や学生、徴用で来た人、我々だけではなかった。
それを合わせ、仕事をさせる、韓国人も。ところで、衝突することがないかっ
て? ここでも韓国でも、現在政府にいる人も、以前していた人も、歳を取った
人なら、みな知っている事だ。日本だけではない。我々のいた所だけではなく、
他の所に行った人々も衝突せざるを得ないだろう。それは毎日が暴力だ。それ
を話せば小説を話すようになる。私は今、勿論日本人を無視して言うのだ。尋
ねるまでもないことだ。韓国人は奴隷と同じだった。そんな話を多くしたって。
そして、私が若く、背も低く、でも日本の奴がどう見たかは知らないが、少し意
固地だった。背は低く体は小さかったが、少し気が強かった。中隊長が我々の
若者を叩けば、自慢ではないが、私を見れば逃げた。私は日本人対して、死ぬ
覚悟で、激しく対する性質を持っていた。私はその人が韓国語を知らないとし
ても、韓国語で「ノ チュッキョ ボリンダ (お前を殺す)」と言う。そうすると私の
所に来て、「お前、今何と言った?」と言う。それで、私は「ノ チュッキョ ボリ

ンダと言った、インマ(この野郎)」そう説明した。そうすると、日本の奴らは喜ん

だ。正直に言ったと、手を取って喜んだ。それだから、日本の人と衝突したから

って。その時、ここの基準では言えば、少佐でなく中佐ぐらいだろう。室長と言
う人がいた。室長は中佐ぐらいか? 私をかなり良い奴だと言った。私の性質が
日本人のようだと。ずけずけ言って、少し激しかったからだろう。その時、日本
の奴が、訓練をする時に間違えるとじっとしていなかった。日本の奴は中隊長

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209  

だから中尉だ。その中尉が韓国人を捉まえてそうすれば、そこに行き、見捨て
はしなかった。私が多くの若者たちをちょっと助けたと言っても過言ではない。

日本の奴は私を見ると、実際に逃げ出したと言っても過言ではない。そのように

鋭かった。仕事をしていて争いが起きれば仕事は中断する。ここでは2、3人が
争うが、そこではそんな事はない。2、3人が争うことはない。2、3人が争うとな

ると、直ぐに徒党を組んだ争いになる。そこでは声は簡単に聞こえない。仕事を
する機械の音で。それで、信号に合わせてする。とにかく船が大きくて、63ビル
ディング程の所から見下ろして、信号を送る! これは争いになったと、直ぐに

仕事を中断して。日本人と衝突する。そして日帝末期になると、ひどい時は憲兵
が機関銃まで持ってきて、言葉で言えない程だ。でも、我々が行った所は一番
良かったと言う。それを全部話すとなると、小説を書くようなものだ。言葉では
言えない。その辺りを分かって貰えればいいのだが。

仕事をしていて怪我をした人はいませんでしたか?   

ああ、死んだ人もいて、多かった。死ぬ人は大部分、船で鉄板をくっ付ける仕
事をしている人が多かった。鉄板をくっ付ける。鉄板をくっ付け、塗りつける。
海だから事故がたくさん起こる。その内情を私は見ていない。話だけを聞いた
のだから、良くは知らない。鉄板をくっ付けていて、間違えればサッといなくな
る。色々あったと。

死んだ人はどうなりましたか?   
それは分からない。そんな事は分からない。今日は事故が何人だった。そん
な事は書いて貼ってあった。逃亡したことは分からない。ソウルの友達が逃げ
て、捕まる前に戻って来た、そんな人も見た。ただ逃げたのではないだろう。そ
の時は、遊ぶ日も許可を受ければ、自由に戻って来る者、戻って来ない者があ

り得るが、でも戻って来なかったという話を聞いたことがない。戻って来なけれ

ば、どこで何を食べるか? 普通の金を持っている日本人もタバコ一つ買えない
状態なのに、逃亡してどこで何を食べるというのか。

それでは、そこで継続して仕事をしたのですか?   
いや。それは、途中で朝鮮に戻った。20年(*1945年)4月だったか。証明書、こ

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タンコ(炭鉱) だって?

210 

れを受けて直ぐに帰ったのではない。切符が買えなかった。ああ! 爆撃が続い
ているのに、切符を買えることができるか? 何日かは分からないが、朝鮮に戻

り、休暇を過ごした。そして、戻らなかった。日本からは朝鮮に入れなかった。
ここ、ソウル市内で青年を見さえすれば、捕まえていたから。市内の若いのが
どこに行けるというんだ? 証明書、これがあったから朝鮮に戻れたんだ。

どうやって、戻って来られたのですか?   
ああ、父親の加減が悪くなった。手紙で連絡をしたら、良くないと言った。区庁
に行って、事情を話した。個人ではダメだった。区庁に行って、状態がこんな

だと言う診断書を添付し、「私がこんな状態だから、息子に一度会わせてくれ
」 と、そんな形式があった。個人ではなく、公式に要請をした。それが来たら、

こちらでも認めた。それでも、直ぐには戻れない。その時は、3月に証明が出た

が、それを受けても、戻れない人も多かった。切符を買えないから。それで、4
月だったか5月だったかはっきり分からない。とにかく、1か月ほど過ぎてから戻
ったので、良く分からない。ここで1か月過ごし、戻れと言う証明だ。父親が亡

くなりそうだったから。そして、再び日本に戻ろうとしたが、戻れないと言われ

た。日本との往来が完全に途絶えたと。日本が爆撃に遭って往来が無くなった
から。

日本では、爆撃が多かったのですか?   

我々がいる時も、言い表せないほどだった。毎日、B29が飛んできた。飛んで
来ると、ここにいる人は見てないから、分からないかも知れないが、経験をす
れば、「今日はやっと生き延びた!」 そんな調子だった。工場の仕事も大変だ
が、「アイゴ、今日は死なずにすんだ」、そんなだった。ある時には、日本語で1
編隊、編隊というのは、10機ずつ、B29が10機ずつ来る。東京市内にこんなふう

に来たんだ。東から西に、西側から東側に飛び、南から北に又行く。そんななか
で、どうやって逃げる?こんな話は無駄かも知れないが、我々は防空壕に入る。
防空壕に入れば問題ないと考えるのは、全く間違っている。たくさん死んだ。防
空壕に入れば爆撃を避けることができるわけじゃない。そんな事をここで一々
話してもどうしようもない。今となっては無駄な話だよ。

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関東地域

211 

朝鮮に戻って、お父さんは大分よくなりましたか?   
ああ、とても良くなった。私が来てから大分よくなった。もう老人だったか

ら。その次は。朝鮮に来てから、街路を歩けたかって? ソウル、ソウルにはあ
ちこちに憲兵がいた。1か月が過ぎると、隠れて過ごすより仕方なかった。「ど
うせ、日本には行かないのだから」、そう思い、隠れて過ごした。捕まらない
ように。証明書の日付が過ぎたので、心配になった。ところが、憲兵は尋ねも
しなかった。

面談者:李秉煕、権美賢 調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

212 

12

朴鎮享(パク・ジンヒョン)

東京 - 酒井工作所

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関東地域

213  

朴鎮享 (パク・ジンヒョン)  男、80歳  
1926年4月16日 全羅南道 珍島(チンド)で出生
1943年11月

学費がなく独学中、東京から募集に来た人が全羅南

道 順天(スンチョン)から30名を動員

1943年11月

東京所在の酒井工作所22) に組立工として勤務、空

襲がとてもひどく、空襲により気管支炎となる、作

業中に腰を痛める、現在も後遺症に苦しむ

1945年

解放前に、工場が爆撃され、皆が離れ離れになる、

あちこちで肉体労働をして、帰国

1953年

結婚して娘1人が生まれる、軍に入隊して7年間

服務

22)

最初に行く時は、どうやって行くことになったのですか?  
全羅南道の順天(スンチョン)で、順天の叔母の家、大手(デス)町、日本語で

22)·東京 酒井工作所· 1918年、自動車、内燃機関車及び蒸気機関車の部品製造、修理を目的に

設立され、1943年軍需工場に指定され、軍需品を生産、1945年、本社と工場の大部分を
焼失。現在は酒井重工業(株)、建設機械等を生産。

逃げたって

どうせ爆弾に当たって死ぬんだ

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タンコ(炭鉱) だって?

214 

オオテマチ。そこに勉強しに行った。叔母の家にいたが、学費を賄うのも難しい
時だった。私の学校が中学校だった。中学校にいたのだが、その時、私の中学
は4年制だった。順天中学校。そこに行く時、2年も十分に通えず、学費を用意
できず、辞めてしまった。それで、私は独学をした。何を独学したかと言うと、
日帝時代に『最新中学講義録』というのがあった。それで中学課程を終えよう

と、叔母の家で勉強していた。勉強をしていたが、突然、東京の人が来て、徴

用、何と言ったか年齢徴用と、年齢だから徴用と言われ、行った。どこに行くの
かもわからず、そのまま行った。他の皆は順天の人で、その中に私だけが珍島

(チンド)の出身だった。私1人だった。順天の人が29名で、私が1人加わって30

名だった。東京からは30名が募集され、行った。徴用で、年齢徴用と言って連
れて行った。そのように連れて行かれ、そこに私が含まれた。学校に行ってい
れば、行かなかったのに。私が叔母の家で『最新中学講義録』を使って、独学

していたので、徴用に行く事になった。だから、18歳で行った。当時は18歳、19

歳の枠がそれほど多かったのだ。それで30名行った。

その順天の叔母さんの住所に名前が書かれていたのですか?   
名前はなかった筈だ。学費の関係で学校を辞め、叔母の家で独学していたの
で、住所はそこには書かれていない筈だ。でも、人が見れば、私がそこにいる

ことが分かるから、連れて行かれたのだろう。そうだ。だから、私が戸籍を変更
してそこにいる筈がない。その学校に通っている時、順天中学校で2年に上がる
とすぐに辞めた。学費のために。田舎で学費を稼ごうとすれば、大変だった。日

帝時代に田舎から学校にやるのに、いくらか補助してくれたかって? やりくり

しても全く足りない、どうすることもできず、私は学校に通えなくなった。学費
を賄うことが十分できず、そうなってしまった。家からは少し送ってくれた。し

かし、十分ではなかった。学費を賄うためにその金を貯めてやっていたが、学
校を辞めざるを得なかった。それで 『最新中学講義録』というのがあるが、そ
れを注文して、独学していた。叔母の家で。だから、そこには籍はなかっただ
ろう? 学校に通っている時には、学校の籍があったろうけど、2学年も修めずに
辞めてしまった。籍のようなものが、記録上でも残っているのかどうか分からな
い。60年も過ぎて、70年近くになっているので、ある訳がない。本籍地で本籍
を移動していないかだって? 学校に行っていた時には、学校には籍があるだろ

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関東地域

215  

う。学費を賄えずに私は辞めた。それで私がその『最新中学講義録』で独学を
した。学校に籍はないから、そうなったのだ。

学校に入る時は、叔母さんの家に住所があったのですか。
いいえ。学校では籍が珍島に戻っていた。学費の調達問題で、私が独学をして
いた。そんなわけで、「盗講したい」と思ったのだ。それで叔母さんの所に転が

り込んだので、住所は移してなかった。そうだった。幼い時は父母と弟たちが

いた。父母がいる時は、私の所は兄弟が8人で、私が長男だった。ところで、弟
たちは幼く、私が東京に行ったこと、徴用に行ったことは、私の直ぐ下の弟と姉
が知っていた。その下は知らなかっただろう。時々、消息は聞いていただろう。
兄が東京に徴用で行ったことだけ知っていて、他の詳しいことは知らなかった
だろう。現在となっては、順天から行ったのが50年以上前の事だ。いま叔母が
生きているか、弟たちや従弟たちが生きているのかどうか、それも分からない。
私が叔母より下なので、特にその子供たちに(従弟たち)に会いたい考えはな
い。年長の人間であれば、探したいという思いもあるが、皆年下だから私から
探す考えもない。

>>> 

朝鮮人たちが出発する前に訓練を受けている姿 

     (出典:林えいだい『 清算されない昭和 』

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タンコ(炭鉱) だって?

216 

それでは、故郷を離れてどうなったのですか?  
18歳の時、東京に到着するとすぐに、「チョンチャルビョン(偵察兵)」 と韓国語
では言うが、

〔偵察機が来て〕日本語でケイカケイオ(警戒警報)だ。警戒警

報というのはサイレンを鳴らす、B29がこのぐらいに見えるから。そんな風に
飛んで偵察するのだ。昼は偵察して、夜にはB29とB25が東京湾に、太平洋か

ら東京湾に飛んで来るんだ。飛行機がくる。最初は何のことかもわからず、防

空壕に入った。焼夷弾、こんなのを落とす。煙幕がひどいだろう? 防空壕にも
浸みこんでくる。だから今でも咳をする。私はその時に気管支を悪くし、現在
でも痰を吐かなきゃ耐えられない。私の喉は塞がっているんだろう。防空壕
に入って座っていると煙がひどく入って来て、どこに何が落ちているかも分
からなった。それで、ダメだと思い、その時が19歳、20歳、18歳、その程度だ
から、とても若かったので跳び出した。飛行機がこう来るから、こう逃げれば
人は生きられる。こう来るのに、こっちに逃げれば当たって死ぬ。飛行機は飛
びながら焼夷弾や爆弾を投下する。こんなふうに来て落とす。だから、逃げ
ても当たって死ぬ。だから、こう逃げてもそれで、そんな中で苦しんで、8カ
月の間、眠りもできなかった。夜は爆撃がひどかった。そのために昼は偵察機
が来る。眠れなかった。眠ることも忘れた。昼夜、そのように苦しめられたか

ら、眠らなくても眠気がなくなる。それで20歳になった年、8.15の解放になる

前の2か月か、3か月前に、工場が爆撃された。

徴用になって、行く過程を説明してください。   
東京から人が来た。徴用者を募集に来た。それで、数時間で全員を動員して行

く。2日も、1日も掛からなかった。10時間程度? 朝来て、8時に集まらせ、午後

の何時頃と言えば、全員集結してしまうのだ。午後なら、3時、4時になれば集
結してしまう。そして、集まると、そのまま東京に出発した。家を出る時「何か
召集があるから、ちょっと出かけなければ」、そう言って。私は叔母に「今どう

しても、徴用に行くはめになった」、そう言って出ていった。出ていくと、数時間

で全員が集結した、麗水(ヨス)港に。麗水からカンリョ(関麗)連絡船。それ
に乗って、30名を乗せて、引率者が「ハズマ何某」という人だったが、忘れてし

まった。東京に汽車に乗って行くのだが、当時、韓国には夜間列車はなかった。
ところが、日本に行くと下関から、下関から東京まで、あの青森まで、昼夜なく

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関東地域

217  

走る、汽車が。だから、夜も昼なく走った。で、下関から汽車に乗り、東京まで
昼夜、夜通し走った。

その時がいつでしたか?   
18歳の時、昭和18年。1943年。我々は日本の奴の時代に生まれ、日本の奴の時
代に勉強した。ところでその時、私の学費の調達がうまくいっていれば、ソウル
にあった大学、帝国大学(*京城帝国大学)が一つ。そこに行っていたかも知れ
ない。入学してもすぐに解放になったかも知れない。その時、中学は4年制だっ
た。けれども2年も通えなかった、学費を払えなかったので、日本の奴が全くダ
メだと思って、私を退学させた。それで独学した。家から送って来る学費で、
独学する人が買って見る本、『最新中学講義録』で独学していた。叔母の家に
世話になっていたんだが、徴用のために引っ張られてしまった。順天で青少年
を30名募集し、順天の青少年29名を集め、どういうわけか私1名が珍島から入っ
た。だから彼らは皆、同郷の人ではない。珍島の人間は私しかいなかった。そ
れで除け者にされた。1人を除け者にして、仲間はずれだ。ハズマという日本人
が直接、引率した。

班長のようなのは、いなかったんですか?  
班長などいない。ああ! 30名が一緒に行き、同じ待遇で行ったのだ。18歳にな

った11月末か12月初め、冬になる頃だった。韓国では肌寒かったが、東京に行
ったら春と同じようだった。それに雨がよく降った。東京に到着したのは夜明け

前、そう2時頃に到着した。東京に到着すると、偵察機というのが飛んできて、
警戒警報が出た。飛行機が偵察に来ると、1機、B29がこのぐらいに見える。そ
れがこうやっていく、それが偵察だ、写真を撮っていく。「警戒警報」といって、
サイレンを鳴らし、その飛行機が飛び去るまでそうしている。そして退避しなけ
ればならない。仕事もできず、汽車から降りる事もできずに、汽車の中で眠っ
た。夜を過ごし、それが終わった次の日に、工場に行った。車が来て、乗せられ
て行った。工場の車だろう。

そこでした仕事は何ですか?   
それで工場では、鋳物工場や他の所などに配置された。運のいい奴は油もそん

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タンコ(炭鉱) だって?

218 

なに付かない所に行く、運の悪い奴は青白くなるようなきつい仕事だけした、
そんなだった。私はそれなりに勉強もしてきた。だから日本語もかなり達者だっ
た。そのためか日本の奴によく見られたのか「シアゲ クミタテ(仕上げ組立)」

というのがあった。「シアゲ」というのは最終段階だ。機械を作って組み立て
る、最後の仕事をシアゲというのだ。10トンのローラー、アスファルトを敷く時
に押して行くのがあるだろう? それがあり、5トンのローラーもあって、2種類

があった。10トンのローラーがそちらに行けば、我々もそちらに行く。仕上げ組
立、出す時の検査官のような仕事だ。だから、私は運がとても良かった。他の
若者は鋳物工場で青白くなって仕事をしていたが、私は運が良く、そのような
仕事をした。日本語が少しできる、奴らと話ができるので、私が選ばれたのだ。
だから私はそれほど酷い労働をしなかった。ところが、やりたいと思った事は
できなかった。18歳で行ったから。14歳になった時、その時に普通学校に行っ
た。小学校とも言うが、普通学校と言った。我々は1週間に1時間あった『朝鮮
読本』でハングルを学んだ。それも4年、5年になるとなくなった。日本語だけを
使うようになった。どうせ勉強するなら、日本語も上手にならなければと思い、
私なりに熱心にやった。本も日本語だった。

『最新中学講義録』というのを受取

ってみると、全て日本語だった。韓国語は一つもなかった。それで、日本語を学

ぶほかなかった。彼らの仕事は、涙が出るほど酷いものだったが、私の仕事は
楽なものだった。

最も厳しい仕事は何でしたか?   
一番耐え難い事が何かと言えば、爆撃だ。爆撃の時が一番きつかった。始めは
何も知らないまま防空壕に入ったが、防空壕に煙が入り込み、私は今でも痰を
吐かなければ耐えられない。このように体を壊して戻って来た。こうやって20
分も座っていられない。それで寄りかかっている。私は日本語が上手にでき、
工場のあちらこちらを回ったが、全て通じた。日本語ができない若者が多かっ
た。我々が寝る宿舎を寮といった。我々の寮は本工場にあった。2工場は分工
場で、鋳物工場は3工場で、若者達は鋳物工場にも、2工場にも、本工場にもい
た。本工場が1工場だ。だから本工場、2工場、3工場、こんなだ。その時、日本
の奴がそう分けたから、その通りにした。私は運が良かったので、そうしてい
た。身体を一番ダメにしたのは爆撃だ。猛毒ガスにやられ、気管支がダメにな

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219  

った。今でもよくない。そして、シアゲをして出す時、エンジンを掛けるときに
は、機械で回せば良いのだが、機械がいうことを聞かない。なぜなら日本では

揮発油(ガソリン)が足りないだろう。それで揮発油1ドラム缶にアルコール2ド

ラム缶を混ぜる。それで、エンジンを掛けるから、上手く掛からないだろう? 機

械で回せないから、スタートするのに綱で引っ張る、こんなふうに手で回すのが
あるだろう?だが手でも回らない。10トンのローラーを綱で引っ張る作業をした
が、その時に腰を痛めた。熊のように奴のエンジンが掛からないから、私が行っ
て、「それではダメだ」と言って作業したが、それで腰を痛めた。今でも腰がそ
んなに良くない。チュジョン(酒井)工作所の工場。サカイコウサクジョ。酒の

「チュ (酒)」と天井の「ジョン (井)」だ。工員の「コン (工)」と製作するの「チャ

ク (作)」、場所のソ (所)」だ。

よく覚えていますね。   
私が、そこに行ったからだ。私が若い頃、歩いていると「村の字引が歩いてい
る」と言われた。一度聞けば、決して忘れない。それほど記憶力が良かったが、
今は80歳になってしまったから、記憶がとぎれることがある。現在でも記憶力
は良い。悪いという人はいない。それで、おお! 8.15の解放の時、私は20歳だっ
た。ちょうど20歳。6月だったか、5月だったか、それははっきりしない。工場が
爆撃を受けた。そこに沖電気という相当大きな工場があった。韓国で言えば、
韓国電力のようなものだ。そのような電機工場が前にあって、我々の宿舎の前
には日本の奴の軍需食品の倉庫があった。軍需食品の。我々は分工場、2工場
に集まってその話をした。本工場は他の所にあり、ここに沖電気があり、日本の
奴らの軍需食品の倉庫があった。その向こうに豊田自動車の工場があった。豊
田自動車工場。今でもトヨタ自動車といえば有名だろう? ところが沖電気が爆
撃された時は知らなかった。火だけがバチバチ燃えて、アイゴ! その軍需食品
倉庫、電機工場と豊田自動車工場が爆撃され、人も生きられなかった。なぜな
ら建物全体がバンと舞いあがり、熱くていられなかった。バン、バン、バン!と
燃え、耐えられなかった。その時、若い者たちは本当にどうして良いか分からず
逃げ回った。魂が抜けたようになった。夜が明け、爆撃も終わったが、我々が寝
ていた宿舎は爆撃されていなかった。しかし、沖電気、豊田自動車工場、食品
倉庫など、全てが爆撃され、散々たる状態だった。驚いた話を一つしよう。韓国

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タンコ(炭鉱) だって?

220 

では電話線がどうなっているのか分からないだろう。ところで、その時、私が日
本で電話線を見た。鉛でこのように巻く、鉛で。鉛で電話線を巻いて、埋めて
置いたが、爆撃に遭うと、火がでるだろう?火事になり、鉛が溶けてしまうだろ

う? 電話線はこんなにあって、数千に分かれている。東京市内が全て電話線を

使う。とても細い髪の毛のようだ。

>>> 

朴鎮享(パク・ジンヒョン)さんが描いた酒井工作所の工場の絵

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221  

同僚とは、どう過ごしましたか?   
冗談ではなく、30名行った徴用者の中には心無い奴もいた。心無いな者を見か
けた。腹がふくれるほど飯が食えれば、それでいいのに。こともあろうに食品工
場の倉庫に行き、爆撃に遭って焦げたものを拾って食べ、憲兵に捕まった。憲
兵に捕まって縛られて行った。3人、そうだった。彼らは日本語がわからないか

ら、私がそこに行った。それを拾って食べたことも知らないまま、行ってから知
った。日本語ができる者は私だけだったので、憲兵に尋ねた。とても恐ろしかっ

た。白い腕章に赤い字で「憲兵」と書いてあり、長い刀を差し、軍靴のコツコツ

という音が恐ろしかった。それでも尋ねた。「どうして捕まえるのか」と。すると

「戦時窃盗罪」で連れて行くと言った。「それは何か?」と聞くと、「知らないな

ら、知る必要もない」と言った、私を見ながら。それで私は、「我々は徴用とい
う事で一緒に来ている。同僚の中であなたの言葉を聞き取れるのは私だけだ。

彼らは言葉が分からない。理解させて、連れて行くべきだ。言葉も分からない
で、連れて行ってどうするのか?」「軍律だと言うが、戦時窃盗罪なんていうこ

とを言うな。それは焦げて、捨ててあるものを拾って食べただけだ。注意ぐらい

で済ませ」と、そう言った。だから帰してくれと頼んだ。すると放してくれた。
その時、鉛で巻いて溶けた電話線を見て、髪の毛のように細いという事を知っ
た。軍需物資が倉庫にあったが、本当に色々あった。何があったのかと言うと、
彼らが食べたいもの、砂糖が山積みにされていた。積み上げてあった。魚の缶
詰があり、肉の缶詰もあった。海苔のような缶詰もあった。宿舎の前で火事が
起き、そこで軍需物資を拾って食べたら、運悪く憲兵に捕まってしまい、戦時
窃盗罪で引っ張られたのだ。私は一度に3人を助けた、助けてやったのだ。

一緒に行った30名はどう過ごしましたか?   
30名の中で1名は名前も忘れていない。金パンスだ、金パンス。30名の中で私1
人だけ、故郷が違うので、少し離れていた。それが金パンス、この人は背が低

く、真っ黒だった。そのためこの人は仲間外れになった、彼らの故郷の青年だっ

たけれど。この人は行く所がなかった。それで私が世話をした。だから私の後
について来た。私は彼らに合わせなかったし、日本語ができた。日本語が話せ
るので、どこに行ってもうまくやれた。金パンスは仲間外れになったので行く所
がなく、私の後について来た。だから、人を蔑視してはいけない。そのために私

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タンコ(炭鉱) だって?

222 

はこの話をするのだ。東京が爆撃に遭って、工場もそんなだから、全員がバラ
バラに別れてしまった。

解放になって、韓国に戻れましたか?   
韓国に戻らなければならないが、金がなければ。今日死ぬかも分からないの
で、ポケットにあるだけを使った。金はいくらもなかったが、死ぬか生きるか

も分からないから、すっかり使ってしまった。で、解放されたのだが、戻ろう
と思っても金がなかった。なので、人の世話をして金をいくらか貰うなど、何

でもやって金を得た。そうやって、金を集めて10月下旬、昭和20年、8.15の解
放後の10月末、釜山の地に到着した。8.15に解放されて、釜山の地に到着し
たら日本人の扱いをされた。日本の奴の時代が長かったから、日本の言葉も

自由にできた。そしたら日本の奴とみなされた。日本語を話すと文句を言わ
れ、どうして握り飯などくれるか? 本来、文句を言って、握り飯は与えない
のだが、飯をくれた。日本の奴の時代に生まれなければ、日本語の勉強もし
なかっただろう。それならば、日本語を使わなくて良かっただろう。東京であ
れこれと過ごしていた時、召集された。我々が徴兵の年齢を満たしていたの

で、呼ばれたんだ。そして甲種合格になってから、解放になった。日本に行く
前、私は日本の奴の時代に生まれ、勉強したので、悪い感情を持っていなか
った。それが、日本に行って仕事をしてみたら、酷かった。自分の若い時代を
過ごしたのが、無念だ。

日本語が良くできるので、徴用に行っても苦労は少なかったのですね?   

少なかった方だった。笑い話のようだが、東京に行って、あのように軍需工場を

自由に歩き回れたのは、私だけだろう、30名行っても。当時、日本の奴らは最後
まで山を掘って、軍需工場を作り、その中に飛行機の付属品のようなものを隠
した。軍人達が監視し、そこには立ち寄れなかった。私は言葉が達者だから、

彼らは日本人だと思った。それで私はどこでも問題なく通ることできた。丁寧な

日本語を話せたから。勉強も少しした。8.15解放になる直前、工場が爆撃に遭

い、工場が壊されてしまった。それで、山に穴を掘る仕事をすると言って、飯場
に行った。労務者の宿舎が日本語で飯場だ。そこに数日いると、軍需工場にも
出入りできた。

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223  

解放になる2カ月前に、工場が爆撃され、工場がなくなったのでしょう?  
そうだ。その前にもひどい爆撃を受けた、工場で仕事をしている時に。空襲が
激しかったので防空壕に入った。日本でも韓国でも防空壕はある、当時は。そ
れで防空壕に入って、焼夷弾の投下や爆弾の投下があれば、その爆煙がすご
い。煙という程度ではない。それは下に入って来る。上にはよく上がらない。下
方に下りてきて深い所に入ってくる。そのため、防空壕にいた人達がゼイゼイと

し、喉が詰まり、我慢できずに外に出る。防空壕に入っていられないのに、日本

の奴が言うから戻るしかなかった。ところで、どうしても煙を我慢できずに跳び
出し、ゼイゼイさせながら動いていたので、結局、痰がひどくなり、こんな状態
になった。それで、何だったか? 8.15以降工場が潰れて、バラバラに別れたと
いう話はしたか? バラバラに別れ、皆の生死もわからぬまま別れ、偶然東京で
あの莞島(ワンド)の小母さんを知るようになった。栃木県に行って、山を掘っ
て、工場を作る。それを「トカンコジ (突貫工事)」と言った。その所に行った。
そこに行ったが、そこは簡単には出入できない所だった。でも、私が日本語を
少し話したので、同族と思ったのか、厳しくは当たらなかった。それで、突貫工
事する所で仕事を少しした。金を集めて、そうして韓国に来た。

それでは、解放を迎えるまで、数か月栃木県で働いたのですか?
いいえ。15日くらい? 一か月にもならなかった。でも旅費を集めて、かろうじ
て船を乗ることができた。当時には下関から釜山、下関から麗水までの連絡
船があった。ところが、下関に船が入れなかった。船を全部沈めていた。そこ
に、尖った帆柱がニョキニョキ首を出していた。それで船が入れなかったの
だ。それで、上に回って仙崎という所、仙崎で連絡船に乗って釜山に来たの
だ。そして、ずっとここで何とか暮らして来た。

さっき、金パンスお爺さんの話をして、中断されましたが?   
その時は皆、令状を受け、軍人にも行く、そんな時代だった。さっき、どんな話
をしていて中断したのか、あの仲間外れになった金パンスのことだったか。あの

人がどうなったか、生死も知らない。韓国に戻ってから生きているのか、死んで
いるのか、分からない。私が22歳の時、いや、22歳ともう少しの歳だったか、軍
隊に行くことになった。彼の歳は私の歳とほぼ同じでなかったか? それで「ひ

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タンコ(炭鉱) だって?

224 

ょっとしたら、軍隊に来るかも」と思った。気になった。ところで、その人は警

備隊が終わったら、そのまま軍隊に行ったようだ。東京で爆撃を受け、8.15の解
放になって戻り、そして軍隊に行ったようだった。後で知った事だが、軍の階級
章を付けていた。カモメ(V字模様)3つに横棒を1本加えた一等兵〔一等中士、
以下中士と訳〕。この人も私が「いつ頃、どんな時に軍隊に来るのか」と思って
いたようだ。新兵補充をみれば、私を探せると回った。彼が東京で私に世話に
なったことがあるので。それでちょうど我々が莞島(ワンド)から700名、珍島

(チンド)から300名の1000名で大隊を創設して、江陵(カンヌン)に行った。

学校の跡地か何かをすべて壊した広い空間があった。そこに天幕を張り、炊事

していた。小隊別に天幕を張り、中隊別にも張った。我々が到着すると、このぐ
らいの奴が軍服を着て、帽子を被り、階級章も付けて歩いていた。私は誰か分

からなかった。二等兵として私は後に立っていた。すると前にサッと行き、振り
返って私をじっと見た。本当にその時、涙が出た。こんな嬉しい事があろうか。
彼ら一等中士は相当、階級が上だよ。階級が上なのに、私は二等兵で別の人間

とも言えるのに、私に「朴先生ではないですか」と言って来たので横の人達が

笑った。何をしたのかも分からずに。そこで会い、次にまた会おうと言って行っ
た。私は二等兵だったので、それ以上尋ねることもできずにいた。二等兵が一
等中士に気安く話しかけることはできない。それで、私は機会があれば、また
会うだろうと思っていた。そうこうしていると、食事当番になった。当番は炊事
場に飯盒のようなものを持って行き、飯を貰い、汁物を貰ってこなければなら
ない。そのために行った。カモメ(V字模様)3つをつけた人が副班長で、炊事
班長もいた。私は少し年を取ってから軍隊に行ったから年長だった。若い者と
話をするのは気を使う。機嫌を損ねないような、そんな行動もあっただろう。二
等中士(軍曹)の副班長が私に文句を言った。私は二等兵なので何とも言えな
い。カモメ3つ付けた人に何が言える。私は口答えできずにじっと聞いていた。
そうすると、班長が来た。副班長に何を言ったかは分からない。その後からは、
飯盒を持って行こうと、何を持って行こうと、飯を容器に盛ってくれた。入るだ

け盛ってやれと言われたのだろう、次からは本当にたくさん盛ってくれた。無事
に通過したのだ。その後、大隊、中隊に派遣命令が出て、小隊にも派遣命令が
出た。全隊に派遣命令が出され、別れた。このぐらいの風呂敷包みをくれた。そ
れは今でも忘れられない。何をくれたかと言うと、炊事班長だからヌルンジ(お

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関東地域

225  

焦げ)をかき集めて、私にくれた。小隊が派遣に出かければ、腹が減るだろう

と。そこで別れて以来、生死は分からない。その金パンス、彼のお蔭だ。日本に

行った時、その時、順天のどの面だったか、あの面は。名前は忘れた。道沙(ト
サム)面?上沙(サンサ)面、道沙面、海龍(ヘリョン)面、皆そんな所から。
道沙面か、どうだったか。海龍面の人も、道沙面の人も、順天の各地から来て
いた。それに私1人が加わった。皆が死んでしまったか、生きているのか、分か

らない。時々思い出しもする。その当時、日本の奴が創氏とか言って名を変えた

が、パンス以外の名前は忘れたな。莞島の人も覚えていたのだが。日本語では
オカモト (岡本)、カネヤマ(金山)がいた。思い出そうとしても、名前は皆、忘
れてしまった。

戻って来る時、旅費は受け取りましたか?   
我々がバラバラで別れる時に、金庫に少し金が残っていたと言って、分けてく
れた。ああ、そうだ。工場には支配人もいて、工場長もいて、執事とかいう人も
いた。いろんな人がいたが、事務長がそれを取りだし、皆に分けてくれた。しか

し、爆撃が激しかったので、金庫の中にあった金が焦げていた。お焦げのよう

だった。このように擦るとバラバラになるものもあった。そんなふうに焦げたも
のを全て分けてくれた。たいした金ではなかったが、あったもの全てなので、有

り難く受け取った。それは数円程度だったろう。日本人が使う金で数円ほど、10

円まではなかっただろう。それを受取って、バラバラに別れた。

給料は受け取りましたか?   
給料? 20円だったか、現金で給料としてくれた。しかし、今日死ぬか明日死ぬ
か境遇であったので、すぐに使ってしまった。腹が減って、何かを買い食いし
た。給料は勤務時間に従ってくれると言った。時間が決められ、カードもあっ
た。こんなカードがあって、それを差し込んで押せば、朝の何時何分に出勤、
退勤する時もそこに入れて、押せば何時何分に退勤となる。現在も我々が使っ
ているのと同じものだ。そのように月払いで給料をくれるが、そこから食費を差

し引くから、いくらにもならない。事務所が工場にあった。本工場に事務所があ
って、分工場分も本工場の事務所で処理して、全てを支配していた。本工場で

必要な鋳物は溶かして作る。そこではローラーの発動機のようなものも作って

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タンコ(炭鉱) だって?

226 

運んで来る。若い時に勉強もできず、苦労した。言いたい事は色々ある。他の
人より酷い労働はしなかった。運が良く、日本語を話すことができたから、そう
なったんだ。防空壕で体調を悪くした。

その地区に住みながら工場に仕事をしに来た人はいましたか?   
そういう人は一切いなかった。我々が行く時、日本のこれぐらいの学生が勤労
奉仕隊として、仕事をしていた。先に日本に行った我が国の人達で熟練工、仕
事に熟練した人達が何人かいた。また年上の人々が上司のように仕事をしてい
たが、徴用で韓国からきたのは、我々30名が初めてだった。すぐに仕事をする
所に連れて行かれた。30名を並ばせ、列を作らせる。そうして、お前はあそこ
の鍛冶現場で仕事をしろ、お前は鋳物工場へ行け、お前は本工場に行けと言わ
れ、そこで何かを削ったりする。そうやって全員を配置した。仕事を訓練してか

らさせるのではなかった。朝鮮人は仕事のやり方を全く知らなかった。順天から

行った若者達はこの鉄鋼について、何も知らなかった。連れて来て、上の人が

「ああしろ、こうしろ」と言い、熟練工の下で仕事させた。私は運が良く「仕上

げ組立工」にされたので、きつい労働はしなかったが、病身になった。なぜなら
ば防空壕に入るように言われて入った、入らなければ良かったのだが、そこで
気管支を悪くした。それから、エンジンをかけるだろう、車を運転する時にはエ
ンジンをかけて回転させるが、揮発油(ガソリン)にアルコールを混ぜていたか
ら、エンジンがうまくかからない。それをかけるのがどれほど大変か。かけるた
めに3~4名が走って綱を引っ張る、その際、腰を痛め、現在でも良くなくて、こ
んなさまだ。

東京に行く前に、事前の情報がありましたか?  
いや、ないよ。その頃、日本の奴が来る時は、ああ! 当時は炭鉱の募集もあり、
人々を連れて行った。募集で炭鉱のような所に連れて行かれたら、私は行かな
いように忌避をしたかも知れない。ところで、東京市内だから、好奇心もあって

「この機会に東京見学でもできるかも知れない」、そう考えもした。私は18歳ま

で勉強していたから、その時、推測できた。日本の雑誌に「キンコ (金鉱)」とい

うものがあった。キンコはゴールド、日本語で金のことで、その雑誌には、何年
に満洲事変で勝利し、支那事変(中日戦争)で勝利し、日ロ戦争に勝利するな

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ど、日帝が勝利した記録が全てあった。後になって、昭和20年「暁を迎えるか」
という題だった。私はそれを18歳の時に見た。当時、勉強していたから、本や雑

誌類を見るでしょう。でも雑誌でそれを知った。「戦争は長くは続かない」と推
測した。

爆弾が落ちれば、大変だったでしょう?
焼夷弾はB29から落とされるが、落ちながらいくつかに分かれる。夕立が激しく
降る音があるだろ? ザー、バシャバシャと。煙も出る。焼夷弾がどんなものか

と、我々は焼夷弾を分解してみた。不発弾があったから、それを開けてみた。事

故が起きることもあるが、ゴム糊〔ゲル化油脂〕の袋があって、雷管があった。
落ちると雷管がはじけて、火がつく、一挙にはじける。このように、四方に跳び
出す。それにゴム糊〔ゲル化油脂〕は一度火がつくと消えない。5cmの厚さの
鉄板も突き抜けるほど。それが人に当たればどうなる? 後に、爆弾が落とされ

るが、それは我々の体より太い。そんなヤツが落ちて来る。飛んで来るB29はと

ても高く飛ぶから、撃墜できない。落とすことができない。高射砲を5階や6階
の高さに据えたが、高射砲はあってもミサイルはなかった。高射砲を撃っても
その高さまで届かない。その後にB25がやって来た。一晩でB25が撃墜されるの
を9機まで見た。高射砲が命中して火がつき、ひらひらと落ちるのを。飛行機が
9機落ちるのを見た。B29が落ちるのは見なかった。B25は9機落ち、日比谷公園
にそれを自慢するために集めて置いてあるのを見た。若い者が5~6人がかりで
前輪1つを持てる、そんな大きさだ。

面談者:許光茂調査チーム長、権美賢 調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

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13

陳顕秀(チン・ヒョンス)

東京 - 日本製靴株式会社

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陳顕秀 (チン・ヒョンス)  男、79歳  
1926年8月28日 慶尚南道 咸安(ハマン)郡 漆北(チルブク)面で出生
1943年

東大門崇仁(スニン)路 大陸化学研究所で日雇いと

して勤務

1943年11月頃

日本の東京足立区所在の日本製靴株式会社(現リー
ガル)23) に裁断工として動員

1945年

解放前に、工場が爆撃され、皆が離れ離れになる、
あちこちで肉体労働をして、帰国

1945年9月頃

帰国

23)

日本の東京に行って来たんですか?   

私が18歳、若い時だった。家に余裕もなく、学校もまともに通えなかった。た
だ工場に行って、日雇い人夫として仕事をしていたら、日本の奴に連れて行か

23)·日本製靴株式会社··1902年、東京市京橋区鎗屋町に日本製靴株式会社が設立され、1903年本

店を現在の所在地(東京都足立区)に移転した。同所に本社工場を設立、同年5月から軍靴生産

を開始。1945年の終戦の頃、数多くの朝鮮人を強制動員し、軍靴を生産。現在、(株)·リーガル。

焼夷弾の火の海の中で、
裁断の仕事や軍事訓練をしていた

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タンコ(炭鉱) だって?

230 

れた。そのころ、京城(キョンソン)府安岩(アナム)洞に暮らしていた。当時
は安岩洞だが、現在も安岩洞だ。安岩洞に住んでいた時に、動員された。大陸
化学研究所という崇仁(スニン)路、現在東大門(トンデムン)区庁がある所、
そこで仕事をしていた。崇仁洞にある大陸化学、石鹸のような、そんな物を作

る工場だった。そこ、大陸化学研究所で、日雇い人夫として通いながら生活し
た。その時に徴集令状が来た。そこで金を稼いでいたのに、日本の奴に召集さ

れて行ったのだ。そこに通っていた時に、家に通知がきたんだ。

徴集令状が来たのが、いつ頃か記憶していますか?   
冬の頃だったから、昭和18年(*1943年)11月、冬だったが、日付は分からない。令
状が来た時、逃亡することができたかって? 召集されれば、身動きできない。それ
で、どこそこに来いと召集され、行った所がここ、昔、徳寿(トクス)国民学校があっ

た。そこに行き、日本人に連れて行かれた。元々徳寿国民学校は日本人の学校だ。
そこに日本人が、労務者を連れて行く会社から、引率者として来たと言った。

集まった人はどれぐらいでしたか?   
別々に集められて来たから、正確にはわからないが、大勢来た。集団としては
それほど多くなかったが。会社の引率者が直接来て、それぞれ労務者を選ん
だ。「我が会社は誰、誰、何名連れて行く」 そのために引率者が来ていた。その
時、私が配属された所は日本製靴株式会社、日本の奴の軍靴を作る所、軍人

>>> 

関釜連絡船、興安丸 (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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関東地域

231  

達の履物を作る所だ。製靴工場。そこから引率者が来ていた。そこに配属され
た。引率者が来て、結局、釜山まで連れて行き、釜山で一晩泊まって、「関釜連
絡船」という釜山から下関を行き来する連絡船があった。興安丸(7082トン)と
いう船に乗り、引率者が連れて行くのだ。連れて行く時に、日本人が何と言った
か言うと「お前たちが行く所は、一番良い所だ」と。日本のヤツが来て、連れて
行き、一緒に旅館で寝ながら、そんなに話をした。「お前らを良い所に連れて行

く」、そう言いながら、その当時服と言えば軍服、国防服があるだろう? それと

履物をはかせた。靴は軍人用でなく、従業員達が履く別の物。靴を履かせ、服

を着せて、帽子もかぶらせ、引率者が船に乗せ、一緒に行った。

その服は釜山に到着する時にくれたのですか?   
釜山で着た。釜山で泊まり、そこで履物と服をくれ、着た。それから下関に到着

した、下関に。日本の九州。日本の奴も、戦時だから、我々だけを汽車に乗せる

のではない。労務者達が色々な所から集められて行くのだから、一つの汽車に
乗せきれず、臨時列車が待機していた。そして、3日目に臨時列車に乗り、上っ
て行った。下関から東京まで行った。臨時列車で行ったのは、我々だけではな
い。他の労務者もその列車に乗って、引っ張られて行ったのだ。

労務者はみな朝鮮人でしたか?

ええ、いろんな所で引っ張れた人々だ。我々は日本製靴に連れていかれたが、その

工場の横の、「シカク」という皮革工場へ行った人々もいた。靴工場の直ぐ横にあっ
て、人々もそこにいた。色々な所から集まって行く人は、皆列車に乗って行った。行

きながら中間、中間で降ろす人は降ろし、そのまま行く人は東京まで行った。我々は

東京に到着し、引率者が日本製靴の工場に引率し、その工場に入ったのだ。

何人ぐらいだったか、記憶していますか?

あの時工場に行ったのは、我々が行ったのは30名を少し超えていた。それほど多

くなかった。集団的に、何百人も行くのではなく、各工場に何名ずつと分けて行
くようなものだった。工場に連れて行き、各場所に配属させるのだ。どこかの部

署に行く者は、それぞれ引継ぎ、引率者が。私が配属させられたのは裁断部と言
い、皮革を裁断する所があるんだ。枠があって、型枠があって他の所で設計して

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タンコ(炭鉱) だって?

232 

描いたものを裁断するのだ。皮であればこうやって、眼鏡のフレームであればフレ

ームを、こうやって描いて持って来れば、その型を押し当てて皮革を切り出すのだ。
それが裁断部だ。裁断部に行って仕事をした。ところが、そこは単に裁断だけする
のではない。当時、そこに行っていた人で年上の人も多かった。私はその時、一番

若かった。30歳になった人もいて、25歳になった人もいて、色々だった。私は18歳だ

った。当時、18,20、そして30と色々な人が混じっていた。若い者だけが行ったので
はなく、混じっていた。それで、年齢を考えてここに来る前に、どんな勤務、仕事を

するか、彼らがそんな事を考えて配置させた。それで、私は裁断部に配置されたの
だ。配属され、仕事もしたが、歳が若いから軍事訓練もさせた。軍事訓練もして、裁
断もして、そんな仕事をしていて、結局は1945年解放されて、日本軍が降伏したの
で、帰国することになった。2年近くいて、解放された。

工場ではどこで寝て、どこで食事をしたのですか?   
最初は、工場にセイカリョ(製靴寮)という、工場に付属した合宿所があった。

日本語でセイカリョと言った。合宿所だ。

そこに寮長のような人がいたのか、記憶していますか? 
管理人だ。旅館の主人のような管理人がいて、その人の仕事は寮の管理だっ
た。だがその建物は数カ月もせずに、空襲のために完全に燃えてしまった。我
々が宿泊していた建物は燃えてしまった。工場はやっとの事で救われ、仕事を

し、食事は工場で食べた。工場に食堂があった。食事は工場の食堂で食べた。

夕方に退勤し、製靴寮に行って寝た。工場のすぐ横にあった。工場から歩いて
2、3分の距離だった。そこで寝て、朝に出勤し、食事をし、そこで仕事をした。
そんなふうにしていた。

行ったり来たり、往来できたという話ですね?   
その中で行ったり来たりした。そこでは、最初は逃亡などなかった。勤務するな
かで逃亡する人もいた。仕事をしてみて。行った当初は、逃げ出そうとする考え
はなかった。そこまで考えることができなかった。そこに行って、食事して仕事

をしたが、他の所に比べるとそれほど厳しい仕事ではなかったから。彼らがや
れと言う通りにした。それでも逃げ出す者はいた。

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233  

食事は不足することなく食べましたか?   
食事、どうしてその当時、食事を十分にくれるか? 腹が減ったから、みな外に
行き、買い食いする金があれば、買い食いした。給料のようなものが少し出た。
でも、本当に少しだった。それがいくらになったかな?惜しみながら使った。腹
が減れば出かけ、買い食いできる物があれば、買って食べる、そんなふうだっ
た。自分で使う金があれば、外に出て買い食いし、買いたい物があれば買う、
そうしたかったが、そんな金がどこにある? 

外に出ると、韓国人と会う機会がありましたか?   
会った。そこには当時、在日僑胞が、韓国人で日本に行って住んでいた人がい
た。それで、

〔東京に〕行ったとき、「韓国人がどの地区に住んでいる」という話

をあちこちで聞いた。韓国人と会うために時々出かけることもあった。

爆撃が激しかったようですが、どうでしたか?   

とにかく、B29が東京の空に現れた時から、日本の奴らは滅びはじめた、その時か
ら。B29が、飛行機が何機か、東京に飛んで来て、空から焼夷弾を落とした。雨が降
るようにB29から落ちて来た。日本の奴らに、東京市内に。落とせば、その晩は、ソウ

ルの市内くらいが火の海になる。全てが焼き尽くされるのだ。解放後の朝鮮戦争の
時、釜山で大きな火災があった事を知っているか? よく知らないだろうが?

ええ、よく知りません。   
火が出て、すごい火事になった。トタンがあるだろう? トタンが、ベニヤ板のよ

うに大きな物が紙のように、そのまま火力で空に、空中に浮いた。そして、その
まま落ちる。日本の奴の建物は木造だ。新しくコンクリートで造った建物も時に

はあるが、現在でも日本の塀は木造だ。2階以上のものはそれほどなかった。そ
こに焼夷弾を落とせば、マッチ1本で火が回るように、木造の家は全てが燃えて

しまうほどだ。焼夷弾を落とすから、全てが燃えてしまう。手を付けられない。

消防署が火を消そうとしてもムダだ。そのまま放って置くしかない、燃えれば。

お爺さんが勤めていた所もそうでしたか?   
そこも、そうだった。工場にも焼夷弾が落ちて。落ちたが、夜に落ちた。夜は仕

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タンコ(炭鉱) だって?

234 

事しないから。焼夷弾はこんな塊になっている。飛行機から塊で落とすと、途
中で分離し、20個、30個、めちゃくちゃに散らばる。雨が降るように。そいつは
落ちれば爆発する。そして火の海になるのだ。飛行機から数発落とせば、一つ
の村がなくなってしまう。炎で。何時間も飛んで落とせば、東京市内が全て燃

えてしまう。幾度ともなく、東京市内が全て燃えてしまった。工場から火が出て

燃えたが、工場全てが燃えた訳ではなかった。焼夷弾が落ちて、部分的に燃え
た。全てが燃えたのではない。その次の日、朝、出勤して、仕事をした。

大体、勤務している労務者は朝鮮人でしたか?   
みな朝鮮人だった。その時、お互いに親しくなった人も多かった。生きていれば
話もできる、そうだろう。だが名前をまともに記憶していない。その当時、私は
安岩(アナム)洞にすんでいた。城北(ソンブク)洞に住んでいでる人も、敦岩

(トナム)洞の人もいたようだ。解放されて、その人達と会い、一緒に友達だけ

で遊びもした。朝鮮戦争の後から消息が消えてしまい、生きているのか、死ん
でいるのか分からない。朝鮮戦争前に会った。お互いに会って、歩き回りもした
が。その人達の1人はキム氏、カネヤマ(金山)か何か、そんな名前だった。も

う1人はハン氏で、日本の名前は何とか言ったが。名前をよく思い出せない。今

から60年前の話で、今生きているのか、死んだのかは分からない。

>>> 

博多港で乗船を待っている朝鮮人の姿

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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日本が負けた後、一緒に帰って来たのですか?   

一緒に。行く時も帰る時も一緒に来た。行く時は、空襲警報があるとかと言って、船
がまともに動かなかったが、それでもどうにか行きはした、連絡船に乗って。戻る時

は、下関から乗ってきたのではない。博多で船に乗り戻って来た、家に帰る時は。

博多までは何に乗って?    
汽車で行った。臨時列車のように乗って行った。東京から博多まで何日か掛か

った。何日か掛けて博多まで行き、船に乗るのに何日かそこで野宿し、飯も自ら

直接、炊いて食べて、そんなふうにして、渡ってきた。解放され、2、3カ月近く
経ってから、ソウルに戻って来た。

お爺さんの字を見ると、とても上手に漢字を書きますね。日本語を少し勉
強したようですね。 
ああ、その頃、私の歳では少しはした方だ。それで、日本に行き、日本の奴と少し
話もした。それから、我々と一緒に行った人に大学の出身者もいた。その人が班
長をして、みなを統率した。その人の年齢は30を超えていたようだ。その人が班
長で、引率者同様だった。その人と一緒にいた。それで、製靴寮が焼けて宿舎が
準備されず、工場の中の食堂の横に講堂があった。そこにしばらくの間住んでい
た。そこで寝て、食事は食堂で食べ、仕事をして、そして食堂で食事をし、講堂
で寝た。そのように数カ月過ごし、工場が用意したのが教会のような所だった。そ

こで、家を1つ準備した。そこで数カ月過ごした。その時が昭和20年(*1945)頃だ
ったろう。その時、場所をそちらに移した。工場で寝て、講堂で寝て、そこに宿舎

を移動して、そこで解放を迎えて、帰って来た。

工場の住所を知っていますか?   
工場の住所は、日本製靴株式会社と言うことは知っている。工場はとても大き
い。そこは「アダチ(足立)区」と言っていた。アダチ区と言うのは、ここで言
えば鐘路区(チョンノク)だ。「アダチ区、センジュ(千住)と言った。センジュ
は電車の駅だ。センジュは日本製靴とあまり離れていない。2、3分の距離だ。そ
れで、記憶している。それと、日本製靴工場のすぐ横にセト川〔隅田川〕という
川があった、川。ソウルでいえば、漢江(ハンガン)に当たる。川が直ぐ横に流

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タンコ(炭鉱) だって?

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れていた。今でも工場はそこにあるのか、セト川と工場がくっ付いていた。工場
の横に川がある。私の記憶では、セト川とかいう川だった。橋は大きかった。漢
江のように大きな川だった。名前はセト川。

故郷との手紙のやり取りは可能でしたか?    
その時、手紙を家に書いた。父母がいたので、その時、手紙を1、2度送ったと思

う。手紙を書いたので、住所を記憶しているのだろう。当時、手紙を書くのに東

京都足立区千住、日本製靴株式会社と記し、手紙が着いたという。当時は腹が
減って、両親に食べる物を作って少し送ってくれと手紙に書いた。そしたら、両
親が何か作って送って、あの製靴寮で受け取って食べた。

18歳の時に令状を受けたという事でしたが、兄弟もいるのに、なぜお爺さ
んが受けたのですか?   
兄弟は、兄が1人いて、父母がいた。取りあえず、兄弟2人だ。兄はその頃、当時
の京城電気株式会社、そこのバスの運転手をしていた。兄はそこ、日本の奴の
会社でバスの運転をしていたから、徴用に該当しなかった? それで、行かなか
った。私は個人会社の日雇い労務者であったから、洞の事務所で選ばれたよう
だ。私が通った会社がどこにあったかと言うと、東大門区清涼里(チョンニャン
ニ)を出て、そこの東大門区庁の反対側の山の下にかつて紡績工場があった。

>>> 

陣顕秀(チン・ヒョンス)

       お爺さんが描いた
       日本製靴株式会社の絵

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その紡績工場の跡地に大陸化学研究所の工場があった。そこは石鹸を作り、化
粧品を作っていた。そんな工場だった。

お父さんはどんな仕事をしていたのですか?    
父はその時、何もしていなかった。兄弟2人で稼いで、生計を立てていた。そ
れで、私が徴用された時、家の状況は少し苦しくなった。兄弟で稼いで、生活

していた。兄は当時、私より4歳年上であったから、当時は22歳になっていた筈

だ。自動車の運転手として入ってから、それほど経っていなかった。兄弟が2人
で、私が日本に行ったので、兄が父母と一緒にいて、父母の世話をした。

徴用状を誰が持って来たか記憶していますか?    
洞の事務所だろう。洞の事務所が連絡し、家に持って来た。私が直接受け取っ
た。どこそこに来いと、当時、徳寿国民学校があり、そこに集まり、日本人に引

き継がれ、引率された。

帰還する時、何故博多に行ったのですか?    
その当時、下関は連絡船が出ない状態だったのか? それでその時、博多まで来
て、「船が出る、出ない」、そんな話だった。機雷が海に敷設されているので、除
去する前には行けない、それで博多に何日か泊まっていた。そして、やっと船
に乗り、帰って来た。皆、一緒に仕事をした人達とともに博多で泊まり、船便を
待って、乗った。食事は我々が直接作った。博多では個人で鍋のようなものを
購入し、米を炊き、飯を食った。握り飯のようにして。博多駅付近、桟橋の付近
で、飯を炊き食べ、そこで寝て、そのように待って、乗って来た。

解放されてから、1か月後に来たのですね?   
1カ月以上になっただろう。1カ月近くになる、博多に来て待っていたから。待ちな
がら、解放された、日本のヤツが降伏したから帰る、そんな思いだ。1か月は越え

なかったか。それでも、1か月近くになったようだ。ソウルに到着すると、兄がソウ
ル駅にいた。兄は解放されたから、勤めも放り出し、私の来る時を待っていて、ソ
ウル駅に何度も来たという。1カ月過ぎて、家に帰ったが、兄は「うちの弟はいつ
来るか、いつ来るか」と、ソウル駅に何度も出て来ていた。徴用に行った人達が

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タンコ(炭鉱) だって?

238 

戻って来た、軍人として出かけた人も戻って来たので、うちの弟はいつ戻って来

るのかと毎日のように来ていた。そんなふうに来ていたので、ソウル駅で会った。

会って、家に帰った。当時兄は安岩洞から新設(シンソル)洞に引っ越していた。

それで、私が帰って来て安岩洞に行っても、家も探せないと待っていたのだ。

何、ソウルに来たらどんなにしても探せただろう。とにかく、探すには探せるが、
来ないから行ったり来たりしていた様だ。それで出会って、家に行った。日本に行

った人が戻って来るなら、釜山を通ってソウル駅に来る、そうなっていたから、毎
日のようにいつ来るかと思って、私と出会った。父母は息子のことを忘れてしまう
のではないかと思っていたが、生きて帰ったのでとても喜んだ。

工場の仕事はどうでしたか?   
行っても、工場の仕事は半分ぐらいしかしなかった。勤務中でも、別に時間を
割いて軍事訓練をさせた。木銃を持ってさせた。訓練は除隊した人がした。工
場の中には傷痍軍人が多い。引率者も軍人出身だ。軍人出身、将校出身のよう
だった。怪我をした人が工場で勤務していた。腕を切り落とした人もいて、日
本の男の大部分が傷痍軍人、そんな者たちだった。

女子もいましたか?   
女は多かった。女が大部分だった。当時、市内の電車や電鉄を運転しているの
は皆女だった。日本の人達、男たちはそれほどいない。男がいるとしたら、年を
取った男達、50~60歳なった人達、不具者、そんな人達だ。我々がいる時、東
京市内に行き、歩き回っている若い人は、韓国人が多かった。そのころ、日本の
若い人はそれほどいなかった。日本は全く底をついてしまっていたのだ。その
当時、電車を運転するのも女がしていた。男で運転する人は年を取った人だけ
だ。当時、東京市内で少し若いのがいるとするなら、位の高い人やコネがある
人だと思った。若い人はいなかった。皆女だ。

市内を歩いても、朝鮮人だからと言って迷惑をかける人はいなかったですか?    
その当時は軍服を着ていた。軍服を着ていたので、構われなかった。そして、ここ
に「サンキョセンシ (産業戦士)」という標がある。サンキョセンシのマークがある。
サンキョセンシと服に付いているので、構われない。当時、そのような服を他の人

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関東地域

239  

が着ることができたか? 私服でなく軍服だ。その当時、軍服を着て出かけると気

ままでいられる。誰も構う人はいない。当時は帽子も戦闘帽を被り、軍服を着た。

だから全く構われない。しかも私は言葉が通じたので、何もされなかった。

2年いたのですが、ずっと製靴工場にいたのですか?   
そうだ。他の所には行かないで、その工場で裁断をした。半分は裁断の仕事を

し、半分は軍事訓練を受けた、そんなだった。手足の爪を切り、髪の毛を切っ

て、紙で包んで小包を作った、そのうち、解放になった。

工場で皮を裁断することを担当していたのですか?    

こちらで、服などを作る時、反物を広げて、そこに絵を描いて、それを切り取るだろ
う? 皮も同じだ。皮の反物があれば、そこから型を取る。靴の型を取って来て、機械

に入れて、切り取るのだ。小さく切り取り、それをミシンで繋げて靴を作るのだ。

靴は軍人用のだけ作るのですか?   
軍用だけだ。軍人達の履物だ。それは、我々の靴のように型があり、こんな型も

ある。色々な型を作って、それを枠に入れて切り取り、その切り取ったものを持っ
て、ミシン部に行き、ミシン部で繋いで作るのだ。あの、服を作るのと同じだ。

日本製靴ではどこの地域の人が多かったですか?   
その時に行った人は皆ソウルから行った。地方の人はいなかった。朝鮮の人間
は、我々が初めてだった。それで工場が我々、行った者の待遇を良くしたのは
当然だ。当時は人もいなく、若い人はいなかったので、若い人間が行って仕事
をしたから、日本人も喜んだようだ。私の話は簡単になったが。解放された後
に朝鮮戦争がなかったなら、友達とも連絡ができただろう。現在、生きている
かも分からない。朝鮮戦争が起きた後、どこで別れたのかも分からず、生きて
いるのか、死んでいるのかも分からない。その人達は年齢が同じ頃だった。皆、
18歳、19歳くらいだった。

面談者 : 許光茂 調査チーム長

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タンコ(炭鉱) だって?

240 

李茂淳(イ・ムスン)

朴泰俊(パク・テジュン)

金得中(キム・ドクチュン)

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中部・東北地域

241  

04

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タンコ(炭鉱) だって?

242 

14

金得中(キム・ドクチュン)

黄海道 - 大同里炭鉱(左)

全羅北道・群山 - チェボ桟橋(左)

岐阜県 - 三井神岡鉱山(右)

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中部・東北地域

243  

金得中 (キム・ドクチュン)  男、76歳  
1926年9月30日 全北益山郡熊浦(ウンポ)面に生まれる
1941年

黄海道・大同里の炭鉱に動員され、1週間後、歩いて
脱出、1942年まで全北群山のチェボ桟橋で大きな
船に米を積み込む仕事をする

1944年2月(旧暦) 日本・岐阜県の三井鉱山(株)神岡鉱山24) で日本の

敗戦まで労働

1945年8月

交通費の代りに米2升を受け、下関で船に乗り帰国

24)

日本へ行かれる前に、他のところにも行ったそうですね?
おれは「募集」で3回も行ったんだ。その話をしよう。あれは19歳だった、日本

へ行く前の19歳のときに、あの平壤から相当遠い朝鮮の北部、黄海道の大同里
(テドンリ)にある炭鉱に行った。炭鉱の名前は分からないけど、そこから逃げて
来た。危ないから逃げてきたんだ。穴の中に入ると汗をかくし、出ると寒くて凍

24)·岐阜県 三井神岡鉱山· は岐阜県飛騨市にあり、亜鉛、鉛、銀などを産出。720年頃から採掘

がはじまり、近代に入って、三井鉱山が大規模な採掘を行う。2001年、採掘を中止。

炭鉱から桟橋へ、また日本の鉱山に、
募集で3回も行った

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タンコ(炭鉱) だって?

244 

え死にしそうだった。気候が違った。逃げる時、巡査が追いかけてきたんで、山
に駈け上ったんだ。自転車に乗って巡査二人が、おれを追いかけてきたんだ。
おれは歩いていたんだが、追いかけて来たので、山に登った。そうしたら、追う
のをやめたよ。それで、遠くまで歩いたよ。その炭鉱から歩いて来たんだ。

その炭鉱からは、どのぐらいして逃げたのですか?
1週間余りだった。1週間。恐くて逃げたんだよ。物もらいのように食べ物をもらって
歩いた。おれたちは、曾祖父の頃から益山の近くに住んできた。うちの曾祖父から4
代目を産んだ。うちの孫で5代目だ。そこは黄海道だけど、歩いて、歩いて逃げた。
飯を恵んでもらって歩いたけど、ある日、ある家にご飯をもらいに入った。ありがた
いことに寝ていけというんだ。寝ていけと言ってくれるし、ご飯も恵んでくれた。小
部屋で寝たんだ。毛布1枚借りてね。朝ご飯を食べさせてもらった。追い出されて
歩いた。それにしても、平壤ってのは、生半可な遠さではない。そこから家に帰った
んだけど、また引っ張られていったんだ。群山 (クンサン)、群山、知っているかい。
群山のあの海辺にチェボ桟橋っていうのがある。チェボ桟橋ね。あそこで、あのとき

は、何だったか、玄米をたくさん日本に持って行ったんだよ。行く途中で、難破もし
た。それほどたくさん持っていったが、井邑(チョンウプ)からも運んできた。そこでも

一月あまり仕事をしたんだ。お金ももらえず、ただ働きだった。

群山にはどんな経緯で行ったのですか?
無理やり連れて行かれたわけではないんだけど、行けと言われて行ったんだ。逃

げられると思って平壌から抜け出した、捕まると思ったけど。で、そこへ行けと言
われたので、行った。北部から帰ってそこ (群山) へ行ったんだ。「逃げてきたか

ら、そこへ行って働け」と言われたので、行ったんだ。だから金なんか。飯だけ

食わせてくれた。群山で玄米が車から降ろされる。それを、抱えて運搬船に運ん
だ。運搬船に、大きい船に運んだ。倉庫から出して運搬船に運ぶんだ。そこから、

自分の国 (日本) に持って行こうとした。そこで一月ぐらい働いたが、月の最初の
日は、石炭も運んだ。こっちは旧正月でも、石炭を運んだ。沖にやってきたけど、

大きい船が近くまで寄せられないので、小さな船に石炭を積んで近くの川の方へ
運んだ。大きい船は入れないからな。そうだ、おれはよく働いた。本にしたら数冊

にはなる、おれの話を。おれの話を聞こうすればね。 それで、一月くらい働いて、

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中部・東北地域

245  

今度は、日本へ行けと言うんだ。でも行かないと言った。そしたら、前に行ったの

は、あれは「臨時だ」というんだ。今までしたのは臨時だ、だから日本へ行けと言
われ、日本へ行ったんだ。3回も行くことになった、3回もだ。

朝鮮で働いたのは「臨時」だから、本当は日本に行って働かなければなら
ないと区長が言ったのですか?
面からあれが来るんだ。今じゃ、そんな人たちはいないだろう。みんな死んでし

まって、いない。みな死んだけど、区長じゃなくて、面の書記がそう言ったんだ
よ。まあ、今風に言えば、行けという紙が届くだろ。そう、それが出たんだ。あ
の人たちも解放後にみな死んだよ。

人々を朝鮮内でも連れて行き、日本にも連れて行ったわけですね?

そうだ。みんな、そのときは倭政時代だからね。昭和時代と言ったんだよ。行けと言
えば、行くしかなかったよ。おれが日本へ行って2年ぐらいして帰ってきたから、こっ
ちのことはよく分からないが。他の人たちは、そうだったか知らないけれど、その時
は、とにかく行けといって連れていく、そういう時代だったから。でも、笑わせるだろ

う。弟はまだ幼いし、兄さんは遠くへ行って金を稼ぐといって、いなかったし。自分

だけが農業をして、家計をまかなっていた。だから、おれも苦労したが、家に残る人

も苦労した。おれが稼いでいたのに、出て行ったからね。家には、金を稼ぐ人がいな

くなる。それに、給料を一銭ももらってないから、家に送る金もない。

お爺さんは、いつ日本に行かれたのですか?

うちの父は、自分が10歳のときに死に、母はもうちょっと後に死んだ。おれが20

歳の時、日本に行った後に亡くなったんだ。5人兄弟で、息子が3人、娘が2人
で、おれが次男なんだ。ちょっと待てよ、2番目じゃなく、こうだ。まず、兄が生

まれ、その次の姉が一人、姉が生まれてからおれが生まれた。そして、まあ、
そのつぎに弟が一人生まれんたんだ。5歳の時、脚にけがしたけどね。そして、

最後になって末っ子で妹が一人生まれたんだ。だから、息子としては二番目だ
ね。そのときは、まだ田畑の少ない貧しい人が先に徴用に引っ張られていった。
貧しいだけでも悔しいのに、人より先に、そんな募集に行かせられたんだ。

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タンコ(炭鉱) だって?

246 

日本にはどうして行くことになったのですか?

俺が最初から話そう。面で、面で部落ごと、村ごとに割り当てたんだ。割り当てて、

区長が行けと行ったから行ったんだ。募集と言うんだが、強制的に行けと言われ
た。そのとき、戦争が大変激しくなったので、この熊浦 (ウンポ) のそっちの方に叔母
さん(母の妹)が住んでいたけど、うちの母が月夜に行ったり来たりしたそうだ。「うち
のトクチュン(得中)は生きて帰らなければ、生きて帰らなければ」と言っていたそ

うだ。あまりにも危ないからね。働くことも危ないし、洞窟の中に入って仕事をするか
ら。ところで、おれの言うことを聞いてくれよ。最初はこっちから汽車に乗って麗水 

(ヨス) へ行った。麗水か、取りあえずそこに行った。まあ、ほかの郡やほかの面から
一緒に集めて連れて行ったんだ。大勢が行った。ほかの面からもね。

一緒に行った人は、何人ぐらいいたのですか?

どうしてそれが分かる。俺が心を落ち着かせていたら良かったんだけど。強制で行か

せられたから、覚えてないよ。連絡船に乗って、夜ずっと泣いたんだ。契約期間は24ヶ
月満期だったんだ。2年だな。あの連絡船に乗って、船に人がたくさん乗って、米もた

くさん積んだんだ。玄米をいっぱい積んでいたな。人がこんなに2列に相当長く並ん

でいた。人がいっぱい乗った。それで、あの輸送船に乗って、俺は泣いたんだ。あの時

は、まだそれほどあっちこっち行ったことがなかったから、郡で子牛を親牛から引き離
すようなものだ、たくさん泣いた。

「俺は、またここに帰ってこられるかな、母さんや弟

や妹に会えずに、死ぬのかな」と思って、俺はずっと泣いたんだよ。

行ったのは、何年何月ですか?

日本へ行ったのは20歳の時なんだけど、戦争の真っ最中の2月に行った。こちらの
旧暦の2月にね、2月に行ったけど、その翌年、ソワ(天皇)が手を上げたので、帰っ

てきた。原子爆弾を落としただろう。原子爆弾、そして、手を上げたから帰ってき
た。だから、解放の前に行ったんだよ。解放されてから行くわけがないだろ。

どこを通って、行ったのですか?
戦争のときに行ったけど、麗水から船に乗って行った。そして、あっちこっちの郡から
来たんだ。あの完州郡(現在、全州市に合併)からも来たし、南原(ナムォン)からも来た
な。あの人たちをそれぞれ乗せて行ったんだ。男は男どうしで、女は女どうしでな。

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中部・東北地域

247  

女性もいたのですか?

そりゃ、女は自由に行った人たちがいたようだな。年とった人もいるし、若い人もい
たけど、どんな理由で行ったのか分からない。まあ、船が波でゆれて腸が引っくり返

るようで、這っていた。そして、麗水からは20時間以上かかったな。日本のハグァン

(下関)に着いたんだが、着いても、座っていても、体がこんなに揺れるんだ。じっと

座って緊張をしていてもそうなるんだ。飯もくれ、薬もくれたけど。おれはそんなも

のを食べても、飲んでも、どうにもならない。全部吐いてしまったから。そりゃ、船が

波に当たりゴーンゴーンという音がしたんだよ。船の中でも、そんな音がしたんだ。

それで、まあ、日本のハグァンから、あの日本のテパン(大阪)へ行った。テパンを過
ぎて、日本のナゴヤ(名古屋)がある。ナゴヤよりも先に行った。

大阪まで、何に乗って行かれたのですか?
汽車で行ったんだ。テパンで降りて、またナゴヤへ行くのに乗った、強制的に。乗っ
てナゴヤに行ってみると、日本人が背嚢のようなものをしょって迎えに来ていた。逃

げるかと思って、出迎えたわけだ。リュックサックを背負ってね。そこに「朝鮮から何

人が来た」と報告するために来たんだが、握り飯と言っていたが、これくらいの飯に
塩味をつけたおにぎりをくれたな。そいつを一つずつ、食べてから、ナゴヤからバス

に乗ったんだ。そこは山の中だったから、汽車は通っていない。山の中だからバスに

乗っていったわけだ。バスで着いたところが、フルカワ(古川)だ。そこからまた登っ
ていくと、

〔神岡に〕大きな本部があり、となりの事務所を「ロム (労務)」と呼んでい

た。事務所のことをロムというんだ。山の中腹まで登っていくわけだ。そこをダイニ
チ (第一?) という。日本語でダイニチと言うんだ。心が安らかだったら、聞いたこと

も色々記憶しているんだが。不安だったから、よく覚えていないんだ。心が乱れてい

たよ、行った時。で、テパンに着いた時、いろんな所へ分けた。炭鉱に行く人もいる

し、あっちこっちへと色々なところへ連れて行った。おれは気が気ではなかった。泣
きながら行ったから、分からなかった。だから、一緒に乗って行った人たちが途中で

降りたのか、分かれて降りたのか、分からないんだ。

労働現場は、どうだったですか?
行ってみると、雪がたくさん降っていた。雪がたくさん降っている。訓練するとい

うのだが、家が潰れるといけないので、雪下ろしをしろというんだ。訓練というか

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タンコ(炭鉱) だって?

248 

ら、何か技術訓練でもさせるのかと思ったら、雪下ろしをさせるんだ。それから、

二日か三日過ぎてから坑の中へ入っていった。そこは鉱山なんだ。炭鉱ではなく
て、鉄〔亜鉛・鉛・銀〕の石を掘る鉱山ね。そいつを砕いて溶かすと鉄や金など
が出るそうだ。そういうところに行って、坑の中へ入って働いたんだ。どんなこと

をしたかというと、これから詳しく話そう。えっと、こんふうな今フラッシュ(懐中

電灯)というやつがあるだろう。フラッシュは、遠くまで (光が) 届くか?。遠くを照

らしても、天井がよく見えないんだ。ただ、ピカピカ光るだけでね。で、こんなも

の(鉱石)が落ちてくると、即死だよ。おれは向うでずっとカンテラを使っていたん
だ。ガスを入れてね。何をしたかというと、あの坑は、日本で2番目に大きい、鉱山
で2番目に大きいって聞いたよ。そんなに大きい。さて、何をしたかというと、坑の
中に入って、石を掘るんだ。そして、片側に穴を掘る。こんなにして(手の動作で

表現しながら)穴を掘るんだ。大きく掘ると一日の働きの量になる。一日分の仕事

になる。そこで穴を開け、蒸し餅のようなもの〔火薬〕を埋め込んで、火を付ける
んだ。火が消えると、大変だ。それから、曲がり角を全て知っておかなければなら
ない。角を曲がって行き、石が飛んでこないように隠れていなければならない。そ

れを他の人がやり、おれはその辺りで鉄の棒で石を転がす。内側に転がす。そし
て、押したり引いたりする大きな車(坑車)があるから、その車を押していって、石

を集める。そうすると、日本人が「2車」とか「3車」とか書くわけだ。まあ、石を運

ぶわけで、あの大きい石は持てないだろ。大きい石は持てない、二人ででも持て
ない。だから小さなハンマーでこんな穴を開ける。おれがその仕事をやったんだ

よ。そんなことをやって、他のこともやった。でも、全てが全て、危険な仕事だ。

一日に、何台ぐらいしたんですか?
あのときは、車で1日10回ぐらいは行き来したな。15台以上をやると金を上乗せ

してくれるんだ。もっとお金をくれると言っていた。だから、おれは貧しかった

から、一生懸命、あんなに危ない仕事をやった。行ったら金稼ぎをしようと。あ
の戦争の中でも、金でも稼ごうかと思い、危ない仕事をやったんだ。

働いていて、怪我をしたり、死ぬ人はいましたか?

いたとも。朝鮮の人がたくさん死んだよ。大きい病院があるんだ。それでもたくさん死
んだ。もう一つ、話をしよう。そんなに戦争が激しくなったが、飛行機を見たことがなか

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中部・東北地域

249  

った。俺が住んでいた所の向うの方に、ミナミダ(南平)という所があり、戦闘で捕まった
アメリカ人たち、捕虜たちが、まあ何十人も来ていて、収容所みたいなところだった。

板で高く塀を巡らしていたな。あの人たちも坑の中に入って働いていたな。

その人たちも、鉱山でいっしょに働いたのですか?
そう。俺たちは自ら歩いて行ったが、あの人たち(捕虜)は、憲兵隊が連れて来
たり、連れて行ったりした。すぐ隣で働いた。だけど、おれは石を砕いて、砕い
たものを掻き集め、それを車に乗せて運ぶ仕事をやったんだ。そして、あの人

(捕虜)たちは、あの坑の中を約1里入っていくと、電車に乗って入っていくと、

さらに坑があるんだが、そこで働いたんだ。俺たちは事務所があった。事務所
で「誰々はどこへ行って働き、誰々は何をせよ。ナンポ(発破) をしろ、何をし
ろ」と全部言ってくれる、そこで。あの人たち、捕虜の人たちは、みなこんな板
の塀があった。そこで、弁当を食べたりしたな。そこは大きい鉱山だけど、飛行

機を見たことがない。全羅道だったら、この裡里 (イリ、現在の益山) や江景 (カ

ンギョン) のような所からも、明るい灯が虹のように見えた。だけど、あそこから
は見えはしない。だから、飛行機を見ることはなかった。飛行機を見ることもな
い中で、ショワ(天皇)が手をあげた。その後、あの捕虜たちの所に大きな飛行機

が2機も飛んできたよ。大きい飛行機が2機も来て、何かこんなビラを投げたん
だ。葉っぱのように飛んできた。それで、おれは心の中で「帰す人は、帰してく
れるのかな」と思ったが、捕虜たちの屋根の上に、英語をペンキで書けというこ

とだった。おれは分からなかったが、他の人たちがそう言っていた。寮にいると
また大きい飛行機が来た。えーと、子どもたちが袋に砂を入れて投げると、そ

れが破けるだろう。それと同じようなことになった。飛行機が空をぐるぐると回

った。おれたちは、ただ低いところを、屋根を見ていたら、松笠のようなものが
ね、葉っぱのように飛んできた。初めは傘ぐらいだったけど、落ちてきたらとて
も大きかった。西洋の落下傘だ。それがヒラヒラと、スィーと降りてきた。ドン
と落ちたら壊れるからな。落下傘にぶら下がっているものが、電柱のように大き
い。それは米兵たちに渡すようにと補給したものだった。それは缶詰だった。サ

バもあるし、韓国で6月に食べる豆、そんな豆も少し入っていて、お粥も少し入

っている。タバコも、お菓子も、牛肉の缶詰など色々あった。戦争が終わってす
ぐ後のことだった。そばに行って見ていると、一つくれたんだ。一つずつくれた

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タンコ(炭鉱) だって?

250 

から、それを持ってきて、鍋で煮て食べたりしたな。

戦争が終わったのに、捕虜たちをすぐ帰さなかったのですか?

それは分からん。それは分からんけど、二度落下傘で補給品が落とされたが、一度
は破れて、中身が全て出てしまった。日本人が松の木に引っかかったものを落とし、

子どもたちが取って食べた。落下傘が破れてもらって食べ、彼らにもやった。アメリ

カ人たちが帰ったあと、もう一度、落下傘が落ちてきたんだ。落ちてきて、どこかの

警察署に保管すると言っていた。はっきりと見てはいないが、そうすると聞いた。

日本で冬を2回過ごしたわけですか?
ちょっと待て、話すから。おれが行ったのは、2月。旧暦2月に行ったけど、その

後まあ、1年が過ぎたな。冬を1回、日本で過ごしたね。その翌年に帰ったから。

こちらの邑(町)に帰ったら、9月9日だと言った。だから、年数は2年で、月では20
ヶ月ぐらいで、帰ってきたんだ。行き帰りの日を合わせるとね。

日本での生活は、どうでしたか?

寝床は畳だ。竹の床に畳を敷いたものだけど、こんな大きい家を作った、2階、
3階もあった、2段に寝るようになっていたな。竹の床ね、竹の床を2段に作った
わけ。こうして、こう作って、また、これをこう作って、その下で寝る人もいる

し、床に寝る人もいるしね。寒かったな。雪がたくさん降るから。寒いからブル
ブル震えながら寝た。服を着込んで寝ても、寒いからね。そこで、風呂に入るの

だが、その風呂代もおれの給料から全て引かれたんだ。

他の費用も、給料から削るんですか?
削られる。実績をうんと上げると清酒を一本ずつくれるんだ。また、劇場を見物しろ

と言うんだ。でも、そこに一月30日に一日でも抜ければ、配給がだいぶ減る。だから

何の意味もない。全て給料から削られる。給料というが、どうってことない。小遣い

ぐらいにしかならないんだ。もう全て引かれてしまうんだ。配給の物をもらうには、

ハンコを持っていって押す。もらったという証にするんだけど、布団代を取る。毛布
が2枚なんだけど、敷き布団が1枚で、掛け布団が1枚だ。そこでタバコを買って吸っ
ても取られる。全てが配給だからハンコを押してもらってくる。靴もそうだね。ジカ

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中部・東北地域

251  

タビ(地下足袋)という働くときにはく靴、このようにこっちが足の親指で、こっちは

こう結わえるんだけど、その靴代も取られる。日本人たちの下駄のように、こう (足の

指を) 割って履く物だ。それも古い物があって、新しいものに取り替えてくれる。古

いものを持っていかなけば、新しいものをくれないんだ。ただ、くれと言ったってく
れはしない。そのように給料から全部削るわけだ。

シラミなんかは、湧きませんでした?
初めは、シラミも多かった。あのとき、ハッパジ(綿入りの朝鮮ズボン)を俺は履いて
行ったんだ。俺はハンボク(韓服)、ハッパジをはいて行ったんだよ。で、俺はハッパ

ジの綿を全て取り出して、その外側だけをはいていた。風呂場で洗って、はいたん

だ。腹の減った人はあまり風呂に入らない。というのも、風呂に入るともっと腹が減

るから。おれは風呂に入ってから、お腹に布団をかけた。風呂に入ってから寝るとけ
っこう寝られたね。食べるものはまともに出なかった。木で出来た弁当でね。

何時に起きて、仕事をしたのですか?
それは分からない。それが、始めは一番方、二番方まであったけど、戦争が激

しくなってからは、三番方までできた。夜に寝てから起きて行くんだけど、寝て

いる途中で出るときもあったな。そう、それが1週に一回の交替だね。あそこに
初めて行ったときは、天井から石が落ちてきても分からないほど、眠たかった。

こういうふうに座っていると眠たくなる。だから、夜明けまで働いたわけよ。11

時か12時に入ると、夜が明けてから出るんだ。夜が明けてから出る。

>>> 

金得中(キム・ドクチュン)

        お爺さんが神岡鉱山にいるとき
        使った判子

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タンコ(炭鉱) だって?

252 

食事は、どうだったんですか?
飯の話か?あのスデン (ステンレス) の弁当ではなくて、木の弁当。あそこでは
腹がすいているから、みなよく引っ掻くんだ。これが弁当箱だとするだろ。ここ
のところを何回も引っ掻くから薄くなるんだ。ご飯が少しでも入るようにね。米
の飯をくれるんだが、さつま芋やじゃがいもを取り出すと、米は何粒にもならな
い。いうならば、いも入りのご飯だ。弁当の一つはその場で食べて、もう一つは
食事の時に食べる。坑の中に入って仕事をするとき、食事の時間になると食べ

ろと二つをくれる。だけど、その場で弁当を全て食べてしまう、お腹が空いて
いるから。一つだけ食べても足りないからね。そして、飯の票がある、票が。ま
あ、これぐらいの木の板の票がある。そこに何々と名前を書く、何番と書く。そ
れをご飯のとき、食堂で弁当にご飯をよそうと、その板の票を置いてこなければ
ならない。それをまた持っていっていくと、二重に食べることになるから。ご飯
になると、班長がそいつを全てみんなに分ける。それを持っていき、ご飯をもら
って食べろと。そいつがないと腹が減るとまた来て食べるから。割り込みをして
食べるんだな。元々一つは、坑の中に入って食べる。夕のご飯は食堂に行って
食べる。あそこで馬の肉も食べたんだ。馬の肉にワカメを入れた、ワカメのスー
プ、薄味のスープを作ってくれたんだ。はじめて馬の肉を食べたんだ。

その食堂の仕事をする人は、朝鮮人だったのですか?
朝鮮の人がやっていた、食堂は。山が高く…、今、あの観光に行くと乗って登るや
つがあるじゃないか、ケーブルカー。ケーブルカーのようなもの。あれで米を乗せ
て運ぶし、手紙なんかの配達物も登ってくる、野菜も登ってくる、みな登ってくる
んだ。山だから、そこの空き地に食堂を建てている。家は日本人が作った。あそこ
でご飯をどう炊くかといったら、当時は玄米でご飯をたいた。日本人は玄米を食
べたよ。火は練炭の火で、その上に大きい釜に水を入れ、湯を沸かすんだ。沸く

とそこに入れるわけだ。洗ってから、一回洗って。その程度はしてくれたんだ。

鉱山には、何人ぐらいがいたのですか?

そりゃ、よく分からない。そこを登ると石 (鉱石) を砕くところがあるんだ。石を
砕いたものを濾すところがある。機械でこうして砕いたものをね。そして、日本
人の女たちがこんなベルトが行ったり来たりするやつ、韓国にもあるだろう、そ

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中部・東北地域

253  

の上で石を選り分けるんだ。悪いのを選ぶわけだ。

お金を少し貯めましたか? 
ほとんど貯められなかったな。金があれば、家に金を送れるんだが。朝鮮から
持っていった金を、一度送った。俺が連れて行かれてから、母さんがひどく泣
き、夜中に行ったり来たりしているというから、おれは家に金を少し送った。
ああ! 海さえなければ、逃げられると思った。海がなければ、逃げて帰りたかっ
た。どれほど危ないことか。坑がね。金を少し持っていったんだが、うちの母さ
んや弟たちが安心するように、お金も稼いでいる、元気にしているからと、金を
送ったんだ。でも、それは朝鮮から持ってきたお金なんだ。

持って行ったお金を送ったのですか?
そう。それほど大きい金額ではないよ。手紙は人に書いてもらってね。でもその
手紙はもうない。その手紙があれば、住所が書いてあるはずだが。この票しか
残っていない。初めて日本のテパン(大阪)に行ったが、ソウルのようだった。
そこの地下室も、部屋を二重にしてあった。そして、ハグゥアン(下関)もそう
だった。船が着くところ。そこに行くときに見たが、原子爆弾が落ちて、もう線
路もこんなに曲がっているし、汽車は半分だけ残っていたよ。後で、家に帰ると

きに見たんだ。それがね、汽車に乗って帰るとき、鉄道が切れていたから、歩
いたこともある、少し歩いて、また乗って帰ってきた。そう、そうだ。あの鉱山
じゃみんなを早く帰さずに、もっと留めてから帰そうとしていたんだ。簡単に帰
さない。おれたちは、いつ帰してくれるんだと言った。あの茂朱 (ムジュ) の人が

作業班長だったけど、今はもう亡くなっただろう。名前は全部忘れた。

お爺さん、創氏改名した日本名は何ですか?
カネカワ(金川)という。カネカワと呼ばれていたんだ。おれがそこ〔鉱山〕で
注目されほどよく働いたから、そう呼んだんだ。朝鮮の面で言えば、面長か郡
長みたい人かな。そんな日本人がおれの手を握って「カネカワ、カネカワ」と。

こんなふうに手を握って「よく働いた。なまけずに、よく働いた」といった。他

の人はそこから出ていく人が多かった。そこから他のところへ逃げるんだ。だけ
ど、おれは、働いてハンコをもらう、ハンコを押してくれる。よく働くとハンコ

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タンコ(炭鉱) だって?

254 

をもっと押してくれるから、懸命にやったわけだ。仕事をたくさんやった。おれ
は貧しい暮しをしたから、金を稼ぎたくて、あの危ない仕事をしたんだ。でも、

金が俺のところに来ないんだよ、これが。騙されたわけだ。当時、あの人たちは

「カネカワ、カネカワ」と手を握って、握手もしたのに。

市内見物に行ったことがありますか? 古川で?
俺には休日を自由にしてくれたんだ。それほど信じられていたから。それで、フ
ルカワへ行ってこの写真を撮ったんだ。週1回、休んだけど、後になると休まな
かったような気がする。鉱山の外の田植えをしている農村にも行ってみた。お
れには自由をたくさんくれた。あの人たちはおれを信じていたから。よく働くか

ら信じていた。他の人がどうしたかは、よく分からない。買って食べるようなも

のはあまりなかった。あぁ、その下はもともと農村だ。こちらで言えばあの、(***
聞き取れず) で言えば、農村だ。おれも農業をやった人間だから、一度見に行っ
てみた。どうなっているかと思ってね。それで、行ってみたら、女がみな農作業
をしていた。馬で田んぼを耕していたな。苗をこうしてわらで束ねていたな。そ

して、そいつを集めて、こうして韓国みたいに投げないんだ。籠に入れて持っ

ていって、それを植えながら後ろ向きに歩いて一筋植えて、次に行って、また
植えていたな。苗を投げない。苗が折れると言って投げないんだ。こんな話を
すれば、本が2冊ぐらい書けるぞ、2冊な。それじゃ、みな話そう。休みに自由に

してくれるから、おれは遊びに行くわけだ。出て行くと、慶尚道の人たちが自由
に来ていたな。その人たちは金を稼ぐために、戦争になる前から来ていた。25) ミ

ナミ(南平)という、こんな村のような所があったんだ。村に自由に来た人たち
がたくさん来ていたな。そこで牛の皮も食べたんだ、牛の皮。腹が減っている
から、煮たものは、まあ、食べられる。あの人たちも、たまに牛を殺して食べて
いた。金稼ぎがいいからな。あの人たちは坑の中で働いても、自由に来ていた
から、自由に来ている人たちには金を何倍もやったんだ。

お爺さんたちと一緒に働いたのですか?
おれたちとは一緒には働かなかった。あの人たちは、あちらで生計をたて、豊か

25)·1939年以前に渡日し、働いていた朝鮮人

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中部・東北地域

255  

に暮していたんだ。見れば30戸、20戸ぐらい、それぐらいだな。そんな風に来た人
たちだから、あの人たちはおれのような人間を怪しく思わずに、牛肉の鍋もごちそ

うしてくれたんだよ。それで、タバコの配給があると、ご馳走してくれた人にたま

に持っていってやったよ。あの頃は、おれはまだタバコを吸わなかった。それであ
げたんだ。だけど、後になると、腹も減ってイライラするので、タバコを吸ったりし
たよ。巻きタバコをくれたな。巻きタバコ。その日本人はおれと同じような仕事を

していたが、あのタバコはキザミと言って鳥の羽のようだった。羽毛のようなもの

だ。こちらの韓国の年寄りは左の腰のあたりにそれをぶら下げて持ち歩く。そこに

タバコを入れた。そして、キセルで一度吸って、フーッと吹いて、入れてはまた火
を付け、吸ったんだ。巻きタバコを吸わずにね。タバコは羽根のようだった。

タバコを売ったんですか?
売ってはいない。友だちにあげたり、そこの人たちがタバコを吸うときにあげたりし
た。後になってタバコを吸い始めた。でも、おれは自由に酒を買うことができた。そ
れも持っていってやった。日本人の一人と相棒になって、何ヵ月も一緒に働いたこ

ともあった。あの酒一本持っていくと農村では米一斗と替えたそうだ。でも、おれは

ただでやったんだ。なにしろ、おれがよくしてやるから、鍋もご馳走してくれた。あの
農村に住んでいた朝鮮人たちが缶詰を一つ、こんな大きいものを一つくれた。開け
てみたらサバだった。それを鍋(チゲ)にして食べたんだ。

解放後は、どうしたんですか?
それも話そう。そのとき、8月になって解放になったけど、すぐ帰って来られると
思った。でも、すぐ帰してくれないんだ。あの人たちとしてはもっと時間を伸ば

して、翌年帰そうとしたようだ。おれたちは解放になってからは働かなかった。
日本人たちは、坑の中に入って働いたんだけどな。それで、1年を過ごし、冬を
もう1回過ごしてから送ろうとした。おれたちは明日か明後日に帰してくれるか
と思ったんだけどね。それで、まあ、おれは学がないけど、朝鮮人の中にもたま
にはできる人っているじゃないか。日本語もうまくて、そういう人がいた。そし

て、おれたちが飯を食うところの横の労務の事務所に集まった。その空き地に
みんなが集まった。早く帰してくれ、帰してくれと言おうと。木の切れ端なんか
を拾ってきて、焚き火をしながら、夜は寒いからね。言うなら、デモだね。早く

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タンコ(炭鉱) だって?

256 

帰せとね。そうして、日にちを決めてもらったんだ。日にちをね。

旅費は、少しはくれたんですか?
旅費はくれない。代りに米を2升くれたんだ。帰るときにお腹がすいたら、ご飯

を作って食べろとね。それで、そこにいた人、みんなで全員いっしょに出てきた
んだ。アメリカの船が1日に2回ずつ釜山と連絡すると言っていた。ハグァン(下
関)から朝鮮に連絡するというんだ。それで喜んで出てきた。さあ、今から出て
きた話をする。あの会社に、会社の人に釜山に連れていってくれと頼んだ。そう
したら、鉱山で責任を持って帰すと言うんだ。でも、その責任を持った人がどこ
かへ行ってしまった。おれたちを鉱山から連れて行き、釜山に渡す責任を持っ
た人がいなくなった。鉱山から連れて来たその人が、夜どこかへ行ってしまっ
たんだ。日本人だがどこかへ行ってしまった。それで、朝鮮人たちだけが残さ
れたんだ。それでも何とか帰ってきたんだけど。もう鉄道はあちこちで切れて
しまい、レールが全て壊れ、何里も歩いたり、車に乗ったりもした。それで下関
に来てみたら、船の着く下関に来てみたら、たくさん朝鮮人が来ていた。ああ、
みんな家に帰ろうと思って来ていたんだ。帰ろうとしたが、そこまで来て死ぬ
人もいるし、赤ちゃんを生む人もいた。もう大変だった。そこ、地面には便も垂
れ流し、もう台風のようで足の踏み場もない。そのときは外で寝たから、カマス
の切れ端がその時は1ウォン(円)だったか、いくらか、かかったと思う。布団の
ようにかけて寝るためにカマスを買った。そのまま寝ると霜が降りるから。それ
で、俺といっしょに来た人たちは、下関に行って9日間泊った。どうして泊った
かというと、あの責任を持った人がいなくなったからだ。自分で金を払って乗ら
ないといけなかった。日本人たちが船賃を出さないといけないのに。当時、向う
から渡ってくるのに料金が150ウォン(円)だ。待ち続け、九日後に渡ってきた。

帰ってくるのも、大変だったのですね?
それでまあ、下関にいたのだが、爆弾にやられて中にあったパイプが蜘蛛の
巣みたいにぶら下がっていた。こんなふうに突き出して。おれたちは大きい
船に乗った。鉄でできているヤツだ。木造船じゃあない。それでお金がない
人たちは、日本の地に残っていた。お金がないから、旅費がないから渡れな
かった。どうして渡れるんだ。でも、人間だから。そうやって船に乗って、釜

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中部・東北地域

257  

山に着いた。自分の家の庭に来たような気持ちだった、家の庭。それでひどく
腹がすいていて、飯を二杯も買って食べたんだ。二杯を平らげ、さて、故郷
のほうに帰ろうと。急がなくちゃならない、飯を食ったから。湖南線があると
いうので、それに乗って、ここの海美 (ヘミ) に着いたのが昼過ぎ、午後の2時
頃だった。そうやって海美にきた。ここに着いたのは9月9日だということだ。

切符を買うお金はありましたか?

それが残っていない、全て無くなっていたんだ。だから、持ってきた金はなかった
わけだ。それで、ナンポ (カンテラ)、その芯が6つの糸でできているんだが、そい
つを3つ残して、3つは解くんだ。よく解いて、それでシャツを1枚作ったものがあ

>>> 

帰国するために船に乗る朝鮮人たちの姿

     (出典:林えいだい『清算されない昭和 』 

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タンコ(炭鉱) だって?

258 

った。それは白いシャツだったけど、それを一つ持って来ていたのだが、それさえ
どこかへいってしまった。俺が9月に着いたら、うちの母さんが、もう、俺を見つめ

て、「私のトクチュンが死なないで帰ってきた」と、こう抱きながら泣いた。みんな
いたよ。弟もみんないた。うちの甥も徴用に行き、甥たちは九州の炭鉱へ行ったと
言っていたが、俺が帰った頃、同じように帰ったはずだ。同じ船には乗ってないけ

ど、あのころ帰ってきた。俺は帰ってきてから結婚した。24歳のときに結婚した。

お爺さんは、怪我をしたことはありませんか?

けがをしたことはない。まぁ、おれは元気だ。健康でいて、帰ってきたんだけど、何
回も死ぬ目に遇ったことはある。他の人たちは、そりゃあるよ。そこでは、こんな石が

落ちてくると、死ぬんだ。その話をしよう。ドカッと石が落ちて死ぬ人もいるし、こう

して轢かれて死ぬ人もいる。おれ達が見た限りでは、5、6人は逝ったね。そこで死ん

だ人もいるし、生きて帰ってきた人もいるけど。その人たちの1人に会えなかった。そ

こで死んだ人のだろう。あのヤンジピョンの人か、ソバンウの人しか覚えていないけ
ど、1人が死んだ。最初に行って受けた訓練、雪下ろしが、始めての仕事だったんだ

けど、その夜、死んだ。病院に行ったんだけど。そこに行ったら同じ家族の一員のよ

うにならなければならない。みんな助け合わななければならない。病気のときは、互

いに助け合わなければならない。みんな知らない土地の人間ばかりで一人だから。
だけど……、人が一人死んだ。あの人も貧しく独りっ子だと言っていた。死んでしま

ったけど、その人をどうするかというと、病院の門の前から山の中に行き、大きな火

でしたんだ(火葬)。初めはできなかったんだ、いやでね。あんなところに仕事に行く
わけだから。いつ坑の中から出られるか、そんなことも考えたし。弁当を出してくれ
ても、この弁当を持っていくんだけど、夜、悪い夢を見る。この弁当を食べて、働い
て出てこられるかどうか、あそこで死ぬんじゃないのか、そんな考えが頭に浮ぶ。悪
い夢を見ると心配になるよ。

人が死ぬと、どうしますか?
その話をしよう。あの死んだ人を、大きい寺の板の間に置いて、お坊さんが念
仏を上げるんだ。そう、お寺があった。すぐそこに、お寺があった。そこに行っ
て、木鐸を叩き、念仏をしたりする。そうして、朝鮮家屋のように板の間が広
い。それで、そこに置いてから、お坊さんが念仏をする。そして、二人がこうし

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中部・東北地域

259  

て、そこの人、そこの村の人だな。棒を差して両側から抱えていくんだ。おれた
ちもそのように……、本当にとりとめもなく話をしている。あの日は、人が死ん
だからと、坑の中では仕事をしなかった、しなかったのだ。

人が死ぬと同じ坑で働いていた人は仕事をしないのですか?

しない。日本人は、するなとは言わない。だけど、俺たちがしなかった。人が死

んだのに、俺たちの一人が死んだのに、俺たちに仕事ができるかい。今日一日
はやらないと。それで、その日は働きに行かなかった。他の人たちはどう言うか
知らないけど、俺たちがいた所ではそうだった。俺たちは薪を2本か3、4本ずつ
持って、あの山の中へ入って、火葬場に持って行った。あそこで火葬した。灰の

ことは分からない。韓国に帰ったかどうかも分からない。そう、灰 (遺骨) がいつ

帰ったかは知らないんだ。

事故が多かったのですか?

よく背負われて出てくる人もいた。そう、痛くて歩けないからだ。背負ってくること
もあるし、病院に連れていくこともあった。死んでいく人を見ると、もう坑の中へ

入っていく気がしない。だから、俺がさっき話しただろう。弁当を持っていって、

これをきちんと食べて、働いて出てこられるか、あそこで死ぬか。そんな考えが浮

んでくる。悪い夢を見ると、そんな思いがするんだ。とても辛かった。

自暴自棄になったのですか?
まあね。あそこは劇場が昼でも夜でもやっていたので、見物に行った。その時
は、旅芸人だったけど、劇場に来て1週間ぐらい公演したことがある。村に行
って、歌を教えてもらって、「水辺のタリョン」や「アリラン」やったりしたけ
ど、その人たちが帰ってしまうと、本当に哀れな気持ちになる。おれはいつ日

本から朝鮮に戻れるか、そんなことを思うとつらくなってしまうんだ。でも、
劇場の演説では、仕事をまじめにしろと言うんだ。日本人が勝ってこそ、お前
たちも朝鮮に帰れるとね。その時、考えも変わった。「もう、朝鮮には帰れそ

うもない」 と思って暮らしていたが、帰らなければという思いを持った。でも

一度、その人(捕虜)と俺が作業場であった時、その捕虜が「シオハイ!」 と言っ
た。それが何かと後で聞いてみたら、「きれいだ」 ということだった。きれい

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タンコ(炭鉱) だって?

260 

だからそう言ったって。「シオハイ!」 と言いながら、おれの頬を叩くんだ。お
れよりずっと背が高くて、目元が深くくぼんでいて、初めて会った時は恐ろし
かった。でも、俺を愛すると言ったわけだ。ついでに、この話もしなければ。
あの人が、「ニッポン、ダメダメ。アメリカ、ヒコーキ、タクサン、ヨロシイ、
オッケー」 と言ったんだ。「日本は悪い。自分たちのところは飛行機が多い」 と
言うわけだ。それから、「ワダグシ、トモダチ、サンガツ、オッケー」、「サンガ
ツ、チョーセン、バック オッケー、ヨロシイ」 と言った。だから、自分たちが
勝つ、3、4ヶ月すれば、朝鮮へ帰れるとそう話してくれた。3、4ヶ月すれば解
放になると言うことだ。いや! 本当に、その場は見られてはいなかった。会っ
て話を交わすと大変なことになる、殴られる。あの人たちは俺たちと違う坑に
入って働く。だってあの鉱山は日本で2番目。2番目に大きい鉱山だと言って
いた。わざわざ、あそこに捕虜たちを配置した。工場〔鉱山〕を動かそうとし
たわけだ。戦争になったら、工場が先に壊されてしまう。捕虜がいたから飛
行機を見ることはなかった。爆撃されなかったんだよ。

その人たちがいると爆撃されないのですか?
だから飛行機を見ることができなかった。解放になって飛行機が補給するのは
見たな。日本人はずる賢いんだ。大きな鉱山に捕虜たちを捕えて置いておく。

自国の人たちがいるのにどうして爆弾を投じられる。日本人の賢いのは半端じ
ゃない。当時、九州〔ママ〕の炭鉱も廃止し、鉄〔亜鉛〕を掘らなければ戦争が

できないと言って、そこに日本人の報国隊が大勢来た。だが、来てもほとんど
が年寄りなんだ。若者は見られなかった。あぁ、日本人の若者はみな軍隊に行

ってしまい、いないんだ。なのに、鉄の粉や石の粉をどこかへ運び、往来する。
こう石を砕いて濾し、砂をもう1里も離れたところまで運ぶ。そしてそこに集め
ると、そいつを機械にまた入れるんだ。石を砕く、石を砕いたのを濾す工場が
あったが、その工場は大きかった。鉱山も大きいけれど、あの工場も大きかっ
た。大きさは半端じゃなかった。一日では回りきれないほどだ。ナゴヤからフル
カワにバスに乗って3里ぐらいになるかな。山の中だから汽車がない。ナゴヤで
降りて、バスに乗って入って行った。山、あの山は、すごく大きい。日本で2番目

だって。山も2番目で、鉱山も2番目といった。

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中部・東北地域

261  

お爺さんがした仕事は危険でしょう?

もしそのときおれが自由で行っていたら、見物をしたり、何かを調べたりしただろ
う。だけど、強制的に行かされたからね。家のことを考えて、毎日泣いていたよ。

20歳になったばかりで、そのときはまだ幼かった。家のことを思って泣いた。弁当

を持って坑の中に入ろうとするが、本当に入りたくない。おれは何回も死ぬ目にあ
った。穴を開けるやつで、ここに、こう当てる、こう当てて、穴の一つに空気〔圧縮

空気〕を入れ、水を入れる。タガネ(鏨)と言うんだが、初めから当てるとダガネが
曲がるだろう。だから最初は一尺、二尺と穴を開ける。穴に空気を入れる、ホー
スでつながっている。空気で穴を開ける。空気をこう入れる。一つの穴に空気を
入れ、水を入れる。そうやって穴を開けていくと、田植えの苗床のようになる。そ
のままでは人が運べない。おれが鉄線で結わえて広い所に持っていき、小さなハ

ンマーで砕いたり、発破したりする。光を当てるとピカピカ光ると言っただろう。
カンテラもまあ、それぐらい遠くまで届くんだ。夜は、カンテラを磨く。明るく照ら

せるようにね。で、発破の時にはカンテラをきちんと掃除し、芯に火をつけた後、
岩陰の方に回るんだ。そのとき石に当たったら、死んでしまう。だから、岩陰の方

に入る。おれが前もって目をつけておいた所を目指す。準備していた所に行くん

だ。目をつけておかなければ、爆発するときに大変なことになる。発破する、爆発
するから。だから、おれはカンテラを掃除〔ソジ〕し、ガスを新しく入れ、こうして
火をつける。つけてから、そこの岩陰に回り、石が当たらないような所に隠れるわ

けだ。隠れている間に、何発爆発したか、それを数える。一つでも爆発しないと、

行って調べないといけない。そうしないと、ちょっとしたことで人が死ぬことにな

る。後で爆発するとね。だから、あの糸を伸ばして、発破〔火薬〕に火をつける。
カンテラも掃除して早く火を付ける。早く付けて早く隠れないと。もし石一つも飛

んできたら、死んでしまうんだ。

朝鮮に帰る時、爆撃の跡などをたくさん見たでしょう?
あの、日本の大阪に向かう道を使って来た。その道から来たんだけど、来る途
中、原子爆弾で鉄路がなくなっていた。道路は壊れ、そのため歩いて来たん
だ。鉄路がこう曲がっていたよ。そして、汽車は車輪だけが残っていた。だか

ら、原子爆弾だと言われなくても分かったんだ。あの大きな都市が赤煉瓦だ
けになって残っていた。ここ (益山) に落ちれば、裡里 (イリ) あたりの遠くま

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タンコ(炭鉱) だって?

262 

で焼かれる。ここに落ちれば、裡里あたりまで、あんなふうに全て焼かれてし
まう。それはとても力のある原子爆弾だった。だからショウワ (裕仁天皇) が、
あいつは二発やられて、手を上げたんだ。そうでなかったら、日本の国民はみ
な死んでいただろう。

面長は最初に、日本のどこへ行くと教えてくれましたか?
いや。日本へ行くとだけ言った。行くときには、おれたちは炭鉱へ送られると思

っていた。でも幸い、鉄鉱石〔亜鉛・鉛〕を掘る鉱山に行かせられた。炭鉱に行

くのかと!思っていたんだ。炭鉱は鉱山よりずっと危ない。鉱山は広いし、冬は

暖かくて、夏は涼しい。こんなに広いから。そういう所に入って、さらに広くし
た。中に入ると、広さは、まあ、4、5マジギ (1マジギ=約200坪)、2、3マジギの
広さがあるんだ。その鉱車の道 (レール) は狭くても。で、その天井に石がある
だろう。その位置がわからないと機械を取りつけられない。天井を高くしてか

ら、穴を開ける。開けると、土や砂利などいらないものを、そこに入れる。そこ
に機械を置いて動かす。機械を回して (穴を) 開けた。石が落ちないようにと。

(聞き取れず) 穴に行っても、どこに行くか、よく分からない。ある時、あの〔鉱〕
車をつける人の事故が起きた。それで鉱石がこう、こうと出て、四方八方に飛
んだ。あぁ、日本人の年寄りだったけど、あれ〔鉱車〕をつける人がいなくなっ
てしまった。知らないまま、坑の中へ入っていった。坑に入ったが、どうして分
かったのだろう。ワイヤーを降ろし、ワイヤーをカマスのようなものに付け、数
台の車を入れて、石を全て掻き出した。そうやって死体を運び出したんだ。

他の事故はありませんでしたか?

そのような事故は他には起きなかったが、石が落ちてきて死ぬことはあったな。あ
の帽子 (ヘルメット)、固いもので帽子を作ってくれた。はじめは、おれは何も知ら
ないから、仕事を教えてもらい、毎日、他の人のテモト (手下、補助) をした。はじ
めはそうだったけど、後になると、技術もあがり、おれもやれた。ムラカワ(村川)と
いう方と親しかった。おれが、日本語ができれば向うに住んだかも知れない。お
ればそのとき20歳だった。あの老人は年が60ぐらいだった。老人で、あの人のとこ
ろへ遊びに行ったこともある。帰るときにはハンカチを1枚くれた。

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中部・東北地域

263  

写真の説明をしてください。

ああ、これが日本へ行って、頭を刈って撮ったやつだ。このような服を着ている。
タンコツボン (炭鉱ズボン) というけど、ここにボタンを付けたヤツをはいた、ボタ
ンをはめてね。ゲートル26)をして働く。危ないからな。本当に、危ないんだ。

ありがとうございました。本当に貴重なお話が多かったです。
だから、本にすれば何冊にもなると、おれは言っている。まあ、兄弟の中でおれ
が一番苦労した。おれ一人、あっち、こっちへと回されてね。

面談者 : 李秉煕 調査官

26)·ズボンの裾を足首から膝まで布を巻いて覆うこと

>>> 

金得中(キム・トクチュン)

        お爺さんが炭鉱ズボンをはいた
        写真(写真提供:金得中)

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タンコ(炭鉱) だって?

264 

15

朴泰俊(パク・テジュン)

新潟県 - 葡萄鉱山

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中部・東北地域

265  

朴泰俊 (パク・テジュン)  男、81歳  
1925年10月29日 江原道春川(チュンチョン)郡 春川面で出生
1942年1月

日本の新潟県にある葡萄鉱山27) に募集され動員、

機械部で仕事

1945年

解放後、会社が準備した船で、帰国

27)

報国隊で行ったと言われましたが、報国隊の名前はありましたか?    
何かの報国隊でなく、鉱山に行って来たのだ。行く時に「報国隊」に行くという
話があった。名前は知らない。行ってから、兵隊とされ、また捕まって行きそう

になった。労務者だと言って、行かなかった。ああ!報国隊で行った。それは兵
隊に行くのと一緒だからと、〔軍への入隊は〕保留された。

27)·新潟県(村上市) 葡萄鉱山··1620年頃から亜鉛・鉛を採掘、1907年頃から採掘を再開。1917

年、葡萄鉱山(株)を設立して、鉱石を熔かす電気製錬所を置いた。1960年廃鉱。

解放されたことも知らずに、
仕事だけしていた。

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タンコ(炭鉱) だって?

266 

日本に行く前に、朝鮮で報国隊という名前で近い所に仕事をしに行ったこ
とはないですか?   

行く前に、土方のような場所で仕事をした。当時、たくさん供出させられた。持

って行かれた。ああ!日本に行く前に、農業をしていたが、供出と言って全てを

ぶんどられた。農業をして、穀物を、麦を収穫するとみな持って行かれた。そし
て配給する。そういう暮らしだった。国に納めさせて、そうさせて配給した。供
出というのは金もくれない。ただ奪っていくのだ。配給はくれるのではない、我
々が買う。そうやって食べなければならない。

最初、募集する時に誰から指示があったのですか?    

それは郡で募集したので、そこから来た。日本人が郡に来て、募集した。郡から面
に連絡して、各洞に何名といって、集めた。そうやって、引き抜いていった。募集は

担当者がおこなった。担当職員、それは面の書記、面の書記。洞内には里長が来て
話をする。話をされれば、行かざるをえない。面事務所に行けと、そう言うんだ。面

の担当者が洞内からその人員を受取ることになっている。だから、「どこで何名、こ
の日に来い、面に来い」と。そして、行くと、作業をしに行け、そんなふうだった。

>>> 

強制動員され、召集される朝鮮人達

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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中部・東北地域

267  

里長が直接選びだすのですか?    
それは、里長が直接決めるのではなく、面からこのようにしろと、里長を呼んで
させるのだ。そう、面から各洞に指示をする。里長が洞で選びだすのではない
だろう? 誰々に行けと言うとき、既に面はそれ〔氏名〕を知っている。面でそれ
を見て、誰々来いとそう言うのだ。それで、連れて行かれるのだ。

50名が選び出されたが、皆が行きましたか?   
違うよ。4名は体が痛くて、行かなかった。どこが痛いのか分からないが、元気
で郡まで行ったが、その人達、4名が抜けた。我々46名だけが捕まって、出かけ
た。それで、私が戻って来ると、その人達はそのままいた。その時は痛くて行け
ないと言っていた。病気は良くなったのか、行かないで済んだ。

何年度に日本に行ったのですか?    
何年だったか。私は当時、よく学んでいなかったので、分からない。でも、年齢
は19歳で行った。歳では19歳、満では18歳の時だったから、1942年だろう。1月

に行った。陽暦の正月を休んで、10日ぐらい過ぎてから行った。

どのようにして、行くことになったのですか?   
その時、行く時、面から日本人が来た。やって来て人間を50名募集してくれ、連れ
て行くと言った。それで、すぐに面から来いと言われ、面の担当者が朴ク○という

人だった。その人はもう亡くなっている。朴ク○さんが担当だった。その人がうち
の面の担当だった。その時、そこに日本に行く人、50名全員を召集した。それで、
50名が行くことになったが、さらに郡に行けと言った。郡に行くと、当時、面ももう
いくつかあったが、郡庁に行ってみると、そこに日本人が来た。その人について、
歩いて駅前に行った。そこでは列車に乗れず、駅前で車に乗せた。

それでは、朴ク○という人は募集する時、なんと言って募集したのですか?       
その時は、労務者として日本に行けと言った。その頃は、行けと言われれば、無条

件に行った。行かない訳にはいかなかった。倭〔日帝〕の時代だから。それだか

ら、日本のどこに行くかも知らず、日本に行けと言われて行った。許○さんという

人が車に乗せて行く途中で、何か買って食べろと金を1円くれた。それを受取った

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タンコ(炭鉱) だって?

268 

が、彼は同じ洞内の人だ。どこに行ったかといえば、新潟県という所に行った。そ

して、ムラケミノ〔村上〕ショノマチ〔塩野町〕の葡萄鉱山だ。鉄鉱山〔亜鉛・鉛〕

だ。直接ここまで来て、連れて行った人は、その鉱山の社長だった、主人だ。

一緒に行った50名の中で、記憶している人はいませんか?   
その時に行った人々とは皆、別れ、現在知っている人は小陽(ソヤン)洞のあ
の人だ。今は亡くなった。シン・ヒョンソプと言う。その50名は皆、その鉱山で
仕事をした。クルマ〔鉱車〕、そのソル・クルマ〔鉄製の鉱車〕に載せ、押した

り、引っ張ったりして持って行き、「センクマ(選鉱場)」というが、それを砕く工

場で、女たちが鉄〔亜鉛・鉛〕と石を分ける所に運び、鉱石を選び分けた。

郡庁に集まって、どこまで行ったのですか?   

ここから行くときはソウルに行き、釜山に行き、釜山から九州に渡って行った。
ソウルから夜行った。夕方に船に乗り、船で8時間かけて渡り、九州に行き、旅

館で少し休み、そこで休んだ後、新潟県という所まで行った。それから、また
車に乗り、汽車に乗った。とにかく何日もかかった。そこに行くと、雪が屋根ま
で、大地全体を覆っていた。小山になる程に雪が積もっていた。そして寒かっ
た。そこの鉱山のトラック、鉱山の車に乗って行った。

作業服はくれましたか?   

あの時、何だったか? こんな洋服を持ってきて、着た。春川に持って来て、主任が

着せた。それを着て来た。春川から行く時に着た。主任が持って来たと言うことだ。

初めて鉱山に行った時、他の朝鮮人はいましたか?    
いなかった。我々46名だけ。我々が初めて行ったのだ。その鉱山に韓国人が、前

に自由に入った人が1人だけいた。フジハラ(藤原)と言った。そこで、日本の女と

結婚して、娘を2人もうけたそうだ。その人を除けば、我々46名が初めてだった。 

そこで、どんな仕事をしたのですか?    
そこに行って、はじめは皆クルマ〔鉱車〕をした。クルマをしろと言われ、その
鉄のクルマが重い。鉄**〔鉱石〕を積んで、全部を入れると、とても重かった。

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中部・東北地域

269  

それを持って行って、高さがこのぐらいの所にこぼす。その一つを一杯にして、
持って行くのだが、きつくて持てないほどだ。私は体が弱いから、できなかっ
た。本部の坑道で水を抜いて揚げる機械があるじゃないか? それを昼食時間に
回すのを習った。私はそれをやろうと習ったのだ。そうして始動させ、モーター
で水を抜いた。それは無理もなく、うまくできた。それで、日本人に、親方・監
督に話をした。すると「今は空きがないから、少し我慢していて、空きが出来た

ら入れてやるから、少し待て」と言った。それでしばらくすると、その時1番方、

2番方、3番方、そう言うのがあって、3交替で24時間仕事をしていた。それで2
番方で仕事に出ていると、労務事務所から「明日の朝1番方で、機械部のポンプ
班に入れ」という電話が来た。食堂の小母さんが電話した。それで私は「嘘じ

ゃないか」と言った。電話だったから。そして本当かどうか、行って尋ねると、

朝1番方、ポンプ班に来いと監督が話した。その仕事をして戻った。

それでポンプ作業、水を汲み上げる仕事をしたのですか?   
なあに、機械が仕事をするから。厳しい仕事ではなく、力もいらない。しかし失敗
すると機械が壊れてしまう。モーターは100ボルト、30ボルトと言うのだが、それ
を間違えれば壊れて、大きな損害になる。それで、途中で居眠りはできない。そこ
では、最後まで座って、見ていなければならない。水を落としても焦げる。

部屋はいくつあったのですか?   
部屋は飯場で、飯場が2階建て。それで、韓国人は下の階にいた。46名の班で、
1班、2班と分けてあった。1階があるが、2階にも部屋があった。そんな飯場があ

った。食堂は下にあった。その下には家がいくつかあり、上にも家がいくつかあっ

た。そのようだった。日本人の飯場は別にあった。それで、私とあいつ、崔チュン
ギルという人がいた。その人が死んでしまったかどうか、今は分からない。その人

と私が、日本人がいた飯場に移った。だから、そこは個室だ。我々がそこに入り、

部屋を2人で使い、そこに1年いた。その当時、日本人は多くいなくなった。工場を

出て行き、それで空いていたのだ。飯はそこで食べた。2人でそこに行って、一緒
にいて、帰って来た。その人も私と一緒にポンプ機械部にいた。崔チュンギルだ
けど、消息は全くない。後に、原州(ウォンジュ)に住んでいたが。

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タンコ(炭鉱) だって?

270 

鉱山であったので、坑道に入って鉄を掘る人もいたんですね。  
我々のように連れて行かれた人だけでなく、他の人達、一般の人も一緒に掘っ
た。鉱石は、亜鉛とナパリ(鉛)だ。亜鉛が出て、ナパリはナプシェ(鉛)だ。

それら、2つの種類が出る。

それでは、何時から仕事をしたのですか?    
その時は3交替だった。朝の8時に入って出て来る、夕方仕事をする時間は8時間だ。
夜もした。夜中の3時に入る人もいる。交替で入るのだ。私が1番方をすれば、他の
人が2番方で入る。だから、空けることはできない。また、2番方が出て来ると、3番方
が入り、2番方が出て来る。これは完全に交替で、入ったり出てきたりした。そして、
病気で人が来ないときは、その人数でしなければならない。来ないときは。

飯場から鉱山までどれぐらい離れていますか?   
飯場から坑道に入ろうとすると、1キロほどだ。歩いて行く。昼食を持って行

く。食堂で作ってくれる。弁当という包み、それを昼食で食べた。 クッパプ(汁

飯)をくれた。クッパプをくれるのだが、新入りでクルマ(鉱車)を引く人は腹
が減るから、増した。腹が減るというので1合増やして、7合の飯を貰った。おか
ずはキムチ漬け、白菜漬け。そして、色々な魚もくれた。魚などを配達する人が
いた。食べるものはあった。

休みの日は別にありましたか?    
休みの日はあった。休日は1月に2回だったか。そこから70里(韓国の10里が日
本の1里)ほどの所にトラックに乗って行き、崔チュンギル、さっき言った友人

と遊んで来たこともある。最初、日本の奴は外に行かせようとしなかったが、我
々は「我々が逃亡するのか、何をすると言うんだ」と強く言った。そう詰め寄っ

て、外に行けた。その後は何も言わなかった。
 
逃亡する人もいましたか?    
いなかった。逃げようと決めたことはある。5人程で、逃げようと。そんな気持ち

になった。しかし出て行ったとしても逃げられない。どこに来たのかも知らなかっ
た。逃げて捕まれば、殺される。多くがあいつらに半殺しになる。生きられない。

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中部・東北地域

271  

鉱山に行く時、期限はありましたか?    
私はそこで3年ほど仕事をした。最初から期限は3年だった。3年だったが、解放され

る前に延期されようとした。

「もう1~2年いなければならない。出て行けない」そう言っ

た。3年期限で行ったのに、延期させた。しかし、途中で解放になり、戻って来られた。

給料は貰いましたか?   
給料は、1日で計算すれば1円20銭だ。そんな程度で、金を貰うと皆食べてし

まった。買い食いした。金は15日単位でくれる、時には1か月でくれた。その
ようにしてくれるのだが、全て食べてしまった。「今日死ぬか、明日死ぬか分か
らず、食ってから死のう」、そう思って。その頃は爆撃もしばしばあった。だか
ら、いつ死ぬかも分からないから、食べて生きよう。どうせ死ぬのなら。我々は

苦労し、そのまま死んでしまうのか。死んでしまえば、それまでだ。それでその
時、倭政の時、捕まえた牛を買って食べたことも、そんなだった。

日本で食べたのですか?   
そうだよ、どこで牛を捕まえるというんだ? 山羊、鶏、豚など全て金で買って食べた。
だから金は稼がずに、ただ体の調子を維持するだけだった。食べないままでいつ死ぬ
かもしれないのに、金を貯めてどうするんだ? 当時はそんなふうに考えていた。

女性は石を選別する仕事をしたと言われましたね。   
ああ、石を選別する、そこは選鉱場だ。そこで女たちが選別したが、その場には
韓国の女はいなかった。皆日本人だ。そこには日本の男は工場で仕事をするの
で、そこには女しかいなかった。

家族と手紙の連絡をやり取りされましたか?   

したよ。ここから家に手紙を送り、家からも手紙が来た。餅も送ってくれた。私が

手紙で「食べる物がないので、こんなものを送ってくれ」と書くと、「お前は腹を
空かしていないか」と言って送ってくれた。こちら、朝鮮では飢えていないと。

日本で身体検査を受けて、軍隊に行く令状を受取りましたか?   

そうだよ。向こうに行って2年が過ぎて〔徴兵〕検査を受けた。だが、そこで

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タンコ(炭鉱) だって?

272 

保留させた。1年延期した。身体検査は受けた。3人、ここから軍隊に行く人
がいたが、身体検査を受け、甲種を受けた。そこで日本の青年と一緒に身体
検査を受けたんだ。当時、日本人は皆そうしていた。それで甲種だったが、鉱
山の方で「兵士で行くのも、ここで仕事をするのも一緒じゃないか、同じじゃ
ないか。お前が行ってしまうとうちの鉱山の仕事が回らない」と保留させ、軍
隊には行かなかった。鉱山にいた元気な若い日本人は軍隊に行った。日本人
は皆、行った。それで私まで行くことになったわけで、令状が来たが、保留さ
せたという。軍隊に行くことが決定し、明日には出かけることになり、服や帽
子までも持って来た。しかし行かないことになった。主人は、私に「保留にし
たから、1年保留にしたから、そのままでいろ」と言った。それで鉱山で仕事
をした。鉱山で同じ仕事をしていた日本の若者は先に行った。老人だけが残
った。私も軍隊に行っていれば死んでいた、死んでいただろう。

解放になったことをどうして知りましたか?   
それが、8.15に解放になったことを知らなかった。8.15に解放になったことを知

らず、仕事をしていた。いつだったか、遊びに来いと言われた。奥さん達が神

社に行ってお祈りするのか、何するのか。解放になった日の後だ。私はそこで何

をするのか知らずに行った。日本人が遊びに来いというのでそこに行った。ある
男の人が、戦争は終わったと言うんだ。その前まで誰も知らせてくれなかった。
誰も言わない。我々には誰も決して話さなかった。それで、後になって〔解放
を〕知り、我々は仕事しなくなった。

解放になったことを知ってから?   
解放になったことをようやく知った。彼らもそうだった、総督府〔日本〕が手を
挙げたと言った。私は解放されたことを知った。それで、仕事に行かなくても、
飯をくれるかって? 1日に3合しかくれないんだ。仕事をしないからと言って、
飯をくれないのだ。それだけで生きられるか?エイ、クソ、これじゃダメだ、我

々は命がけで争おう、事務所に行ってぶち壊そうと思った。それで、棒やそん
なものを各自持って事務所を打ち壊した。「なぜ送り返さないのか、この野郎
ども!我々を連れて来て、こんなに死ぬほど仕事させておいて、早く送り返せ」
と強く出た。後に見たら、窓ガラスは全て割れていた。事務所に行って見ると、

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中部・東北地域

273  

ああ!みんなどこかに逃げていた。事務をしていた人は皆逃げていた。その2日

後、警察の3人が来た。所長と3人が来た。我々を送り返さないのではなく、船
がなくて送れないと言った。1日でも早く送ろうとしているができない、少し待

ってくれ、待ってくれと、そう言った。

彼らが送ってくれると言ったのか?   
そうだ、それで仕事をして飯を貰わらなければならないのか、仕事をすれば飯

をたくさんくれるのかと、そんなにして抗議した。それで、あー! もう早く送っ
てくれと。それ程かかからない、直ぐに送り返すから、待てくれと。船が難破し
て、それに乗船するのだったから。心配せず、送り返すから。その署長が来て、
しばらくして行けという通知が来た。朝鮮に帰れと。それで我々はそこを離れ
て来た。あー! 行く時は何日もかからず行ったが、戻る時は8日間の夜と8日間
の昼、8日間掛かって戻って来た。船はそんな風に立ち寄りながら、何処に寄っ
たのか、回りながら来た。

どんなふうに戻って来たか覚えていますか?    
ああ!分からない。それがうまく思い出せない。ああ!行く時は連絡船に乗った
が、戻る時は貨物を載せる船、石炭を運ぶ船、それに乗った。水面の下に荷物
を積む所があるが、そこに乗って来たんだが、チョンスは船酔いし、皆、死んだ
ようだった。自分の意志で行った人達も一緒に戻って来た。ああ、それに何も

食べずに来た、食べればしきりに吐くから。上に登ってデッキに行き、海風に当
たれば良くなると思ったが、デッキで苦しんだ。やっと生きて戻って来られた。
本当に、ああ! 船の中では死んだようだった。船酔いがひどくて。

戻る時も釜山に到着したんですか?    
そうだ。釜山に着いて降りたら、はぁー!生きていた。その時、生きた心地がし
た。釜山から列車に乗ってソウルに来た。夜に着いた。ソウルに着いて降りた
が、ソウルから春川に行くのに乗り換えがあるので、ソウル駅の中で寝た。夜

を明かして、春川に着いたら、また夜になった。それで旅館で寝て、次の日に

道庁に行って、少し暴れた。誰でもそうだよ。で、道庁に行き、あれこれ抗議し
て、そして帰って来た。

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タンコ(炭鉱) だって?

274 

戻ってから、どんな仕事をしたのですか?    
家に戻り、24歳で嫁を貰い、農業を続けた。行く前も農業をしていた。農業し
て、学ぶこともなく、ああ!昔、父母が苦しい生活をしていたので、学校にも行

けなかった。それで勉学できなかった。

あちらでも、爆撃が激しかったでしょう?   
ああ!朝鮮戦争の時のように空中からやたらに爆弾を落とした。飛行機で落と

した。家のトタンも崩れ落ちた。飛行機は街の方に飛んで行った。我々は200メ

ートルほど離れて見ていたが、落ちると直ぐに伏せた。その後、静かになった。
鉱山にまた車に乗って戻った。その時は、倭政の時だった。。

鉱山で事故が起きませんでしたか?   

ああ! 私も鉱山で死にかけた。本部で機械を見ている時、どういうわけか、電気が

飛んだ。外に出ると、李ナムグンという人が電気の線を引き下げて、電気から火が

出て、大変な事になった。私は34番(採掘場所?)にいて、520大隊も44番にいた。
そこで私は34番に下りて行った。ああ! そこにいた人達は外に出ていて戻っていな
い。そのため、私が行って、機械を全***して、工具で止めて、スイッチで押すだけ
にした。ああ!少し経つと、電気が入った。電気線を集めている所に水が落ちたま
ま、電気を入れたから、火が出たのか? それでタンクが燃えて、水がこぼれ落ち、
そしてカンテラの灯を持って行ったが、カンテラの灯も消え、真っ暗になった。何が

見える? 何も見えはしない。それから支柱が倒れた、ガタンと!支柱はこのように丸

くなっているが、アイゴ!怖かった。そこはずいぶん前に閉鎖された所だった。閉鎖

された所に入ってしまい、転がって落ちたので、支柱につかまって叫んだ。友達が

どうにかつかまえてくれた。それで支柱を支えにして、落ちなかった。もちろん落ち

ていれば死んだだろう。上がってみると、それが、ああ!足のここが腫れて、こんな

になった。それでここが悪くなった。その時は死ぬところだった。そのため半月、仕

事ができなかった。治療を受けた。ああ!今でも痛い。

お爺さんがした仕事は、正確にいうと何ですか? 鉱山の中に水が溜まるの
を外に汲み出すことですか?    
水がそこ〔坑内〕で出るから、仕事ができないじゃないか。水を汲み出す、水で

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中部・東北地域

275  

いっぱいになるから。それを電気で、モーターで抜いて揚げる。パイプをこう
欄干状にして水を抜き出すんだ。ああ、こんな溝を渡って行く、小川のような
溝を。炭鉱(鉱山)ではたくさんの水が浸み出してくる。その水を汲み出すため
に、そこを離れられない。昼も夜も汲み出すから、だからそこに機械を、余裕を
持って置く。機械が壊れれば、どうしようもなくなる。だから、1台でなく2台、3
台と置いてある。使っていたものが壊れると、水がつぎつぎに落ちてくる。そう
なると他の機械を使って、このようにして揚げる、水がずっと揚がっていく。機
械が壊れれば、使えなくなる。なので、他のものを使う。そんなふうにやって生
き延びた。アイゴ! 最初は死ぬ目に遭った。アイゴ、そうだった。その箱(*鉱
車)は大きいわけではないが、その箱の中に鉄が千個も入る。最初はそれを5人
がかりでした。5人ずつで、掘って載せて、押して引っ張る、押して引っ張る人
が3人、掘って載せる人が2人、そうやって引っ張って行った。その後、3人でや
った。その後には2人、そして、1人でやった。慣れて来るとクルマ〔鉱車〕1台
に人が1人。やり方を教えてくれるから、慣れると1人だ。1人で掘って載せ、押

して出て行く、だから、あいつら(日本人)は、我々は力が強くて、力士のよう

だと言った。後で知った事だが、ちょっとした要領があった。一気に押して綱を
肩にあて、丸くねじりながら行けば、上げられると言うことだ。

要領なのですね。
そう、要領があった。労務の奴らは、我々をたくましい人だと言ったが、あれこ
れする要領があったのだ。一度、2人で積んで行ったが、1人が前方で逆持ちに
引っ張る、そうやった。ああ!私が行ったらすぐにそうやったんだ。そうやって
押していたら、鉄板からこんな物がドンと落ちた。ドンと落ちたんだ。少し遅

ければ、前にいる人に当たって、死ぬところだった。速く押していたら、私が

轢かれて死んでいただろう。死ぬ目には何度も遭った。奴らが言ってさせるの
だが、鉱山ではこの鉄板から何かがいつ落ちるか知れない、その時は危険だか

ら、この壁にもたれかかれ、壁のここを持っていろと注意した。注意はするが、

それがいつ落ちるのか、分かると思うか? それで、その時は本当に驚いた。死
ぬ目に遭ったよ。

面談者:高賢嬉調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

276 

16

李茂淳(イ・ムスン)

新岩手県 - 川崎重工業久慈製鉄所       

                     岩手県九戸郡久慈町(現久慈市)

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中部・東北地域

277  

李茂淳 (イ・ムスン)  男、77歳  
1928年3月31日 江原道 春城(チュンソン)郡 西(ソ)面で出生
1943年5月

上の兄の代わりに徴用に行く、黄海道に行き1カ月
の訓練を受けた

1943年6月

日本の岩手県九戸郡久慈町、川崎重工業久慈製

鉄所28)に動員

1945年11月

解放後、2カ月焼き畑を耕していたが、会社が準
備した船便で帰国

28)

何歳の時に日本に行きましたか?    
多分、17歳の時だと思う。1943年5月だ。田植えをする前だった。その時は田植

えが遅かった。今は5月に田植えを始めるが、その時は5月中旬に苗を植えるこ
とができなかった。その時、父母は健在で、我々は6人兄弟、男女で6人だった。

28)·川崎重工業久慈製鉄所 (後、川崎製鉄久慈工場)· 現在の久慈市庁(当時は久慈町)の近く

にあった川崎製鉄所(現JFE)傘下の工場。久慈の砂鉄を利用し、1939年に開設された製鉄

所。当時の資料が、久慈市歴史民俗資料室で見られる。

岩手県に行く前、黄海道で1か月間、
制式の軍事訓練を受けた

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タンコ(炭鉱) だって?

278 

私が男で3番目。

その時、お兄さん達は行かなかったのですか?   
その時、兄には上の兄と下の兄がいて、下の兄は既に徴兵で行くから行かなか
った。上の兄は、家には子どもたちだけで、農業をする人がいないため、農業を

していた。それで、私が選ばれて行った。私は兄の代わりに行ったのだ。兄は

行かずに、私が行くと。それで私が行った。その時はまだ若かった。最も年下だ

と言われた。しかし16歳の人もいた。その人が最も下だ。年端も行かぬ者を行

かせた。それは小学校を終わった年だった。

それでは、この家から動員されたのですか?   
いや、この家ではない。あの上の庭にある家だ。上の家は全て壊されて今はな
い。ここ芳洞(パンドン)里はあっている。里長が来て、出て来いと言われた。
出て来いと言われて、行っただけだ。紙(令状)があるのも知らず、無条件に行
けと言われた。強制だ。誰が行ったりするか? 農夫なのに、誰が行こうとする
か、そうだろう。

それでお兄さんの代わりに行ったのですね。   

うちの上の兄さんは私より10歳か、11歳年上だ。2番目の兄はその時私より5歳

か、4歳か上で、徴兵された。北海道と言ったか、そんな所に行ったが帰って来
た。日本の軍隊。弟はまだ幼いので、行かなかった。

その時、芳洞里から春川市まで出て行ったのですか?
出て来いと言われ、春川市まで各自で歩いて出て行った。春川駅に行った。そ

こに日本から来た人がいた。名前は知らないが、1人で、日本人だった。案内す
る韓国人が1人いた。行くとそのまま、日本人が連れて行った。日本人は私服

で、軍人ではないようだった。

日本に行く時、どこに行くのか話がありましたか?   

話もないまま、行った。私が行かないと言えば、上の兄を送ると言うから、その

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中部・東北地域

279  

まま、仕方なく行った。私が行くことになった。私がまだ若すぎたから、やらな
いようにしていた。上の兄は年齢も27歳となり、行く歳になっていた。当時、私
は若すぎたし、結婚してなく、まだ少年だった。若くて行った人もいたが、行く
つもりもなかった。

春川駅に集まった人は、何人ほどでしたか?   

あの時、我々と一緒に行った人々は60数名。多分70名近かっただろう。春川市
で約70名になった。

そのように集められ、どこに行くのか話してくれましたか?   
そんな事は言いもせず、人員だけ点呼して、そのまま乗せて、汽車に乗せて、
あそこ、黄海道に行った。北の黄海道だ。黄海道に行ってら、何か話をしてく
れると言っていたが、そこに行き1カ月教育を受けた。チェシク(制式)訓練、
制式訓練、そんな事をした。日本の奴は飯を食う方法などを教えて、1か月の
間、そんなふうだった。そこに行き、1カ月の間日本の奴に教育を受けた。その
時、引率したのは日本人だった。

それでは、黄海道で教育を受けて日本にすぐ行ったのですか?   

うむ。そこから日本にすぐ行った。汽車に乗って釜山まで行き、そこで旅客船に

乗り、その時はハグァン(下関)と言ったか、どこだったか?ハグァン、シモセ
キ。そこに1日を使って行った。釜山に行き、防疫検査とか、何とかして。そし
て、船に乗って渡って行く。蒸し風呂のような温泉、どうするのかというと服を
全て蒸す、服を水に浸して、蒸した。お湯で蒸してから、着せた。そこはとても
広かった。新しい服をくれるのでもなく、着てきた服を着るのだ。

それでは、こちらで着ていた服を着て、風呂敷包み1つを持って行ったので
すか?    
風呂敷包みをどうして持って行けるのか?風呂敷包みを持って行く余裕がある
のか。持って行く服もあれば、の話だ。その当時、何の服がある。自分が着る
服、それ1つだけを着て行ったのだ。

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タンコ(炭鉱) だって?

280 

教育を受ける時、食事はどうしていましたか?   
食事は1日に3食くれる、必ずパンをくれる。現在の蒸しパンのような、このぐら
いの大きさ。白いもの。それをこのくらいの容器に入れてくれる。いつもパンの

ようなものだ。それが飯だが、嫌だった。腹が減ってたまらない。おかずもな
く、汁だけだ。他のものは何もない。日本の奴の味噌汁、それをくれた。腹が減
って、ひどく痩せた。完全に痩せ細った。1か月の間に、体重が大分減った。

それでも、夏なので寒くはなかったでしょう。   
5月だから、寒いとは感じず、飲み水もお湯だけを飲んで、冷たい水は飲まなかっ
た。下痢をすると言って、沸かした水だけをくれた。教育を受ける時、旅館のよう
な部屋で、1部屋に10名ずつ入った。10名ずつ入る部屋がいくつもあり、そこで寝
た。訓練は練兵場でした。食事をする講堂があり、そこで食事をして、何か話を
する時もそこに全員が集まった。

下関に到着した時は夜でしたか?   
夜で真っ暗だった。岩手県に行くのだろう。下関、そこでまた、汽車に乗り、岩
手県か、そこに行くのだ。そこに行くのに、2日間かかった。おお! 引率者が黄
海道から連れて行った人で、最後まで連れて行った。一緒に行った人の中に中
隊長、小隊長、そんな者もいたが、我が国の人が班長だった。ところが行く途中
では、飯をくれなかった。8時間、9時間経っても、飯をくれなかった。

そこで、どんな仕事をしたのですか?    
そこは製鉄所だ。鉄を持って来て熔かす、溶鉱炉に鉄を入れるのがあるだろ

う。製鉄所。その後は、山に行って掘り、それを持って来て、鉄を熔かす、そん

な事だ。それを運搬し、溶鉱炉に入れる所にまで行き、注いで入れる、そこか

らは機械に乗せて溶鉱炉に入る。それをクルマ〔鉱車〕の人が押し、行き交う。

そのような押す仕事をした。そこで服を1着ずつくれた。そこに行くと作業服、
真っ黒なやつを1着ずつくれた。鉄鉱石を掘る人は他にいて、我々が配置された
所は、クルマ〔鉱車〕をこのように押して持って行き、注ぎ入れる、そうすると
機械に乗って溶鉱炉に入って行く。

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中部・東北地域

281  

日本語は少し出来ましたか?   
こちらの学校で学び、少しできた。学校では日本語だけだ。朝鮮で朝鮮語を教
えず、日本語だけ教えていた。後には、日本語を話さずに朝鮮語で話すと、辞
めさせられた。言葉を奪われてしまった。名前もホシヤマ(星山)何とかになっ
た。私の家がソンサン(星山)の李氏だ。それで、星山と改名した。

1日に仕事は何時間しましたか?    
1日に9時間、10時間以上した。朝に交替するが、夜に出かける人がいて、昼に
出かける人もいる。昼夜だ。1週間は昼間班、1週間は夜間班と2交替した。仕事
をするのは12時間だ。12時間、2交替だから、12時間でいいな。それで、休みの

日もない。交替でして、約1週間夜勤をすれば〔交替する〕、そのようだった。

仕事をした代価として賃金はくれましたか?    
賃金など、特にくれなかった。そこで、何だ、タバコを吸えと少しくれた。家に
送金もせず、言葉では送ってやると言った。送ってくれると言ったのに。それを
受け取っているのか?解放になってみれば…‥‥。

そこでは、食事はどうしてくれましたか?   
はぜた米と言ったか。はぜた米を混ぜてくれたので、ひどく腹が空くほどでは
なかった。黄海道の時は腹が空いていたが、そこよりは少し多くくれた。そこ
では、こんなにして弁当と言って、弁当を詰めて行ったが、食堂でも弁当を出

した。我々が寝る所が宿舎だった。そこでは1部屋に10人ずつ入って寝る。それ

で、食堂は別にあって、そこに飯を食いに行く。そこで朝食を食べ、弁当を詰め
てくれる。朝食を食べて、1つずつ分ける。朝食を食べ、容器を持って行くと、
弁当を1つずつくれる。それを持って出勤し、そこで昼食を食べる。夕食はここ
で貰って食べる。はぜた米で粘り気もない飯だ。ふっと吹けば、飛んで行くよう
なものだった。

逃亡する人はいませんでしたか?    

ここはもともと、人里離れた所なので、逃げても行き場がない。逃げることは

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タンコ(炭鉱) だって?

282 

考えられなかった。そうだよ。この韓国から数千里の外、離れているのに、ど

こに逃げる場所があるというのか。逃げることはできない。逃げることは考え
られなかった、逃げようと思うこともできなかった。どこに逃げるという、あ
てがない。

解放の消息はどうやって聞きましたか?    
解放の知らせも、後で知った。1か月後に知った。そこは田舎で爆撃もなかった、

それで。それでいっそう分からなかったのだ。後に、解放になったと話し合った。
すぐに朝鮮に送り返してくれると思ったが、奴らはいつまでも送ってくれなかっ
た。山はかなり広く、そこを登ると、平たい場所があった。そこに行き、強制的に
占領して、我々だけで焼き畑を耕した。奴らはしきりに仕事をさせようとしたが、
その与えられ仕事をしないで、山に行き、焼き畑を耕した。1カ月ほどした。多分、

戻る時までそれをしていた。そうこうしていると11月になり、畑仕事をしている

と、送ると言われ、それで車に乗り、汽車に乗り、ハグァン(下関)まで来た。

そこから、下関まで汽車に乗ってどれぐらい掛かりますか?    
2日ほどかかる。そこ〔岩手〕は北海道のすぐ下にある。かなり上〔北〕の方だ。
だから、逃げ出す気持ちにもならなかった地域だった。それで、北海道の方に
行ってから下がり、東海(日本海)の方に行く。遠回りした。

>>> 

大きな船に乗るため小さな船で接近する姿(出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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中部・東北地域

283  

船は大きかったですか?   

ああ!船は大きかった。多分、何万人も乗れるようだった。アイゴ!大きい。闇
船でもなかった。韓国に来ていた日本の奴らを連れていく、そんな船だった。そ
れに乗り、我々は戻って来た。その船に乗って、1日掛かった。朝に行って、夕
方に降りたから。金はくれなかったが、小遣いを少しずつくれたので、それを使
った。当時、私はタバコを吸わなかった。タバコを吸わなかった金、その金をそ
のまま貯めた。ひと月に10円ほどだったか、タバコ代をいくらかくれた。タバコ
を吸う人にはタバコ代にも足りない程度を。それでその金を全て集めた。来る
時に買い食いもした。

そうして、家に到着したのですね?    
いや、うちの母は、他の人が戻って来るのに戻って来ないと言って、戻って来
るまで、11月まで毎日、駅前に来ていたんだ。連れて行かれたまま、戻って来
ないから待っていたのだろう。一緒に行った人は皆一緒に戻って来た。みな一
緒に来て、ソウルから鉄原(チョルウォン)に行く人が数名いた。他のものはみ
な、春川に帰って来た。みな、春川に戻って来た。

面談者:金瀅烈 調査チーム長

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タンコ(炭鉱) だって?

284 

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日本以外の地域

285  

05

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タンコ(炭鉱) だって?

286 

17

鄭相均(チョン・サンギュン)

南洋群島 - 飛行場

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日本以外の地域

287  

鄭相均 (チョン・サンギュン)  男、84歳 (南洋群島)
1921年9月21日 江原道 春川(チュンチョン)市 南(ナム)面出身
1941年11月

面から通知が来て、南洋群島29)に動員、トラック島
で飛行場工事(5か月間)

1942年3月

ナウル島で飛行場工事、荷役作業等(解放まで)

1946年7月

日本の仙崎港を経て、群山港に帰国
当時、洪水のために鉄路が寸断、大田から平澤(ピ
ョンテク)まで徒歩

1946年秋

結婚、その後息子4人

29)

お爺さんは最初行く時、年齢がおいくつでしたか?  
20歳の時だ。その時は、何だったか。軍人だ。しきりに軍人になれと言った。
志願兵になれと。現在では志願兵として軍隊に行かなくても良いのだが。当
時、志願兵には行かないと言ったら、ここに行けという通知が来た。郡から来

29)·南洋群島··西太平洋の赤道付近に広がっている島々の中で、1919年に日本が国際連盟から

委任統治を任され、支配した地域をいう。現在の北マリアナ諸島、マーシャル諸島、ミクロ
ネシア諸島など。

南洋群島で、
井の中の蛙のように5年過ごした

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タンコ(炭鉱) だって?

288 

たのだ。

郡から来た人が、誰だか覚えていますか?    
分からない。どんな人だったか、分かるのか? ただ郡から来た、面から。あっ、
当時、春川(チュンチョン)市のここで暮らしていたが、この村からは2人行っ
た。ところがその人はそこで死亡した。チョン・チョンヌンと言ったが、私より

は2つ年上だった。

南(ナム)面から何人行きましたか?    
南面から8人だ。春川郡庁に41名集まったが、日付は良く記憶していない。しか

し、10月だった。陰暦10月。出発する時、行事はなく、そこに列に並んで集まれ
と言った。その人達は身体検査をした。ただ人を見るのだ。健康であるか、何

か病気はないか。そして、春川で一晩泊まった。その後、ソウルに行ってまた
泊まった。寝て、次の日に釜山に行ったんだ。汽車に乗り、釜山に行き、そこに
行くと、また身体検査だ。訓練も受けずに、船に追い込み、そこで身体検査を

した。一緒に行った総責任者、その総責任者に疥癬があった。体に白い点があ

>>> 

出発前に、朝鮮人たちが身体検査を受けている姿

     (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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日本以外の地域

289  

った。そんな人が2人いた。南面の人が1人とその人と2人。それで、その人達は
そこで戻った。だから他の人が引率をした。名前は分からない。あっ、平昌(ピ
ョンチャン)の人だ。平昌郡にいた人だ。そこで船に乗って日本に行き、それか
らずっと先にトラック島という所がある。南洋群島は当時、日本だった。全てに
日本人がいた。そこに行ったが、3~4日以上かかった。日本に行くのに1日かか

り、それからトラック島に1週間かけて行った。船で食事はくれた。ところが、船

でするので、過酷だ。なぜかと言うと、飯は食べるが、船酔いで飯がほとんど食
べられない。行く時は、どこに行くという話は全くなく、契約は1年と言った。給
料はくれると言った。だが、給料は貰えなかった。

行く時、故郷の家族はどうしましたか?    
父と兄がいた。弟はいない。我々は農村で農業をしていた。だから、父と兄がい
た。近くに親戚もいた。甥もいたが、後に日本に徴用され、行って来たと言った。

南洋群島はどうでしたか?   
ああ! 島は海の真ん中だ。島に行ったが、気候が熱帯だから暑い。そこで飛行
場のために平らにした。飛行場をならす仕事をした、小石でこんなふうに作る
仕事。小石を割ってコンクリートを張るじゃないか?そのため機械で石を集め
て、ひっきりなしに割る、そんな仕事だ。そこは1人でするのではなく、組があっ
た。1人でそんな事がどうやってできる?組は仕事によって何名かになる、6名
になる時もあり、5名になることもある、それは仕事によって違う。飛行場の仕
事をするから、あちらこちらに行く。朝、出ると朝会をする、そこで日本人が配
置する。朝会をして人員把握をして、そうする。そこには病人もいるし、外出す

る人もいるので、そうしたのではないか? それで、仕事をする人が何人かを確

認しなければならない。そのために朝会をするのだ。

1日に何時間仕事をしましたか?    
それは朝に、その時はとにかく、ここで普通に仕事をするのとは違う。とにかく
6時に早く起きて、夕方は日が沈めば、終わりだ。仕事によってきつい時もある
けれど、楽な時もある。食事は特別な物はない。飯だよ。おかずは、そんなもの
は、ああ!人が何千名になるのに、おかずなど特別にあるのか? 

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タンコ(炭鉱) だって?

290 

給料は受け取りましたか?    
4カ月間は受け取った。毎月50ウォン(円)ずつくれた。但し、それは金で貰う
のではなく、家に送ってくれると言うことだった。家に送ったのか、送ってない
のかは分からない。後になると、給料も無くなった。

どうやって過ごしたのですか?   
そこには幕舎をこのように張って、暮らした。普通の軍の幕舎と同じだ。そこに

数百人を入れた。全てに蚊帳をくれ、そこで水を温めて沐浴した。そこに4カ月
ほどいた後、他の所に行った。ナウル島、そこに行った。そこでも、やはり同じ
仕事をした。我々は島、小さな島にいたから、そこで起きた事は知っていた。
だが、他の所で起きたことをどうして知ることができる? 我々は「井の中の魚 
(蛙)」だよ。昔のように井の中の魚だ。どこに行けば、外の話が聞ける? 人はお
互いに往来して初めて消息も聞けるものだ。往来もできずにどうして。ただそこ
で仕事をするだけだ。仕事というのは飛行場を造るだけでなく、船が着けば、
荷役作業もした、そうしていた。怪我をした人もいた、怪我をした人は多かっ
た。ああ! 怪我した人はいた、いないはずがないだろう? 怪我をして死ぬ、そ
んな人もいた。

逃亡した人はいませんでしたか?   
逃亡、どこに行ける? ああ! 海の真ん中で、どこに行く。島の周囲はたぶん2キ

ロほどだ。いや、トラックに乗っても、1周で30分かかるから、多分9~10キロほ
どになるな。逃げるとしたら、水の中に入って行かなければならない、どこに行
ける。本当に行く所がない。ずっとそこにいて、帰って来た。だから、そこにい
るだけで、帰って来た。

1946年に戻って来ましたか?    
そうだ。金も、何もなかった。1年そこにいたが、全く何もなかった。船で出てい

くことができない。ナウルには、どこに行くかも知らず、乗れと言ったから乗っ

て行った。それで手紙を1か月に1回ずつ出した。そこからの手紙は、「ここにい

る。元気にしている。元気か」そんなものだ。他の事は書けない。

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日本以外の地域

291  

そこには、軍人たちもいましたか?    
周辺に軍人がいた。ところが、軍人は飛行場を削る仕事、そんな事はしない
で、軍部隊にいた。それから、寝るのは我々だけで、仕事もそうだから、その軍
人達と顔を合わせることはなかった。日本人の軍人もいて、労務者もいた。労
務者とは一緒に仕事をするから、言葉を学んだ、一緒に仕事をするから。とこ
ろが、軍人は基本的に別だった。日本の軍人達は、戦争の時、そのために配置
されてきていた。島を守るための軍人だったから、我々とぶつかることはなか
った。行ったり来たりする時に出くわすことはあった。その程度だ。軍人の中に
は朝鮮の軍人もいたと言うが、我々が朝鮮人と日本人とをどうやって区別でき
る? 話をして見れば分かるが、それはできなかったから。

爆撃が多かったでしょう?   
ああ! 言葉で言えないほどだ。その時、爆撃があった。結局、我々は井戸には

まった魚のようなものだった。どこからか飛行機が飛んで来て、しきりに爆撃す
るんだ。「お前らには行く所はない。じっとしていろ」、そんな状態だった。戦争

末期だったから、包囲されて行く所がなかった。防空壕があった。怪我をする
人、死んでいく人もいて、沢山の人が病気にかかった。死んだ理由で最も多い

ものは、飢えて死ぬことだった、結局。

日本語を話せましたか?    
日本語か?少し習ったが、話す振りをした。私の名前は チョンサン(青山)だ。
ここの人達が一緒に数多く行ったが、その人達といたので、少ししか知らなか
った。だが、5年いたから自然と覚えた。その人達と上手に話すことはできない

が、簡単な話はできた。

日本人と朝鮮人の待遇はどうでしたか?    
もちろん、違っていた。仕事をする場所では、同じ仕事をさせなかった。彼らは

他の所でして、我々は我々だけでした、そんなだった。彼らと車に乗って行くと

き、現場に出かける時は混じっていたが、仕事をする時は、必ず別々にした。監

督は日本人がした。

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タンコ(炭鉱) だって?

292 

衣服や食事の状態はどうでしたか?    
そこでは、服などが必要ないよ。ランニング1つ、パンツ1つだけ、それが全て。

あとは故郷から着ていた服をそのまま着た。食事は、野菜も自分たちが作れば
食べられるだろうが、思うようにはならなかった。ただ彼らがくれるものを食べ
ていた。後になると、1年半、つまり、8.15解放前の1年半は、どんな船も立ち寄
れなかった。そこには売り買いする物はない。売り買いがないのだ。金もない
が、売り買いもない。トラック島に2~3カ月いたが、その時は何でも買うものが
あった。そこには慰安婦がいた。軍人達の中には行く人は行った。我々は行か
なかった。そこには日本の女、朝鮮の女が別々にいた。我々が冬に3~4カ月い
た程度だから、よく分からない。

ナウルでは朝会はしましたか?    
ない。そこでは人員把握などということはしなかった。各班に班長がいたから、
その必要がなかった。41名が1つの班だ。その人がみな人員の把握をしていた。

周辺に朝鮮人の村がありましたか?    

どこに、そこに? ないよ。そんなのはない。その当時、何かと言えば、肥料工場が
あった。肥料の資源〔リン鉱石〕を土の中から掘って、それを肥料の原料にした。

見ると興南(フンナム)窒素が入っていた。興南だ。そこに肥料工場があった。

〔朝鮮窒素肥料興南工場のこと、ナウルでは南洋拓殖が採掘〕。そこにも工場が

あった。こちらでも肥料を使っていて、持って来たものを見たことがある。

休日はありましたか?    
休む日は、別にあった。何日かに1回。その日は遊ぶんだ。ところが、島だから
何かしようとしても、何もすることがない。酒場があってもそこに行けるか、売
店があったとして、そこで何を買う? 買うにも金がなく、売店もなかった。そん
なものもなかった。それで、原住民。その人達が行ったり来たりするだけだ。そ
の人達の言葉はわからず、話をしたこともない。そして、1年半の間、船が立ち
寄れず、食糧もなかった。解放になる前は、船が入って来られなかった。それ
で、ヤシの木と言うのがあるだろう? ヤシの木とカボチャを植えた。ここのカボ
チャよりも甘かった。それを植えた。船が入って来ないから仕事もできなくな

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日本以外の地域

293  

り、戻るまで自給自足だ、そのまま。

解放になったことは、どうして知りましたか?    
誰かが話したので、知った。日本人の司令官がいるだろう。その人達はどんな
悪さもできなかった。豪州軍が直ぐに上陸して来た。我々は捕虜ではなかった
が、その人達が来ると仕事をさせた。そこに肥料工場があったが、それを豪州
軍が接収して、壊して片付けた。豪州軍も給料はくれなかった。飯はくれた、米
の飯を。

戻って来た過程を話して下さい。    
そこにいた人々が一遍に戻って来た。そこに、3、4個中隊がいたから、400名近

くが戻って来た。1個中隊が5班だ。当時の2個中隊で400名、それが一緒に帰っ

て来た。400名で船に乗り、ラバウルに来て、そこに2か月程いた。しばらくし
て、日本に来た。仙崎と言う。そこでまた1カ月留まった。その時、コレラが流行

していた、病気。それが恐ろしくて、韓国に行けなかった。そしているうちに、

群山(グンサン)に着いた。

行く時は釜山から行ったんですか?    
釜山から行った。戻った時は群山に着いた。梅雨であったので、鉄道が途絶え
て。そこまで来て、多分20日程、1カ月いた。ああ! 帰りたい気持ちは言うまでも

ないが、道がないので、無理して行けるか? そこから家に行くのに、大田(テジョ

ン)まで車に乗せてくれた。大田から平澤(ピョンテク)まで歩いて来た。80里、

80里を夜、歩いた。夜通し歩いた。

春川が故郷である人達とも一緒に来たのですか?    
そうだ。戻って来ると父母は二人とも亡くなっていた。兄と弟で過ごしていた

と言う。嬉しかった。兄弟同士で喜んだ、言うまでもなく。26歳の時に戻って来

た。戻って来て農業をし、その年の秋に結婚した。

一緒に行った人達のことを思うことがありますか?    
一緒の面から行った人はみんな知っている。チョン・ウンがいて、それから、李

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タンコ(炭鉱) だって?

294 

ギヨン、徐チルグ、それと閔ウォンシク、李グァンジョン、李スチョンがいる。
あの人たち。それから、柳グァンサン、李スンジェ、それで8名でないか?そう
だろう。同じ面に暮らしていて、一緒に行った。2人は死んだ。徐チルグとチョ
ン・ウンは韓国に戻ってから死んだ。

あちらで死んだ人もいるでしょう?   
死んだ人は、そこで火葬にした。怪我をした人は病院に行きもした。ナウルに
来てからは、行けなかった。死ねば、木を集めて、火葬にした。そこから骨を選
び、後に遺骨として送ったと言う。後から来たのだ。そう、こちらに人が来て、
受け取ったのだ。その家の父親の言葉だが、弟が行って受け取り、こちらに埋
めたと。直接私が見たのではないが。

ナウルでの生活を話して下さい。    
あの島は小さな島で、そこは洞窟が多い。そこは避難する洞窟が多い。空襲も
あり、そんな時には避難する窟(*防空壕)が多かった。空襲もあり、そんな時
は避難する所が多い。そこで日本の奴、その司令官があれ、あれをさせていた

〔壕を掘らせていた?〕。軍人たちが多かった。2~3千名程いた。部隊があっ

た。そこには司令官もいて、大隊長、中隊長、全部いた。部隊の名前は知らな
い。そこで、軍人たちは自分たちで、あれ、壕を掘っていた。壕のようなものを

自分たちで、防空壕を掘っていた。

戦闘がありましたか?    

もちろん戦闘はあった。でもどこの誰かが分かるか? 艦砲射撃と言うが、それ

が米国から来たものか、英国から来たものか、どこから来たのかわかるか。飛行
機が来ると、こちらでも砲を打つ。飛行機が爆撃しに、しばしば来た。毎日、爆
撃するように来た。爆撃しに来ると、空襲警報が出される。防空壕にいて、解除
警報が出れば、そこから出る。

当時、日本の名前を持っていましたか?    
そうだ。みんな日本の名前だった。その時、皆が創氏した。それで、青山(チョ
ンサン)の李氏だから、青山としたが、その日本語読みはアオヤマ。チョンサン

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日本以外の地域

295  

はアオヤマだ。「ユ」という柳の字があるだろう、それは柳村(ユチョン)だ。山
森 (ヤマモリ)、こんなふうにお互いを呼んだ。名前を呼ばず姓だけ呼ぶ。アオ
ヤマ! ヤマモリ! このように。そこでは、創氏した名で呼んだ。そこで班長が人
員の把握をするだろう。その人は人員の把握をし、何名だから何名といえば良
い。5年間一緒にいて、人が40名になっても帳簿のようなものはなく、人の名前
を全て覚えていた。

当時、南洋群島に行く時、そこがどこか知っていましたか?    
現在なら、我が国でも南洋群島を知っているだろう。南洋群島がどこか知って
いたかと? どこかも分からずに、ただ行けと言われた。行けと言われたので行
った。お前はどこ、そこに行け、と。今のように「どこが良いからそこに行く、ど
こが良くないから、そこには行かない」、そのように選択はできなかった。どうし
ようもなかった。

患者は病院に送ってくれたか?    
ナウルはその周囲が10キロ。病院などと言えるものなどなかった。そこでは病気
や予防などに、神経を使うどころでなかった。〔別な所では〕病気になれば、病
院に行く。当然、病院は無料だ。ああ!我々に金があるなら、金を出す。奴らが
我々に金をくれていれば、金を出しただろう。金もくれないのに、どうして金が
出せるか? 日本人を監督する日本人は別にいた。彼らの監督官は別にいた。そ

して、部隊で仕事をさせるので、監督官は多かった。

他の島との往来は可能ですか?    
往来、どこと? 往来があれば、朝鮮に戻って来られるよ。往来はなかった。船

も入って来られないのだ。それは日本人も我々も同様だ。警備所には人がい

た。そこに派出所があった。でも警備所とは言うが、銃などはなかった。

面談者:権美賢調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

296 

18

崔且起 (チェ・チャギ)

千島列島 - 捕鯨会社 (日本海洋漁業統制)

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日本以外の地域

297  

崔且起 (チェ・チャギ)  男、79歳  (千島列島30)で捕鯨)
1927年9月23日 慶尚南道 蔚山(ウルサン)郡 蔚山面で出生。父

母、男女6人の2番目、父母を助け、農業をして漁
船に乗った

1945年4月25日 蔚山に支社がある捕鯨会社 に動員。大正丸に乗っ

て、村から8名が動員され、千島へ。

1948年

ソ連軍の下で仕事、朝鮮に送るという言葉に信じて
船に乗ったが、サハリンのホルムスク(真岡)に降
ろされ、ゴルノザヴォーツク(内幌)炭鉱で労働

1952年11月14日 結婚
1989年

日本を経て、韓国訪問

2000年

永住帰国後、京畿道安山市の「故郷村」に居住

30)

30)·千島列島··北海道の東、根室海峡からカムチャッカ半島の南、千島海峡までの列島。現在

はクリル列島という。北千島、中千島、南千島に分かれ、全面積は10,355.6km。日本は南

4島を領土と主張。〔日本海洋漁業統制(株)は戦時の水産統制によって1943年3月に設
立、現在の日本水産(株)〕

千島で捕鯨、
サハリン44年ぶりに帰国

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タンコ(炭鉱) だって?

298 

捕鯨会社の従業員として、行った話を少し聞かせてくださいますか?                     
捕鯨会社の募集だ。その時、捕鯨会社の募集があった。その当時、日本の奴ら
は、中国全土で戦争を始め、第2次世界戦争の最中であり、余裕がなかった。

「戦争に勝つか負けるか」という大変な時に、日本の奴らのほとんどが出払って

いた。その会社で仕事をする人、捕鯨をする人も、日本の奴はほとんど皆が軍
隊に引き抜かれた。だから蔚山(ウルサン)では朝鮮の我々、若者に「会社に入
って、仕事をしろ」と言った。強制と同じだ。それでその洞内の李慶植 (イ・ギ

ョンシク) という人と、同じ洞内で、同じ日、同じ時間に、7名で出かけた。蔚山

の城南(ソンナム)洞という所から出発した。蔚山は慶尚南道で、蔚山郡蔚山邑
城南洞だ。

何歳の時に行ったのですか?   
当時、私が、その時19歳になっていたか、戸籍上は17歳だった。李慶植は20歳
だった。私より1つ年上だった。本来、私の戸籍では1927年生まれだ。父が、私
が母の腹から生まれた時、ひどく病弱であったので、「おい、この子はダメだ」

と言って、私を2年遅れで戸籍に載せたようだ。それで、1929年生まれになって

いる。それで、私は1929年生まれだが、実際には2歳多かったので、体は大きか
った、実際は。

どこに行ったのですか?    
その当時、蔚山の捕鯨会社がクジラを獲っていた。蔚山の捕鯨会社で、日本の

船「タイショマル (大正丸)」という船に乗って、その時、蔚山城南洞から、我

々7名が一緒に、同月、同日、同じ時間に日本に行った。日本の会社に行ったの
だ。その船はそれほど大きくなかった。我々は4月にその船に乗って日本に行っ
た。その船が6月に、米国の、あの何だったか、潜水艦だったか? 水の下を行く
ヤツ。潜水艦に攻撃され、その船が爆破された、北海道で。我々が乗って行っ
た船が6月にそうなった。アイゴ! それは6月の何日と言ったか。我々を乗せた

船、しばらくしてその船が爆破された。それほど船は大きくなかった。北海道に
行って、みなが会社に入って、仕事をしはじめ、その後、聞いた話では、船が逃
げようとしたが、爆破されたということだ。アメリカの潜水艦によって。

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日本以外の地域

299  

それでは、4月に行ったのですか?    
4月26日だ。それはよく記憶している。25日に通知を受けて、4月26日に我々は
出かけた。家々にその日に通知が来たが、蔚山の城南洞には集まる所がなかっ
た。「船に乗りに来い。朝9時」「9時に集まり、10時に出発する」と。それで、母

も泣き、慶植の母も泣いた。母2人は我々を見送りに来てくれた。私が住んでい

た洞から蔚山の捕鯨会社まで10里だ。10里と言えば距離が4キロだろう? そこ
はバスも通わず、道が細かった。山道を歩き、蔚山の捕鯨会社の前まで歩いて
行き、その船に乗ったんだ。船は日本の船、タイショマルという船に乗った。そ
の時、潜水艦、米国の潜水艦がたくさん出没していて危険なので、その船は真
っ直ぐ北海道に行けないで、戻って来た。そこ、日本から一番近い島がある。オ
キナワ〔ママ〕という島がある。そこに入って、1晩停まった。その次の日に出発

して、どこまで行ったかと言うと、日本の土地のキリタプ(霧多布〔根室と釧路

の中間にある港〕)という所に行き、3日目の夜を過ごした。とにかく、山の下に
船を停泊させ、待った。その船には無線があった。そこに入り、危険なので船で
の作業はできず、その山の下に隠れて、ひと晩寝た。我々はそこで魚を獲り、釣

りもした。そのように隠れながら行ったので、北海道まで来るのに何日か掛かっ

た。何日掛かったかという詳細な日付までは記憶してない。当時、書き取ってい
ればわかるが。そして、北海道の本島に着いた。霧多布というのは日本の土地
だろう。日本から北海道に行く連絡船。その場所の名前、その当時、何と呼んで
いた?その時、年が少し若かったので、忘れてしまった。思い出せない。既に何
年前の事だ?その当時私の年齢が19歳、いま私は79歳だ。もう60年が過ぎたの
で、たくさんは記憶していない。忘れたことが多い。

捕鯨会社に行った理由が何ですか?    

その会社になぜ行ったかと言えば、第二次世界戦争の時、若い者を軍隊に選んで

行くだけでなく、北海道、それからサハリンなどの炭鉱に皆引っ張って行った。そ
れで、強制徴用者がサハリンに多く行った。その当時の話を話せば長くなる。私

の父が事情を知っていたので、「そのまま放っておけば、年も若いのに、お前は北

海道やサハリンの炭鉱で酷い労働をすることになる」と考え、当時、その地域で
捕鯨会社の募集があったので、そこにやろうと考えた。当時、そこの捕鯨会社で

は自由に、腹いっぱい食べられた、それで気を利かせた人はそこ、捕鯨会社にや

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タンコ(炭鉱) だって?

300 

りたかったのだろう。それで7名が行った。その当時、私より年齢が1つ年下の人は

1人だけ、金ヘドンという人がいた。私は名前までよく知っている。金ヘドンという
人は、私より1つ年下だ。その人は歳が一番下で、その次が私で、私より1つ年上
の人は李慶植がいた。その次が崔チョンシクという人、崔チョンシクという人は私

より3つ年上だ。その当時、3つ上だった。その人は蔚山で6年卒業までした。その

時、我々は6年卒業ができなかった。その頃、金のない者は勉強したくてもできな
かった。私は3年まで通ったが、家庭の経済事情で辞めた。勉強を中途でやめた
人間だ。私は自分で3年まで、学校に行った。それ以上は、学校に行っていない。
当時、捕鯨会社には入れなかったので、その前までは父を手伝っていた。背負子
を担ぎ、農業をしていた。魚はうちの船で取った。小さな魚を取る船があったの
で、網を張り捕まえた、そんな仕事もし、農業を少しし、父母を助けた、そんなよ

うだった。それが、今やクジラ捕りに行くのだ。年齢は若かったが、その時、私は

背が高く、体も良かった。だから早く入れてくれたのだろう。

給料は貰いましたか。    
いくらか給料が出るという話は聞いたが、我々が捕鯨会社に入ってから、給料
はもらえなかった。この話は会社で採用する人が言ったことで「金は父母に、
朝鮮に送る」、そう言った。当時、韓国という言葉はなく、朝鮮と言った。「朝鮮

に送るから、お前らはここで、与えるだけ飯を食べ、仕事だけすれば良い」、こ
う言った。だから、どれだけ送ってくれたかは知らない。ところで、一度手紙を
もらったが、うちの家から、父親から手紙が来たことがあった。150円を、数カ
月分の150円を受取ったと言っていた。その当時の150円は小さな額の金ではな
い。それで、150円を捕鯨会社からうちの家に送り、受け取ったという事だ。手

紙で私宛に、その金は必ず、私が出て来た時、会社から出て来た時、私が故郷

に戻った時、お前が結婚する時に使おうと書いてあった。その後は手紙の連絡
も切れ、そうこうしていると8.15の解放になり、我々は閉じ込められ、手紙の連

絡は全くできなくなった。だから、私は1銭も貰ったことはない、小遣いも1銭も
貰ったことはない。

宿舎はどうでしたか?    
寝る所はその会社で準備してくれた。寝る所は問題なかった。飯場でずっと並

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日本以外の地域

301  

んで寝た、そうした。飯場で私が寝る部屋では12名が寝た。畳の部屋だった。
その時、ああ! 寒かった。春に早く来たので、寒かった。枕元に水を汲んで置
き、寝て起きると凍り付いていた。

仕事をする時間は何時間でしたか?    

クジラを捕るのは、夜も昼もない。クジラさえいれば、捕まえるのだ。クジラ
を捕るやり方はそんなものだ。捕鯨会社に、当時船が何隻かあった。クジラを

捕る船が何隻もあった。埠頭を離れて行って、クジラを探す所がある。クジラ
が海の遠く、どちらの方にどういるか、クジラを探すために、あの、何と言った
か、望遠鏡、望遠鏡で見る。遠くまで見えるように、上に人が1人立っていた。
高さは船の甲板から10メートルほど。そこから1人がずっと見ている。あの、望
遠鏡で上に立って見るのだ。しっかり確認しなければならない。だから長くは
見られない。30分ほど見る、余り長くはできない。15分、20分か。そして人が替
わる。見ていて、クジラがどの辺り、何メートル程の所で泳いでいると言えば、
船長はサッとその方に船を回した。私が見ていて確認したクジラを銃で撃って
捕まえれば、私が見つけた者となる。何と言ったか、日本人は金、報奨金を多
めにくれる。眠って交替し、10分か15分見て、また下りて来る。1人で長く見張

るのはとても疲れるから。そして、私も自分の番が来て、クジラを一度確認し
た。それで捕まえたのだが、その金を私にくれない。その金は故郷に送ると言
ってくれないんだ。

クジラを捕る時は銃を撃つのですか?   
ああ、銃〔捕鯨砲〕で撃つ。船の前に銃がある。その銃は相当なものだ。クジラ
の体に突き刺さる銃弾〔砲弾〕は最も軽いので40キロだ。銃で、クジラの体に
突き刺さる銃弾の大きいのは60キロ、最も重いものは80キロにもなる。それも色
々種類がある。クジラを見て、80キロになるのは大きなクジラだ。クジラも色々
いて、名前が異なる。言葉ではクジラと言うが、クジラと言ってもいろいろだ。

日本語で、「ナガシ (ナガス、長須)」31)というクジラがいる。蔚山の長生浦(チャ
ンセンポ)で捕らえたクジラはナガスというクジラだけだ。ナガスというクジラ

31)·クン・コレ(Balaenoptera·physalus)長須クジラ

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タンコ(炭鉱) だって?

302 

は背中から水を吹き出す。それは、絵にも描かれている。水を吹き出す。そのク
ジラが一番大きい。そのクジラが一番多くいる。それから、そのクジラの肉が一
番美味しい。その次が「マッコ (末香)」32)というクジラは歯がある。白い歯があ
って、その歯を抜いてタバコを吸う時のパイプを作る。ナガシというクジラには

〔白い〕歯がない。水を吸うクジラの歯というのは、口の中の歯というのは、鶏

の毛のような歯がくっ付いている。それで海水に浮いている鳥、遊んでいる鳥
を口でざっと吸い取ってしまう。そうすると、鳥は口の中のタテ髪のような太い
毛の歯の両方に引っかかる。その鳥たちは太い毛の歯にみな引っかかる。それ
で水を吸い、体の上から水を吹き出す。海の水を何回も吸って吐く。ザッと吸
い込み、その水が全て上に上がる。最初に歯に掛かった物は飲み込まれる。こ
んなふうに餌をとる。ところが、マッコというクジラ、歯があるクジラは、サメも
捕まえて食べ、カレイも食べ、ミズダコも捕って食べる。海に泳いでいる魚は何
でも、骨がある魚もみな捕まえて食べるのだ。ところが水は吹き上げない。そし
て、「セビ」というクジラがいる。セビはクジラの名前。日本語でのクジラの名
前だ。セビというクジラは、いや違う、セミと言う。「セミ (背美)」33)というクジラ
は、それは大変大きい。長さが10メートルほどで、太さも10メートル、そんなク
ジラだ。それは油が一番多い。その皮の油は厚さが半メートルになる。白い油
だけでそんなだ。皮は真っ黒だが。皮は弱い。それが、豚の脂身のように油の
厚さが半メートル以上ある。それで、そのクジラ1匹で油がドラム缶、大きなド
ラム缶でいくつぐらいになるかと言うと、30数缶分出てくる。油だけでも1匹で
そんなに出てくる。クジラの骨は茹でて、全て肥料工場に行く。捕まえたクジラ
は捨てる部分がない。そのクジラの肉は食べない。肉は動物に食わせる。人間
は食べない。味が良くない。ナガシの肉は食べる。

他のクジラもいますか?    

「ミンコ (ミンク)」34)というクジラがいる。ミンコというクジラは少し小さい。少し小
さく、ミンコというクジラの最も大きなものでも、長さが12メートルほど、その位

32)·ヒャンユ・コレ(Physeter·macroephalus)抹香クジラ
33)·チャム・コレ(Eubalaena·glacialis)背美クジラ
34)·ミンコ・コレ(Blaenoptera·acutorostrata)ミンククジラ・小鰯クジラ

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日本以外の地域

303  

だ。あのナガシというクジラは最も大きなものは38メートルだ。長さだけでは40メ
ートルに近いクジラもいる。そして、太さも太い。それから、皮を剥ぐ時、梯子を
掛けて人が上に登り、包丁をかける。ウィンチを掛け、エンジンの付いた機械で肉

を引っ張りながら、皮を剥いていく。クジラはそのまま上げることはできない。ど
んなクジラでも。どうするかと言うと、クジラの尻尾を綱でしっかり結び、船の横
に抱える。引っ張ってくる。水の中に入れたまま引っ張ってくる。クジラを捕らえ
るには、会社のある所から遠くに出て行かなければならない。何時間も出て行か
なければならない。もし海にクジラが数頭いるとすると、1匹を先ず捕まえて吊る
す。そこに結んで置いて、「もう1匹捕ろう」とする。もう1匹を捕まえ、さらにもう1
匹を捕まえれば、船の両方に提げて帰る。1匹を提げて船で引っ張って行けば、片

側に傾いて帰ることになる。重さからしても、両方に1匹ずつ提げて戻って来る方
が、船にとって好ましい。それから、クジラを提げて戻って来る船は、船が速力を

出しても、クジラを捕った船が速力を出しても、船は速く進まない。クジラ、大き
なものを引っ張っていくには力が必要だ。1つの船に普通7人、8人が乗る。ところ
が、1つの船に朝鮮人は3名、4名しかいない。多くは日本人だ。私が乗った船は私

しかいなかった。あの7名が出かけたが、船に乗ってクジラを捕まえに行った者は

ヘドンというこの人と、慶植と私、3人しかいなかった。あっ! チョンシクと4人。そ
れぞれの船に乗った。

クジラを捕る人はみな若かかったでしょうね?    
会社にはもっと年を取った人もいた。その時、歳が30~40の人が大部分だっ
た。そのような人は船に乗せなかった。年を取っていると言って乗せない。〔年
を取った人は〕クジラを捕ると、海辺で皮を剥く、そのような仕事をしていた。

それでは、お爺さんはクジラを捕ることだけをしたのですか。   
いいや。クジラを捕まえて渡すが、人が不足すれば他の仕事もさせられた。そ
の監督は日本の奴がした。だから、我々若者は気楽に遊べない。言う事を聞か
ないと、みんな、殴った。叩かれる。若い頃だったが、非常に疲れても短い睡
眠をとって過ごした。腹は空かず、くれるものを腹いっぱい食べた。魚を食べ、
腹も空かなかった。それで、ある日、ひどく仕事が厳しくて疲れたので、一方の
倉庫の横で、石炭が一杯積んであったが、その横に行って座っていたら眠って

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タンコ(炭鉱) だって?

304 

しまった。しばらくすると、足で蹴られた。みると日本人の監督が来ていて、あ
あ!日本語で「こら、若い奴が仕事もせずに、昼寝とは!」、アイゴ!びっくりし

ていると殴られた。でも口答えできなかった。口答えでもすれば、更に殴られた
だろう。

創氏改名の名前は何ですか?    
ヤマヨシ(山吉)とした。ヤマヨシ・タンキ〔山吉且起〕。日本語の普通のやり
取りは聞き取れた。どうしてかと言うと、私が幼い時、大きくなる時。我々の洞
内に日本の子どもの家が4軒あった。その当時だ。それで彼らと一緒に遊んだ。

日本の子どもたちと一緒に遊んだが、彼らは私より少し弱かった。言うことを聞

かないと、1発殴った。怒られた、ハハ!そんなだった。日本の子どもたちと遊べ
ば、日本語も自然と話すじゃないか。そこで習うことになる。年齢が小さな時だ
ったから、それで、普通のやり取りくらいはできた。

クジラを捕る仕事の時間は決まっていなかったのですか?    
仕事の時間はきっちんとは決まっていなかった。クジラを捕まえて会社に持って
行くと、会社に来て仕事をする人がいるじゃないか。船に乗る人は捕まえたクジ

ラに手を加えなかった。当時、時間があれば眠れと言われた。食べることはでき

た。で、休みの日とは、波が高くて船が出せず、出かけられない日、そんな日が休
みの日だ。我々若者は、当時気楽に眠れない。しきりに訓練させられた。訓練は、
「米国の奴らが爆弾を落としたら、どうやって逃げるか、どうすべきか」、そんな全
体での訓練を受けた。それ以外に仕事はない。日本の映画でも見て来いとも言
われた。その時、一度、映画も見た。

クジラを捕りに行って、戦闘をすることはなかったですか?    
クジラを捕まえに行くが、クジラ捕りの船はクジラだけを見つけるのではない。
ただどこにクジラがいるかを見るだけではない。それだけを見るのではなく、潜
水艦がどこにいるか、そんなこともする。潜水艦は普通、水の上に煙突〔潜望
鏡〕を出して行く。それを発見するために見張るんだ。その船から遠くにその潜
水艦がいれば、すぐに伝える。電話〔無線〕でする。その船にも電話〔無線〕通
信があった。そして船はすぐに他の方向に逃げる。クジラを発見しても捕まえ

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日本以外の地域

305  

ずに逃げる。一度、私の乗った船で潜水艦を発見した、他の人だが、それが何
メートル離れた所にいると報告し、逃げた。我々は乗っていた船ですぐに逃げ
た。潜水艦が追っかけて来たが、めちゃくちゃ急いで逃げて、会社のある所に
戻った。そうすると、会社にいた日本の奴が、砲弾がたくさんあると言った。そ
れで、奴らは会社の大きな倉庫があるところまできて、会社に砲撃した。会社
のその倉庫から火が出て、全て燃えたことがあった。その時、怪我をした人は
いなかった。また、作業に出かけて行き、潜水艦のために逃げ出し、戻って来
たこともある。直接に戦闘した事はない。ところで、我々がクジラ捕りに出掛け
た頃、日本の奴の船が潜水艦の近くで破壊されるなど、捕鯨船だけでなく魚釣

り漁夫たちも被害を多く受けた。沢山あったそうだ。我々が乗る船の人が、船に

乗っている船員が病気になって亡くなると、海に流す。そんな人を私は見なか

ったが、1人が死ぬと、その体を袋に入れて縛り、鉄の塊を結び、海に落とす。

船では決して死体を持って帰らない。汽笛を鳴らして落とし、3回その周りを回

って弔う。鉄の塊をつけるから、海の下に沈むだろう。ところが数日すると死体
が浮いて来ることがある。そんなふうに浮いて来る身体は必ず載せて帰る。日

本の奴がなぜそうするのかは知らない。とにかく、船で死ぬと必ず鉄の塊を付

けて落とす。落としてしまう。船が壊されて人が死ぬと、鉄の塊を付けていて
も、数日すると水の上に浮かぶという。水に浮かんだ人間は肉が膨れている、
それを乗せて来るんだ、アイゴ!日本の船長が載せろという。それで必ず載せ
る。そうすると悪臭がする。それを積んで来て、寝ている他の者も起こし、全て

火葬にする。燃やす。誰だか分からない。火葬する。日本の奴も誰だか分から
ないようだった。それに身体には住所も、何もない。それは奇妙なことだった。

とにかく、船に乗って出かける時は、一日中仕事をし、腹が減れば食堂もある。

十数時間したこともある、船の中に。船酔いする人は船に乗れない。私は船が

ひっくり返っても、船酔いしない。

主にどこで仕事をしたのですか?    
だから、北海道、そして チョンド(千島 )という所でやった。キタプラという場
所は言うまでもなく、千島からサハリンと、色んな所に会社があった。その港が
サクダイ(色丹)というのだが、その会社にいる時に、我々が海に出てクジラを
捕らえている時に、解放を迎えた。当時、どうかと言えば、私が見張りに上がっ

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タンコ(炭鉱) だって?

306 

ていた。私の番になったので上がって見張りをし、他の人が上がって来る時に
なった。私の乗った船には朝鮮人は私1人しかいなかった。他の船には若い人
の中に3人が乗っていた。そのように朝鮮人は4人が乗っていた。私が下りて来

ると、日本の奴がしきりに泣いていた。何が起きたかと思った。どうしたのかと

尋ねると、とうとう「日本が手を挙げた」、そう言った。それが、ちょうど8月15日
だ。昭和20、だから1945年8月15日。それで、我々は海上で、無線で情報を受け
た。だから日本の奴は泣いて、騒いだ。我々は、心の中では「これで終わった。
我々は故郷に帰れる。日本の奴らは終わりだ」と思っていた。彼らの前で表情
に出せば大事になる。あーあ、良かったなどと言えば、一発で死ぬことになる。
奴らによって。しかし、我々同士が会えば、「ああ!良かった。これで故郷に帰

る。解放になった。日本の奴らは結局、手を挙げた」、そんなだった。それで、そ
こサクダイ(色丹)の会社で社長が会合をもった。「みな、集まれ!」と言われ、

会議室に集まって、会合した。その時、集まれと言われた時、これ(*捕鯨部従
業員の身分証)を全員に渡した。我々に書いたもの、これを我々にくれた。これ
は、何かを証明するもの。字が良く見えない。みながこれを、一緒に受け取っ
た。一緒にくれた。これを受け取っていなければ、どこから戻ったのか、私は分
かっても、他の人が分からない。

その内容は何ですか?   
あれだよ。そんなのがあるだろう、全て書いてあるもの。どこで、どの会社に
行き、どこからどこに移動した。全てある、ここに私の家族、弟の名前も全てあ
る。これが私の19歳の時の写真。これを私がどうして保管しているかと言うと、
私の心はどうであれ、今は韓国の安山市の「故郷の村」に永住帰国した。いつ
か故郷の村に戻れるか、どうなるか分からない。私はその当時、給料を貰わな
かった。日本の会社に一度行ったから、それなりの補償をしてほしい。それを私
は希望している。

これは作業員所蔵と書かれていて、全てが記録されていますね。    
どこに行って仕事をしたかが全てある。クジラを何匹捕まえたか、それは分か
らない。何匹捕まえたかは。ところで、そこは北海道にとても近い。サハリンよ

りもっと近い。今はソ連の土地なっている。我々がいた場所は、人が住んでい

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日本以外の地域

307  

た島だけではない。

〔解放後、ソ連によって〕サハリンのオルムスク(真岡)に船

で送られた。

解放後は何をされましたか?    
その時、解放になり、解放後もクジラ捕りを何日かした。クジラ捕りを何日かし
ていた。それから1カ月した頃、日本の奴がとにかく集まれと言うので、会合を

した。どうしたことか、ロシアの軍隊が全島を占領する、どうしようか、そんな

話だった。その時、手を挙げたが、何も分からなった。そうすると、日本の奴は
色丹島の平原に、白い旗を挿し立てた、奴らが。白い旗を立て、多くの軍人が集

まり、あれこれと、泣く奴もいて、騒いでいた。我々は、ナニ!エッ!と思った。

会合だと全員を集めた。その日付は忘れていない。8月15日、日本が手を挙げた
が、9月3日に軍隊が、ロシア〔ソ連〕の軍隊がこの港に入って来る。船が、軍艦
が入って来る。だから、入って来れば、会社はそのままあっても、捕鯨船はみ
な奪われてしまう。だから捕鯨船にみな乗って、北海道に根室がある、「北海道
の根室に避難しろ」、こうなった。それで船に乗るのだが、私も当時、その船に
乗っていたのだが、朝鮮人は1人も船に乗って行けなくした。ここに残っていろ

>>> 

当時、一緒に動員された李慶植の捕鯨部従業員の身分証

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タンコ(炭鉱) だって?

308 

と。お前たちは、ロシア軍が占領するまで待っていろと言った。それで我々は帰

れなかった。日本の奴らだけがその船、捕鯨船に乗って出て行った。

それで、残されたのですね?   
その時、色丹の我々の捕鯨会社に捕鯨船が8隻あった。クジラを捕る船だけ
で。その8隻全てが北海道に行ってしまった。「避難しろ」と言って。「ロシア
の軍隊がこの地に来て、全てを見て、こんな物は持って行く。これらを奪い、
持って行ってしまう」、彼らはそんなことを言った。「臨時避難せよ」と言って
いた。案の定、9月3日、船が来た。大きな船。ロシアの船。大きな船が来て、
港に来て、船が大きいので入れなく、少し外に停泊した。小さなボートに乗っ
て、入って来た。その時、我々は生まれて初めてロシアの人間を見た。初めて
見た。何か、ぺちゃくちゃ話していた。生まれてから一度も聞いたこともない
言葉。占領した軍人達は大きな船を操っていた。人間は数百名、数千名だ、
ロシアの軍隊、軍人達が。ところが、その時に見た軍人たち全てが我々のよう
に肌の人で、そのような民族が少し多かった。なぜかよく見ると、その民族は
朝鮮人でも、中国人でも、日本人でもなかった。タタール人かウズベキスタン
人、そちらの民族だった。後で知ったのだが、カザフスタン。全てがそこの人
々だった。だから顔つきが我々韓国人とほとんど一緒ではないか。そんな民族
の人が、船を停泊させ、たくさんやって来た。だが、言葉は全く通じない。全
てが我々より少し年を取った人たち。知識のあった朝鮮人、日本の奴らは船に
乗って去り、会社で仕事をする人、責任がある人の何名かが残った。その時、
朝鮮人全員が集まった。我々が何人残ったかと言うと、36名が残った。ああ!
我々の同胞、朝鮮人が36名残った。青年達だけでなく70歳の年寄りや60代の年
寄りもいた。ああ、我々、朝鮮人、この人達も。朝鮮人の年寄りがこう言った。

「とにかく我々が朝鮮人であることを示さなければならない」、「我々朝鮮人は

ロシア人とは怨みがないから、我々のことを教えれば、助けになるだろう」こ
のように言って、言葉が分からないから、絵を描いた。彼らがロシア語で怒鳴
ると、絵を描いた。絵を、半月の太極旗、太極旗を半月で描いた。それで「わ
が民族」の意味を示した。ところが彼らは理解しなかった。彼らは手を叩き、

パチッと叩いた。刀はないか、何はないかと、しきりに聞いて来た。どうしよう

もない状態の、その時、通訳する人が1人来た。通訳する人は来たが、日本語

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日本以外の地域

309  

は上手くはない、我々よりできなかったが、大まかに、いくつかの言葉を交わ
した。彼らに、我々が朝鮮人と言うことを示そうとした。だから、コレイ、コレ
イ、そしてコレイスキ、コレイスキと。ロシアの言葉では高麗人(朝鮮人)を
コレイスキと言うそうだ。ロシア語では高麗の人をコレイというそうだ。それ
で、彼らは朝鮮人であることを、通訳を通じて知った。船に小麦粉を載せ、荷
物を積んだが、日本の奴と、我々会社にいた人達とこのように担いで運んだ。
ロシア人が銃を持って立ち、仕事をさせた。我々が朝鮮人だと知ると、荷物を
背負って担いで行くときに下ろせと言い、日本の奴に担いで行けと言った。ど
れほど嬉しかったか。我々は向こうに行って休めと言い、仕事をしないで良い
と言った。日本人の奴が何と言ったか。「お前たちはスパイが多く、朝鮮人が
スパイをしたから、我が日本が戦争に負けた」と言うのだ。だが、その時はそ
んな状態になった。ロシアの軍隊、ロシア人は我々コレイスキ、朝鮮人の側に立
って助けてくれた。だから我々に嫌な言葉も言えず、殴りなどしたら大事にな
った。それで、当時は嫌な事はなく、我々も力をつけ、日本の奴を叩くこともあ
った。そのように過ごした。ロシア人が捕鯨船を持って来た。色丹島の会社に
捕鯨船を持って来た。船は良かった。日本の奴らの船より大きく、とても良か
ったが、クジラ捕りの方法を全く知らなかった。少しも知らなかった。ロシア
人の捕鯨船を見た。我々が乗った日本の捕鯨船は、クジラが海にいると、それ
を追いかけ、サッと、何だ、戦車を回すように、その場では回われない。どん
なに速く回してもグルっと大きく回る。ところが、ロシアの捕鯨船には二つの
機械〔スクリュー〕が付いている。一つは前に行くもの、もう一つは後ろに行

くもの。機械がそのように回る。そうすれば、その場でグルグルと回れる。そ

れはとても素晴らしい船だ。それを見て我々は感心した。日本の奴にはそのよ

うな船がないが、ロシアにはそんな船があるんだと。しかしクジラを捕らえる
には、クジラを見ているだけではできない。その2か月間でクジラを2匹しか捕
まえなかった。日本の奴らは毎日のように捕まえ、捕れない日はほとんどなかっ

た。〔ロシアは船に〕我々を乗せない。絶対に乗せなかった。それで捕れなか
った。

ところで、帰国することはできなかったのですね?   

色丹で解放されて、そのまま住んでいた。日本の奴はしきりに疎開と言って、撤

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タンコ(炭鉱) だって?

310 

退した。その時は1948年度だ。3年間、我々の道は塞がっていた。1945年に解放

されたから1948年になっていた。その年の9月、9月初旬だ。その時、最後の撤

退として日本人がその島を立ち退いた。その時、1948年にロシア人に、その島

を我々朝鮮人と共に明け渡した。その時、ロシア人が島に入植した。家族のい
る人、魚を栽培する人、女性も来て、子供も来て、家族で来て、魚をたくさん捕
まえた。ところが、日本人と我々、その当時、我々を朝鮮人と知っている人は少
しいたが、日本人とされ、名も姓もそうなっていたから、全員に出て行けと命令
した。それで我々だけ、何人かを集めて、出ることになった。ここからあそこ、
日本の地に乗せて行くのではなく、我々が住んでいる島の他に2つ、いくつかの
島があったから、島を周って乗せ、サハリンのホルムスク (真岡)35) という所に行
った。ホルムスクは真岡という所だが、そこに行けばいいと。ソ連の船が我々を
そこまで運び、そこから日本のハクサン丸(白山丸)が連れて行くと。それも忘
れていない。ハクサン丸という船、連絡船がホルムスクの埠頭に来て、我々を
日本に乗せて行く」、そうなっていた。乗せて行くと言ったので、島から出た。

我々はどうするか、自分達だけで大まかな話をした。朝鮮人が36名だ、我々は

日本語がよく分からないから、そのホルムスクに行って街に出ても目立たないよ
うにし、日本語が良くできる人、若い人、そんな人は日本人のようだから、用事

があれば用事を済ます。我々はできる限り表情を出さないようにしよう。もしホ
ルムスクに行って、我々が朝鮮人だと標的になれば、そこで捕まってしまう、そ
んな話をした。それをロシア語と日本語を話す通訳者が話してくれた。その人
が我々に話した、通訳をするロシア人が。わざわざ通訳をするために付いて来
た人だ。そのように教えてくれた。それで、そうしようとした。我々が2日間、夜
を過ごし、明日には日本からハクサン丸という船がホルムスクに入って来る。我
々は、船が入って来れば、日本に行く。朝鮮に行きたい人は行き、日本に残る人
は残る。私のような者は誰も日本には残らない。朝鮮に父、母がいるので行く。
それで、風呂に行った。共同浴場があった。そこに、何人かで、朝鮮人が4人か
5人かで、一緒に風呂に行った。合宿所に戻ると、ロシアの軍人が機関銃を持っ
て、我々の合宿所、合宿所ではなくテントだ、臨時宿舎、臨時の1、2カ所だ。そ
の前で泣きわめく人もいて、騒動だった。その機関銃を持った人、ロシアの軍

35)·現在の地名はホムルスク、日帝期の地名は真岡

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日本以外の地域

311 

人が2人立っていた。これはどうした事かと行って見ると。そこにもスパイが入

っていたのだ。我々朝鮮人、36名が日本を経て帰ろうとしたことを連絡した。
そのため機関銃を持って、朝鮮人の1人、黒くて背がひょろひょろ長い奴が、そ
こで朝鮮語を話した。そいつはどんな奴か。ウズベキスタンのタシケントの人

で、サハリンを占領したが、サハリンには朝鮮人が多いので、それで政治部長

として、教育部に来た人だった。その人がやって来て、お前らは日本の奴に捕
まってこれまで苦労をして来たのに、また日本に一緒に行くつもりか? 少しい

れば、我が朝鮮の船が来て、朝鮮に、故郷に行きたい人は皆行くことができる

と言った。そして、貨物車、トラックの大きなものを2台持って来て、早く乗れと

言った。朝鮮人はみんな乗れと言ったので、乗った。その時、乗らなければな

らなかった。早く乗らないと、銃で尻をチョンチョン突っつく。仕方なく、みん

な乗った。荷物と言っても、着替える服、それだけだった。それでトラックに乗

り、ホルムスクの停留場に、上下に2か所あったが、上の近い所に暗い夜に乗っ

た。車が停めてあったので、見ると貨車に載せるのだ。人を乗せるのではなく、
荷物だけを載せるもの。座る所もなく、木枠のガラスもなく、ドアを閉めると真
っ暗だった。そこに36名がみんな乗った。乗れと言われ、どこにいくのかも知れ
ず、身じろぎもできなかった。それに乗って、何時間か行った、それで夜遅くな
った、12時過ぎ、ほぼ12時になった時に乗って行ったのだ。そして、進んで行

き、降りろと言われた。降りて見ると、山の坂道が見え、明るくなっていて、不

思議だった。そこが何処か分からないが、朝起きてみると、そこは、サハリンの
ゴルノザヴォーツク(内幌)という所だった。ゴルノザヴォーツクという炭鉱に
乗せて来たのだ。我々を炭鉱に放り込んだということだ。その時は、泣き叫んで

も、どうにもならなった。

あきれた事ですね?    
解放の後、年齢が一番多い60近い老人がいた。うちの洞内で私の父と非常に親

しい友達だった。その老人、お爺さんはホネチョ(*骨長と推定)と言い、骨を

茹でる所の責任者だった。クジラ会社で30数年仕事をした人だ。その人が連絡

をして、うちの父に連絡をして、私がクジラ会社に入ったのだ。その人は千島
で亡くなった。それで千島で火葬して持って来た。死亡した人は、私と李慶植
とは同郷なので、「小父さん、小父さん」と言ってきた。父親と友人で、「小父さ

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タンコ(炭鉱) だって?

312 

ん」と言ってきた。カウリ山に行き、木を拾って来て火葬にし、その骨を拾い集
めて箱に入れて保管した。その時、李慶植は私より1歳年上でその箱を持ってき
た。故郷に帰ったら息子に渡そうと、渡してやろうと。ところが、ゴルノザヴォ
ーツクに夜、来て降り、夜が明けた。この箱をどうするか、我々は捕まってしま
い、故郷に戻れないので、土に埋めることにした。それでゴルノザヴォーツクに
来た村の知人と会社の数名の6名、李慶植と私、年を少し取った人の6名、この
計8名で、山に行き、その隅に埋めた。土を掘り、埋めた。我々は後で手紙を書
いて連絡した。このようにした。どうしようもなかったんだ。慶植、この友人は
数年前に死んだ、故郷にも戻れずに。

それでは、その後は炭鉱で生活をしたんですか?    
ああ、そうだ。炭鉱で生活をするようになった。その当時、北朝鮮からソ連へ、
ソ連経由で、北朝鮮の政策で派遣される労務者も来て、人が多かった。その派
遣労務者、北から来た人々はロシア人と仲間だった。我々韓国、南朝鮮の奴は

日本の奴の横で服従し、親しくしていた。待遇での差別がとても酷かった。我
々がサハリンに住んでいる時、暮らしている間は、炭鉱には入らなかった。我々

>>> 

サハリンのホルムスク湾の姿(2005年6月撮影)

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日本以外の地域

313  

皆、炭鉱で仕事を一度もした経験はない。ナイホロ(内幌)は石炭を掘ると、そ
れを売る人もいて、油を搾る工場があった。それをロシア語で22工場、名前は

トバスクドゥヴァ。このトバスクドゥヴァは、ロシア語で22をトバスクドゥヴァと

言う。22という工場。その工場の名前が22。油を搾る工場。それで、我々はそこ
で仕事をした。石炭から油を搾る仕事を。

結局、故郷とは断絶してしまったのですか?   
それで結局、その当時、韓国とは手紙の連絡もぷつんと切れてしまった。48年

には、捕鯨の会社で一緒に働いていた2人が日本の小母さんを2人連れて住ん
でいた。結婚した。解放後、その頃は日本の女、若い女が1人でいる人が多かっ
た。若者は、第2次世界大戦の時、軍隊が満州やどこかにたくさん連れて行った
ので、1人でいる女が多かった。その時、我々も年齢が20を少し超えたときだっ
たので、一緒に暮らすこともたくさんあった。でも我々は故郷に戻って、両親に

結婚を伝えてからと思った。我々の歳も若かった。そこのゴルノザヴォーツクと
いう所で、何年か過ごしていた。この人、一緒に行った慶植が、この人とは兄弟
のように親しかったが、クラスノゴルスク(珍内)に住んだ。グラスノゴルスク

という所がある。この話をすれば長くなる。ほぅ!そこが住みやすいという。そ

の人とは兄のように親しくした。その人の妻を兄嫁と呼んでとても親しくした。
それでグラスノゴルスクという所に行った。

それは、ウグレゴルスクの方ですか?   
ウグレゴルスク〔恵須取〕の方だ。サハリンに一度行ったから、知っているの
か?それで、そこに行った。一緒に暮らすのに良いと言うから行ったんだ。そこ
に行って、1年ほど過ごした。1年ほど過ぎるとこの人が結婚すると私に連絡し
た。それは1953年。その時、連絡が来たので私の親しい人、3人と祝宴に行っ
た。ゴルノザヴォーツクからそこグラスノゴルスクまで行くと、かなり遠い。遠

く、また当時はバスなどもなく、荷車に乗って座る、トラックに乗って行く時代

だった。そうやって祝宴に行った。行って見ると炭鉱だった。小さな炭鉱だっ
た。全てが強制動員の人たちで、故郷が釜山の人、慶州(キョンジュ)の人、ど

こ、どこで、密陽(ミリャン)の人も、馬山、晋州(チンジュ)から来た人も、た
くさんいた。そこには、まだ103名が生きていた。現在はほとんど死んでしまっ

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タンコ(炭鉱) だって?

314 

たが、生存している人は1人か2人。私が友人の慶植の祝いに行き、挨拶し、話
をした。座っていると、あるお婆さんが私を見て、自分の娘で年頃の娘がいる
から、結婚しないか、「いい娘がいる」と言った。でも、私は友人の家に一晩泊
まり、「私はお前のようにここでは結婚しない。どうにかして、韓国に行って結
婚する」、「歳月が過ぎるにつれ、世の中も発達するから、何とかして韓国の故
郷に帰る。それに、歳もそれほどでないので、私は故郷に行って、父母の前で
結婚したい」、そう言った。けれどもその時、祝宴と結婚式を見たので、人間と
いう者は生まれたら結婚しなければならないという思いを初めて感じた。その
時、その人の結婚をする写真、結婚式を見て、私の心が揺れた。私は父母の傍
に行き結婚するとしきりに言っているが、30を過ぎ、40を過ぎれば、結婚もで

きず、独身のまま、年老いて死ぬのではないか。そんな気持ちになった。ともあ

れ、やっ!と下りて来た。市内に下りて、炭鉱の結婚式パーティーから戻って市
内に来た。泊めてくれた友人が写真をぜひ撮って帰れと、私の写真。それで私

自身の写真を撮った。嫌だと言ったのに、撮って置いて行けと。一人で写した

写真を置いて来た。後で知った事だが、娘のいる家に写真を持っていき、「こん
な人だ」と仲立ちをするために、写真を撮って行けと言ったのだ。それで、数日
すると、1か月か2か月か、とにかくしばらくすると通知が来た。ぜひちょっと上
がって来いと、私に。上がって来いと人づてに通知が来た。ぜひお前に来てほ

しい、言いたいこともあるから来いと、慶植がこのように連絡をくれた。それで

行ってみると、やはり仲立ちをしてくれ、結婚しろ、結婚しろという。それでそ
の家を知り、他の親しい所に連絡をしてみた。すると「あの娘は結婚していない
が、全くの生娘でない」と、そんな事を言われた。その娘は実際には年齢が20
歳、19歳、21歳くらい、とにかくそれくらいの年だった。その娘は市内の姉の家

に下りて来て、洋裁を学んでいる。派遣労務者としてきた独身者と遊んで、そ
うなったという者もいた。「そんな娘でなくても、良い娘がいるよ」という話もあ
った。だから、それじゃ止めると。

それで、結婚はしなかったのですか?    
それで、その親しい友人が他の所に連絡した。その人が私のいる家にやって来
た。上がってきて、こんな話をした。自分が見た所、とても良い娘が1人いる。
その娘は自分の母、本貫が密陽(ミリャン)朴氏と同じ姓で、姉妹のように過ご

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日本以外の地域

315  

していると言った。そんな娘がいる。そんな縁がある。そう言われたので、私も

会おうと言った。お互い会って、見合いをしようと。そしたら、私はサッと気に
入った。ハハハ。巡り合わせが良かった。それで、そこですぐ チョチャンチ(初
祝い)をすることにした。韓国では婚約して、結婚するだろう。その時、サハリ

ンで初祝いと言った。チョチャンチ (初祝い)。これは咸鏡北道の言葉だ、チョチ
ャンチは。北の人、咸興(ハムフン)の人は初祝いをして、後で本当の祝い(チ
ャンチ、結婚式)をする。韓国では婚約して結婚するだろう。ところで、その言

葉は北の開城(ケソン)とか、そんな所での言葉だが、初祝いを8月15日の解放

を記念してしよう。その後に結婚式をすることにした。私も1人だったし、独身
のまま年を取りたくないから、その娘を見てサッと気に入った。それで当時、私
は28歳、年をだいぶ取っていた。28歳だったが、この娘は17歳だった。17歳で
あったが、背も伸びて高かった。ところで父親は義理の父親だった。本当の父

親でなく、父親が死んだので、母親が再婚していた。新しい父親は、当時、独り
者に娘をやる、私の妻として娘をやると約束し、酒もいただいた。その人が、そ
の家に連れて行き、酒も買って行った。後で話されて知ったことだが、最初は
私の妻になる娘が嫌いだったそうだ。脱いでいた靴を向こうの方に放り投げて
いたという。ともあれ、私が縁を結ぼうと言って、その年の8月15日の解放の日

に初祝い、婚約式をして、11月4日に結婚した。私はその日付は忘れていない。
11月4日に我々は結婚式をした。私が独り身だったので、そこに行って結婚式を

挙げた。結婚の日、義父は酒にひどく酔っていた。義母は私を見てすぐに気に
入ったようだった。その当時、私もそれなりに男前だった。娘達、日本の娘たち
がちょろちょろ付いて来たこともある。ロシアの娘、女たちも付きまとった。ロ

シアの女はすごい。酒が好きで一杯すると、どこかに行こうと言って付いて来
る。ロシアの女はそうだった。そんなだから、後にロシアの女と結婚するのがと
ても多かったんじゃないか?朝鮮人達が。それで、別れるのもとても早く別れて
いた。私は11歳年下と過ごした。妻が17歳、私が28歳、そして結婚して写真を

撮った。

その後も故郷に連絡はできなかったのですか?    
連絡をしたかったのだが、日本への手紙の連絡が全て途絶えてしまった。北朝
鮮へは良かったが、南朝鮮とはできなかった。ところが、友人の奥さんが日本

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タンコ(炭鉱) だって?

316 

の女性だった。日本の女性と住んでいたので、1958年に朝鮮人も日本に戻って
行けた。帰りたい人は帰れた。李慶植、我々と同郷の李慶植とは本貫が同じだ

と言い、兄弟として過ごしていた。日本語でその人は木村といった。それで、そ

の人が日本に行き、我々はその人と手紙連絡をした。その人が我々の手紙を受
け取り、故郷に送ってくれた。手紙の住所を書いて故郷に送り、写真を送るこ

とができた。故郷の蔚山でも受け取ったと、結婚写真を受取ったと、連絡も来

た。そんなふうにして過ごした。母は1984年、84歳で亡くなった。父は私が故
郷を出て1年後に、1945年の解放の後、1946年に亡くなったという連絡が来た

それでは、家族とは最小限の連絡などはあったのですね?
(写真を見せながら) 私の母親だ。父親の写真はない。ここが私の故郷、蔚山
だ。蔚山には弟二人が住んでいる。私が日本へ行くとき彼らは11歳と8歳だっ
た。私の兄妹は6人で、男は4人、女は2人だった。私の上の長男は亡くなった。
兄は私より5歳上だった。私が1927年生れで、兄は1922年生れだった。だか

ら、5歳上だった。私のすぐ下が妹で、私が永住帰国する前に死亡した。その下

が弟の崔ユンソプで、蔚山にすんでいる。その下が末子の妹で、私が日本に行

く前に麻疹で死んだ。そして妹二人と兄が亡くなり、今は男3人が生きている。

二人は蔚山で、私はここで3人が生きている。姉はいなかった。

韓国にどうやって戻って来たのですか?   
だから、1989年に日本を経由して初めて故郷に戻って来た。その当時、道が開
かれたのは盧泰愚が大統領をしている時だ。盧泰愚が済州島でロシアのゴルバ
チョフ大統領と会談した〔1991年〕。その時、サハリンにいる同胞について、朝
鮮人がこのように道が塞がれたままで、故郷に長い間行けず、手紙の連絡もで

きないでいると言ったので、その後、ロシアでゴルバチョフが道を開いてくれ

た。1989年に、私は日本を経由して行った。私が故郷に行く時、私の上の子、ウ

ンギと言うが、上の子が今年50歳だ。私の妻は2002年に亡くなった。私は再婚
して暮らしている。あの時、1989年4月に日本を経由で行ったが、行ってみると2

月に妹は亡くなっていた。3、4カ月前に妹は。あんなに私を待っていたのに。子

どもの時、私にだいぶ叩かれた、ご飯を食べる時に叩かれた。妹は左利きだっ

たので。その頃私はつまらない悪さを多くし、聞き分けがなかった。そして、友

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日本以外の地域

317  

達とケンカをした。私は体が少し大きかったので、従弟たちや友達とよくケンカ

した。そうすると私の妹が父母に言いつけた。私は当時、戸籍には崔且起(チェ

・チャギ)と載っていたが、当時は、崔マニョンと呼ばれていた、崔マニョン。

そのマニョンが悪い事をあれこれしたと告げ口するので、父母がいない時に、
お前が告げ口したから怒られたと叩いた。叩いたと言っても、そんなにひどくで
はない。痛いほどには叩かない。

それでは、会社の日本人の同僚はみんな帰国したのですか?    
ああ。だから我々朝鮮人36名が捕まり、日本のヤツは一晩か、二晩泊まって、ハ
クサン丸に乗って北海道に行った。サハリンという島全体はソ連が占有した。
その島〔千島の一部〕を自分達に寄こせと言い争いになった。日本の奴は、島を
3つ、自分達によこせとと言った。それらの島全体がロシアの島になった。日本
の奴が独島を自分たちの島というのと同じだ。

面談者:権美賢調査官

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タンコ(炭鉱) だって?

318 

19

高福男(コ・ポンナム)

中国 - 海南島 格納庫

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日本以外の地域

319  

高福男 (コ・ポンナム)  男、89歳  (海南島)
1917年11月13日 平壌(ピョンヤン)市 京区(キョグ)洞で出生
1943年3月頃

巡査を暴行した理由で平壌刑務所に服役

1943年5月頃

中国の海南島36)に南方派遣報国隊として動員

1945年10月頃

帰国

36)

何年に生まれましたか?   
1917年生まれ。88歳。11月13日。本籍地は仁川(インチョン)松林(ソンリム)
洞。元々は平壌だが、海南島に行って来てから、変えた。その後、仁川でも暮ら

し、松林洞でも暮らし、仁川ではなく他の所でも暮らすなど、行ったり来たりし

た。建設の仕事をし、自分で仕事を引き受けてくる建設業者だった。現在、辞
めてから30年ほどになる。

36)·海南島··中国の島、亜熱帯気候で3.4万㎡、台湾より若干大きい。日本は1942年から朝鮮内

の刑務所受刑者数千名を·「南方派遣報国隊」·の名で動員、鉱山労働、鉄道、飛行場、港湾
建設等に強制労働させた。朝鮮人を集団埋葬した「朝鮮族千人坑」がある。

日本の巡査に暴行した罪で

刑務所に入れられ、
南方派遣報国隊へ

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タンコ(炭鉱) だって?

320 

平壌刑務所に入る前に何をしていましたか?    
平壌刑務所に入る前はまだ少年だった。小さな子どもが学校に通って悪戯す

る、そんなだった。刑務所には20歳過ぎてから、22歳の時に入った。だから、22

歳になる前、そこに入る前は遊び回っていた。まだ若く、日帝期であったから、
何か仕事があると言うのか? 父母が二人いて、稼いでくれたので、過ごせた。

お父さん、お母さんは農業をしていたのですか?    
洗濯屋。平壌で洗濯屋をしていた。仁川で〔私が暮らしているときに〕亡くな
った。私が海南島に行った後に亡くなった。亡くなる前には仁川には来なかっ
た。平壌にずっといた。私は平壌で生まれた。こちらに来て、仮の戸籍を作っ
た。避難民はみんな仮の戸籍を作るじゃないか? 実際には平壌市松南里キョ
グ洞だ。

平壌刑務所にどうして入ることになったのですか?    
子ども〔青年〕たちだけで遊んでいた時がある。金で遊ぶサンチギという遊び
がある。サンチギ (金飛ばし遊び)。そうしていて巡査に捕まった。それで叩きの
めして逃げたが、捕まった、暴行罪で引っかかった。そして、2年の判決を受け
た。それが何年の事だったか? 1943年度に入った頃と思う。そこに1、2カ月い

>>> 

下関港の関釜連絡船  (出典:林えいだい『清算されない昭和』)

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日本以外の地域

321  

て、海南島に行った。それが全て若い者だけを連れて行った。若い青年たち。
その若い青年たちは1年、2年、そんな刑を受けた者たちだけだった。2年以上の
者はいなかった。強盗、そんな奴らは連れて行かないで、まだ青白い若い青年
たちだけを連れて行った。銃を撃つのも教え、運動もさせた。そこは匪賊が多
いと言われた。そこ、海南島も匪賊が多かった。それで、そんな練習をさせ、運
動をして合格した人、弱い人は落とされて、上手くやった人だけが選ばれて行
った。平壌から行く時、800名が行った。それで800名が行くとき、総督府の南次
郎総督の演説を聞いた。「6カ月いたら元に戻す。そして飯はこの位くれる、6合
飯をくれる」と言った。そこに連れて行かれ、服を着せられ、ニクサク(リュッ
クサック)を与えられ、腕章をここに巻き、ナンポパジ(南方派遣報国隊?)と
書かれたものを巻いた。それで釜山に行き、釜山で関釜連絡船に乗って下関に
到着した。 

それでは、事件が起きて最初に警察署に行ったのですか?    
ああ!警察署に行って殴られ、調査され、それで裁判を受け、懲役になった。

ひどく殴ったのですか? 2年もの刑まで受けるなんて。   
その頃、韓国の人はバカにされていたから、どう仕様もなかった。日本の巡査1
人と私1人がぶつかった。それで巡査が「来い」と言うが、私は「行かない」と
言った。それでもまだ「来い」と言うから、「行かない」とやり合い、私が先に殴
った。鼻血が出た。どうなったかはよく分からない。多分、足で踏んづけ、それ
でうまく歩けなくなったようだ。で、裁判を受け、2年の懲役になったんだ。そ
れが春の頃だ。春の頃。そこに1、2カ月いて、海南島に連れて行かれた。3月、
4月頃に連れて行かれた。寒くなかった。

監獄にいる時、誰が海南島に行けと言いましたか?    
それが、だから名簿は彼ら(*日本側)が持っているから、そこから選んで連れ
て行ったのだろう。監房に入っている人、色々な監房がたくさんあったが、10名
いる所もあり、5名いる所もあった。我々の監房には2人だけだった。そして他の
監房にいる人も連れて行った。その人達は、年齢が22歳、25歳、23歳、そのくら
いだった。

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タンコ(炭鉱) だって?

322 

平壌刑務所から朝鮮総督府のある京城までどのようにして移動したのです
か?    
汽車に乗り、800名がみんな一緒に行った。だから800名が、平壌の我々と大田 
(テジョン)、大邱(テグ)にいた人々を集めて800名が行ったんだ。平壌からは
800名の3分の1ほどが連れて行かれ、金泉(キムチョン)や大邱からも汽車に乗
せ、行きながら集めた所で何名かを乗せるなどし、集めて行った。総督府の運
動場で行事をした。

800名も集まったことを、どうして分かったのですか?   

日本の奴が言っていた。彼らもその知らせを聞いたのだろう。我々は集められ、

送られて行く人達だった。その途中で、お前もか、俺もだ、そんな事を言うしか
ない。囚人だからといって、急に特別になるものでもないから。尋ねると「800
名ほど行く」と、日本語でやり取りした。だから、日本語を知らない人は分から
ないが、日本語をする人は日本の奴と通じるだろ。話を聞いてそう言うのだ。連
れて行かれる人を合わせれば、千名ぐらいにはなっただろう。日本語は知って
いたが、全て忘れてしまった。その当時は日本語を良く知っていた。日本語は学
校に通って習った。学校は3年まで通った。だが、今は全て忘れてしまった。

出かける時の約束はどんなものでしたか?    
南総督、彼が演説をして6カ月いれば、長期囚はみな仮出獄させ、送り返すとい

う話をした。だから志願する人が多くなったのではないか?食料関係は6合をく

れ、そして6カ月したら交替させる、それに看守や囚人を区別せず、平等に扱う

という話をした。

ところで、約束通りしてくれましたか?   

約束を守るどころか。だから、たくさん逃亡した。飯をくれず、死ぬほど叩かれ
て。生きようとすれば、逃げ出す以外の方法があるか? 腹が減って、どうする。
腹が減って、仕事ができるか? 米も送って来たが、座っていて待っていても、
途中で来なくなった。***〔潜水艦?〕に襲撃されて、よく船が沈み、食糧がや

って来なくなった。それで飯は、粥とも何とも言えないものをくれるようになっ
た。ここで器をくれ、このように汲んでくれる。このように器を持って差し出す

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日本以外の地域

323  

時に入れてくれればいいのだが、わざわざ手で持っている所に汲む。そうすれ
ば粥がこのぐらい減る。そうされると半分にもならない。それから、粥になる前
に一つの米櫃に20人分入れ、厨房から持って来る。それをみると、粥の飯も少
ない。それで、ぐるりと囲んで20名が座って、飯をよそう人が飯を掬い、このよ

うに盛ってくれる。ところが、そこにいる人で力が強い人、叩く人には飯をギュ
ッと押しながら盛るので、その人の分は重さも多い。ところが他の人の飯はただ

盛るので飯は少ない。飯をよそうのを見て、自分の飯が少ないとガタガタ言え
ば、飯をよそってくれる人に一発殴られる。それがオチだ。

過ごしていて、どうでしたか?    
だから、仕事はきつく、空襲が多い、そんなだ。空襲が何度も来る。空襲がしば

しばあったので、夜は眠れず、8回も9回も逃げる。米軍の飛行機が来て。そうや
って、生き延びようと逃げ出すんだ。しかし、そこは島だから、逃げる所がどこ
にある? 逃げて家に帰れるのか。全てが日本の奴の間違いでそうなったのだ。

約束を守らなかったかって? 6合という飯、そんな量はなかった。全く強制的

に、強制的に選んで置いて。「刑を減刑して送る、6カ月だけそのようにすれば

交替する。そのようにすれば6カ月で交替する」と言っていた。そこに6カ月いて
交替すれば、6カ月いた人は仮出獄で出るのだ。それでも「俺はそこに行く、そ

こに行く」と手を挙げた人はいなかった。私は平壌が故郷であり、そこにいれば

家から父母が面会にも来てくれる。なのに、数千里、数万里も行ったので、父
母が二人とも亡くなってしまったのではないか? 汽車に乗って出かける時にみ
んな来ていた。平壌駅に。

お爺さんは海南島に行くことを知っていましたか?    
私の父母が? あ、自分、行ってから知ったんだ。海南島がどこにあるのかも知

らなかった。日本の奴と話して、自分達がどこに行くのか、尋ねたんだろ? それ

で海南島に行くと言うから、海南島か?と思った。

海南島がどこにあるか知らなかったのですね?    
それも知らず、連れて行かれたから、なるほどここが海南島かと思った。その当
時は知りもしなかった。現在では、地理をある程度知っている人なら知っている

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タンコ(炭鉱) だって?

324 

かもしれないが、普通、海南島がどの辺りに、どこにあるかも知らない人もいる
だろう。

海南島に移動する時、縛られて行ったのですか?    
そのまま。青い服を着て、脚絆を巻き、背のうを持ち、そんな姿だった。背の

うには米を1合ずつ、塩、非常用に。その服を着て、ここに腕章「南方学生報国

隊」37)という白い腕章をこのように巻き、戦闘帽を被り、軍人のような姿で行っ
たんだ。

服はどこで着替えたのですか?    

ソウル刑務所。平壌刑務所からソウル刑務所に行き、釜山に行き、日本のオ
クラ(小倉)に行き、オクラ刑務所(小倉刑務所と推定、現在北九州医療刑務

所)で1泊、2泊して、輸送船に乗って出かけた。ソウル刑務所。そこに行って1
泊し、その次の日に総督府に行って、南総督と会った。その行程で出発したの
ではなかったか? こんなもの、青いもの、青い隊員の服を作ってくれた。そし
て、連絡船に乗ったが、個人の人は多くはなかった。連絡船の個人、一般の人
たちと話をさせないように歩哨を立てた。非常事態だった。

ソウルに移動する時も、縛られて行ったのですか?    
ソウルに来る時は刑務所の看守たちが連れて来た。それで捕縄はしなかった
が、10名に対し1名が責任を持って、その人が10名を監視して連れて来た。例
をあげれば、100名であれば、100名に看守が10名ずつ担当し、責任を持って連
れて来た。100名ならば10名、そんなに多くの人が責任を持って監視していたの
で、うろうろもできなかった。それを注意し、監視する人もいた。追われるよう
に行った。そんなふうに釜山で連絡船に乗る所まで行って、そこで夕方、関釜
連絡船で出発した。

南総督の顔は見ましたか?    
ああ、その時に見た。今はどんな顔だったか分からない。遠くから見たから。南

37)·口述者は「南方学生報国隊」と記憶しているが、実際には「南方派遣朝鮮報国隊」

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日本以外の地域

325  

が他の事は話さず、「米6合をやる。6カ月いれば交替して、看守が囚人扱いせ
ず、平等に扱う」、そう言った。そう言われて行ったから、飯は白米にこんなも
のをくれ、粥を炊いてくれ、よく食べた。行った最初はそうだった。ところが1カ
月、2カ月と仕事をしていると無くなった。米が運ばれて来なくて。

海南島に行くまでは遠かったでしょう?    
昼夜進んだが10日かかった。回りながら行った。魚雷に当たるから、回りながら行

く。台湾、香港、広東と回りながら。昼夜かけて行ったが、10日かかった。それで

人々は船酔いもして、降りて見たら、こんなに骨だけになった。そのようにして行

ったので、魚雷に遭わなかった。船12隻で行って、800名乗った船もあり、台湾人

が乗った船もあった。台湾人、台湾の若者は、当時、日本民族に〔日本に支配〕さ
れていた。それで日本の奴は台湾、日本、韓国はイチコクミン(一つの国民)と言

っていた。それで台湾の若者も自由がなくても、報国隊で行ったのだ。報国隊、台

湾人も。それと、食べる食料、糧食をいっぱい積んで行き、船12隻で行った、輸送
船。それをミナミタイ〔南隊〕と言った。そこに到着した、太平洋の海〔中国の南
海〕。我々は到着したが、台湾の若者が乗って来た船が魚雷を受けて、沈没する

のを見た。魚雷に当たり、爆破されたよ。

南方派遣朝鮮報国隊の名前がどこに書いてあったのですか?    

自分で腕章を付けていた。海南島、そこの感恩(カンウン)という所に行った

が、5時間ほどかかったようだ。5時間。トラックに乗せられ、5時間行った。それ
が、家をこんなに高く建てていた。ここはそんな所で、20名で蚊帳を1つずつ使
用した。それで家がこのようにあり、ここに廊下があり、そうなっていた。そこ
は熱帯地方なので、一日も雨が降らない日はない。熱帯地方なので、そのよう
に家を高く建て、そこで寝て、そこから仕事に行った。行って見ると、すでに家
は全て建ててあった。木造で。

仕事はどうでしたか?    
仕事をするのはクルマ〔荷車〕、この線、この行く道を、クルマ1台を4人で運
んだ。土を掘って、格納庫を造った。積んでこのようにする。クルマを引いて
行って、運ぶこと。朝は必ず5時に起きなければならない。5時に起床ラッパ

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タンコ(炭鉱) だって?

326 

を吹く。それで朝起きて、人員の点検をする。人の点検をして、人員が把握さ
れると、飯を食い、その次に出かけて仕事をする。それから11時まで仕事を
して、2時まで寝る。雨が降るから。それで、2時からまた仕事をする。夕方の
6時まで仕事をする。そこは空が、このように雲をつかめるほど低い。空が低
い。そうだよ。私は大工だったから、やり方など教えてやって、クルマを引い
て、直しもした。

平壌刑務所に入る前に、大工の仕事をしていたのですか。    
洋服タンスを組み立てていた。金を少し儲けた。大金ではなく、小遣い銭を少

し稼いだ。

防空壕を掘る仕事はいつまでしたのですか?    
解放されるまで仕事をした。解放されてからも2カ月いて、我々は農作業をして
食べた、我々は自主的にそうしていた。米軍の船が来て、あの挺身隊(慰安婦
を指す)で来た女たちと光復軍の兵隊が一緒に乗った。我々も乗った。それか

ら、釜山で降りようとしたが、降りられなかった。我々の船でコレラが出た。コ
レラが出てため、15日間降りられず、監禁された。我々を船の中に。それで15日

過ぎると解放してくれた。そこで品物、所持品、自分の所持品をすべて捨てろ

と言われた。米軍が1人当たり千ウォン〔ママ〕ずつくれた。その当時の千ウォ
ン。故郷までの旅費にしろと。仕事に行ったのは1943年に行き、2年ほど仕事を
した。2年半いて戻って来た。2年半の間。我々が来る時、光復軍がたくさん乗
った、香港で。それから挺身隊に行った女もたくさん乗った。それでも釜山に来

て、降りた人は全部で250人~260人しかならなかった。我々が行く時に一緒に
行った1800名がどうなったかは知らない。みんな死んだのか。50名ずつ、50名
ずつ部隊を分けていたから。

一緒に行った人の消息は知りませんか?    

この人達は他の所で仕事をしていたから、その人達が何をしていたのかは知ら

ない。ああ!寝る時の蚊帳の中に10名、20名ずつ寝た。だから800名という人員
の消息は、こんなふうに寝ていたから、分からない。それから50名ずつに班長
がいる。仕事を教える人。班長、副班長を引き受ける人は中隊長のよう。そのよ

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日本以外の地域

327  

うな地位のある者が仕事をさせる。腕も立ち、日本語もよくできる。我々の担当

は日本語でヤマグチ(山口)と言った。ヤマグチという、その人は日本人だ。

軍人ですか?    
民間人だが、戦闘服を着ていた。我々は作業服といっても、ないと同然だった。
ただパンツを履き、仕事をした。作業が終われば手洗いして、飯を食べ寝る、
そんな生活だ。夜になると、2時、3時頃、よく空襲があった。飛行機が飛んで来
て、サイレンが鳴り、防空壕に入る、そんなだった。

気候はどうでしたか?    
天候に冬というのがない。アイゴ、晴れていて暑い。とてつもなく暑い。皮膚が3
度も日焼しなければならない。3回。最初に日焼けした時、このようにぶつぶつが
できた。その表面が破れて、それが乾き、死ぬ思いをした。そうするとまた火ぶく
れができる。これは。出かけて仕事をするので、いつか完全に皮膚が真っ黒くな

り、ぶつぶつができなくなる。

逃亡もしたのですか?    
逃げたが〔捕まってしまい〕、鞭でいくども叩かれ、病院に入院した人もいる。
腹が減って逃げたが、捕まった人もいる。捕まると、こんな棒杭に縛られ、殴ら
れた。そうすると、なにがなんだか分からなくなる。山にじっとしていれば良い
のだが、腹が空いて市内に出てきて捕まる、捕まる人が多かった。ところが、捕

まれば、死ぬことになる。その場で鞭打ちにされ死ぬんだ。そんなのを見せつ
けられたが、我々も逃げようと7人で仲間を作った。機会があれば逃げようと仲
間を作ったんだ。腹が減ってダイナマイトも食った。ダイナマイトの餅を食べた
んだ。その時は腹が空いていて、それをたくさん食べた。仕事をしている時に

盗んで、隠して置く。あらゆるものを。ダイナマイトの缶も隠した。ああ!爆破

させるダイナマイトがある。それがぶよぶよしていて、餅のような形だ。それは

穀物で作ったようにみえる。火薬だ。それを食べもしたが、それを持って来て、
そっと缶に入れて、芯をこのぐらい付けて伸ばし、火をつけて水に入れる。水の
中に入ってこうなる。水の中に入れて爆発すると、魚がこんなに死んで浮かん
でくる。逃げた時、そうして捕まえ、食べたりした。

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タンコ(炭鉱) だって?

328 

海南島に到着してから、どのぐらいして逃亡したのですか?    
1年いて、逃げた。7名でそれ〔火薬〕を持っていった。容器のようなものも隠し
て置いた。うまく逃げる間がなかった。その機会がなかった。そこで、明日が祝

日の日。正月15日の祝日の日、中国人も正月の祝日は休む。その祝日は休むの

だ。我が国の祝日に中国人も休む。そこは中国の地であったが。明日がそうだ
から、今日の夜、仕事をした後に、逃げよう、逃げようと決心した。だが、先頭
に立つ人がいない。それで、私が先頭に立った。こんなように。7名が逃げ出し
た。ところが、ヤツらは機関銃を持ち「お前ら、どこに行くんだ、撃つぞ」と、
それも聞かずに逃げた。7名全員で逃げ出した。どこに行くのかも分からなかっ
た。振り返りもせず、逃げた。只々逃げた。私は山の中に逃げていったが、私に
ついてきた奴が1人いた。それは小林という者だった。私と一緒に逃げた。そい
つは一度逃げて捕まり、鞭で打たれて死ぬ思いをした者だ。一度逃げているか

ら地理が少しわかる。それで彼と私で一緒に行った。他の奴が捕まったのか、

捕まってないのかは分からない。どうなったかは知らない。日本語がよくでき
て、利口な奴が後から来たのなら、いいんだが。この小林という奴は分からな
い。でもどうすればいい。引き返しても死ぬし、逃げても捕まれば死ぬ。こうな

ったら、破れかぶれだ。あたりは薄暗くなり、夜になった。山には枯れ葉が我々
の背の高さまであった。とにかく登ってみたが、道がない。戻ろうとしても元の

場所にいた。方向が分からなかった。そこを乗り越えて行くと、小さな道があ

り、サツマイモ畑に灯りが光っていた。サツマイモ畑をこんなふうに堀って、腹

が減っていたので、生のまま食べた。そこのサツマイモはこの位で、割ると中に
卵のように黄色いものが入っていた。サツマイモの中は。周りは白くて。それを
剥いて食べながら、灯りが見える方に行った。ところで、逃げた人々に尋ねる

と、誰もが日本の家に入って捕まったと言った。しかし、腹が空いてどうしよう
もないので、その家に入った、2人で。明日は祝日なので、今日は美味しいもの
を作る。女が作る。それで入りながら「ルウ」、それはこの地の言葉で「ルウ」と

言う。「ヨボセヨ (もしもし)」という意味だ。「ルウ」そうだ。ルウと言っても返事
がない。それで「クーニャン (姑娘)」と言った。「クーニャン」、それでも返事が
ない。女は逃げたのか。逃げていないのか、そこに入ってみると、米、米粥が炊
いてあった。豚肉はこのように吊るしてあった。お腹が空いていたので、2人は8
合ほどのバケツを持って来てがつがつ食べた。米、豚肉、器を毛布に全て入れ

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日本以外の地域

329  

た、全てを包んで出て来た。ところが、そこに幼い子どもが1人いた。女は自分
の亭主を連れに行った。雨がしとしとと降るなかを逃げた。男と女、2人が分か

らない言葉で話ながら、追いかけて来た。そのまま走って、山の陰に入り、雨に

当たりながらもじっとしていた。追いかけて来て、女が倒れた。〔男は〕その女
を助けるために追いかけるのを止めた。山に登ってずっと雨にあたっていた。そ

こにしばらくいた。2時間、3時間いたと思う。そうすると相棒が枯れ葉にマッチ

で火を付け、米を持って来た。木の下の穴に濡れた布切れをぐるぐる巻いて、
その穴に火を点けた。ぼろぼろの飯になった。ぼろぼろの飯。それを食べ、豚肉
を焼いて食べた。腹いっぱい食べたが、やたらに逃げてきたことを後悔した。

「このままではみな死ね、私も死ぬ、なのに逃げて来た」そんな後悔が湧いた。

一緒にまともな奴が来ていたら良かったのに。まぬけな奴と逃げて来たと思
い、イライラした。逃げた人の中に、1人ちょっと変わった奴がいた。思想犯だ

と言った。思想犯。日本語もよくでき、中国語もよく出来る、並みの人間ではな

かった。その人が金さえあれば、中国の大陸に行けると言った。船に乗って。我
々は彼の話を聞き、逃げて来たのだが、その人は追って来なかったので、どうな
ったか分からない。2人で山に1週間いた。その飯をたべていたが、米がなくな
ったので、どうにかしようと。米がなくなり、食べる物を探しに、下りていった。
そこに家があった。門を開けて入ると誰もいなかった。ツルハシを持ち出し、サ
ツマイモ畑でサツマイモを掘った。これぐらいのサツマイモを竹籠に入れて、ま
た山に登って行った。山に上がって、そのサツマイモを焼いて食べた。焼いて
サツマイモだけを食べた。1週間いたが、米を一度も食べずに、サツマイモだっ
たから。肛門に力を入れずとも自然にうどんのような便が出た。それだけを食
べた。1週間、過ごして下りて来た。下りてきて、カンサ(広沙)という所に行っ
た。カンサに行って見たら、時は夜の2時頃だったようだ。カンサに行っても、
行く所がなかった。それで、夜中に歩いてヘグ(海口)という所に行った。ヘグ 
(海口)。海南島にヘグという所がある。

何時間ぐらい歩いたのですか?    

とにかく一晩中歩き、夜明けに着いた。山を越え、山道を下りて行った。ヘグと

いう所で台湾の若者と会った。台湾の奴だ。その台湾の者の家にいき、そいつ
が就職させてくれた。それで船乗りになった。2人とも船乗り、船乗りをしてい

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タンコ(炭鉱) だって?

330 

たのだが、水上警察官に捕まった。身分証明証がなければダメだと。それで留
置場に閉じ込められ、留置場でじっとしていた。留置場が置かれていたが、そ

こに客が来た。我々の部隊の人がそこに寄った。ところでその留置場を視察し

たので、見つかってしまった。日本の奴が「こいつは10日前に逃亡した7人の主
犯だ」と。そして扉をガチャッと開けて、自動車に乗せられ、連れて行かれた。
部隊に連れて行かれたが、その時、食事を食べていた、昼食を。2人は裸にさ
れ、人が見る中で殴られた。相棒は鞭打ちにあって死んでしまった。私も手錠
を掛けられ、体全体を鞭で叩かれ、水を掛けられ、こんなふうに吊るされた。ず
るずると引っ張られ、寝る所の廊下に吊るされた。手錠がこんなふうに掛けられ
て、鞭で打たれると、手錠が骨までも締め付けた。そんなふうに締められ、裸で
一晩過ぎると、こんなに腫れる。こんなに腫れて、手錠が肉の中に入り込む。こ
の肉の中に。そして、こんなになった。そうやって3日間も吊るされた。背の高い
奴が連れにきて、調査した。調査書を作り、軍法会議にまでかけられた。軍法
会議に引っ張られて行き、逃亡罪の罰を受けることになった。そこから逃げた
罪で。捕縄され、後ろからも捕縄され、部隊本部に連れて行かれた。逃げた人
達を、その時3名ほど見た。吊るされて死んだ。

死んだんですか?    
ああ。吊るされて死んだ、このように吊るされたまま。吊されたままで小便

も、食べてそのまま大便もして。そこまでされると足を動かすことができな
い。私は3カ月と10日吊るされた。3カ月と10日、こんなふうに吊るされた。そ
んな目に遭わされ、下ろされて、手錠を外してもらった。手から手錠を取って

見ると、手錠が肉にくい込み、骨が白く見えていた。しかし、治療もしてくれ
なかった。反動分子だと言って。そして若い人たち、一緒にいた同志たちが
揉んでくれ、このように撫でてくれた。またその時、非常に若かったので、15

日もしたらそれは治った。

100日もそんなに吊るして置くのですか?    
3カ月と10日。だから100日。100日吊るされていた。3カ月と10日の間、こんなふ

うに吊るされていた。そのままで飯も食って。何が何だか分からなくなった。そ

れでも容赦がなかった。そこを出て、まだ痛くても引っ張られて、作業をした。

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日本以外の地域

331  

引っ張られながらも15日で完治した。それで、焼却係りをする者は手を挙げろ

と言った。死骸を運ぶ者だ。私は手を挙げた。「また逃げようと思って、手を挙
げたのか」と言われ、「もう逃亡せずに、国のために一生懸命仕事をする」と答
えた。「間違いないか」と言うので、「間違いない」と。それで死骸運びをした。

死骸運びは、1日に8名死ねば、8名を運んで埋める、そういう仕事だ。通常10名
から8名ほどだ。死骸を運んで棄てる時、死者にやるこれくらいのご飯がある。
死骸を運んで埋めた後、死者に捧げてお参りしろというご飯。腹が空いている
ので、その死者のご飯を食べるのだ。仕事が終わって、厨房に行くと白米の黄
色いものを碗一杯ずつくれる。辛い仕事をしたからと言って。その干飯を農民
の帽子に入れて渡した。その人達は缶に水を入れて炊き、分け合って食べた。
すると、食べた代価として、とても苦労したと言い、寝かせて揉んでくれる者が
いた。実際にはそうでもなかったが。こんな生活をしていたが、人々は栄養不
足であり、人がひっきりなしに死んだ。こう押せば、それだけ肉がくぼんでしま

う。こんな事を話していると言葉が出なくなる。鞭打たれて死に、栄養不足で

仕事に行って倒れ、そうして死ぬ。だから、私と一緒に平壌から行った人もたく

さん死んだ。

亡くなった人を土に埋める仕事をしたんですね?    
私ともう1人、2人でした。暑い中で死骸を運んだ。腫れていた体は治った。ニ

ュースを聞いたら、日本の奴が手を挙げて降参するという。それで、死骸を一

緒に運び、埋めていた奴に言った。逃げようと、また逃げようと。だが、そいつ
は行かないと言うんだ。私が逃げようという話をしたことを向こうに言えば、私
は未遂罪で捕まえられ、また吊るされてしまう。そいつは私に、逃げたいなら逃

げろと言い、私1人でまた逃げた。逃げだした。ところがそいつも逃げてきた。

私が逃げたので、彼一人では話ができなくなったのだ。そいつは、私が逃げた

と言ったとしても、連帯責任を負わなければならない、罰を受けざるを得なか
ったのだ。それで彼も逃げた。そして台湾の人の家を探していき、そこで1カ月

半、過ごしていた、それで解放になった。

その仕事をどのくらいしたのですか?    
埋葬する仕事は2か月から4か月、2か月ないし3か月。知らない奴はサッと埋め

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タンコ(炭鉱) だって?

332 

て、知っている者は深く掘って埋めた。その死骸を埋めた所に一度行ってみよ

う。そこで話をして、確実に分かればいいのだが、とても昔の事だ。そこがどう

変わっているかも分からず、探せないかも知れない。

そこには台湾人も一緒にいましたか?    
いや、我々だけがいた。それから、腹が空いたので、蛇もたくさん食べた。生を
そのまま食べた。その頃、私が若かった時、ここでもそうだった。そのまま生で
蛇を食べると、ごくごく喉に入って行く、そのまま食べると。毒蛇、マムシ、こん
なのをやたらに捕まえて食べた。だが、九死に一生を得たこともある。私は以
前、死にかけたことがある。血の小便が出たことがある。

死骸を運ぶ仕事をして2、3カ月後に解放になったと言うことですね?    
ああ、そうなるかな。私も病院に入っていた。パンパンに脹れて。死骸の運搬
をしていて。栄養不足。それでここを押すと、くぼんだ。足もこんなだから、
病院に行ったが、トクム(徳武)少将〔ママ〕という日本の奴が医者だ。とて

も大きな徽章を付けていた。暑くて、私はこんなふうに脹れていたが、傍に

行ってウチワで扇いでやった。そこに行ったが、日本の奴はとても位が高い
人だった。ウチワで扇いでやると、お前は重症の病人だから自分の所で寝て
いろと言った。「大丈夫です」、そうすると看護婦を呼んだ。看護婦を。そして
私を見て「ワカモト〔若素〕を使え」と言った。「ワカモト」という栄養剤。そ
れを包んで病人にやる、それを包んだものを1匙ずつ口に入れて飲むのだ。そ
の日の夜、小便がざっと注ぎ出て、この包帯が取れた。その次の日、その大将

〔医者〕が来て、首を振り、何があったのかと言った。薬もこんなに缶に入れ

て持って来た、大きな缶だった。その薬は香ばしい。「ワカモト」を飲んだ。
それで病院から出てきて、また死骸運びをした。そこで相棒に逃げようと言
ったが、行かないと言うので、1人で逃げた。それで1、2か月いて、解放にな
った。解放になって青年団と会った。大韓青年団と。そこには青年はいなかっ
た、年寄りはいたが。韓国人を探して一緒に来たんだ。それから、私と一緒に
死骸を運んでいた人がどうなったかと言えば、私が病院を出て、死骸運びを

していて一緒に逃げようとした話をしただろ?その人は逃げなくて、私1人が

逃げ出した。ところがこの人も逃げた。この人は中国語がよくできたので、遊

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日本以外の地域

333  

撃隊の隊長になったと言う。中国人の遊撃隊の隊長に。解放になるとこの人
が中国人を連れて、そこの部隊を攻めてきたと言う。そしてサングラスを取

り、私を見て握手した。とても面白い出来事だった。それでその時、青年団が

入って来てものを言うと、日本人の奴らは、「ハー!ワカリマシタ ワカリマシ
タ」と。それで、日本の奴らの降服を認めたのだ。

死んだ人も多かったでしょう?    
多くの人が死んだ。船に乗って行ったのは1800名ほどだった。〔帰りの〕船を
降りたのは、光復軍と挺身隊に行った女を含めて、全部で250名にもならなかっ
た。それじゃ、あの囚人たちはどうなったかと言うことだ。みんな死んだ。「キノ

コ山」では機関銃で撃ったと言う。そこには鉄を掘る鉱山であった。それは台湾
の人から聞いた。

作られた飛行機の格納庫は山にあったのですか?    
いいや。そこは海辺の横にある、海辺の横。そこから海辺に行こうとすれば
2000メートル行かなければならない。約2000メートル。掩体壕が我々の背の高

さの5,6倍、かなり高いんだ。蒲鉾型で、その中に飛行機を入れるのだから、

大きく作った。だから、こんなふうに作るんだ。エンタイゴウをこのように。そ

して、このように押し固め、叩いて、そこに飛行機が入るようにする。爆弾が落

ちても傷つかないように作る。私は、エンタイゴウは作らなかった。それを数え
てみたら、何ということか。日本の奴は飯を食う時、飯櫃を持って来て、こんな
に盛って置く。クルマで1等、人も1等、良くやった人にこの飯櫃を与える。だか

ら、その飯のために一生懸命仕事をする。ビリの人を見ると尻の肉がそげてい
る。尻、尻に肉がない。こんな哀れな奴は間違えればバットで一発殴られる。痛

いと言うと日本の奴が何と言うかと、「シマイ」と言った。

感恩(カンウン)までどれくらい歩いて行ったのですか?    
そこまで行くのに、私が見るところ、3時間程かかった。トラックに乗って。今、
考えてみれば、2日かかった。2日、昼夜歩いて、とにかく夜明けに到着した。こ
れは他の人に聞いたのではなく、私が直接やったことだ。そのように掛ったの
で、嘘ではない。

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タンコ(炭鉱) だって?

334 

死骸をどのように埋めたのですか?    
そこは砂浜だから、スコップでずんずん掘って、知っているヤツは深く埋め、知

らないヤツはさっと埋め、死者への飯をそこに置き、一度拝礼をしてから、その

飯を食べた。別途に埋めたのではなく、こんな低い山があった所。どこにも埋め
た。他に埋めた所はなく、どこでも、海のそばに、どこにでも埋めた。日本のヤ

ツが占領していた土地だから。どこにでも埋めた。

囚人服はどんな物でしたか?    
それは軍人の服だ、囚人服でなく。青いものでこんなチョッキのようなもの、ボ
タンもあった。最初行った時は、軍服を着て仕事をしたが、それが擦り切れて、
破けた。それで着られなくなり、パンツとランニングだけを着ていた。その時、
我々が着ていたものは「チンコ」〔中国語読みで軍服はチンフ〕と言った。日本
語もチンコがあるが。中国人にランニング1枚やると、豚1匹包んでくれた。それ
ほど着るものがなかったのだ、かれらは。そこに住んでいる土着の人たちは。
 
最初、食事はどうでしたか?    
ええ、最初は、米の飯を驚くほど準備してくれた。それが一月もすると、船が
来られなくなり、食糧の配達ができない。食糧の配達がなくなった。船が来れ
ば、穀物や履物、機械の付属品などを積んでくるのだが、それができなくなっ
た。魚雷のために来られなくなった。そこは人がそれほど住んではいない島だ
った。1年に3回、収穫ができる、1年に3回。農作業は、大きな長い鎌でこんなに

して稲をしごき、稲穂を土の上に落とす。そこは水牛が多い。1軒に普通5匹ぐ
らいいる。水牛を連れて来て、並べて叩くとクルクル回って稲穂を潰す。そして

落ちた籾を拾い、それを搗いて食べる。その農民たちから米を奪ってしまう。

後で、食糧がなくなってから何を食べたのですか?    
食糧がなくなってから、どうしたかと? 全くなくなったのではなく、粥を食べて
いた。エン菜がいっぱい入った汁を飲んだ。人々はそんなのを食べて、栄養不
足で倒れ、下痢をした。それでも生きていた。エン菜が何かと言えば、芹のよ

うなものだ。その汁を沸かすと黒くなる。芹のように見える。そこに肉は一切な

い。塩味の汁だ。塩の汁。粥は米を炊いて、こんなにする。ところで、奴らはう

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日本以外の地域

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まいものを食っていた。我々にはこんなものを与えておきながら。奴らは寝てい
る時に攻められるかもしれないと、昼夜をおかず、機関短銃を担いでは、くるく
ると回していた。我々は何と言っていたかというと「毎日、空襲して、ばんばん

爆弾を落とせ」、そんなことを言っていた。空襲。飛行機がやって来て、爆弾を
落とせば、そのまま皆、お前も死に、俺も死ぬ、そうなる。そんな時は、匪賊で

も来いと言いたかった。匪賊は一人も来もしなかった。

解放されて、部隊に行ったら人々の姿は見えましたか?    

どこに?トラックで行ったが、姿は見えなかった。日本の奴の事務所に入り込

んだが、日本の奴らがいた。その後、中国人が入って来た。逃げるとしても、日
本人はどこに逃げる? 中国人が機関短銃をもって、入って来た。そこにいたの
は、あの、私と死骸運搬をした奴、彼が隊長になって連れて来た。

日本人たちはどうしましたか?    
日本の奴と韓国人は皆出て行ったから、事務室には何名もいなかった。わかっ
たんだろう、中国人が来るのを。そこに我々を殴った奴らもいた。それで黙って
いられるか? 解放を取り戻したのに?そんな話を長くしたくない。復讐ではな
い。そんな話はしたくない。先輩たちもひどく鞭打たれていた。我々の国を取り

戻したのに、黙っていられるか。当然、その罪科を問われるべきだ。そこから本
部まで行った。

800名の中で50名だけ残っていたと言われましたね?    
そこに行くと、病人だけが50名いた。病人だけ。叫び、泣いていた。中国人がそ
れを全て処置した、中国人が。我々も中国人にどう対応してよいか分からなか

った。50名以外の他の人は、私が行った時には、死んでいた。皆死んでいた。

船に乗って来たのに、彼らを見てないから。いないということは、死んだという

ことだ。自分の目で殺されるのを見てないから、誰が殺した、何をしたという話
はできないが、死んだのだ。

光復軍、挺身隊と一緒に船に乗って来たのですか?    
香港で乗った。解放されたので、米軍が我々を連れて来た。独立運動をしてい

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タンコ(炭鉱) だって?

336 

た人が米軍と話して、そこにいた人はみんな連れて来たそうだ。光復軍も乗っ
た。挺身隊に行った女たちも乗った。その人達を合わせて、250~260名にしか
ならない。私が見たのは、広東省、香港、海南島の挺身隊の女たちだった。海
南島に行った女たちもいた。それで、その船に乗って、スジェビ(スイトン)を
作るのを見た。女がスジェビを作った。女たちは多かった。その時は何をしてき
た女かも知らなかった。だから韓国の女たち、今なら、彼女たちがそこに行って
帰って来たのだから、その人達が挺身隊の女だと分かるか? その時、我々も苦
労していたから、その女たちがどこに行って来たのかを知る術もなかった。分
からなかった。

船にはどうして乗るようになったのですか?    
解放になったからだ。我々も食べて生きなければならないから組織を作った。
組織を、我々だけで。どうしたら良いかと考えて。「悪いことをしないで、我々
だけで農作業をして、ネギでも植えて。自給自足して食べて行こう」と。そうし
て1カ月、2カ月経つと、そこに船が入って来た。米軍の船が。その米軍は日本の
ヤツの船を奪ったのだ。輸送船に乗って来た。ここに来たので、事情を尋ねる

と、何月何日、出発する。だから皆さん乗って下さいと言った。その人達は独立

運動をした人達だった。今になって分かるんだが、韓国人だった。

それで、出発はいつしたのですか?    
それが、何月だったか、分からない。解放されて1、2カ月いてから、来たよう
だった。解放され、1、2カ月してから。

面談者:李ビョンレ 専門委員

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日本語版(2022)

企画 · 発行

日帝強制動員被害者支援財団

理事長 : 沈揆先
事務処長 : 盧慶達
企画弘報局長 : 黄晟鉉
担当 : 李秉熙

日本語翻訳
日本語翻訳協力委員会

翻訳 : 木村英人      
人名・地名  : 竹内康人
翻訳にあたり、誤りは訂正し、字句を補った個所がある。訳注は〔      〕で示した。

最終監修
玄明喆 

韓日関係史学会 前会長、北海道大学博士(Ph.D)
韓日歴史共同研究委員会委員
主要著書:『明治維新初期の朝鮮侵略論』、『19世紀後半の対馬州と韓日関係』

韓国語版(2005)

編集 : 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会調査1課
企画 : 鄭恵瓊、李ガンヨン、韓興洙
責任編集 : 鄭恵瓊
編集・校正 : 李秉煕、権美賢
面談、録音文作成 : 金瀅烈、許光茂、金璿煕、邦一権、李ビョンレ、李秉煕、
                                         金美賢、権美賢、金潤美、高賢嬉
校正 : 任松子、権泰麟、金明玉、金潤美、羅ユンジン、李ソンスク

出版参加者

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